何で偉そうな人間って無駄話が好きなんだろうな、とぼんやりと思う。
きちんとデータを取ったことはないが、少なくとも俺が約二十年の人生のなかで遭遇してきた「偉そうな人間」は全員そうだったように思う。話が回りくどくてめんどくさくて、まとめれば一分で終わるような話を三十分かけてするような非効率なやつばかり。ひとりとして例外が浮かばない。自分に価値があると思っているから、自分の言葉にも価値があると思い込んでいるのだろうか。他者の限りある時間を自分のために浪費させることに対して、わずかぐらいの罪悪感を抱いて欲しいと心から思う。
ここに立って無駄な時間を過ごすなら、せめて睡眠時間にあてたかった。そう思いながら、奥歯で欠伸をかみ殺す。
「……聞いているのか、家入」
「聞いてますよ。くだらねー研究してないでもっと任務に出るか何かして呪術界に貢献しろってんでしょ。一言で終わる話に何十分と掛けないでくださいよ」
「お前が研究をやめると言えばその一言すら必要ないわけだが?」
「俺が俺の時間で何しようが俺の勝手です。任務だって必要最低限こなしてるじゃないですか。それも自分らの言うこと聞かねー特級に任せるには不安で、従順で忠実な一級に任せるには危険な質の悪い面倒なやつばっか」
死んでも構わない、むしろ死んでくれたほうが都合がいい、しかしそこそこの腕はあり、たいていの呪霊や呪詛師には対応できる便利な呪術師。俺の呪術師としての評価はそんなものだろう。割り振られた任務はちゃんと要求通りこなしているのだから、文句を言われる筋合いもない。
「……その生意気は直らんか」
「じゃあそっちもちょっとは尊敬できるようになってもらえませんかね。ほかにお話がないならもういいですか、俺も暇じゃないんで」
「家入」
「何ですか」
「先日、学生に向けて授業を行ったらしいな」
なかなか好評だったらしいじゃないか、と猫なで声で言われて眉をひそめる。あれはあくまでも高専教師陣の独断で、この老害どもの指示ではなかったはずだが、どこからか噂は届いていたらしい。
それが何か、と短く答えれば、その爺は喉の奥でくく、と笑った。
「お前の頭の出来は評価している。呪術は教えられなくとも一般教養なら教えられるだろう。くだらん研究に時間を費やすよりは、後進の教育をするほうがまだ有意義だ。今後も面倒を見てやるといい」
呪術は教えられなくとも、を強調するあたり、血統しか自慢できるものがないこの爺らしい。あーめんどくさ、という態度を隠さずにため息をついて、呪術界の闇に背を向けた。
背後からまだいくつか小言が飛んできたような気がしたが、全て無視してその部屋を出る。辛気くさい廊下を進みながら、やっと終わった、と首を回した。正確には「終わらせた」なのだが、そんなことはどうでもいい。同じことしか言わない呼び出しに毎回応じてやるだけマシだと思えってんだアナログ大好きの非効率主義者どもめ。
飲み物でも買って部屋戻るか、と自販機の方へ足を向ければ、先日聞いたばかりの元気な声。
「あ、クラゲさんだ! こんにちは!」
「こんにちは。先日はどうも」
「……ハイこんにちは」
遭遇したのは、ラフな格好で汗を拭う一年生たち。実習で体術の訓練でもしていたのだろう、その手にはスポーツドリンクが握られている。
きちんと挨拶をする礼儀正しさにはつい感心をしてしまった。俺こんにちはとか言ったのどれだけぶりだろう。実習か、と言ってみれば灰原くんは満面の笑みでハイと頷いた。
「さっきまで夏油さんに稽古をつけてもらってたんです! 僕たち全然敵わなくて!」
「へえ。……夏油くんだけ?」
「五条さんは面倒だと言って端で寝ていました。夏油さんひとりで十分だと」
「マジで先輩甲斐ねーやつだな」
でも確かに二人がかりでも夏油さんに一発も当てられなかったので、と灰原くんは苦笑気味だが、戦闘訓練始めたばかりの新入生と特級術師なら当たり前だと思う。
