「何でちゃんとデータ化しといてくんないの? 探すの大変なんだけど」
「学生時代に書いたもののデータ化は気分でやってんだよ。文句があるなら他あたれ」
んもーとか言いながら口を尖らせる特級クズ、率直に言って気持ち悪いので可愛い子ぶるのはやめてほしい。
奇跡的に高専の教師を続けている五条は、たまにこうして学生たちのために必要な資料をあさりに来る。五条曰く「まじで資料がないとわからない子っているんだね、作るのメンドーだし助かる~」とのことだが、勝手のわからない資料の山から目的のものを探し出すほうが面倒だと思うのだがどうだろうか。まあ五条の頭にある知識は五条家にとっての「公式」に偏っているだろうから、他家の視点を含めた資料が欲しいということなのだろう。
部屋の隅に積まれたファイルやノートには、俺がこれまで聞きかじったすべてが書き留められている。俺からすれば別に書き出す必要はなかったし、今も残しておく必要はないのだが、何となく捨てられないままだ。ちなみにどの山のどの資料を五条が探しているのかも当然覚えているが、そこまで協力してやる義理はないので教えてやらない。
「あれ? クラゲさん、何かクラゲさんの字じゃないやつ混ざってるけど」
「俺のじゃないやつ?」
振り返ると、これ、と五条が一冊のノートを掲げていた。古ぼけた水色のノートは見覚えがあるようでない。いや違う、知っているけれど思い出せない。記憶の海からその情報を引き出そうとすると、まるで重しを付けたように海の底で動かない「何か」。俺の脳が、思い出してはいけないと叫んでいる。
「しかも中身、何これ魚のスケッチと解説? うわ、後半ほとんどクラゲだし」
めちゃくちゃスケッチ上手いけどさ、と五条が開いたページの上を泳ぐ海の生き物たち。鉛筆で丁寧に描かれたそれらはどれも高専から一番近い水族館で展示されている種類だ。スケッチのそばに添えられた解説にも何となく引っかかるものがある。きっとそれは、俺ならそう解説すると思われる内容ばかりだからだろう。
脳の奥でぽた、と滴の落ちる音が聞こえた。胸に響く心音がうるさい。
何も思い出せないが、思い出せないことが答えだということはわかる。確かにそれは俺の字ではなく、そのノートは俺のものではない。ここから一番近い水族館にいる海の生き物のスケッチ、俺が解説しただろう内容、それを丁寧に書き留めたノート、思い出せないくせに懐かしいという感情。涙など流れてはいないのに、頬に冷たいものが流れる感覚だけが蘇った。そう、「蘇った」と俺は捉えた。
俺は記憶にある限り、涙を流したことなど一度もないはずなのに。
「……クラゲさん?」
どしたの、と首をひねる五条の手からそのノートを取る。一文字一文字刻まれるように書かれた字には、几帳面な性格がにじみ出ていた。
パラパラとページをめくっていくと、最後のほうのページの隅に解説とは違う内容のコメントを見つけた。薄く印刷された罫線を無視して走る、ちょっと雑な字だった。
『たぶん、海月の一番のお気に入り』
そのページに浮かぶクラゲは、確かに俺がよく眺めている種類の。
く、と喉の奥が揺れる。そんなこと誰にも言ったことはないはずだが、どうやらこのノートの持ち主にはバレていたらしい。
なになに、と相変わらず五条は愉快そうにそんな俺の顔をのぞき込む。
「思い出し笑い? やだクラゲさんてばむっつりすけべ~」
「言ってろよ。五条、これ戻しといて」
閉じたノートを返すと、ふーん、とそいつは興味深そうにノートを眺める。そしてからかうような色を引っ込め、少しだけ柔らかい声で、言った。
「仲、良かったんだ?」
――仲が良かったかって? 存在を覚えてもいないのにわかるわけがない。でも、わかる。我ながらひどい矛盾だが、わかってしまうのだ。
仲が悪かったら、こんな古ぼけたノート捨てもせずに持っているわけがない。
仲が悪かったら、俺の解説どころか好みまでノートに書き留めるわけがない。
何も覚えていなくても、ちりばめられた事実が語っている。このノートの持ち主が、俺にとってどんな存在だったのか。
五条の問いには答えずに背を向ける。クラゲさんてば照れ屋さ~ん、なんて言葉が聞こえてきたが軽く無視をした。俺はお前の安い挑発に乗るほどガキじゃありません。
え~~~~~と精神年齢が六歳から成長しないクズは椅子の背もたれに手を置く。
「いーじゃんクラゲさん、ちょっとくらい昔話してくれたってさ」
「お前に昔話して俺に何の得があるんだよ」
「娯楽に損得を求めるなんて野暮って言われない?」
「ひとの昔話を娯楽と言い放つやつに言われたかねえな」
教えて~~~~~とガタガタと背もたれを揺らし始めたクズに舌打ちをして、仕方なく振り返る。
思いのほか近いところにあった黒の目隠しは相変わらずだが、やはり今日の五条は何となくおふざけの色が薄いような気がした。何となく、目隠しの下の六眼は柔らかく細められているように思える。
まあ一言で言うと「何か綺麗な感じの五条ってこんなにキショいのか」が俺の感想なわけだが、そこは特級クズの日頃の行いなので仕方がないと思う。
それで、と五条は言葉を続けた。
「誰なのこのノートの持ち主は。どういうひとだった?」
抽象的が過ぎて答えにくい問いに、ついため息が出る。
誰と言われても顔も名前もわからない。たぶん夜蛾ならわかるのだろうが、わざわざ確かめる気もなかった。この呪いは解いてはならないと俺の脳が告げている。
だから、俺に言えるとすればせいぜいこれくらいだろう。
「そいつは俺の、――」
お付き合いありがとうございました。