――それは
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高専に入学して、まず言われたのは「そっくり」。
まあいつものことと言えばいつものことで、何せ顔の造形が本当によく似ているらしい。自分ではよくわからなくとも、これほど言い続けられれば理解くらいはする。
それから言われたのが「仲が良い」ということ。
喧嘩せずに普通に会話するくらいの距離感なのにそれを言われるのかとは思ったが、世間一般では兄と妹はあまり会話をしないものなのかもしれない。ほぼふたり暮らしの状態が長かった私たちは会話をせずには生活が成り立たないのだから、それは仕方がないだろうと思う。
さらにこっそり囁かれたのが「あの家入海月も妹には甘いのか」だった。
「だから兄貴ってばどんな血も涙もないやんちゃしてたのかなって。まさか歌姫センパイいじめてたとは思いませんでしたけど」
「はは、それについては海月も本気で反省してるから水に流してやれ。歌姫も気にしてなかっただろう?」
「歌姫センパイ寛大すぎません? というか学長、担任のくせに何もしなかったんですか」
「それを言われると俺としてもつらいんだが、歌姫のほうが譲らなくてな。絶対に自分の力で海月の顔に一発キメてみせるから余計なことはしないでくれと」
「うわセンパイかっこよすぎ」
今日の高専は珍しく静かだった。カルテの整理を順調に終えて気分良く伸びをしていると、ふと窓の外に見えた真っ黒の影。机に縛り付けられていることのほうが多い学長が、しかも高専のなかでもあまりひとのいない方向へと歩いていく姿だった。
暇ついでに窓越しに声を掛けると、散歩のようなものだというから気まぐれに誘われてしまった。少し日の傾いてきた時刻でも、少し前まであった冬の冷え込みはない。そういえば春も近いのか、と強い風に煽られる髪を手で押さえた。
「硝子にとってはああいう海月が普通なんだろう?」
「……まーそうですね。シスコンなんで」
「はは、俺もご両親から話を聞いていなければ意外だと思ったかもしれないな」
「え、うちの両親知ってるんですか」
あの超がつく自由人夫婦、できるだけ知り合いには会わせたくなかったのだがさすがにそうもいかなかったらしい。一度実家にお邪魔したぞっていつの話だ聞いてない。
「海月が入学した年の夏休み前くらいか。特殊な学校だし一度お話をと言ったらご両親揃って迎えてくれてな。いろいろと話をさせてもらった」
「……大丈夫でした?」
「何がだ?」
「いえ、うちの両親、ひとの話聞かないのがデフォルトなんで」
そんなことはなかったぞと返されたが、一瞬目をそらされたのは気のせいではない。やっぱ何かやらかしたかとつい遠い目をする。
別に両親を嫌いということはないが、とにもかくにもキャラが強くて常識を知らない。
「いや、まあ、良いご両親じゃないか。あそこまで我が子を信頼しているのも珍しいと思うぞ」
「そりゃじゃなきゃ幼い子どもふたりほっぽって仕事に没頭なんかしないでしょうね」
「……あまり仲は良くないのか?」
「いえ? 確かにあんまり家に居なかったですけど、別にネグレクトされてたわけではないので」
今にして思えば、本当にただ兄貴を信頼してのことだったのだと思う。
昔から兄貴はずっとあんな感じだったらしく、私が生まれた頃にはすでにただの四歳とは思えないほどの落ち着きぶりを発揮していたらしい。しかも父よりも先に私のあやし方を覚え、母よりも先に私の夜泣きに対応してみせたというのだからお前はいったい何なんだと。
『海月、無駄なことは意地でもしない子だったけど、硝子のお世話はいつだって進んでやってくれたのよねえ』
『しかも硝子の成長見るのが楽しいみたいなんですよ。妹を可愛がる姿が微笑ましくて』
そう言ってにこにこ笑っていたのだという。
