――それは
***
暦の上ではとうに春を迎え、春一番もすでに流れ去ったと聞く。
都内とは言っても山間部に位置する呪術高専に春の気配が訪れるにはもう少しかかるだろうが、今のうちに春支度は整えておかなければならない。デスクにおいてあった新入生のリストを手に取り、その経歴に目を通していく。
いくら呪術師がマイノリティとはいえ、それでも毎年四月には新しい学生が入学する。たいていは片手の指で余る人数ではあるが、幸か不幸か「呪い」を得、見いだされた彼らは呪術高専の門を叩くのだ。
少ない枚数のそれらに目を通し終え、ひとつ息をつく。
この学校の学生であれば正直言って個性はある。それも多かれ少なかれ、ではない。「多かれ」か「非常に多かれ」か、だ。普通の学校ではないのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、きっと次に入学してくる彼らも高確率で個性派だろう。何せ前例がありすぎる。
同時に、これまでに迎えてきた「問題児」たちの顔が次々と脳裏を駆け巡った。ひとりやふたりでないところがまさにこの学校だろう。
「……まあ、筆頭はあいつらだが」
問題児のなかの問題児、あらゆる意味で桁外れだったあの世代。
五条家の当主にして六眼と無下限呪術を併せもつ当世の「最強」五条悟。
呪霊操術を使いこなし、瞬く間に特級へと駆け上がったもうひとりの「最強」夏油傑。
反転術式を操り、他者に治癒を施すことができる希有な人材、家入硝子。
この三人が一代に揃ってしまったのだから、当時担任であった自身の苦労といったら。またこれが生意気も生意気でろくに言うことも聞かず、何度正座をさせ説教をしたかわからない。卒業が近いというのにとうとう「最強」ふたりが大喧嘩して校舎を破壊させたときには、頼むからおとなしく卒業してくれと真剣に頭を抱えたものだ。
何とか致命的な状況になるまえに仲直りしたらしいから良かったものの、そうでなければあれは完全に退学ものの事態だった。あのときばかりは喧嘩を止めてくれたあいつに心から感謝をしたな、と浮かんだ別の教え子の顔に、ふと笑う。
「……いや、あいつらも負けていなかったか」
彼らよりも四つ上、家入硝子の実兄、家入海月。
彼もまた教え子のひとりであるが、これまた相当に苦労をさせられた。何といっても理屈にあわないことが大嫌いな怖いもの知らず。貴重な文献を読みたいがために当時の学長の部屋に忍び込んで窃盗をはたらくわ呪術界の重鎮相手にも平気で言い返すわ、言い聞かせても言い聞かせて直らない奔放さにどれだけ胃を痛めたかわからない。
そして、もうひとり。海月の傍らに在った彼も、また。
脳裏に浮かんだ顔に、小さく安堵する。俺は彼がいたことを覚えている。たとえ誰よりも彼を覚えていたかった海月がその存在を思い出すことができなくとも、俺は。
身長はあの頃の海月より少し低かった。髪は茶よりも紺に近い黒で、少し癖が入っていたように思う。長い前髪をいつもうっとおしそうにしていたが、何故だか頑なに切ることは拒否していた。
それなりに由緒正しい呪術師家系の出身であり、入学してすぐの頃は海月相手に傲慢に振る舞っていたが、海月が体裁や建前を一切気にしない人間だと気づいてからは仮面も剥がれた。
本当は繊細で、臆病かつ卑屈。呪術師らしい狡猾さも持ち合わせてはいたが、懐にいれた人間に対しては情が深い。海月に心を開いてからは本当によく笑っていたと思う。
そう、いい笑顔で毒を吐き悪戯をしでかす問題児だった。
『海月、こっちに豚来なかった?』
『三匹すれ違ったけどどれ?』
『小デブの眼鏡』
『それ全員当てはまるんだけど。個性ねえな呪術師』
『じゃあその中で一番性格悪そうなグレースーツ』
『たぶん学長室行った』