一般家庭から呪術高専に入学してきた人間は、まず「戦う」ことを頭と身体に叩き込むのに苦労をする。戦いの空気に身体を慣らし、敵を傷つけることへの抵抗をなくすのは簡単なようで難しく、非常に精神的な負担を伴う。しかしそれを乗り越えないと、戦闘技術は身につかない。呪術師にまともな人間がいないのは、まともでないと呪術師なんてやっていけないから、というのも理由のひとつなのだろう。
逆に言えば、呪術師家庭の出身じゃないのにすでに特級やってる夏油傑、彼のほうがおかしいのだ。いったい一般人だったはずの中学までどんな生活を送ってきたのか。控えめに言って相当なやんちゃをしてきたのだろう。
「……まあ夏油くん、下への面倒見はよさそうだし、存分に相手してもらえばいい。特級に稽古つけてもらえるなんて滅多にないことだからな」
「はい! 頑張ります!」
「ええ。……クラゲさんは確か一級だと伺いましたが」
「? ああ、そうだけど」
これはあくまでもただの好奇心なのですが、と前置きして七海くんは続けた。
「たとえばクラゲさんなら、夏油さんに一発入れられるのでしょうか」
「……無理じゃん? いや、夏油くんが戦ってんの見たことないけど」
「見たことがないのに即答できる根拠とは?」
切れ味良く返される言葉は、なかなか小気味いい。どこまでも理知的な子だな、と内心で頷いた。
「現在呪術師の等級は四級から特級まであるが、本来は一級が一番上なんだよ。特級はあくまでも『一級を遙かに超える』という位置づけで、文字通り特別で特殊な等級だ。だからそうぽんぽん誰にでもくれてやるもんじゃないし、実際今も特級術師は三人しかいない」
五条悟、夏油傑、そして九十九由基。
三人の戦闘を見たことはないが、まあ術式にしろ体術にしろそれ以外にしろ、間違いなく人間の枠を軽く超えた化け物なのだろうと思っている。
俺は自分を弱いとは思っていないが、人間の枠を超えているつもりはなかった。
「たとえ戦闘を見たことがなくても、特級術師である以上は俺より相当強いんだろうと思うし、そうあるべきだ。一級術師に一発入れられてしまう程度の強さなら、そもそも『特級』である必要がないと俺は思う。同じ一級術師の中でも強さの幅はあるんだ、その枠に収まらないほど圧倒的でないと『特級』の意味がない」
「……なるほど」
「やっぱり夏油さんも五条さんもすごいんですね!」
「ちなみに俺の知る限り、特級になるための条件に『性格』とか『人間性』はない」
「それは言われなくてもわかります」
食い気味で乗ってきたあたり、七海くんも相当苦労しているらしい。頭が痛そうに目頭を押さえている彼を見ると、さすがの俺も同情が芽生えた。特級のクズどものことは妹の愚痴程度のことでしか知らないが、とんでもなくめんどくさそうな人間性であることだけは察している。
思わず、まあ頑張れとその骨張った肩を叩いた。
「別に必ずしも先輩を尊敬しなきゃいけないわけじゃねーから」
「ええ、そのつもりです」
「僕、夏油さんは尊敬してますよ! 五条さんはしてませんけど!」
「五条くんは灰原くんにすら尊敬されてないのか……何かすごいな……」
「自業自得です」
そっか~、とわずかに遠い目をする。明朗快活という言葉が似合いそうなこの子にさえ「尊敬してない」と言わしめる特級のクズ、本当に何をしたんだ。呪術師にまともな人間がいないのは今さらだが、そこまで尊敬されないのもどうなのだろう。
いや俺もたぶん後輩には尊敬されてないから人のこと言えねーなとぼんやり後輩たちの顔を思い浮かべていたとき、クラゲさん、と元気のいい声に引き戻される。
「クラゲさんて普段も高専で研究してるんですよね?」
「ああ、君らがいるところと反対の棟に部屋がある」
「今度お邪魔してもいいですか? 見てみたいです!」
「灰原、」
「七海だってこれまでの任務の記録とか呪霊の情報とか見てみたいって言ってただろ?」