何でも兄貴に任せていた教育方針の是非はさておくにしても、学長に何喋ってんだよオイ両親。たぶんそれを聞いたら「喋りたかったから」とか平気で言うひとたちだということくらいは理解している。
しかし兄貴、いったいいつからシスコン拗らせてんだ。そんな気持ちが顔に出ていたのか、学長はまた肩を揺らして続けた。
「さすが研究を生業にされている方というか、ご両親は言葉の表現が面白いな。何だったかな、お前が生まれたときの話で、……『硝子が生まれたときに、人間としての海月も生まれた』と」
「……はい?」
春特有の強い風が流れる。どこからか樹を離れた葉が目の前を横切った。
これは海月には秘密にしておいてくれよ、と面白そうに学長は言う。
「本当に落ち着いた子どもだったそうだな、海月は。泣きもしなければ笑いもしない、だが言葉を覚えるのは非常に早い子だった、と」
それは聞いたことがあった。両親は脳の発達がほかの子に比べて早いのだろうとたいして気にしていなかったそうだが、周囲にはかなり奇異の目で見られていたらしい。あの両親でなければ病院にでも連行されていたかもしれない。
『高速演算だったか? 術式の話を聞いて納得しかなかったな!』
『だからきっと情緒より知能が優先的に発達したのねって』
兄貴の術式について知っても普通に納得するだけだったというのだから、うちの両親のぶっ飛び具合が知れようというものだ。
どこまでも海月らしい話だが、と学長は感慨深げに続けた。
「生まれたばかりのお前と顔を合わせたときの海月を見て、ご両親は感動したんだと仰っていた」
両親曰く、私を視界に入れた途端、兄貴の無表情にじわりと赤みが差したのだと。
おそるおそる手を出すと、反射的にきゅっと掴む小さな指。小さな生命の存在を理解するにつれて、感情をうつさなかった瞳が緩やかに見開かれていく。
『……いもう、と?』
まるで、その言葉の本当の意味を初めて知ったような。
そうだよ、と微笑ましげに見つめる両親に構うことなく、じっと私を見つめていたという兄貴。一緒にお世話しような、という父の言葉に、兄貴はようやく顔を上げる。
『……うん』
頷きながら、ふにゃりと緩んだ頬。それが兄貴の初めての笑顔だったという。
『名前はね、みほしにしようと思うの。海に星って書いてね、』
『それはまって』
そこですっと真顔に戻ったらしい、と遠い目で言う学長に目眩を覚えた。兄貴、いやお兄様、まじでありがとう。おかげであだ名が「ひとで」にならずに済みました。
「いや、まあ名付けについては蛇足だが、……海月が初めて情動を表に出した瞬間だったそうでな、海月が『ヒト』から『人間』になったのはきっとそのときだと仰っていた。だから、海月が硝子を大事にするのは当然なんだそうだ。硝子は妹であると同時に、」
自分の心そのものだから、と。
また強風が通り過ぎていく。今視界の端で飛んでいったのは何かの花びらだろうか。雪が解けたとは言えまだ肌寒いというのに、確かに春は訪れているらしい。
学長の言葉を咀嚼し、胸に落とし込んだ。
同時に駆け上がるこの感情は、言うなれば、そう、
「……学長」
「何だ?」
「おっっっもいんですけど何ですかあのクソ兄貴、まじドン引き」
学長はぶふっと顔を背けて噴き出したが、さすがに笑いごとではない。
いやシスコンなのは知っていたし、私に甘いのなんて今さらの今さらだ。その程度でビビるつもりはもはやないが、いったい私の存在に何を見いだしてるんだクソ兄貴。兄貴の心とか人間性とか、おおよそひとに任せるべきじゃないものを私に背負わせないでほしい。
ひとしきり肩を揺らした学長はあくまでもご両親の考えだからと軽く手を振るが、いやそれでも知りたくなかった、気まずいにもほどがある。
「とまあそういう話を聞いていたので、お前に甘い海月を見ても俺は特に驚かなかったという話だ。確かに驚いているやつは多かったがな」
