硝子の兄は海月になりたい   作:ふみどり

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 いつも通りの作業の途中、ふとモニターの端に表示された日付が目に入る。

 そういえば、と思い立って、白衣のポケットから携帯を取り出した。画像のフォルダを漁って数日前に撮影したそれを表示させ、メールに添付する。俺はこれを見るたびに腹筋に力が入るのだが、彼女はどうだろうか。

 メール送って一分と経たないうちに、俺の携帯が盛大に騒ぎ出した。

 

「はい、家入」

『今のは何の嫌がらせですか、先輩!』

「ささやかな誕生日プレゼントだけど、気に入らなかったか? 硝子や五条は笑い転げてたんだけどな」

 

 二月十八日、二十四節気でいう雨水のころ。そろそろ雪も水に変わろうかというこの日が、庵歌姫の誕生日だった。一番最初に「おめでとう」の一言を伝えたときにはひどく驚かれたものだが、単純にデータとして忘れないだけだと言えば庵は心底納得したように頷かれたのを覚えている。俺のイメージはいったいどうなってんだとは思ったが、いちいちひとの誕生日を祝う性格でもないのは事実なので何も言えなかった。

 庵に送りつけたのは、特級クズの片割れの画像。それも、俺の「はったりは大事だぞ」という言葉に忠実に従った真面目系クズが、袈裟をまとった姿だった。

 

『……いえ、確かにうさんくさすぎて面白いですけど』

「だろ。俺も直視したら爆笑しそうでずっと目を逸らしてた」

『先輩の爆笑するところの方がいっそ見てみたいです。これ、例の?』

「ああ。灰原くんとか心の底から褒めててマジ面白かったんだよ、『本当に似合ってますよ夏油さん、すごく壺とか売ってそうです!』って。その言葉で七海くんが撃沈した」

 

 そこでふ、と庵も小さく噴き出す。

 灰原くんにとっては心の奥底からの賛辞であるだけに夏油も怒るに怒れず、ちくちくと伊地知くんをいじめて鬱憤を晴らしていた。伊地知くん可哀想に。

 

『にしても、本当にやる気なんですか、夏油のやつ』

「ここまで来て『やっぱやめました』なんて言わねーだろ。言われても困る」

『……先輩が考えたことなら無理だとは思いませんけど、本当に上手くいくんです?』

 

 夏油に旧盤星教の手綱を握らせるなんて。

 その庵の言葉に、思わず喉の奥でく、と笑う。夏油にとってはどうしても必要な、金と、人員と、大義名分。その全てを解決するために俺が立てた策こそが、もはやその名を名乗ることが許されていない、盤星教の残党を利用することだった。

 先輩は笑いますけどね、と庵は不服そうに言い募る。

 

『星漿体の一件で解体されたとは言え、狂信的なひとたちの集まりであることには変わりませんよ。盤星教を名乗れなくても、結局そこで出来てしまったコミュニティが消えたわけじゃないですし』

「だから利用価値があるんだろ? 金があって各地に拠点があって人もいる。あの極端な思想も、導き手次第では使いようだ」

『……夏油ならそれができると?』

「できるかは知らねーよ。俺は何とかしろっつっただけ」

 

 俺は所詮知恵を貸すだけだ。具体的な方策は夏油が考えればいい。

 といっても、正直なところそんなに難しいことだとは思わない。実際こっちは術師なのだ、天元が遣わした預言者とでも名乗って堂々と乗り込めばいい。人が多ければ呪霊の被害に悩んでいるひとのひとりふたりくらいはいるだろうから、適当に祓って恩を売ることくらい夏油には容易いだろう。

 一応対外的には笑顔で礼儀正しく振る舞うことくらいはできるアイツなら、あの思考回路のわかりやすい集団の掌握くらいは出来るだろうと踏んだ。もちろん反対する人間もいるだろうが、多数を心酔させることさえ出来れば大した問題ではない。

 

「上層にも恩を売れるしな。反対する理由もない」

『そりゃ、一度問題を起こした団体の監視だって言えば、上層だって反対はできないでしょうけど……』

「本人もやる気だったぞ。星漿体を守れなかった責任も感じてか、金を巻き上げることについて一切の罪悪感もないらしい」

『……加減はわかってますよね……? というか法には触れませんよね……?』

「そこは上手くやるだろ。自分の弱味を作るほど馬鹿じゃない」

 

 少しだけ、夏油が盤星教の人々を傷つけるのではないかという不安もなくはなかった。だが、俺が何を言うよりも先に夏油自身がそれを否定した。

 

『正直、憎い気持ちはあります。ですが、むしろ、だからこそというか。もう馬鹿を出来ない程度には金を巻き上げ、呪霊や呪力のある子の情報を提供させて、ついでに思想の矯正も努力してみますよ』

 

 自分たちがやったことの罪の重さを理解するのが、一番の苦しみだと思いませんか?