『さんきゅ。まあ俺の父親なんだけど』
『え、……ごめん?』
『いいよ。じゃあちょっと行ってくる』
いや全く、海月と彼はいっそ泣けてくるほど仲が良かった。性根のひねくれ方と口の悪さの方向性が同じだったのだと思う。
大喧嘩して高専の校舎を破壊した悟と傑も大概だが、任務のどさくさに紛れて気にくわない先輩呪術師の呪具を叩き壊した海月と彼も決して他人のことは言えない。
片やいつも通りの無表情、片や全力の笑顔で「任務中の事故です」と綺麗に声を揃えたあの問題児ども、自主的に正座をして説教を聞く姿勢に入ればいいというものではないと声を大にして言いたい。
後になってその呪術師の素行の悪さが明らかになったのだが、なら最初から素直にそう言えと。
『いやほら、言うて向こう結構地位のある家の呪術師だし? 夜蛾先生じゃちょっと権力足りないかなって?』
『って言うから、なら俺らの鬱憤だけでも晴らしとくかって』
『お前らもう一回正座しろ』
俺にできる対処もある、と言えばようやく「ごめんなさい」と棒読みの謝罪を吐いたふたり。ため息をつく以外に何ができたというのだろう。
本当に、仲が良かった。ともに学び、鍛錬を重ねていた。
呪術界や呪術についての知識に乏しい海月と、一般常識に疎い彼。
表情も言葉も足りなかった海月と、その術式ゆえに他者の機微に聡かった彼。
事実のみを見据える海月と、卑屈と臆病に縛られていた彼。
戦うことを知った海月と、想うことを知った彼。
支え合い、補い合えるふたりだった。きっとこれからもずっとつるんで馬鹿をやっていくだろうと、さんざん呪術界に文句を言いながらも呪術師として生き残ってくれるだろうと、そう思っていた。飛び抜けた能力こそもってはいなかったが、自身の能力を発揮する術をよく心得ているふたりだったから、きっと大丈夫だろう、と。
わかっていたはずだった。呪術師に悔いのない死などない。ここはいつ誰が死んでもおかしくない、地獄のような場所だというのに。
――海月の涙を見たのは、あれが最初で最後だ。
カタ、と響いた音にはっと肩を揺らす。春の強風に煽られて窓枠が揺れたらしい。ぼんやりしてしまった、と頭を軽く振って新入生たちのリストをケースにしまい、鍵付きの引き出しに入れた。かちゃ、と鍵の掛かる音がやけに大きく聞こえる。
そういえば今日は妙に静かだ。ちょうど正午になろうかというこの時間、いつもなら学生たちの喧噪や補助監督たちの忙しく歩き回る音が聞こえてくるのだが、今日はそれがない。任務でひとが出払っていて静かなのか、任務が少ないために穏やかなのか。後者だと願いたいところだが、おそらくは前者だろう。この世界は呪いに溢れている。
ひとがひととしてある限り、呪いが絶えることはない。どこかの特級呪術師は呪霊のない世界を目指していると噂に聞いたが、たとえ呪霊が消えたとしても「呪い」は形をもたないまま人間を縛り続けることだろう。
呪いとはすなわちひとの想い。心そのもの、またその揺らぎ。それを祓い去ることなど、どんな呪術師にもできはしないのだ。
再び、脳裏に真っ黒の制服を纏って俯く海月の姿を浮かぶ。
『――あいつの最期の呪いです』
そんな術式もってねーくせにどんな手使いやがった、と棺の前で落ちた静かな声。葬儀が始まる頃には、海月の涙はとうに乾いていた。
『何を言われたかは覚えてるのに、どんな声だったか思い出せないんですよ』
驚異的な記憶力を誇る海月が、親友の声を思い出せない、と。今は何とか顔も覚えているけれど、少しずつ記憶が薄れていっているのがわかる、と。
反射的に海月の顔を見た。海月の瞳はひどく空虚だった。哀しみや苦しみ、そういった全ての感情が抜け落ちてぼやけてしまったような。
ふと、波間に転がる半透明のシーグラスが脳裏に浮かぶ。