「……それは」
そうだが、と少し口ごもる七海くんも、どうやら興味はあるらしい。
俺の部屋に来てもモニターと散らばった書類があるだけなんだが、と反射的に言おうとしてやめる。研究の手を止めさせられるのは愉快ではないが、今後のために任務や呪霊の情報を見たい気持ちはわからなくはない。それに、好奇心だけでやっている研究ではないとはいえ、自分の専門分野に興味をもってもらえるのも悪い気はしない。何より、あのクソ爺どもに俺の時間を無駄にさせられた後だからなのか、彼らと接している時間を「浪費」だとは思わなかった。
「……事前に連絡入れてくれれば別に構わないよ。そんな面白いもんはないと思うけど、任務のデータも俺がもってる分は見せてやれる。呪霊についても少しはまとめてあるし」
「、ご迷惑では」
「俺は君らがいようといまいと自分のことやってると思うけど、それでもよければ」
「やった! じゃあ連絡先聞いてもいいですか!」
はいはい、とポケットから携帯を取り出した。
にこにこと顔全体で喜びを表現する灰原くんと、ちょっと嬉しそうな様子が隠しきれていない七海くん。いや本当、こんなに素直な子たちが呪術界を渡っていけるのかお兄さんは心配です。特級のクズたちを盾にしながら上手いこと生き残って欲しい。
二人と連絡先を交換して、そのまま携帯の画面に表示された時間を見る。ちょっとした立ち話のつもりが話し込んでしまった。ふたりはこの後の授業もあるだろう。
「んじゃ、俺は戻るから。ふたりも早く教室行きな」
「はい! また連絡しますね!」
「ありがとうございました」
お礼言われるようなことはしてねーぞと思いつつ、わずかに頬の筋肉が緩む。爺どものせいで最悪だった気分が、少し浮上しているような気がした。
ふたりに背を向け、そういえば、と首だけで振り返る。
「三日前の任務の報告書」
「、はい」
「よく書けてたよ。その調子でよろしく」
背中に受けたふたりぶんの返事が、妙にくすぐったい。
***
まさかこの部屋に、先客がいるとは思わなかった。
ノックをする前から聞こえていたよく響く声と、それを諫める声。そして相変わらずの、感情の揺れが感じられない平坦な声。
いつも深海のように薄暗くて静かな部屋に、日の光が差したかのようだった。
「……何、兄貴、塾でも始めたの?」
「あ、こんにちは家入さん!」
「お邪魔しています」
いつものごとく適当な差し入れを抱えて兄貴のところに顔を出してみれば、その床に座り込んで資料を漁っている後輩がふたり。兄貴は相変わらずモニターの前を陣取って、キーボードの上で指を踊らせている。
こちらに視線も向けることなく、おう、と相づちだけを返した。
「見ようによっては塾かもな。高専も少しは実地以外でも呪霊に関する授業を取り入れろってんだ。ついでに日本史とか宗教学とか」
「菅原道真が五条さんの先祖にあたるとは知りませんでした」
「というかそもそも道真って呪術師だったんだね! 知らなかったな~」
一枚一枚資料をめくりながら、後輩たちは感心したように頷いている。
いったいいつのまに兄貴と交流もつようになったんだこいつら、と思いながらもってきた食料を適当にその辺に置いた。ふたりがいるせいか、今日は書類が散らばっていなくて歩きやすい。
「兄貴が部屋に他の人間いれるなんて珍しいじゃん。どういう風の吹き回し?」
「知識が欲しい気持ちはわからんでもないってだけだ。俺も一年のときはそれなりに苦労したしな」
「へー? 夏油もここ来たいって言ってたけど連れてきていい?」
「ええ……めんどくさそう」
「一応研究に協力する気はあるらしいよ。あとアイツの場合、直接呪霊も見せられるからいいデータ提供できるんじゃないかって」
