確か、私にひらがなを教えてくれたのも兄貴だったと思う。
鉛筆の持ち方を教えてくれて、一緒に鉛筆を握って、ゆっくりと文字の形をたどった。自分の名前から初めて、あいうえおを覚えて、数字やカタカナも覚えて。兄貴ができることは何でもできるようになりたかったから、何でも真似をしてできることを増やしていった。あんなにめんどくさがりの兄貴のくせに、何故だか私にものを教えることはめんどくさがらなかった。あれで意外と、ひとが成長するところを見るのは嫌いじゃないのだと思う。
珍しく明るい深海の真ん中で、無邪気で得意げな笑顔がふたつ咲く。
「げとうさま、みて!」
「ひらがな、おしえてもらったの」
真っ白な紙にいびつな文字で書かれた「げとうさま」の文字。それはひどく微笑ましいのだが、いや何で「げとうさま」。
いやそこは普通自分の名前から教えるもんじゃねーのかと視線を送れば、仕方ねーだろ譲らなかったんだから、と何とも言いがたい視線が返された。
あの山村から救い出された幼い双子は、崇拝するかのように夏油を慕っている。
「すごいじゃないか、上手に書けているね」
笑顔でふたりを褒めながら、よしよしと頭を撫でてやる夏油。何で自分の名前なんだろうとか、何で「さま」がついてるんだろうとか、そういうのをおくびにも出さずにちゃんと褒めるところはまあまあ偉いと言ってやろう。
双子にひらがなを教えてやったらしい兄貴は、すっかり呆れた顔でその光景を見つめていた。
「……なあ妹、お前の同期、幼い女の子にさま付けで呼ばれてんだけどどう思う?」
「まじで縁を切りたい。通報案件じゃん?」
「良かった、俺の感覚は正しいな。同感」
「ははは、ちょっと黙りましょうか」
いやだって、と兄妹揃って引いた目を向けてみれば、何度言っても直してくれないんだから仕方ないでしょう、と歯噛みするように夏油は言う。最強クズも素直に自分を慕ってくれる幼女には弱いらしい。幼女強い。
褒められた、と嬉しそうに花を飛ばすふたりは、ぱたぱたと兄貴に駆け寄って、白衣の裾を掴む。兄貴は自然に身をかがめ、ふたりに視線を合わせてやった。
「くらげさん、げとうさますごいって! じょうずだって!」
「ああ、良かったな」
「もっと、おぼえる」
「また今度な。それまでに書いてみたい言葉をたくさん覚えておいで」
うん、と元気よく言う菜々子と、控えめだが大きく頷いた美々子。すっかり怪我も癒えたふたりだが、まだ高専の外には出られないでいる。
自分たちを助け出してくれた夏油や、夏油が大丈夫だと言った術師以外の人間には、ひどく警戒する様子を見せる双子。外部の施設に預けようにも、ふたりは梃子でも夏油から離れようとしない。さすがに無理を強いることも出来ず、結果としてふたりには学生寮の空き部屋が開放されることとなった。今も学生や手の空いた補助監督で面倒を見ている。
そして今日、手の空いている補助監督がいないのをいいことに、夏油は兄貴にふたりを預けた。兄貴が断る暇も与えずに預けてきたという話を聞いたときは呆れたが、まあ問題はないだろうと思ったし、実際大丈夫だった。
菜々子も美々子も、すっかり兄貴に懐いている。
「懐くだろうとは思ったけど、やっぱり大丈夫だったな」
「まーね。何せ兄貴だし」
「ああ、長年硝子の面倒を見てきただけはあるね?」
「そこはあの五条を懐かせただけはあると言えよ」
今日も今日とて任務の五条は、今日は北の方に飛んでいると聞いている。双子が高専に来て以降、何となく夏油の任務が減って五条の任務が増えていた。
それを気にした夏油は、五条に任務を代わろうかと提案をしたらしいのだが、ばっさりと切り捨てられたらしい。五条曰く、ガキの面倒見るくらいなら任務に出てたほうがマシ、とのこと。素直に気にするなって言えばいいのにね、と夏油は言うが、多分五条にとっては限りなく本心なのではないかと思う。