 そう言い放った夏油は、それはそれはいい笑顔をしていた。俺としては上手く転がしてくれるなら文句はないので、好きにやれよとしか。夏油に思想の矯正なんてさせたらそれはそれでヤバい方向に進むような気もするが、まあ俺の知ったことではない。これもまた因果応報というものだろう。

 

『……旧盤星教を乗っ取って、お金と呪いを集めて、呪力のある子どもたちを保護して。よく考えますね、先輩も』

「ついでに呪詛師の更生も夏油に押しつけた」

『……先輩……』

「何だよ、呪詛師にもいろいろいるだろ。家系とか生まれた環境の問題で、呪詛師としてしか生きられなかった奴とか。今までは幽閉か処刑かの二択で、更生なんてほぼ不可能だったからな。そういうやつらを情状酌量って名目で夏油が面倒見れば、使えなくもないと思うんだよ。アイツ飴と鞭の使い分けくらいは出来るだろうし」

 

 これも呪術界に恩を売れる、と続ければ、庵は大きなため息をつく。本当によく考えますね、というが、そんなにおかしなことだっただろうか。

 今の呪術界が取りこぼしているもの、持て余しているもの、そういうものをかき集めることを考えただけだ。そうしていつか、自分たちが見ないようにしていたものの重みを思い知ればいい。

 

『……いえ、はい、先輩が実現不可能なことに協力するわけがないのは知ってますから。多分夏油も何とかするんでしょうけど。けどこんな袈裟まで着て、……先輩、この袈裟のことわかってます?』

「わかってるって、何が? 何か意味あんの?」

 

 ああ、さすがに先輩もご存じなかったんですね、と引いた声で庵は続ける。

 

『袈裟にもいろいろ種類があるんですけど、これ、五条袈裟ですよ。わかります? 五条袈裟』

「……まじ?」

『まじです』

 

 うわ、と思わずドン引くと、本当に引くんですけど、と庵も心底嫌そうな声。誕生日に変なもん見せてごめん、と付け加えれば、もういいですよ、と軽く笑われた。

 

『夏油の頭の中とか考えたくもないんですけど、もしかして願掛けとかそんな感じなんですかね』

「何、自分たちは二人で最強だけど『五条』を纏っていれば自分ひとりでも最強的な? えっあいつ五条のこと意識しすぎじゃんやばい引く……」

『真面目に同感です』

 

 ちなみにその「五条」の方はどうなんですか、とこれまたあまり聞きたくなさそうに庵は続けた。いつぞやの大喧嘩の顛末については、硝子を通して庵の耳にも入ったらしい。袈裟姿を見て爆笑出来る程度にはちゃんと話し合いをしたんですか、と尋ねられて、うーんと首を傾げる。

 あれ以来、ふたりなりにちゃんと話し合いは重ねたらしい。たまにヒートアップして喧嘩に発展することもあったようだが、一応平和的な殴り合いに収めたというのだから反省はしているということだろうか。

 誰かを守りたいという感情や、使命感や責任感、自分が自分であるために為したいこと。自我が強すぎる情緒五歳児で社会生活初心者の五条には、どうもそういうものが理解しがたいようだった。たまに夏油は何と説明したものかと唸っていたし、五条は五条で考え込んでいることは多かった。俺としては「いい薬だな」くらいの感想しかなかったし口を出す気もなかったのだが、何せあのクズども、ちょくちょく俺に愚痴をこぼしにくるのだからまじでやめてほしいなと。

 

『もはや何をどう言ったら伝わるのかわからないんですよ。五条家はいったい悟にどういう教育をしてきたんだ……?』

『ごちゃごちゃ考えなくても好きなよーにやりゃいーじゃん? 何であんな遠回りなことすんのか全っ然わかんねーんだけど』

 

 いやもうまじで知るかとしか。ただ、愚痴こそ言っても、互いに理解を諦めようとしないところだけは少し感心した。わかった気になって放り捨てるよりはよほどいいと思う。

 そしてそこそこに話し合いを重ねた後、互いに互いを理解したのかしてないのか、五条は一応の結論を出したらしい。

 五条なりの「夢」を聞いたときには、つい耳を疑ってしまった。

 

