「夏風邪は馬鹿が引くらしいな」
「それ、科学的根拠あるんですか?」
知らん、と不機嫌そうに答えたクラゲさんは、いかにも仕方なさそうに冷感シートを取り出し、私の額に押しつけた。じんわりと広がる冷たさが心地いい。窓から流れ込むゆるやかな風が、わずかにカーテンを揺らしていた。
数年ぶりに引いた風邪はなかなかに堪える。自己管理くらいできているつもりだったが、甘かったらしい。間違いなく原因は数日前に片付けた任務だろう。そう強力な呪霊ではなかったが、とにかく天候に恵まれなかった。豪雨の中を数時間走らされ、そのまま被害者の救助にあたっていれば身体も冷える。結果見事に熱を出してしまった私は、悟にさんざん笑われ、硝子にため息をつかれてしまったというわけだ。元気になったら悟は殴る。
大人しく寝てろ、と薬をくれた硝子は大学編入に向けた手続きのために今日は不在。一通り私をからかい通した悟は代わりに任務に飛んでくれて、後輩たちも今日は別件で外に出ている。そして夜蛾先生は会議だか何だかで京都に飛んでいるらしい。
風邪くらい寝ていれば治るからひとりで構わないと言っているのに、妙に心配したがった皆はこのひとを引きずり出した。
何で俺が、と顔全部で語っているクラゲさんは、硝子が出した薬の説明書きを丁寧に辿っている。
「看病しないと部屋の機材全部ぶっ壊すって脅されてんだよこっちは。俺だってやりたくてやってんじゃねーわ」
「本当にただの風邪なんですけどね……」
「滅多に倒れないやつが倒れてビビったんだろ。夏油、食欲は?」
「……少しなら」
「食欲がねー時点でそこそこ重症。かゆでも作ってくるから寝てろ」
「え、作ってくれるんですか? 卵入れてください」
ため息交じりにハイハイと言った背中に少し笑って、ドアが静かに閉まる音を聞いた。
得意料理がオムライスという噂は聞いている。おかゆ程度で失敗することはないだろう。野郎の手作り料理を楽しみに待つなんて、と自分自身に笑えてくる。
いまだ重い身体をベッドに沈めて、力を抜いた。熱いのに寒いという訳のわからない感覚が気持ち悪い。これはまだ熱が上がりそうだ、とむりやり意識を奥底に沈めていく。とにかく休息をとって、はやく治さなければならない。
しかし、体調の悪いときというのはたいてい良い夢は見られないものである。
沈んだ意識の底に広がる、完全な暗闇。何にも触れている感覚はないのに、まるで泥の中にいるように身体の動きが鈍い。息を吸ってもうまく肺が広がらず、妙に息苦しい。落ち着け、と自分に言い聞かせる。嫌な汗が身体中を伝うのを感じた。いや、汗だけではない。ずる、と何かとても嫌なものが身体を這っていく。蛇のような、人の腕のような、何かとても気持ちの悪いもの。そういえば雨の中で取り込んだ呪霊がこんな感じの、と思ったところで怖気だった。体内で呪力が暴れている。
いや、たいした呪霊ではなかった。等級も、能力も、私にとっては何の問題もない程度のものだった。第一、取り込んだ呪霊はすべて私の支配下だ。こちらの意志に反して動くなんてことは有り得ない。
冷静になれ、呪力をコントロールしろ、と自分に言い聞かせるほどに、思考は焦りに支配される。自分の心臓の音が大きく聞こえる。落ち着け、大丈夫だ、問題ない、と言葉を重ねても消えないそれ。思考が黒く塗りつぶされていく。このままでは、と弱気な思考に走りかけたところで、自分のものではない呪力を傍に感じた。
めしゃ、と何かが潰れる音がして目が覚める。身体のなかの何かがひとつ減った感覚がした。目を開けた先では、小鍋をもったクラゲさんが壁に向けて足を伸ばしていた。
「お前な、いくら熱あるからって寝ぼけて呪霊出すなよ。あぶねーだろ」
「……呪霊、出てましたか」
「反射的に潰しちまったわ。アラート鳴る前で良かったけど」