ただでさえ夏油をとられて拗ね気味なのに、兄貴まで双子にとられたら癇癪を起こすかもな、とぼんやりと思った。
脳内で駄々をこねはじめた五条を掻き消していると、勢いよく部屋のドアが開く。
「クラゲさーん、いますかー?」
「灰原、まずノックをしなさい」
「し、失礼します……」
入ってきたのはいつも通りのテンションの灰原に、呆れた顔の七海、申し訳なさそうな顔をした伊地知。灰原に引きずられるようにしてこの部屋を訪れるようになった伊地知だが、何となくまだ遠慮があるらしい。遠慮なんて言葉と縁のある人間が高専に来るなんて、と兄貴は真剣に驚いていた。同感。
あ、みみななちゃんたちも来てたんですね、と朗らかに笑う灰原の手には、大きな紙袋があった。
「何だ、三人して任務帰りか?」
「はい! 任務は都内だったしすぐ終わったんですけど、せっかくなのでちょっと寄り道してきたんです!」
「おふたりもいてちょうど良かった。差し入れを買ってきたんですよ、伊地知くんのお勧めだそうです」
「へえ?」
「お口に合うといいのですが……」
それから灰原が紙袋から取り出したのは、まだ微かに湯気を上げている鯛焼き。ふわりと柔らかい香りが鼻腔をくすぐる。
「おさかな?」
「ちゃいろ……」
「あ、ふたりは初めてかな? これはね、鯛焼きっていうんだよ」
あんこ大丈夫かな、と差し出された鯛焼きを受け取ったふたり。小さめのサイズで良かった、鯛焼きを平和に半分こするのは至難の業だ。
小さなくちを開けてはむりと柔らかいそれに齧りつき、もくもくとクチを動かす。そしてぱあっと目を輝かせた。
「んんん!」
「ん~!」
「……お気に召したようですね」
「あはは、そうだね、食べてるときは喋っちゃだめだもんね!」
口を閉じたまま何とかおいしさを表現しようとするのが微笑ましい。ものを食べているときは口を開けてはダメ、と言われたのを素直に実践しながら、双子はぱたぱたと伊地知の傍に駆け寄った。
ようやく口の中のものを飲み込んだふたりは、満面の笑顔で言う。
「おいしい! いじちありがとう!」
「ありがとう」
「こらふたりとも、伊地知
「ああ、いえ、構いませんよ夏油さん。ええ、どういたしまして。美味しかったならよかったです」
「いじち、しゃがんで」
「しゃがんで! とどかない!」
「? しゃがむんですか? はい」
すっとふたりに視線を合わせた伊地知に頭に、小さな紅葉がふたつ乗る。そして遠慮なく伊地知の髪をかき回した。
「ありがといじち、えらい!」
「ありがと、おいしい」
「ああ、そういう……はい、ありがとうございます」
「……これは止めるべきか否か……」
「可愛いし、いーんじゃん?」
幼女ふたりによしよしされる伊地知なんてもう記録に残すしかないだろう。すかさず携帯を取り出して、その光景を写真に残した。伊地知が若干困りつつも嬉しそうなのがウケる。
すっかり夏油の真似を覚えたな、と兄貴はおもむろに灰原のもつ紙袋に手を突っ込み、中から鯛焼きをひとつ取り出す。ぱくりと齧りつくと、確かに美味い、と頷いて伊地知に歩み寄った。
もそもそと鯛焼きを食べながら、左手を伸ばす。
「うんうん、美味い鯛焼きありがとな」
「く、クラゲさんまで……!」
「いじちありがとー!」
「たいやきおいしい」
わっしゃわっしゃと伊地知の髪をなで回す兄貴。ちなみに表情筋はいつも通り動いていない。どちらかというと犬の褒め方だが、それでも伊地知はどことなく嬉しそうだ。お前はそれでいいのか。
それを見て灰原もぱあっと顔を輝かせて、すすすと伊地知の隣でしゃがみ込んだ。どうやらこいつもたいそうな物好きらしい。
「……灰原くん?」
「はい!」
「いや、はいじゃねーんだけど」
「僕も鯛焼き買ってきましたよ! 今日の任務も頑張りました!」
「……」
「頑張りました!」
「……はいはい」