「五条、教師になるんだと」

『……すいません、多分聞き間違えだと思うんですけど、今五条が教師になるって言いました?』

「言ったよ。いやわかるよ庵、俺も三回聞き直した」

『あのクズがひとを育てるとか正気で?』

「まじでそれな」

 

 しかし本気だというのだから、クズの思考回路はわからない。

 多分、先日の任務で後輩たちがかなり危ない目にあったことも関係しているのだと思う。二級任務だと言い渡された先で遭遇してしまった、一級呪霊。このところさらに力を付けてきた七海くんと灰原くんのおかげで何とか祓うことはできたものの、同じく任務に当たっていた伊地知くんが大怪我を負った。幸いにも命に別条はなかったが、腹に大きな傷痕が残る程度には危なかったらしい。しかも、この任務はどうやら上層からの嫌がらせによるものだったようで。

 こういったことは、別に今に始まったことではない。だが、夏油と対話を重ね、少しずつ視野が広がってきたのだろうか。五条の眼には、明確な怒りがあった。

 

『……傑』

『……何だい』

『傑が言ってんのって、こういうこと?』

『……そうだね。これだけではないけど』

 

 そっか、と頷いた五条の声は、確かにそれまでとは違っていた。五条が教師になるという話を聞いたのは、この数日後のことだ。

 

「夏油がもうひとつの高専をつくって外から呪術界を変えるなら、五条は高専で強く聡い術師を育てて内から呪術界を変えるんだと」

『……それ本当に五条ですか?』

「そう思うよな。どんな心境の変化なのか知らねーけど、五条に後輩傷つけられて怒るって感情があったことにも驚いたし、そこで呪術界の上層皆殺しにしよって発想にならなかったことがもう奇跡っつーか」

『先輩、それ冗談になってませんよ』

「別に冗談言ってるつもりはねーけど」

 

 今までの五条だったら、きっとそうだった。

 たとえ気に入っていた後輩相手だろうが弱い奴が死ぬのは当たり前だと思っていた節があったし、自分の気に入らないやつなんて力尽くで黙らせることを考えたように思う。そんな五条が、仲間を危険にさらされて怒りを覚え、力でなく知恵を働かせ、遠回りでも確実に目的を果たすことを選んだ。

 教師なんてらしくもない手段で、呪術界(せかい)を変えることを夢だと言った。

 

「ま、それで夏油とどっちが先に夢を叶えるか勝負、なんて言ってたけど。ひとは変わるもんだとしみじみ思ったわ」

『……正直まだ私疑ってるんですけど……』

「うん、すっげーわかる。しかもアイツ話し方とか言葉遣いまで変えだしたんだよ、『僕』とか言い始めて。多分会って話したら自分の頭を疑うと思うけど、お前は正常だから心配すんなよ」

『ちょっと待ってください、そろそろ情報を処理しきれません』

 

 きっと頭が痛い思いをしているであろう庵に、少し笑う。いやほんとまじで気持ちがわかるというか、俺も初めて見たときはとりあえずどこから驚けばいいのかわからなかったし、まず自分の頭を疑った。それが五条なりの努力なのだと理解してからは出来るだけ気にしないように努めたが、正直どうしたって慣れない。何せ相手はあの五条だ。

 まじで信じられねーよな、と思わず言葉が出る。本当に、信じられない。あのクソガキが、その「星」を選び取るなんて。

 

『……けど先輩、それはつまり、五条は夏油と一緒にいるの諦めたってことです? あのクソガキ、それが嫌だったんでしょう?』

「いや? 五条の夢にはそれも含まれてるだろ」

『というと?』

「五条が呪術界を変えられれば、別に夏油が外に組織作る必要はなくなるだろ。高専と夏油が作る第二の高専を統合しちまえばいい」

 

 そしたらあの最強どもはまた一緒だ、と言えば、うええと庵がまた引いたような声を上げる。というか引いている。そりゃそうだ。わかる。

 

「そうじゃなくても、方法こそ違えど見てる夢は一緒なわけだから、まあ今後も何かと協力し合える。五条と夏油の繋がりが切れることはない」

『……あいつらマジで仲良すぎません?』

「俺はもうその辺考えるのをやめた」

 

 もうそういう生き物なんだと思おう、と言えば、少し黙った庵もため息交じりにそうします、と囁く。仲良いことはいいことのはずだし、仲悪いよりいいんだよきっと、と俺も自分に言い聞かせている。

 ひとつ息をついた庵は、それにしても、と少し愉快そうに声を改めた。

 