『忘れろって、最期に』
彼は決して呪言使いではない。ひとの記憶や意識に作用するような術式をもっていたわけでもなかった。まして脳を誰よりも使いこなす海月相手にそんな「呪い」を掛けるのは至難の業だと言っていい。
それでも彼は、呪力も何もない「ただの言葉」で海月を呪ってみせたのだ。
『たぶんそう遠くないうちに、俺はあいつのこと忘れると思います。だから俺の前であいつの話はしないでくださいね』
『……それで、いいのか』
どうしようもないでしょ、と頭を掻いた海月の声に、暗さはない。
『呪いは掛けるより解くほうが難しい。生死に関わるでもない呪いなら、下手に抗うより受け入れた方が建設的じゃないですか』
何より、と続けられた言葉のあとに、少し間があった。
黒縁に囲まれた遺影を見上げ、もうちょいマシな写真なかったのかよと家族写真を引き伸ばしたらしい仏頂面に毒づく。確かに彼らしくない硬い表情だった。
『……遺されたんだから、もらっとかねーと』
強がるな、とは言えなかった。
まだ高校一年生に過ぎない少年に、そんなことを言わせてしまった。そんな覚悟を負わせてしまった。噛みしめた唇からはわずかに血の味がした。
そんな大人の後悔など知ったことではないという顔で、海月はすんなりと日常に戻った。変わらず生意気で、怖いもの知らずで、最初から同期などいなかったという顔で。
事情を知らない補助監督が海月の前で彼の名前を出してしまったとき、海月は本気で不思議そうな顔をしていたから、彼の「呪い」は確かな力をもっていたのだと思う。しかし彼の存在が完全に海月から消えたのかといえば、決してそうではなかった。
たとえば、突如として海月は自分が得た情報をデータにまとめ始めた。
海月は脳にインプットした情報を忘れることはない。だからそれまではメモをとる姿すらポーズに過ぎず、教科書やノートの類いも真っ白だったというのに、何故だか急に自身の知識をアウトプットし始めたのだ。
何十冊ものノートを黒く染めた海月にどういう風の吹き回しかと尋ねても「何かそうした方がいいと思ったから」と、本人もよくわかっていない顔。忘れたことすら曖昧になっているはずの海月も、おそらくはその「欠落」を無意識に感じ取っていたのだろう。彼から得た知識が失われることなく脳に刻まれているのを確認するように、海月は手を動かし続けた。
海月が彼から教わった呪術界のこと、呪術のこと、些細なこともすべて。ひとつひとつ丁寧にまとめられたデータは、今では多くの呪術師が密かに頼りにする情報の宝庫となっている。
また、海月の表情と口数が増えたことにも驚いた。
『俺は術式あるから多少はわかるけど、それでも他人のことなんか基本わかんないんだって、お互い。以心伝心とか絶対にナイから、海月も自分のこと伝える努力はしろよ。俺で楽を覚えんな』
いつだったか、彼はわずかな傲慢と心配を含んだ声で海月にそう言った。
他者の心を読み取る術式、それをもってしても親類とうまくやれなかった彼の言葉には重みがあった。お前には言わなくても伝わるんだからそれでいいのではという本音は透けて見えたが、それでも海月はちゃんと頷いていたと思う。生意気盛りの不良優等生も、理のある忠告には素直に耳を傾けた。
意思表示の重要性は海月も理解していただろうが、何せ根っからの怠け者。サボれるものならサボりたいというのが正直なところだったのだろう。必要がなければ指の一本も動かさない海月だったが、言わずとも理解してくれた友はもういない。
どこか仕方なさそうではあったが、態度と言葉の両方できちんと表現をするようになった。まあ結果として味方も増えたが敵も増えたというあたり、海月らしすぎて言葉も出ない。敵にまわすと面倒な相手もいるんだぞという彼の言葉は無視することにしたらしい。