えらいえらい、と棒読みで灰原の頭を撫でてやる兄貴。双子たちも続いて、えらいえらいと小さな紅葉をぺたぺたと動かす。
灰原はやったー、といつも通りの笑顔。こういうのも新鮮でいいですね、とにこにこしている灰原を見て、私の視界の端で誰かの肩が揺れた。そしてそんな面白いことを、兄貴と夏油が見逃すはずもなく。
夏油、と兄貴が一声発するのと同時に夏油は一瞬で足を払い、その場に足を折らせた。あまりの早さに、当の本人も反応できずに目を丸くしている。
「すまないね、七海。大丈夫かい?」
「な、にを、」
「伊地知くんを褒めて灰原くんを褒めたなら、もうひとり褒めなきゃなんねーやつがいるだろ。なあ灰原くん」
「七海も今日頑張ったんですよ! 鯛焼きを見てクラゲさんのところに差し入れようって言ったのも七海です!」
「よし。じゃあ次行くぞ、菜々子、美々子」
「つぎ!」
「ななみ!」
いや私は、と七海が立ち上がるより先に双子が七海に飛びつく。よしよし、偉いね、と小さな紅葉にぺちぺちされてはさすがの七海も無碍にすることはできず。どう反応していいやら、と困り切ってるのを面白そうに見ながら、兄貴もゆっくり歩み寄って手を伸ばした。
「鯛焼きありがとな。今日も任務頑張って偉いよ」
「……クラゲさん……!」
「めちゃくちゃ何とも言いがたい顔してんじゃん。ウケる」
「どうしてクラゲさんもときどきそう面倒くさい感じになるんですか?」
「俺の気まぐれに理由を求められてもな。何となく」
「ななみえらい!」
「えらい」
「ああ、偉い。いや本当に日頃から偉いとは思ってるよ」
よく頑張ってる、と最後のおまけとばかりにぽすぽすと頭を柔らかくはたいて、兄貴は鯛焼きのおかわりを求めに七海から離れた。目を離したあとに、七海が少しだけ顔を赤くしていることにも知らずに。うわ兄貴ってば罪作り。
にやにやと七海を見つめていると、何ですかとジト目を向けられ、別にとだけ返す。夏油も面白そうに、何でもないよと軽く言った。
「七海も可愛いところがあると思ってね」
「何の話ですか」
「照れることないじゃん? 思ってもないことで褒めるほど兄貴はやさしくねーよ」
「何だよ妹、お前も褒めてほしいって?」
「言ってねーけど。キモいわ」
「クラゲさん、私は?」
「何で俺がお前褒めなきゃなんねーの?」
真顔で言った兄貴に、ひどいな、と軽く笑う夏油。その足下に、双子はぴったりとくっついた。げとうさまはいちばんすごいです、と口々に言うふたりに、夏油はありがとう、とまた頭を撫でる。偉い、じゃなくてすごい、なところに崇拝を感じた。事情を考えれば仕方のないことなのだが、どこかで彼女たちの男の趣味は矯正してやりたいものだと心から思う。
二匹目の鯛焼きをもそもそと食べながら、将来が心配だよな、とぼそりと呟いた兄貴に、七海は大きく頷いた。
「五条さんのことは一目で見抜いたんですけどね」
「そういや仲悪いって?」
「精神年齢が近いからでしょうか、夏油さんを取り合って喧嘩をはじめる始末です。五条さんのめんどくささも五割増しで」
子ども相手に本気で言い返すんですよあのひと、と心底呆れたように言う七海。容易に想像できたのか、ああ、と兄貴も軽く頷いた。
「弟や妹ができると上の子は幼児退行して親の気を引こうとするケースが多いって聞くよな」
「誰が親ですか」
「夏油だろ」
「夏油じゃん?」
「夏油さんですね」
「夏油さんですよ!」
「夏油さんかと……」
「伊地知?」
「すみませんすみません!」
何故自分だけ、と言おうにも言えない可哀想な後輩はぺこぺこと頭を下げる。その反応が面白いから五条にも夏油にもいいように遊ばれてしまうのだが、気の毒にと思いつつも誰も助けないのは術師の集団らしいというか何というか。
後輩をいじめるのはよくないですよ、と言葉では言ってみせる七海も、その口には鯛焼きがある。五条や夏油が伊地知をからかうことを覚えて以来、自分への被害が減ったことを喜んでいるのが丸わかりだ。灰原はそもそも夏油が後輩をいじめるわけがないと思っているので助けるも何もない。うーん、伊地知どんまい。