『ずいぶん気に入ったんですね、あいつらのこと』

「誰が?」

『先輩がですよ』

「……俺が?」

 

 心底面倒なクソガキどもだと思ってっけど、と言っても、庵は愉快そうに笑うだけ。

 

『正直、あのクズどもが先輩に懐くのはわかる気がするんですよ、何せ先輩ですから。けど、いくら世話好きでもめんどくさがりの先輩が、まさかあの死ぬほど面倒なやつらのことを気に掛けるなんて』

「とりあえず誰が世話好きだ」

『先輩、そろそろ自覚しましょう?』

「コラ気の毒そうに言うな。……別に気に入ってるつもりも、気に掛けてるつもりもねーけど。使えるとは思うけどな」

『気に入ってるじゃないですか。じゃなきゃ使おうとも思わないでしょう』

 

 そうだろうかと首をひねるが、庵はやけに自信満々な様子で。いやしかし俺があいつらを気に入っている? 何とも頷きがたい。正直利害の一致以上の関係はないつもりだし、間違っても友だちとかそういう関係ではない。なりたくもない。

 まあ庵の目にはそう見えると言うことだろう。というか、そもそも俺のところによく顔を出す人間が少ないからそういう風に見えやすいのかもしれない。

 いえ、他意はないんです、と庵は愉しそうに言う。

 

『きっかけは何であれ、先輩が人と関わったり、外に出たりするようになって良かったなと』

「お前な、硝子みたいなこと言うなよ」

『あ、そういえば硝子は元気ですか? 勉強で根詰めたりしてないですか?』

「声のトーン違いすぎてウケる」

 

 いつも通りだよと言ってやれば、庵は安心した声を落とす。相変わらず仲の良い。

 外部の大学への編入のために勉強を続けている硝子だが、あれでも理系の科目には強いし、成績も悪くない。必死になって勉強するような性格もしていないが、プレッシャーを感じるような繊細さとも縁がないやつだ。

 放っておいても編入試験くらい軽くパスして、医師免許もなんやかんやで手に入れてくるだろう。我が妹ながらまじで上手いこと生きている。

 

『……ところで、先輩、……その、』

「硝子のことは心配すんな」

『、』

 

 庵に硝子の立ち位置について話したことはないが、庵だって呪術界を生き抜く術師だ。うすうすでも察していることは理解していた。庵なりに気を遣って、それとなく立ち回ってくれていたことも知っている。

 何も言っていないのに硝子のために動いてくれていた庵には、素直に感謝をしていた。

 

「硝子が医師免許持ちの術師になることは呪術界に知れ渡ったからな。上層からも好意的に受け止められてるし、五条と夏油が後ろ盾になってる。この状態で硝子に手を出すのはリスクを考えられない馬鹿だけ。そんな馬鹿にやられるほど硝子も弱くねーよ」

 

 非戦闘員とはいえ、硝子にだって護身程度の心得はある。

 ついでに念には念を入れて、五条と取引をしておいた。内容はほとんど夏油と同じ、五条の夢を理解した上で必要な助言と行動を、とだけ。その対価として、少しばかり五条と五条家の権力を借りた。なんてことはない、俺が出張に出ていた間に硝子に近づこうとした下衆どもに、ちょっと圧力を掛けてもらっただけだ。

 硝子に手を出したら、御三家の一角である「五条」が黙っていない。もちろん夏油も、呪術界上層も。ここまでやって硝子に手を出す気合いの入った下衆がいるのなら、それこそ俺の手で息の根を止めてやる。

 

「……気を遣わせて悪かったな、庵」

『いえそんな、硝子は私にとっても可愛い後輩ですから! ……大丈夫なら、いいんです。良かった』

 

 本当に安堵した声に、全くこいつも術師向きじゃない、と苦笑した。どうしてこう、術師向きじゃない性格のくせに、庵もまた術師として生きることを選んでしまったのか。理解しがたいなと思いながらも、硝子を気に掛けてくれる同性の術師がいることは正直ありがたかった。

 ふと、電話先で誰かが庵を呼ぶ声が聞こえた。

 

『あ、すいません、任務みたいです』

「ああ。悪い、話し込んだな」

『いえ。お話聞けてよかったです。先輩もあんまり無茶しないでくださいよ』

「するわけねーだろ。あぶねー部分は全部クズどもに押しつけるわ」

『とか言って、どうせ手と口出しちゃうんですから。ほどほどに』

「うるせ」

 

 そこまで言って、あ、とそもそも連絡を取ったきっかけを思い出した。慌ただしい気配を見せる庵に、これだけ、と声を掛ける。

 