ああ呪霊操術……、と兄貴はぼんやりと呟いて視線を宙に浮かせた。夏油の相手をする手間や面倒と、見返りとして得られるデータを天秤に掛けているのだろう。私としてはどちらでも構わないが、何となく連れてきた方が面白そうなので、夏油を連れてくるならもれなく五条もついてくるとは言わなかった。
数秒考えて、兄貴は事前に連絡は寄越せよ、とだけ言ってまたキーボードを叩き始める。予想通りの答えにちょっと笑いながら、ハイハイと適当に返事をして白衣のポケットから煙草を抜き取った。こら、という言葉は聞こえなかったふりをする。
「何の資料見せてんの?」
「呪術界的日本史」
「何それ。公式資料?」
「いや、俺が聞きかじったことを学生のときにまとめたやつ」
「非常に興味深いです。日本史観が変わりますね、特に平安時代の」
「おいコラ兄貴、私それ見たことねーんだけど」
「お前別に歴史興味ねーじゃん」
まあ見たいなら勝手に見ろ、と分厚い紙束を渡される。
ぱらぱらとめくってみれば呪術師の目線から辿られる裏の日本史が丁寧に綴られている。歴史上のできごとの裏側で動いた呪術師や、使われた呪物のたぐい、ご丁寧に有力な呪術師家系の家系図までついている。よくこんなもんまとめたものだと思うが、これはひょっとしなくても外に出せない資料なのでは。
兄貴、と低い声で呼んでみれば、夜蛾には言うなよ、としれっと言葉を投げられた。何てもん後輩に見せてんだお前は。
「呪術師的には一般教養レベルの日本史。誰でも知ってることしか書いてねーよ」
「……本当に?」
「マジでヤバい部分はヒントだけ」
「お前ら読むのやめな。没収だ没収」
えー、と不満を訴える後輩どもの手から資料を抜き取る。兄貴が見せたのなら言うほど危ない資料ではないとは思うが、それでも万が一ということはある。特別可愛がっているつもりはないとはいえ、自分の兄のせいで後輩たちが上層に目を付けられるというのは気分のいいものではなかった。
そこまで過敏になんなくても、と相変わらずキーボードを叩く手を止めない兄貴は悪びれない。
「多少ヤバそうな部分も、俺が調べようと思えば調べられる程度の隠蔽しかされてなかったんだから大丈夫だろ。知ったところで何ができるわけでもねーし。せいぜいすでに地に堕ちてる呪術界への評価が地下深くまでめり込む程度だよ」
「クラゲさんて本当に呪術界嫌いなんですね!」
「好きになれる要素が残念なくらいなくてな。まあふたりも自分の目で見て確かめればいいよ、俺にとっちゃクズの集まりでしかないってだけだから」
嫌いだってのは俺の個人的な感情だ、とさらりと兄貴は言い、特に気にした様子もなく後輩たちも軽く返事をした。他人の感情は他人の感情として処理できている様子の後輩たちに、内心で胸をなで下ろす。もっとも、そうだとわかったからこそ兄貴も呪術界への嫌悪を隠さないのだろうけれど。
兄貴の指がいつもと違う動きを見せた。同時に、部屋の隅にあるプリンターが新しい紙を吐き出し始める。
「日本史没収されたし、別の暇つぶしやるよ。おおよそだけど、上級呪霊が生まれるきっかけになりやすい要因や感情についてのまとめ。仮説の域を出ないけどな」
「ありがとうございます」
「うーん、難しそう」
さっそく印刷された資料を受け取ったふたりは、目を通し始める。ついでに私も受け取って、紙の上に踊る文字や数字を辿っていく。これは以前に見たことがあった。
人間の負の感情を誘発し、漏出させ、果ては呪霊を生んでしまう、そういうもののリスト。上位にあるのは、やはり天災だった。
「ひどい天災が起きた翌年は呪霊の発生が多いと聞きますね。呪霊の発生には一年ほどかかるということなんでしょうか」
「いや、一年たって同じ季節が巡ってきたことで天災の記憶を呼び覚まし、改めて負の感情を漏出させてしまったって読み方もできる。そうとは言い切れないな」
「なるほど」
「こうして見ると、人的な事件とか、そういうのってあんまり上級にはならないんですね。今だとすぐニュースで広まっちゃうからたくさん負の感情を生んでしまいそうですけど」
