硝子の兄は海月になりたい   作:ふみどり

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歌姫目線。


琴線

 ――それは恐怖(のろい)だった。

 

 

 ***

 

 

「兄貴の反抗期ってどんな感じだったんですか?」

 

 唐突に可愛い後輩にそう言われ、喉の奥に残っていたお酒をごくりと飲み込んだ。

 

「突然何よ、硝子」

「学長が言ってたんですよ、兄貴の反抗期は大変だったって」

 

 それから歌姫センパイがそのときのことをよく知ってるって。ひとの嫌がることを進んでやる兄の悪癖をしっかり受け継いでいる硝子は、そう言ってにやりと笑った。

 家入先輩の反抗期、と聞いて確かに思い当たる節はある。あれを反抗期と言っていいのかはわからないが、今にして思えば確かにあの頃の先輩は相当におかしかった。

 度を超えた罵詈雑言、硬質でひやりとした声と態度。合同の実習ではひたすらに嬲られ、地面に叩きつけられ、やる気がないならとっとと帰れと頭から水を掛けられた。

指導というにはあまりに過激で執拗。周囲からも諫められていたほどだったというのに、それでも先輩は私に対して辛く当たり続けていた。私も負けず嫌いが発動していなければとっくに心が折れていたと思う。

 

「反抗期というか、……家入先輩もいろいろあっただけだと思うけど」

 

 あの家入先輩が自身を制御できず、理不尽に走ってしまうほどの「いろいろ」。何となく事情を察してはいるけれど、さすがにそれを確かめることはできずにいる。

 

「……というか、硝子は知らなかったの?」

 

 先輩が二年生のときの春夏よ、とビール瓶を向ければ、う~んと唸りながら硝子は空になったグラスを差し出す。グラスから溢れそうになる泡に口をつけて、そのまま唇をぺろりと舐めた。

 

「兄貴、高専入ってから長期の休み以外はほとんど帰ってこなかったですし。たまに生存確認程度に連絡はしてましたけど……言われてみればその頃かなり長いこと連絡通じなかったかも。忙しいとは聞いてたし、気にしてなかったですけど」

「じゃあきっと間違っても硝子に当たりたくなかったのね。本当シスコン」

「当たりたくないって……え、じゃあセンパイに当たってたんですかあのクソ兄貴!」

 

 信じられないという顔をする硝子に、つい苦笑を返す。

 

「ちゃんと謝ってもらったし、気にしてないわよ」

「そういう問題じゃないですよ」

「まーそうだけど。でもほら、あの家入先輩がめちゃくちゃ素直に頭下げたのよ? それがどれだけレアかアンタのほうがわかるでしょ?」

「……それ本当にうちの兄貴ですか? センパイの夢の話でもなく?」

「想像以上にレアな経験してたのね私……」

 

 その心底信じられないという顔に、やはりあれは相当のことだったのだと再認識する。

 気まずそうに、申し訳なさそうに、自己嫌悪に視線を揺らしながら頭を下げたあのひと。もうしないと約束してくれたあとは、本当によく面倒を見てもらった。

 

「……それを根に持てない程度には助けてもらったの」

 

 黒い制服を脱いで深海にこもるようになった今でも、変わらず。いつだってあのひとは私にとって「良き先輩」でいてくれたし、そう在ろうとしてくれている。さすがにそんなひとを恨み続けることはできなかった。

 脳に染みいるアルコールが思い出の箍を外していく。ふわりふわりと浮かんでは消えていく記憶の数々は、苦々しいものもあったが今となっては懐かしい。

 

「……もう何年前? うわ、数えるのやめよ」

 

 初めて会ったとき、確かあのひとは夜蛾先生に引きずられて大あくびをしていた。どうやら木陰で昼寝をしていたところを捕まったらしい。後輩の前でくらいしゃんとしろ、と小言を受けて初めて私に眠そうな目を向けた。

 半開きの黒目がちの瞳は、私の自己紹介を聞いても特に揺れる様子を見せず。何を考えてるのかわからないひと、というのが第一印象だった。そのあとも私には特に興味もなさそうに振る舞っていたというのに、それが豹変したのは最初の合同実習のときだ。