「庵、」

『はい?』

「誕生日おめでと。任務気を付けてな」

『、……はい!』

 

 ありがとうございます、という弾んだ声を最後に、通話を終える。

 らしくもなく長電話をしてしまった。少し熱を持った携帯を白衣のポケットに放り込む。固まっていた指をにぎにぎと動かして、改めてキーボードの上に手をそえた。もはやほとんどオートで、俺の指は入力を始める。

 硝子たちが高専を卒業するまで、あと一年と少し。硝子の無事はほぼ保障され、あとは過度に使い回されるようなことがないよう、術師に効率よく任務をまわすシステムを完成させるだけ。想定していたより、あらゆることがかなり早足で進んでいる。現状の課題であるシステムの開発にはまだ時間がかかるだろうが、片付けるべきはそれくらいだ。

 少しばかり癪ではあるが、やはり要因は協力者の存在だろう。俺ひとりでは絶対にこうは進められなかった。

 

「……ふう、」

 

 何となく指を止めて、大きく伸びをする。首を回して、肩を鳴らした。集中が途切れてしまった。珈琲でも飲んで気分を切り替えるとしよう。

 誰だったかの差入れの缶コーヒーを手に取る。カシュ、とプルタブが音を立てるのと同時に、廊下を歩く騒がしい気配に気づいた。また来たのか、と缶に口を付けると、口の中にほのかな苦みと、それを上回る甘みが広がる。しまったこれ加糖だ。俺は甘いものは嫌いではないが、珈琲はブラック派だ。誰だ買ってきたやつ。

 その甘ったるさに顔をしかめながら、俺は軽く響くノックに返事をした。

 

 

 ***

 

 

 いくら私に甘いところのある兄貴とは言え、今回は簡単ではなかった。

 あの手この手で言いくるめ、五条や夏油の援護射撃という名の脅しや取引を駆使しながら、最終的には「高専に両親呼ぶぞ」という私も絶対にやりたくない脅しを使って兄貴を動かした。ちなみにうちの両親はそれはそれは変わり者で、兄貴に「海月」という名前を付けたばかりか、私に「海星」で「みほし」という名前を付けようとしたのを兄貴が阻止したという逸話がある。危うく私のあだ名が永遠に「ヒトデ」になるところだった。別に両親と不仲なわけではないが、度を超した自由人夫婦なので正直他人に紹介したくはない。

 ほんの一日の外出だというのに、そんなに嫌がるものだろうか。ついでに目の下の隈と取ってこいと厳命したので、今日の兄貴は健康的な顔色で太陽の下を歩くというかなり珍しい姿を晒している。

 

「うわ、違和感しかない」

「わかる」

「うるせえわ」

 

 いつも上下真っ黒の服の上に白衣を羽織っている兄貴も、今日ばかりは淡い色のゆるいニットに、濃い色のデニムを合わせている。正直数年ぶりにこんな姿を見た。

 嫌そうな顔を隠しもしない兄貴は、深々とため息をつきながら日光を浴びている。

 

「クラゲさん好きそーと思ったから誘ったげたのに」

「頼んでねーんだよ。三人で行きゃいいだろ」

「まあまあ。でも、実際好きなんでしょう?」

 

 昔は毎日のように通ってたらしいじゃないですか、とからかうように言う夏油に、昔は昔、と兄貴は切り捨てる。でも、今もちゃんと好きなことはとっくにバレていた。

 高専から少し離れたところにある水族館では、さまざまな種類のクラゲを見ることが出来る。

 

「つかお前らこそ水族館って柄か?」

「あ、そういう偏見良くないと思いま~す。僕たちだって水族館を楽しむ感性くらい持ってんだよ、なあ傑?」

「そうそう。たまにはいいでしょう? ほら、悟の情操教育にもいいかなと」

「夏油って五条のママかなんかなの? あ、これ前にも言ったな」

「こんな口うるせーママはちょっと」

「そうだね、私もこんなクソ生意気な子どもはいらないな」

 

 また喧嘩を始めそうになる最強クズどもを放って、さっさと兄貴と水族館の自動ドアをくぐる。慣れた様子で入場料を払う兄貴に、来たことがあるのかと尋ねてみれば、兄貴はわずかに視線を浮かせた。

 

「……高専に入学したばかりのころにわりと来てた、か? あんまり覚えてねーけど」

「覚えてないって、兄貴が?」

「その頃の記憶、やけにおぼろげなんだよな」

 