ふと、兄貴がそんな伊地知の肩にぽんと手を置いた。はっとしたように伊地知は兄貴に顔を向ける。兄貴はいつも通りの無表情で、口を開いた。
「これまじで美味いな。どこの店?」
「……お店の場所あとでお送りします……」
「悪いね」
まあもちろん兄貴もフォローなんてするはずもなく。
鯛焼きをぺろりと食べきった兄貴は、ぎしりと音を立ててモニター前の椅子を陣取った。すぐにカタカタとキーボードが音を立て始める。この兄貴、マイペースにも限度がある。
その背中を見て苦笑した夏油は、また双子たちに視線を合わせた。
「それじゃ今日はもう帰ろうか。ほら、クラゲさんにありがとうは?」
「くらげさんありがとー!」
「ありがとう」
「はいはい。またな」
「良かったね、明日も来ていいって」
「言ってねーけど?」
そんな兄貴の言葉は軽く聞こえないふりをして、無邪気に喜ぶ双子たちに笑顔を向ける。小さくため息を漏らした兄貴は、すでに諦めた顔をしていた。
このところすっかり調子を取り戻した夏油は、何故だか妙に素直になったというか、ゴーイングマイウェイに磨きが掛かったというか。まあ食欲も取り戻して顔色もよくなったようなので、多分良い変化があったのだろうと思う。元気を取り戻した夏油の被害をこうむっているのはおもに後輩たちや兄貴なので、私はとりあえず良かったと思っておこう。
深海を出て、皆で寮への帰路を歩く。夏油と手を繋いでご満悦の双子は、きゃあきゃあ言いながら自分よりずっと大きな手と戯れていた。前を見て歩きなさい、と言いながらも満更でもなさそうな夏油は、すっかり親の顔をしている。
「……元気になって良かったですね」
そんな姿を微笑ましそうに眺めながら、伊地知がぽつりと呟く。
高専に保護されたばかりのころは、身体中傷だらけで、栄養状態も良くなくて、夏油以外がすべて敵だとばかりに周囲のすべてに負の感情を振りまいていた双子たち。それが今は怪我ひとつなく、顔いっぱいで笑って、大好きな夏油に手を引かれて歩いている。まだまだ心の傷は癒えるには時間が必要だろうけれど、それでも笑えるようになったのは大きなことだ。
そうだね、と灰原は朗らかに笑い、ええ、と七海も小さく頷く。
「きっとこれからもっと元気になるよ。外にも遊びに行けるようになるといいよね!」
「ええ。……大丈夫でしょう、心の傷もきっと少しずつ癒えていくはずです」
生きてさえいれば、きっと。
七海がそう言ったとき、夏油は顔だけで振り向いて、私たちを見る。そういえば話したいことがあるんだった、とさも今思い出したかのように、夏油は口を開く。
「やりたいことを決めたんだ。あとで少し時間をくれるかい?」
その夜、双子を寝かしつけた後、私たちは夏油の夢の話を聞いた。
荒唐無稽なようで、地に足が着いているような、けれどスケールが大きくて、いまいち現実味がないような。私にはまだイメージがしにくかったけれど、夏油はすでに兄貴に協力の約束は取り付けてあるという。となるとこれは、実現可能な夢なのだろう。あの兄貴が不可能なことに手を貸すなどと言うはずもない。
「現時点で協力してくれと言うつもりもないし、何かしてほしいわけでもない。ただ、知っておいてほしいと思ったんだ」
私は君たちのことを仲間だと思っているから、と夏油は迷いのない表情で言う。そこには確かな決意があって、覚悟があって、きっと夏油は折れないだろうという確信が持てた。
自分が仲間だと思った術師を守るための場所をつくる、それはひどく自分勝手で傲慢な。弱者の救済を説いたエセ聖職者は、どうやら自分の領域にいる者だけを守るエゴイストにジョブチェンジしたらしい。
思わず喉の奥が揺れた。なるほど、何となくあのめんどくさがりが協力を約束してやった理由がわかるような気がした。