 あまり気の進まなさそうな顔で鍛錬の相手をしてくれた先輩は、私の最初の攻撃を見た瞬間から気配を変えた。

 

「……あの頃はもう、本っ当に心の奥底から死ぬほど先輩のこと嫌いだったけどね」

「うわ、何したんですか兄貴」

「そうねぇ……骨くらいは折られたわ」

「は?」

「毎日毎日ぼっこぼこ。『弱すぎて無理』『伸びしろが見えない』『何で高専来たんだよ自殺願望でもあんの?』心身共に殴られ続けたわね」

「ちょっと兄貴殺してきますね」

 

 立ち上がりかけた硝子のグラスにさっとビールを注ぐと、しぶしぶといった様子で硝子は腰を下ろした。

 いや本当にあのときは「先輩憎し」の一心でその全部に堪えていたと言っていい。あの澄ましたツラに一発くれてやるまで諦めてたまるかと、それだけを考えて毎日毎日必死で鍛錬を重ねたのだ。私を辞めさせたかったのなら完全に逆効果ですよザマーミロと今もちょっとだけ思っている。

 そう、先輩は私に呪術高専を辞めさせたかった。それを先輩自身が自覚していたのかは別として、呪術師なんて諦めてとっとと帰れと言いたかっただけなのだ。

 真っ黒な呪術高専の制服を恨み始めた季節、先輩と一緒に赴いた任務で私はようやくそれを理解することになる。このひとはずっと「何か」に呪われていたのだと。

 あの日の先輩の等級にあわせた任務は、さすがに私には荷が重かった。先輩の傍を離れないようにと言われていたけれど、実際の呪霊の質と量をみるとそうも言っていられず、……というのはただの言い訳。あれは完全に私の判断ミスだ。

 

『俺の邪魔だけはすんな』

 

 今にして思えば、任務前に投げられた言葉に意地になっていたと思う。先輩に助けを求めるなんて選択肢が浮かばない程度には冷静ではなかった。

 その結果が、脇腹を切り裂かれて飛び散る血と痛み。

 しくった、と思った。けれど傷はさほど深くない。これくらいなら、と再び呪霊の群れに向かおうとしたとき、真逆の方向に身体が動いた。

 脇腹の傷を避けながらお腹の辺りにまわされた腕。

 火花が弾けるように瞬時に高まったその呪力。

 疲労というよりは動揺で荒く揺れる呼吸の音。

 強く跳ねる心臓の鼓動が伝わってくるような気さえした。

 

『このクソ馬鹿、』

 

 歯噛みするような声には、怒りよりも焦りがある。

 呪霊の群れから離れたところでようやく下ろされ、何をするんだと先輩の顔を見た瞬間にその全てが吹き飛んでしまった。

 顔色は青を通り越してもはや蒼白。自分のシャツの袖を裂いた布で止血をする先輩の手はひどく慌てていて、忙しなく揺れる目は潤んでさえいるように見えた。

 極めつけは震える唇が音もなく呟いた、――まるで懇願するような「しぬな」。

 嗚呼、とその事実がすとんと胸に落ちた。これまで家入先輩から受けた数々の暴力、投げられた暴言、そして「あんなことするやつじゃなかったのに」という周囲の言葉。全てが繋がると、あんなに憎たらしかった先輩の顔が少し違って見えた。 

 ――このひとはきっと、喪ってしまったのだ。

 

『、死にません』

 

 咄嗟に口をついて出たのはそんな陳腐な言葉だ。思わず両手で挟むように触れた頬はぞっとするほど冷たい。それでも怯むことなく、しっかりと目線を合わせる。

 綺麗だけど透き通ってはいないシーグラス。心の内を見せないこのひとの瞳は、いつもそれを思い出させた。

 

『たいした傷じゃないです』

 

 範囲は広いが傷は浅い。痛みだって、これなら実習で骨を折られたときの方がずっと痛かった。あれだけ私をいたぶってきたくせにこの程度でビビらないでほしい。

 ひく、と血も涙もないと思っていた先輩の肩が揺れた。

 