 誰かとよく来てたような、と小さく言ったところで兄貴は黙った。そして考えるのをやめるようにパンフレットに目をやる。それを見て、私もそれ以上言うのをやめた。

 兄貴は基本、脳に刻まれている情報は難なく思い出すことが出来る。それなのに、高専に入学したてのころのことをあまり覚えていないという。そして今、誰かと、と言った。なら、それはきっとそういうことだ。わざわざ解く必要のない「呪い」を暴くことはない。

 人波に流されながら、ゆらゆらと薄暗い進路を歩いて行く。

 

「……人多いな」

「まあ休日だかんね。けどだいじょぶ、そのためにクズども連れてきたんだから」

「は?」

 

 どゆこと、と兄貴がこっちを見るのと同時に、その肩に腕が巻き付く。

 

「置いてくことないっしょ。探したじゃん」

「振り向いたらいないから驚きましたよ」

「お前らが勝手に喧嘩なんぞ始めるからだろうが。くっつくな重い」

「クラゲさんのいけず! アタシのことは遊びだったのねっ!」

「キッショ。遊びでもお断り」

「うわ、この世界のイケメンに素でそんな反応する?」

 

 おっと、ちょうどいいところにクズどもが。今いるのは順路の中でも少しスペースのある最初のエリアだ。ここなら少々人が集まっても、通路をふさぐほどの迷惑にはならないだろう。

 私はいつもと変わらない様子をつくって五条に顔を向ける。

 

「五条、ここでグラサンとかいらないっしょ。せっかくの水族館なのに魚見えなくない?」

「ん? あー、確かに」

 

 外すの忘れてた、と五条は兄貴から離れ、サングラスを外す。同時に私は、兄貴の腕を取った。ん、と兄貴が瞬きしたところで、す、と息を吸う。

 

「えっすっごいイケメン!! 芸能人!? モデル!?」

 

 いつもより高い声、いつもより大きい声。この閉ざされた空間に、よく響いた私の声。そして一瞬後に落ちる、は、とか、え、という間抜けな声。同時に私は兄貴の腕を引いた。

 今日は休日、女性客も多い。もちろん男性だって、ミーハーなところがある人間なら「芸能人」「モデル」という言葉には振り向くだろう。

 そして残念なことに、確かに五条は見かけだけなら高身長で銀髪、宝石のような青い瞳という日本人離れしたルックス。隣にいる夏油だって、五条に負けないスタイルに整った顔立ちで、しかも一応常識人ぶって人当たり良さそうに振る舞おうとする。

 そりゃまあ、注目さえ集めてやれば人が集まってしまうふたりなのだ。

 

「え、まじでイケメンじゃん、足なっが!」

「すっご、銀髪? え、お兄さんたち二人ですか~?」

「お兄さんピアスかっこいいですね!」

「いえ、すいませんが私たちは、」

「わ、声もイケボ!」

「硝子てめっ」

 

 人が集まりきる前に兄貴の腕を引いて先に進んでいく。うわあ、と後ろから兄貴の引いた声が聞こえたが、知ったことではない。私だって人混みは好きではないし、どうせなら静かに水族館を楽しみたいというだけのこと。

 適当に人をかきわけたところで足を止め、兄貴の腕を離す。

 

「ほら、静かになったっしょ?」

「あいつらを連れてきた理由がよーくわかったわ。鬼かお前」

「何、人だかりの中で水槽見たかったわけ?」

「いや、正直よくやった」

「おうよ」

 

 あいつらも使いようだなと軽く言ってしまう性格の悪さ、さすがは私の兄。

 さっきよりは人波も落ち着いた海の中を、ゆっくりと歩いて行く。たまに足を止めて、あれ何、と聞けば、近くにある説明書きより詳しい答えが返ってくるのだからその脳内にはどれだけの情報が詰め込まれているのかと。兄貴曰く、お前だって思い出せないだけで知ってんだよ、ということらしいが、生憎と私は兄貴ほど脳みそを使いこなしていない。

 ぶらぶらと足を進めて、ようやくそこに辿り着いた。

 

「……久しぶりに来たな」

 

 ぽつりと落ちた呟きが、やけに大きく聞こえる。

 目の前の大きな水槽に漂う、柔らかなクラゲたち。ふわふわと傘を動かして泳いでいるものもいれば、ただゆらりと水流に身を任せるものもいる。ゆるやかに動くゼリー状の身体はぼんやりと透き通って、光量をぎりぎりまで絞られたライトのもとで淡く照らされていた。