海月の人間らしさはわかりにくいから、と歩く学長の足は思いもしない方へ向けられた。呪霊を祓うために命を賭し、遺体の引き取り手のいなかったひとびとが眠る場所、集団墓地のある方向だ。散歩にしても気軽に立ち寄るような場所じゃない。
学長、とつい声を掛けるが、少し付き合え、と学長は足を止めない。
「……海月には秘密だぞ」
さっきも同じ台詞を聞いたが、声色はまるで違っていた。それだけで悟る。この先に、眠っているのは。
ささやかな墓石は比較的新しい。管理の職員がいると聞いているから、きっと丁寧に手入れをしてくれているのだろう。ほかのお墓同様、綺麗に整えられていた。
幼い子と視線を合わせるように、学長は墓前で膝を折る。
「硝子に会いたがっていたよ。海月が気に掛ける妹はどんな子だろうって」
そっくりと聞いてさらに会いたがっていたな、という軽い言葉に無言を返す。何と返したらいいのかわからなかった。
きっとここに眠っているのは、兄貴にとって大事なひと。
私の話をする程度には心を許し、そして今は忘れてしまったひと。
どんな子だろうって、それはこっちの台詞だ。高専に入る前も一応のひと付き合いはしていた兄貴だが、基本的に広く浅く。私の知る限りでは特定の親しいひとをつくることなどなかったと思う。
そんな兄貴と親しく付き合っていたひととは、いったい。
「……どんな変人だったんですか?」
限りない本心に、しゃがみ込んでいた黒い影がかくりと脱力した。
「……否定はせんが、もう少し何かないか、硝子」
「すみません、根が正直で」
「まあ今の台詞を聞いて『それでこそ海月の妹』と腹を抱えて笑うようなやつだな」
「変人じゃないですか」
「仕方がないだろう」
海月の親友だぞ、と。返された言葉が、重い。
墓石から目をそらさないまま立ち上がった学長は、懐かしむように続けた。
「仲が良かった。悟と傑を見ているとよく海月とこいつを思い出す」
「……クソガキ二匹じゃないですか」
「クソガキだよ。何度正座させたかわからん」
それで反省するほど殊勝でもなかったがな、とそっと両手をあわせた学長。私もそれにならって手を合わせ、目を閉じた。
初めましてナントカさん、と何となく心の中で語りかける。
私が海月の妹の硝子です。そっくりらしいですが顔は似ていますか。
あんな兄貴と仲良くしてくれるなんて、貴方もとんだ物好きですね。
学生時代の兄貴はどうでしたか。何を話しましたか。喧嘩とかしましたか。
私も、――私も、貴方と会って話してみたかった。
一緒に酒でも飲みながら、兄貴の昔話のひとつくらい語ってみたかった。
きっと、最高に楽しかっただろうに。それが残念でなりません。
自己満足に過ぎない言葉を終えて、目を開く。すでに学長は手を下ろしていた。随分長く話しかけていたんだなと言い当てられて、ふっと口元が緩む。
「兄貴の悪口で盛り上がりたかったですねって話を」
「それはいいな。海月が真剣に嫌がりそうだ」
「最高じゃないですか」
そっと、名前も知らないそのひとに背を向ける。名前を聞く気にはならなかった。たぶん、知らないままでいいこともある。
強風に背を押されるように足を進めながら、墓地を離れたところでぽつりと言葉が落とされる。
「……付き合わせてすまなかったな」
「いえ、暇だったんで」
それからしばらく無言のまま、校舎に向かって足を進める。それは気を使うような沈黙ではなかった。きっと思い出に浸っているだろう、いつもより足取りが遅い。
何となく視線を下げる。雪解けしたあとの土は、水の匂いが強い。
「……学長」
何を言うつもりもなかったのに、私の口は勝手に動いていた。
慰めのつもりはない。弔いのつもりもない。ただ私がそうしたいと思うから。
「兄貴のかわりに、私が覚えておきます」
家入海月の親友が、今も高専の片隅で眠っているということを。
そうか、と応えたサングラスの奥の瞳が切なげに細められたような気がした。