「まあ、それはあくまで傾向としてのデータだから例外はあるし、こっちで捕捉できてないだけかもしれないけどな」
だが、と兄貴はキーボードを叩く手を止めて少し考える。
ちらりと私や後輩たちの顔を見て一瞬考え、まあいいかと口の中だけで呟いて続けた。
「これはデータと俺の経験則からくる所感で、ちゃんと数字で証明はされてないけど」
仮に、口にするのもおぞましい陰惨な事件があったとしよう、と兄貴は言った。たとえば、ひとを殺すことを何とも思わないやつが、幼い子どもたちをいたぶり殺してしまうような、と。
そのたとえだけで、灰原も七海も嫌そうに顔をしかめた。その善良さにほんのわずか苦笑した兄貴は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ニュースでその事件が報道されれば、そりゃ日本中で相当な負の感情を生むことになるだろうな。よくある例としては、事件が起きた現場で被害者が漏出させてしまった恐怖や苦痛を核に、事件の報道によって生まれた他者の負の感情が積み重なって呪霊となるケースだな。犯罪者への嫌悪や憎しみ、被害者への憐憫や悲哀、その全部のために呪霊が発生したとする。さて、この呪霊の強さはどの程度か?」
「日本中で負の感情を発生させるわけだから……一級くらい?」
「一級か、準一級か。相当の等級な気がしますが」
ふたりの言葉を聞いて、ふむ、と兄貴は頷く。それから私に目をやって、硝子はどう見る、と言葉を促された。私にまで聞くのかよ、とちょっと面倒に思いながら、今までの任務で見てきた呪霊を思い返す。
私の答えは、二人とは違っていた。
「……三級か、せいぜい二級? 一級は行かない気がする」
「お前あんまり任務行かないわりにちゃんと見てんだな。正解」
「うるせー」
「え、」
「そうなんですか?」
あくまで傾向の話な、と兄貴は繰り返すが、本人はわりと確証をもっている様子だった。またモニターに向き直り、画面を走る数式をぼんやりと眺めている。
「せいぜい二級にしかならないのは、どれだけ陰惨だろうがいつの時代にもよくあるただの殺人事件に過ぎない、というのも理由のひとつだろう。ニュースでどれだけ騒がれようと、他の大ニュースが報道されれば感情の矛先なんてすぐに変わるし。だが、俺はそこにもうひとつ仮説をもってる」
「というと?」
「あえて極端な表現をするが、その事件に対して大多数の人間が抱く『犯罪者への感情』と『被害者への感情』は、どちらも自分から見て『格下』への感情だ」
だってそうだろ、と兄貴は背もたれに深く背中を預ける。ぎしり、と椅子がにぶい悲鳴を上げた。
「自分より悪いやつに向ける感情。自分より可哀想なやつに向ける感情。そのどちらの感情にも、少なからず相手を見下す気持ちが含まれていると思わないか? 見下すってことは、相手を自分より弱い、劣っていると判断しているってことだ。そんな気持ちが形をなした存在が、強いわけねーだろ」
まあ二級呪霊が強いか弱いかって議論はさておいて、と兄貴はモニターから目を離さずにひらひらと手を振る。
人間から漏出した感情を基盤に生まれる以上は、人間の認識を反映していてもおかしくない、と兄貴は私がもってきた紙袋をごそごそと漁る。中からふざけて入れたポップなパッケージの飴の大袋を見つけ、胡乱な目を私に向けつつそれを開けた。適当にとったひとつの包装を開けて、紫色の粒を口に放り込む。
「格下へ向ける感情よりも、格上に向ける感情をもとに発生した呪霊の方がイメージ的にも何か強そうだろ。実際、そこのデータでも上位に上がっている天災──大自然だって、そういう存在だ」
俺が祓ってきた呪霊にもそういうやつはわりといるけど、と兄貴はころりと口の中で紫を転がす。