『死な、……死なねえな』

 

 先輩の呪力が星の瞬きのように揺らいだ。詳星呪法を使ったのだろう、きっと私が死ぬ星など見えなかったに違いない。そもそもがきちんと処置をすれば傷痕すら残らない程度の傷だ。

 ひどく強張っていた腕から徐々に力が抜けていく。

 

『ええ、死にませんよ。舐めないでください』

『……お前いつも威勢だけはいいよな』

『だけって何ですか!』

『うるっさ』

 

 そうか、と先輩はそっと腕を引く。いつもなら考えられないほど優しい手だった。死なないのか、という静かすぎる声は柔らかかった。

 

『傷おさえてじっとしてろ、片付けてくる。目ェ離した隙に死んだら殺すぞ』

『死なないって言ってるでしょーが! 先輩の顔に一発入れるまでは死ねません!』

 

 ハ、と聞こえた声に思わず耳を疑った。

 そんな愉快そうな声を一度も聞いたことがなかった。

 

『じゃあお前、俺が死ぬまで死ねねえな』

 

 その言葉忘れんなよと私に背を向けた、先輩の顔。

 柔らかく細められた眦に、緩んだ口元、軽やかな雰囲気。誰コイツと反射的に思ってしまった私は絶対に悪くない。初めて見たこのひとの笑顔はそれくらいの衝撃があった。本当にすぐに戻ってきた先輩に「何で止血してねーんだよ、押さえてろって言ったろ」と呆れたように言われるまで、私は自分の目で見たものが信じられずにいた。

 その後は「自分で歩けます!」「うるせー喚くな怪我人」と騒ぎながら先輩に運ばれ、手当を受け、包帯が取れる頃に先輩に頭を下げられた。

 

『悪かった。……指導にしても感情的が過ぎたし、やりすぎた』

 

 もう言わないし、やらない。

 そう言い切った先輩の頭にはたんこぶがいくつもできていて、つい笑ってしまった。後から聞いたことだが、先輩は珍しく本気で反省して自分から周囲に怒られにいったらしい。あんな殊勝な先輩は初めて見たと誰もが口々に言っていた。

 肩を震わせる私を何とも言いがたい顔で見る先輩を見て、実はこのひと結構顔に出るのでは、と初めて思ったことを覚えている。

 その日から、先輩は変わった。他のひと曰く「元に戻った」そうだが、私からすれば完全な別人。指導の厳しさは変わらなくとも必要以上の怪我をさせることはなくなったし、何より何がどうダメなのかちゃんと言葉にしてくれるようになった。

 

『まず逃げ方を身体に叩き込め、お前弱いんだし』

『なに無策で突撃してんだ猪か?』

『自分の術式の特性はお前が一番知ってんだろ。適当に使うな、上手く使え』

 

 ちょくちょく混ざる余計な言葉にデリカシー皆無なのは素だったかと遠い目はしたけれど、先輩なりに考えて指導をしてくれていることはよくわかる。

 そのときにはもう、先輩の目がシーグラスのようだなんて思わなかった。

 

「……歌姫センパ~イ?」

「あ、ごめんぼんやりしちゃった」

 

 グラスに残っていたビールを飲み干し、硝子が開いていたメニューを覗き込む。ビールのおかわりと適当につまみも追加した。

 お通しの煮物をつつきながら、でも、と硝子は不満げに口を開いた。

 

「私だったら何があろうと骨折られた相手に敬語使ったりしませんけどね」

「はいはいそんな顔しない。私がいいっつってんだからいーの」

「センパイあのクソ兄貴に甘すぎません?」

「そう? ……まあ、私が一番キツかったときに助けてくれたのも先輩だったしね」

「え、初耳」

 

 きっと誰にだって一度はある、何をやっても上手くいかない時期。

 自分の実力が伸び悩んでいるのを感じたり、任務で失敗してしまったり、周囲の気遣いにも素直に応えることができなかったり。いらいらしてもやもやして、何もないのに泣きたくなって、でも意地が邪魔をして弱音や愚痴を吐くこともできなくて。