兄貴はきっと、夏油の「可能性」の行く末を見たくなったのだ。
「素直に笑っていいよ、硝子。まだ構想すらはっきりしてないんだ、無謀だと思われても仕方がない」
「別に無謀だとは思ってねーよ。兄貴が頷いた以上、可能性はあるんだろうし」
ただ、悪くないって思っただけ。
そう言ってみれば、何となく少し照れたように、夏油は笑みを深める。それはいつものうさんくさい笑みではなくて、本当に心からのそれ。
「ありがとう」
五条と組んで悪巧みをしているときと同じ、クソガキの笑い方だった。
***
目と指でデータの入力を休みなく続けながら、思考は夏油の言う「組織」の方に向いていた。カタカタと慣れ親しんだタイプ音を聞き流しつつ、ひとつひとつ問題を考えていく。
まず解決する必要があるのは資金の問題。特級の給料がどんなものなのかは知らないが、それでも資金を調達する方法は考えなくてはならないだろう。フリーになれば任務報酬も高専の給与体系には縛られないとは言え、夏油ひとりの給料を注ぎ込み続けるのは現実的ではない。第一、夏油が任務に奔走して「組織」に目を向ける暇がなくなるようでは本末転倒だ。
それに、数多くの目と耳が必要だ。美々子や菜々子のような存在を見つけるためにも、単純に呪霊を祓除する仕事を得るためにも、できれば高専とは異なるネットワークを得て、しかも向こうから情報をもってくるように考えなければならない。
もちろん、高専との関係も重要だ。生意気の限りを尽くした特級術師が外に術師の組織をつくるなんて、まず上層は謀反の可能性を考えて潰しにくるだろう。最終的に敵対する可能性があるにしろ、最初のうちは極力良い関係を築いておいたほうがいい。そのための手っ取り早い手段としては、当然だがこの「組織」が他の術師や高専にとってメリットがあると示すこと。
つまり必要なのは、金と、人員と、大義名分。その全てを解決する策は、すでに俺の頭にあった。
「今度は何の悪巧みだ?」
モニターから目を離さない俺の後ろで、気難しい顔をした次期学長は背中を壁に預けている。
「このところ何か嗅ぎ回っているだろう。不審に思われているぞ」
「上層の爺どもってまじで暇ですよね。ちょっと調べ物しただけでわざわざアンタを寄越してくるとか」
「上は関係ない。俺の独断だ」
「何だ、暇なのはアンタでしたか」
タタン、とエンターキーを押して、くるりと椅子を回す。相変わらずの悪人面がこちらを静かに睨みつけていた。
「相変わらず信用ねーの」
「日頃の行いがなぁ……」
「俺がいつどんな悪事を企てたってんですか」
「昔、貴重な文献を読みたいがために学長の部屋に忍び込んだのは覚えてるか?」
「よくそんな昔のこと覚えてますね」
知的好奇心のために窃盗を働いた学生はお前くらいだ、とため息交じりの元担任。
ちなみにこの件については、最初は素直に読ませてほしいと頭を下げたのに、「読めるもんなら読んでみろ」と言い放った学長が悪い。仕方がないから手間と時間を掛けて学長の部屋に不法侵入することに成功し、その一冊だけを拝借してきたというだけの話だ。もちろん読んだ後はちゃんと元の場所に戻しておきました。閑話休題。
しかも、と夜蛾は低い声で続ける。
「任務記録を見るのはともかく、高専が関わった民間の団体や呪詛師の記録を調べていただろう。きな臭いと思うのも当然じゃないか?」
「……ま、そうですよね。確かにいろいろと企んではいますが、別に俺が呪詛師になろうとかそんなことは考えていませんよ。嬉々として刺客差し向けられるだろうし」
「わかっているならもう少し慎重に動け。上層はお前を排除する口実を常に探している」
「俺も嫌われたもんですね。はいはい気を付けますよ、だいたい調べごとは終わったのでもう必要ないですし」
情報は揃った。策の用意もある。そして実行するかは夏油次第だ。俺はただ、夏油にこれを提案するだけ。