「恐怖より畏怖。恐れよりも畏れ。人間なんかじゃ敵うわけがないと思う、一種の敬意とも言える感情。それが根底にある呪霊は、たいてい厄介だよ」
ときに人が「神」と呼ぶもの。人智を超えた存在だと、見なしてしまったもの。この場合、その存在の良い悪いは問題ではない。
人間では手の届かない存在だという「認識」や「定義」も呪霊に力を与えてしまうのではないか、と兄貴は言う。
「大自然とか神とか、それに紐付いた信仰とかな。信仰は人間の欲も含んでいるからなのか、強いっつーか姑息でめんどくさいタイプも多い。任務で遭遇した呪霊にわずかでもその気配を感じたら、まず逃げろ。少なく見積もって一級以上の可能性が高い」
生きてさえいれば、次がある。応援を呼ぶことも、さらに強くなる努力をすることもできる。背中を向けることは決して恥ではないと、いつもと変わらぬ声で兄貴は言った。
その横顔には特に何の感情も浮かんでいない。あくまでも平坦だ。けれど、その言葉は何故だかやけに重かった。
いくつもの修羅場をくぐってきた人間の、言葉だった。
「俺だって自分の手に負えないと思ったらさっさと逃げる。死んで得られるもんなんか何もねーからな」
「……すんごい兄貴らしいけど、それ迷わず出来るやつ少なくない?」
「何で? 逃げ切ったあとに応援でも呼んで、俺より強いやつが行って片付ければいいだけだろ。適材適所、やれるやつがやればいい」
代わりに俺は、俺にしかできないことをやる。
そう言って兄貴は、またキーボードに指を走らせた。これこそが自分にしかできないことだと、そう言うように。
黙って話を聞いていた七海が、クラゲさん、とどこか囁くように呼んだ。兄貴は返事をせずに、キーボードを叩き続ける。しかし、ちゃんと耳を傾けているのは雰囲気でわかった。七海は、そのまま続ける。
「貴方がそう迷いなく言い切れるのは、以前からですか? それとも、……」
その続きを、七海は言わなかった。言えなかった。そこまで口に出した七海は恥じるように俯いて、すみません、と小さく口にした。灰原は、何も言わずに口を真一文字に結んでいる。そんな顔を見るのは、珍しかった。
兄貴はふとキーボードから手を離し、こきりと肩を鳴らす。そのまま首だけで振り向いて、珍しくわかりやすい笑顔をつくった。
きっとそれは、七海のために。
「昔からだよ。そういう性分なの、俺」
任務で命を擲つ仲間を見送ってきたからだとは、言わなかった。
***
「……甘すぎるな」
「何、飴なんだから甘いのは当然じゃん」
「誰が飴の話をしてんだよ。あのふたりの話」
特に七海くんは、と確かに甘すぎる飴をかみ砕いた。紫色だったからグレープ味なのだと思うが、妙に舌に残る甘さだ。それを振り切るように、手近にあった珈琲を喉に流し込む。
あのあと部屋を後にしたふたりは、何となく気まずそうな顔をしていた。俺の機嫌を損ねたとでも思っているんだろうか。生憎と俺はそんな繊細な精神を持ち合わせていない。
「人を気遣えるまともな人間に呪術師が務まるわけねーだろ。呪術師舐めてんのかって感じ」
「ははっ褒めてんだか貶してんだかわかんねー」
「このうえなく褒めてんだろうが。呪術師なんかそれしかできねークズがやりゃいいんだよ」
「ああ、あの最強どもみたいな」
「あんなわかりやすい呪術師の鑑が身近にいんのにな……」
尊敬できない先輩たちが特級に上り詰めている時点で、ちょっとは察しろというか。自分らに適性がないことに気づけというか。
これまでの様子と報告書を見る限り、頭は悪くないし、筋も悪くない。特別強力な術式を持ち合わせているわけではなさそうだが、フィジカルを鍛えて呪力操作を叩き込めば相応の術師には育つだろう。特級術師に稽古をつけてもらえるという最高の環境もある。
問題は、この血なまぐさい世界に適応できるかということだ。
「……そもそもこの世界に馴染む必要なんかねーんだよ。おかしいのはこっちなんだから」