ったく、とクラゲさんはベッド脇に小鍋を置いた。身体を起こすと、クラゲさんはかぱりとその蓋を開ける。ふわりとやさしい湯気が顔に当たった。
「食えるか」
「……はい」
食えるだけでいい、と差し出されたレンゲを受け取って、柔らかい黄色のそれを少し口に入れる。熱で馬鹿になった舌でも、わずかに味は感じられた。
「……美味しいです」
「ほとんど味付けしてねーよ。味覚やられてんな」
「感想くらい素直に受け取ってくれませんか?」
「俺にとっちゃ他人の評価より自己評価のが重要でな」
まあ食えるなら何でもいいわ、とクラゲさんはベッドサイドの椅子に適当に腰掛けた。
潰された呪霊の残滓はもうどこにもなく、かすかな残穢だけが壁に残っている。それもすぐに消えるだろう。
「何だよ、潰したらまずい呪霊だったか?」
「……いえ。たいした呪霊ではなかったのでそれはいいんですけど」
変な夢を見たので、とおかゆを飲み込みながら言えば、クラゲさんは特に気にした風もなく熱のせいだな、と断定した。心配してほしいとも興味をもってほしいとも言わないが、本当にこのひとは興味のないことには徹底的に無関心だ。もはや会話に付き合ってくれるだけ優しいのかもしれない。そう思うと、どこまでくだらない会話に付き合ってくれるのか試してみたくなって、つい好奇心で続けた。
「クラゲさんって夢とか見るんですか?」
「お前な、ひとをアンドロイド扱いすんのやめろっつってんの」
「え、見るんですか」
「そこで驚いた顔してんじゃねーよ」
苦い顔のクラゲさんが面白くて、しかも意外と会話に付き合ってくれることに驚いて、そのまま続ける。
「ちなみに最近見た夢は?」
「……。……木陰で昼寝してたな」
「夢の中で寝てるんですか」
ぽつぽつと、意味なんてまったくないくだらない会話を続けていく。
クラゲさんは確かに自覚のない世話焼きだが、面倒な言葉や意味のない問答は黙殺することも多い。それを考えれば、今日のクラゲさんはかなり付き合いが良かった。
食べきれるか自信のなかった小鍋の中身が、少しずつ減っていく。
「ひとの看病するのは慣れてるんですか?」
「いや、硝子も滅多に風邪なんか引かなかったからな。倒れるのは俺のが多かったし」
「へえ、それは意外」
「呪力切れだよ」
「ああ、なるほど。無自覚で術式つかってたんでしたっけ」
どうでもいい話だ。本当に、意味のない話。いつものクラゲさんなら機嫌が良くてもせいぜい相槌しか打ってくれないような、それくらい生産性のない話。面倒くさそうな顔をしながらも、私が食べ終わるまでクラゲさんは話に付き合ってくれた。
ごちそうさまです、と空になった小鍋を見せると、ああ、と軽く声が返される。一応という風に体調も確認されたが、吐き気や腹痛がくる様子はなかった。そう伝えれば、なら大丈夫だな、とクラゲさんは小鍋を片付け始める。
手際よく洗い物をまとめる手つきに、何故だか実家の空気を思い出した。そんな自分に少し呆れながら、つい、ちょっとした出来心が口をついて出る。
私は一人っ子で、それを寂しいとか、兄弟が欲しいとか思ったことはなかったけれど。
「クラゲさんみたいな兄だったらほしかったかもしれません」
こんな唐突な言葉にも、クラゲさんは片眉を上げるだけ。不審そうに私の顔を見て、言った。
「そうか。俺はお前みたいな弟絶対にごめんだな」
予想通りの答えはなかなかに腹筋に来る。その容赦のなさが心地いい。
「ひどいなぁ。あ、自分より強い弟がいたら立場がないからですか?」
「お前マジでそういうとこだからな」
ひとに喧嘩売ってる元気があるならとっとと薬飲んで寝ろ、と水のはいった湯飲みを押しつけられた。硝子が用意してくれた粉薬のパッケージの傍には、いつのまにか口直しの飴が用意されている。
いったい私を何歳だと思っているんだと思いつつも、貴方こそそういうところですよ、と肩が揺れた。
呪霊の扱いが完全に虫なのは気にしないでください。