何となく愉快そうな俺に、夜蛾は呆れたように言う。
「……珍しく愉しそうじゃないか。厄介ごとにでも巻き込まれてるのかと思ったが、そうでもなさそうだな」
「いえ、とんでもねー厄介ごとには巻き込まれてるんですけどね。何か不思議と愉しいんですよ。俺もびっくり」
「……海月」
俺としてはあまり無茶をしないでくれれば口を出すつもりはないが、と一応俺の心配をしてくれているらしい元担任は言った。
無茶と言えば相当な無茶ですが、実際やろうとしているのは俺じゃなくてアンタの受け持ちの学生です、と言えばどんな顔をするのだろう。それはそれでちょっと見てみたい気もしたが、さすがにこれは俺の口から言うべきことではない。いや全く、夜蛾ときたら問題児の受け持ちばかりで気の毒に。もちろん俺の話でなく、夏油と五条の話だが。あの二人に比べれば俺がやらかしたことなんて些末些末。
大丈夫ですよ、とだけ言って、くるりと椅子の向きをモニターの方へ戻した。ああそういえば、と一言だけ付け足す。
「最近ちょっと思ったんですけど、誰かが道を決めて進んでいくのを見るのは、わりと悪くないもんですね」
アンタが言ってた「教師の醍醐味」が少しわかったような気がしますよ、と言ってみれば、背後からは少し驚いたような気配。それから小さな低い笑い声が聞こえて、そうか、と夜蛾も続けた。
「最近、傑の顔色が良くなったのはお前のおかげか?」
「知りませんよ。双子の娘ができて気合いでも入ったんじゃないですか」
「ああ、あの子たちにも感謝しないといけないな。傑がいい顔をするようになった」
もう迷いはなさそうだと言った夜蛾は、どうやら夏油の不調には気づいていたらしい。とはいえ夏油のプライドと頑固さのために、手も口も出すに出せなかったというところだろうか。確かにあの夏油が担任の言うことなんて聞くはずもない。
そして、あとはその片割れなんだが、夜我はまたため息をつく。誰のことを言ってるかなんて聞かなくてもわかった。
このところ絶賛不機嫌中の、問題児のなかの問題児。
「アイツまだ拗ねてんですか」
「改善どころか悪化の一方だ。任務で憂さ晴らしをしてなければとっくに校舎のひとつくらい破壊しているだろうな」
「まじ迷惑~。まあでも、いい加減あのクソガキも理解するでしょ。精神年齢が低いだけで馬鹿なわけじゃないんだから」
夏油が卒業後、フリーになることを知れば、きっと。五条だって、いやでも思い知る。
「ずっとこのままでなんて、いられねーんですから」
*
とはいえ大人しくそれを受け入れるかどうかは別問題だよな、と目の前で起こるそれを見ながら思う。
宙に立って掌印を組むクソガキと、数多の呪霊を操るクソガキ。特級対特級の大喧嘩の勃発など、わりと本当に洒落にならない。取り急ぎ下ろした「帳」も、いったいどこまで機能してくれることやら。
「……おーいクソガキども、一回冷静になって話をするつもりは?」
「は? 勝手にブチ切れてきたのは傑の方なんだけど?」
「私は今も十分に冷静ですよ、クラゲさん。一発殴ったら終わるので放っておいてください」
「殴るどころか手も届かねーくせに何言っちゃってんの、ウケる」
「すぐに地面に引きずり下ろしてあげるよ、悟」
正直今までこなしたどの任務よりも真剣に逃げたい。が、今日は夜蛾が出張に出ている上に、この最強クズども、だいぶ頭に血が昇っている。どこかで止めてやらないと、まじで怪我で済まない可能性があるのが特級という生き物だ。周囲への被害も計り知れない。
仕方なしに俺は大きなため息をついて、鞘ごと刀を肩に担ぐ。さて、と内心だけで呟いて術式を解放した。
「──詳星呪法、」
さて、俺にこの喧嘩を止められる「星」はあるだろうか。数多の可能性が、星のように眼前を巡る。
***
いつしか賑やかになった深海も、ずっとそのままでいられるはずもなく。