それから、――あの反抗期もおそらくは彼の死の影響だったのではないかと思う。
「……歌姫には悪いことをしたな」
決して笑いごとはないのだが、つい口元は緩む。いや本当に歌姫には悪いことをしたと思っているのだが、反抗期が落ち着いた後の海月のばつの悪そうな顔と言ったら。
この話になると、決まって海月は同じ言葉を吐く。
『……俺はちゃんと謝りました』
だからもう何も言うなと言わんばかりの、完全に拗ねた子どものそれ。
あれを「反抗期」という表現するのは正しくないということくらいはわかっている。彼の死が海月にもたらした呪いの欠片とでも言うのか、それが歌姫の存在によって外に現れた結果、海月は感情のコントロールを完全に失った。
今でこそ仲の良い先輩後輩の関係を築いているふたりだが、海月の反抗期がおさまるまでの数ヶ月は完全に犬猿の仲だった。海月は「弱いんだからとっとと術師やめれば」と貶し続け、歌姫は「先輩の顔に一発入れるまで絶対やめてやりませんから!」と返し続けた。
俺が何を言おうと解ける気配のなかった呪い。祓ったのは、ほかでもない歌姫だ。
夏の暑さが主張を始めた頃、ふたりはある任務に赴いた。その任務先で何があったのか。歌姫が何をし、海月が何を思ったのか。詳細はわからないが、その日を境に海月はすっかり元に戻った。そんなことありましたっけと言わんばかりの顔で後輩の面倒を見るようになったのだから、まったく現金なやつだと思う。
歌姫も最初はその変わりように戸惑ったようだったが、すぐに海月を頼りにするようになった。もともと面倒見のいいところがある海月と、義理堅い歌姫。噛み合いさえすれば相性はよかったのだろう。
まあ海月としては口には出さずとも「反抗期」について思うところがあるようで、何となく歌姫に甘いのは気のせいではない。歌姫自身がまったく気にしていなさそうなだけに、海月が自分の失態を引きずっているのは微笑ましくさえあった。滅多に派手な失敗をしないだけに地味にダメージがあったのだろう。誰しも恥をかいて大人になっていくのだから海月にとっても良い経験になっただろうと思いつつも、つい愉快に感じてしまうのは本人の日頃の行いのせいと言える。
海月は、確かに彼の存在を忘れてしまった。亡くなった人間のことは忘れることにしていると公言してさえいて、実際にほかの亡くなったひとのことも意識的に記憶から消しているらしい。それも「何かそうしろって誰かに言われたような気がしなくもないから」などという曖昧が過ぎる理由で、だ。それだけで十分にわかる。
どれだけ彼の呪いが海月に影響を与えているのか。
どれだけ彼の存在が海月にとって大きかったのか。
必要ないからと他者との交流を必要最低限におさえているのも、本当は彼の死の影響があるのではないか、と穿った見方をしたくもなるというものだ。
もっとも、海月のそんな主張も今は妹や「最強」たちのせいですっかり崩れてしまっているのだが。真剣に嫌そうな顔で彼らを迎える深海の主の顔が思い出され、つい肩が揺れる。
正午の鐘が校内に響いた。おっと、また思い出に浸ってしまった。
過去の問題児のことはさておき、また新しい問題児を迎える用意を進めなくてはならない。担任の選出や学生寮の準備など、やらなければならない仕事は山とある。さっさと昼食を済ませ、今日の業務は早めに終わらせてしまおう。
そしてその後に、せっかくだから久々に手を合わせに行こうと思う。親類と折り合いの悪かった彼の墓は、この高専の敷地内にあった。
高専の職員が管理してくれているとはいえ、滅多に訪れるひとはいないはずだ。たまには足を運んで「親友」の様子でも報告してやるとしよう。
海月は相変わらずだよ、
お前が遺した