 今日兄貴を連れ出したのは、どうしても言いたいことがあったからだ。それを伝えるならここがいいと思ったから、五条や夏油と一緒に兄貴を引きずり出した。

 兄貴は、じっと水槽を見つめている。静かな表情のまま、ただひたすらに。

 

「……兄貴、」

 

 水槽に目を向けたまま、声を掛ける。兄貴の反応はなかったが、私の声が聞こえているのはわかっていた。兄貴はどんなときでも、私の声をちゃんと聞いている。口ではぐだぐだと言いながらも、めんどうくさそうにすることはあっても、確かに兄貴は私を大事にしてくれた。当たり前に、そうしてくれた。

 本当は、わかっていた。兄貴が高専で呪術師を続けるのも、ひたすらに研究に没頭するのも、少なからず私のためであるということは。それだけじゃないのかもしれないけれど、きっと理由のひとつではある。その確信はあった。

 だって兄貴は、いつだって任務よりも研究よりも、私のことを優先してくれる。自分の優先順位はもう決まっていると言った兄貴が、私よりほかのものを優先するのを見たことがない。だからつまり、きっと、そういうことなのだ。

 このクソ兄貴、シスコンにもほどというものがある。

 

「……術師、辞めれば?」

 

 任務も、研究も、やりたくないなら頑張る必要はない。兄貴なら呪術師なんてやらなくたっていくらでも生きていく道はある。術師なんて術師しかやれないやつがやればいいのなら、兄貴だって術師でいる必要はないはずだ。

 私は多分、術師でしか生きていけない。いろいろな意味で、術師として生きていくのが一番平和に生きられると思うし、私自身も別に嫌なわけではない。夏油や五条とも、それに夜蛾とも、たくさん話をした。自分の守り方は理解したし、アイツらも手伝ってくれると言った。もう、生き方は定まった。だから、私はこれでいい。

 きっとこれから、自分のことは自分で何とかしてみせるから。

 

「私はもう、大丈夫」

 

 もう、私に囚われる必要はない。囚われないでほしい。誰だって、自分の好きなように生きればいい。私にそう教えたのは、ほかでもない兄貴なのだから。

 水槽のガラスごしに兄貴と目が合う。珍しく真面目に驚いた顔の兄貴は、数回瞬きをして、少し考えて、そして。

 

「……く、」

「おう何笑ってんだクソ兄貴」

「ふ、柄わっる、ふ、っいや、……お前な、く、」

 

 珍しく肩まで震えている兄貴は、顔を背けて口元を手で覆っている。基本的に表情筋が動かないタイプの兄貴が、こうまで笑うのも珍しい。

 人が珍しく真面目な話をしたのに、と思ったところで目が合った。いつもやる気なさげな目が、今は一段と細められている。

 

「なに思い上がってんだ妹、俺がいつお前のために術師やってるっつったよ」

「、」

「そりゃ俺は残念なことに妹想いの優しい兄だから、さすがに心配くらいはするけどな? 両親よりよっぽどお前の面倒見てきたんだ、それはまあ仕方ねーだろ。けどな、だからってお前のために俺の人生を使うほど、頭イカれてねーよ」

 

 俺はいつだって、俺のためだけに生きてる。

 愉快そうに笑って、その大きな掌が私の頭に乗った。気にくわなくて振り払おうとしたけれど、その手は離れなくて。にやりと笑った兄貴は、そのままぐしゃぐしゃと私の髪ごとなで回した。

 

「そーかそーか、俺がお前のためにやりたくもねーことやってんじゃねーかと心配になったのか。それでわざわざこんなとこまで連れ出して、クズども使って人払いまでして。心配させて悪かったな、俺そんな自己犠牲の精神もってねーから安心しろ」

「まじこの兄貴クソ」

「はいはい、お前が素直じゃねーのは知ってる」

 

 お前が生まれたときからな、と言った兄貴は、昔と同じ顔をしていて。む、と口を結ぶと、その長い指が私の髪を整えるように髪をたどる。

 嘘なんか言ってねーよと、その柔らかい笑顔が語っているような気がした。

 

「心配すんな、硝子。俺は好きにやってんだ、お前も好きにやってろ」

 

 まあ確かにそのうち術師は辞めてやるけどな、と兄貴は手を離してまた水槽に顔を戻す。そのうちって、とその横顔を見て言えば、視線だけがこちらに向いた。

 

「やることやったらだよ。中途半端に投げ出したら気兼ねなく隠居できねーだろ」

「兄貴ってばいつからそんな真面目になったわけ?」

 