 気晴らしすら上手くできないまま、ただ独りで塞ぎ込んでいた。

 

「先輩もそんな私に気づいてたんでしょうね、一応見てるとこは見てるひとだし」

「……気づいたとしてもあの兄貴がまともなフォローするとは思えないんですけど……」

 

 疑わしげな視線にひとつ笑って、運ばれてきた枝豆を口に運ぶ。

 まあ実際、何ともあのひとらしい不器用な言い方だったのだから実の妹の予想は正しいと言えるだろう。

 その日も容赦なく私をしごき抜いたあのひとは、汗だくで蹲る私の前でやれやれと言わんばかりにしゃがみ込んだ。あのな、と呆れた声が日の傾いたグラウンドに落ちる。

 

『人間、メシが食いたくなるのは生命維持のために栄養素が必要だからだろ』

 

 あまりに唐突な言葉に、は、と訳がわからないまま顔を上げる。特にふざけた様子もないまま、先輩は呆れた顔のまま言葉を続けた。

 

『眠くなるのだって睡眠が必要だからで、人間の欲求ってのはそういうふうにできてる。……だからもしお前が弱音や愚痴を吐きたいと思うなら、それはお前にとって必要だってことだ』

 

 とくり、と胸の奥で音が鳴った。先輩の目は、相変わらず私を見つめたまま。

 

『……む、だだって、言わないんですか』

 

 無駄を嫌う先輩なら、そういうものはすっぱりと切り捨てると思っていた。そしてまた、かつてのような冷え冷えとした視線を向けられてしまうのではないかと。

 小さく息をついた先輩は、ひとそれぞれだろ、とどこか投げやりに言う。

 

『俺にとっては無駄でもお前にとっては無駄じゃねーからそうなってんじゃねーのか。弱音でも愚痴でも、吐いて楽になるならとっとと吐き出せばいいだろ』

 

 お前が強くなるのに必要だってんなら、仕方ねーから聞いてやる。

 ため息まじりでも、その声に感じた温かみはきっと気のせいではない。ほかでもない先輩のらしくなさすぎる言葉は、私のつまらない意地を突き崩すには十分だった。

 

「それから先輩、じっと私の話を聞いてくれたの。相槌も打たずに」

「それ本当に聞いて、……本人に聞いてる気がなくても脳が記憶してるから一緒か……」

「私としては早くそのデータ消してほしいんだけど」

「データの完全消去は有り得ないらしいですよ」

「つらい」

「どんまい」

 

 よよ、と泣き真似をすれば何となく面白そうな硝子が瓶の口を向ける。注がれる命の水を眺めながら、でもね、と笑った。

 

「私は嬉しかったのよ」

 

 優しい、と表現するにはたぶん少し違う。けれど私への罪悪感とか、先輩としての責任とか、きっとそういうものでもない。

 わからないけれど、私は嬉しかった。また頑張ろうと思えた。頑張れると思った。

 

『つまり働きたくないと思う俺に労働は必要ないってことだと思うんだよな』

『先輩、真顔で言わないでください』

 

 ひと通り吐き出させてくれた後もいつも通りの顔で軽口を叩き、じゃあ寮に戻るぞとさらりと言ってくれた。

 たまに優しい気はするけどたぶん気がするだけで、デリカシー皆無のくせに下手な優男よりずっと信頼できる。そんな家入先輩に、私はたくさん助けられてきたのだ。

 

「たかが反抗期くらいじゃ恨めないって」

 

 そう笑ってみせれば、硝子は目を閉じて少し考え、改めて真剣な顔をつくる。センパイ、とかつてないほど決意に溢れた声色に、思わず私も姿勢を改めた。

 

「やっぱり兄貴もらってくれませんか」

「ごめん、健康で文化的な最低限度の生活を送ってないひとは無理」

 

 生存権ってどこで買えますかね、と兄そっくりの顔で不満そうに言った硝子の顔に、やっぱり兄妹ねとこっそり笑った。

 

 

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