「本人たちに言えよ。私に言うな」
「うるせ」
もはやただの愚痴だというのはわかっている。第一、彼らが呪術師として生きようが生きまいが、俺に関係はないし気にしてやる義理もない。生き残ろうと、死のうと、どうでもいいと自分に言い聞かせる。言い聞かせている時点で、もうアウトな自覚はあった。
だってまさか、呪術高専にあんなまともな生徒が入学してくるとか思わないだろ。思わず深いため息をついて、眉間の皺を自分で伸ばした。
そんな俺をにやにやと見つめる可愛くない妹は、一服すれば、と俺に煙草のケースを向ける。いやそれ俺のポケットから盗ったやつ。
「気になんなら諦めて面倒見てやれば? その方が生き残る可能性高まるかもよ」
「何で俺が。教師でもなければ暇でもねーよ」
「さっきまで教師より教師ぶってたくせに何言ってんの。あのふたり、兄貴の研究成果も真面目に聞いて任務に活かす気みたいだし。七海も灰原もどっちかっつーと体術メインなんだから、そっちも見てやればいいっしょ。メンタル面はどーしよーもないけど、話聞いてくれる人間がいるだけで違うこともあるかもだし? 兄貴の研究に貢献してくれること考えれば、それくらい投資してやりゃいいじゃん」
簡単に言いやがって、と頭の痛い思いをしながら、差し出されたケースから一本抜き取った。手の中でライターの火花が弾ける。
いつもなら極力精密機械の傍では吸わないようにしているのだが、少しくらいなら構わないだろう。吸い込んだ煙はいつもながらクソ不味いが、それでも精神安定の効果はあった。真上にむけて細く煙を吐き出すと、それは天井近くでゆらりと渦を巻いて消える。
目を閉じると、脳内で灰原くんの言葉が繰り返された。
『皆無事なほうがいいですもんね』
あの朗らかな笑顔で、何の気なしに放たれた言葉。だけど、本当に、その通りだ。皆、無事の方がいい。帰ってきてさえくれれば、情報をもらえる。対策が立てられる。傷だって、ある程度は癒えるだろう。身体の傷も、心の傷だって。何度だって、人間は立ち上がれる。
そう、生きて帰ってきてくれさえすれば。
「……硝子」
「何?」
顔を正面に戻して、目を開く。煙草を灰皿において、飴の大袋をひっつかんだ。甘いものは嫌いではないが、甘さは控えめな方が好みだ。それを知っているくせに買ってきた妹に、その袋を突っ返す。
「これもういらねーから誰かにやっといて」
「せっかく買ってきてやったのに」
「ふざけて買ってきたくせに何言ってんだ、だいたいこんなに食い切れねーよ」
後輩にでもわけてやれ、とそう言葉を続ければ、またにやりと妹が気色の悪い笑みを見せる。その悪い笑顔が見ていられなくて、顔を無理矢理モニターに戻した。改めてキーボードに指を走らせるが、動揺のせいかタイプミスが続く。
まったく、これだから慣れないことはするもんじゃない。
「今日のことは気にしなくていいし、いつでも遊びに来いって兄貴が言ってたって伝えといてやるよ。は~私ってばマジで気の利く優しい妹じゃん? オラまだ煙草あんだろ兄貴、出来のいい妹に感謝とともに差し出しな」
「どこの取り立て屋だよクソ妹。あ~も~お前そういうところマジで俺に似るなよな」
クズ兄貴の妹なんだから仕方ない、と笑った硝子は飴の袋を受け取り、小脇に抱える。そのまま自分も、煙草を一本くわえて火を付けた。
「七海も灰原も兄貴に懐きそうだよね~。あ、もう懐いてるか」
「何でだよ。何もしてねーわ」
そういうところだよ、と笑う可愛くない妹の煙草を奪い取って、そのまま灰皿に押しつけた。あっと手を伸ばす硝子を押しとどめ、その額にでこぴんをひとつ。額をおさえて痛みにもだえる妹に、お兄様をからかおうなんざ百年早い、と軽く笑う。
涙目で俺を睨む硝子は、絞り出すように言った。
「……明日にでも夏油と五条連れてきてやる……」
「それはやめろ」
***
海月の囚われる深海に、柔い陽射しがひとつふたつ。