 いつも通りの軽口に戻ろうとしたところで、背後からあーーーーっとやかましい声。

 

「やっぱここにいた! 硝子お前な、どんだけ面倒だったと思ってんだよ!」

「悟、せっかく撒いてきたんだから大声を出すな。でも硝子、あれはちょっとひどいんじゃないかい?」

「チッもう来やがった」

「俺たちに遠慮せずにもうちょいチヤホヤされてくれば良かったのに」

「心底残念そうに言わないでくれますかクラゲさん」

 

 まあもうクラゲ見たしいいか、と兄貴は緩く足を進める。

 俺たちは全然見れてねーんだけど、とぐだぐだ言う五条と、大きなため息をつく夏油。このふたりを餌にしたことについて一切の罪悪感はないが、文句を言われ続けるのも面倒だ。まあまあと軽く流す。

 

「拗ねんなよ、かわりに今日は兄貴が夕飯奢るから」

「オイ、さも当たり前のように俺に出させようとすんな妹」

 

 先に進んでいた兄貴が首だけで振り帰って言う。年長者が出すのは当然じゃん、と軽く返してみれば、いつも通りめんどくさそうに顔をしかめた。

 さっきまでの柔らかな笑顔はもう営業終了したらしい。確かに、あえてあの顔をクズどもに披露する必要もない。あれは、私だけの「兄」としての顔。

 そんな私の気持ちに気づくはずもない特級クズどもは、さっと機嫌を戻して乗っかってきた。

 

「はい決定、晩飯はクラゲさんの奢り~」

「ちなみに夕飯では後輩たちも合流予定で、特に灰原はひとの五倍は食べます」

「まじでいらねえ情報……あーもう、いいよ、どうせだから寿司食うぞ。水族館の後は魚って相場が決まってる」

「よっしゃ。回らない寿司な」

 

 いやそこまで言ってねー、という兄貴に構うことなく、じゃあ五条(うち)の行きつけな、と五条が携帯をいじり出した。どうやらその耳には都合の悪い声なんて聞こえないらしい。もちろん私の耳にも聞こえていない。

 そんな私たちを見て、夏油だけがうわあと引いた顔。

 

「まさか皆水槽の魚見て『美味しそう』とか思うタイプかい? 情緒がないな」

「兄貴〜夏油寿司いらないって〜」

「そうは言ってない」

「いや傑も同類じゃん」

 

 もう席予約しちゃった、とにんまり笑う五条に、兄貴は諦めた顔でため息をつく。会計の金額想像もつかねーんだけど、と死んだ目をする肩を、夏油がぽんと叩いた。隠居のための生活費を貯め込んでるのはバレてますよって、こいつマジでクズか。いや、そもそも優雅に揺蕩うクラゲを横目に見ながら寿司の話をしてる時点で全員クズだ。そう思い直してちょっと笑った。

 そういや、とガラス越しにちょいちょいとクラゲを指でつつきながら五条が言う。

 

「クラゲさんてクラゲ見ても『美味そう』って思う感じ?」

「思わねーよ、クラゲほとんど味ねーし」

「実食済みはウケる」

 

 共食いじゃん、と笑う五条に、そういえばクラゲはほとんど水分だから味がないのも道理か、と納得したように頷く夏油、いや中華料理とかで普通に食うだろクラゲ、と呆れたように言う兄貴。

 どいつもこいつも好き勝手、我が道しか進む気のない馬鹿ばかり。兄貴はちょっと違うのかと思ったのに、残念ながら馬鹿は馬鹿。まったく私のまわりときたら何でこうも面倒なやつばかりなのか、自分を棚に上げてそう思う。

 何だか、妙に笑えてきた。

 

「兄貴、」

 

 そう声を掛けると同時に、足をはやめてその隣に並ぶ。何だよ、といつも通りに返される声。それ何だか、ひどくくすぐったい。

 

「久しぶりに生でクラゲを見た感想は?」

「……まあ、見れてよかったよ」

 

 じゃあまた連れ出してやるから、と笑ってやれば、マジ生意気、と兄貴も笑った。

 

 

 ***

 

 

 誰よりも海月の自由を望む硝子の檻は、自身の鍵を差し出した。

 けれど海月は首を振る。これは自分の意志だと笑うだけ。

 いずれは外にと言いながら、それは今ではないらしい。

 海月の呪いは未だ解けず、自らに解放を許すこともなく。

 

 平穏を夢見る海月は、今日も硝子の檻で星を解く。

 




海月と硝子の物語、これにて完結。
お付き合いありがとうございました。
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