ぽたり、と汗が地面に落ちる。
身体を巡り、腕を通して刀に込める昏く熱いモノ。それを「呪力」と呼ぶことを知って数ヶ月。緻密な呪力操作ならこのひとが一番だと五条先生に紹介されたのが、僕の前で面倒くさそうに本を開くクラゲさんだった。
日光を避けるように木陰に座るクラゲさんは、普段任務以外ではほぼ外に出ないらしい。
「また呪力が揺らいだぞ。やる気あんのか」
「あ、ります……っ!」
「喋る元気はあるらしいな。あと一時間追加」
「うっ……!」
里香ちゃんの呪力を刀に込め、それを支配する。迸る呪力を流し込みすぎてはいけないし、だからと言って力を抜きすぎてもいけない。呪具のなかに均一に、血が巡るように滑らかに行き渡らせてこそ呪具を「呪具」として扱える。
『クラゲさん以上に呪力操作が緻密に行える術師はそういないよ。口は悪いけどゴリッゴリの理論派でやればできるみたいな根性論絶対言わないひとだから、安心して話聞いてきな』
五条先生はそう言ったけれど、顔全部で「何で俺がこんなことを」と語っているクラゲさんはただ僕に指示だけを出して本を読んでいる。全身と呪具に呪力を薄く行き渡らせて維持しろ、とは言われたが、あとは揺らいだ瞬間に指摘が入るだけ。こちらを見てすらいないのに、ほんの僅かな揺らぎもクラゲさんは見逃してくれなかった。
さすがに二時間を過ぎた頃から刀を握る手が熱い。もう脳みそが焼き切れそうだった。
「く、……らげ、さん、」
「何だ」
「じゅ、りょくそうさって、……コツとか、あるんですか……!」
「今のお前に言えることはねえな」
ばっさりと切り捨てたその目が、ようやく僕の方を向いた。黒目がちの瞳は、相変わらず心底面倒だと言っているようだった。
「呪力操作は呪術師の基本だが、ある程度のレベルで操作できれば術師としては一応問題ない。お前に今求められているような緻密も緻密なレベルまでやる術師は少ねえだろうな。何でかわかるか」
「え、……えっと、……」
「呪力があまりにも膨大だからだ」
ぱたりと本を閉じて立ち上がったクラゲさんは、仕方なさそうに傍に立てかけていた細長いケースを取る。中に収められていたのは、白い鞘の刀だった。すらりと抜かれた刀身が、日光のもとできらりと光る。
「膨大な呪力、強すぎるエネルギーはそれだけで脅威だ。その刀、ある程度の呪力には耐えられるものを五条が選んだんだろうが、それでも耐久性には限界がある」
「え、」
「お前の『呪い』の全力に耐えられるような呪具がそうそうあると思うな。うっかり呪力込めすぎたが最後、そいつもすぐに折れる」
だからお前は、息をするように呪力を操れなければいけない。
すっとクラゲさんが剣先を僕に向ける。一瞬で水が浸透するように呪力が行き渡る。迸るようなそれではなく、凪いだ海のように揺らぎのない呪力。包み込むように纏われた呪力のせいか、クラゲさんの身体と刀が一体になったようにさえ思えた。
「まずは呪力を一定で保てるようになれ。次は『自分の思う量で』一定を保てるようになること。具体的には、その刀が折れないぎりぎりのラインで保つのが理想だな。それを平常時戦闘時、動揺しようが激高しようが揺らがせないこと」
とん、とクラゲさんは刀を肩に担いだ。身体が動いても、全身に行き渡った呪力はわずかの揺れもなく凪いだまま。
すごい、と思わず口から感嘆の息が漏れる。
「揺らがせないことが出来れば、逆に揺らがすことは簡単だ。あとは必要なときに必要なだけ呪力を動かせるようになればいい。……その呪力量があればそもそも呪力を『動かす』ってことすら必要なさそうだがな」
「……え、えっと……?」
「その辺は出来るようになってから考えろ。まずはとにかく呪力の流れを堰き止める感覚を身体に馴染ませること。無意識でも出来るくらいになれ」
継続することにコツも何もねえよ、とクラゲさんは纏う呪力を収めた。
またその面倒くさそうな視線が僕に向く。ついびくっと肩を揺らしたが、質問は終わりかと無言で問いかけられているのだと気づいた。
今、僕の「コツはあるのか」という質問に、今のレベルで言えるコツはないということ、その理由までクラゲさんはちゃんと答えてくれた。このひとは多分、尋ねればちゃんと教えてくれるのだ。
ええっと、と少し言いよどみ、ふと浮かんだ疑問を思ったままに口にする。
「あ、る程度の呪術操作ができれば問題ないなら、何でクラゲさんはそんなに、……?」
出来るのか、までは言えなかった。息切れがひどくて言葉が出なかったというのと、明らかにクラゲさんが「そこ聞くのかよ」という顔をしたからだ。言ってから失敗したと口をきゅっと噤む。
やれやれという顔をしたクラゲさんは、また呪力揺らいだぞ、と指摘してから言った。
「お前と真逆の理由だよ。極端に呪力がすくねーから節約するために練習したの。誰が好き好んでこんな面倒なことやるか」
すいませ、と口をついて出た言葉を、別に怒ってねーよと遮られる。呆れはしたけど、と呪具を鞘に収めた。
「乙骨お前、どう見てもいじめられっ子なのにわりと考えなしにもの言うんだな」
「あ、……!」
「だから怒ってんじゃない。いいんじゃねーの、言いたい言葉も飲み込んで何も言えなくなるよりずっとマシだ。ましてお前には言いたいことを言う権利がある」
思いがけない言葉に、つい目を見開く。
また呪力揺らいだ、と眉間に皺を寄せられ、はっと呪力の波を押さえ込む。何とか揺れを収めたところで、クラゲさんはため息交じりに僕に背を向けた。
「五条見てみろ、相手が誰だろーが言いたい放題だろ。性格最悪のクズ野郎だが、あいつは最強で特級だ。誰も口出しなんざ出来ない。そういう意味で呪術界はシンプルだ」
ただ強ければある程度は我を通せる、と白い刀を携えたそのひとは日陰に戻った。刀をケースに仕舞い、幹によりかかるように腰を下ろす。
そのまま続けろ、と投げられた声は相変わらず面倒くさそうだったが、怒りの色は確かになかったように思う。きゅ、と柄を握る手に力がこもった。脳裏に五条先生が去り際に言った言葉が蘇る。
『クラゲさんは信用していいよ。性格が捻くれてる分、無駄に気を使うひとじゃない。だからって学生相手にむやみに毒を吐くひとでもないし』
そして、もしかしたら憂太とは相性いいかもね、と。もしかしたら今感じているこれが、その言葉の意味なのだろうか。
ぐっと奥歯を噛みしめ、再び意識を集中させる。今クラゲさんが見せてくれたものを写し取るように、呪力を押さえ込んでカタチを整えた。波紋ひとつない凪いだ呪力。海の底のような、満ちているが故の静けさ。刃の先まで呪力の一滴を染み渡らせる。
このまま維持、とまた額に汗が浮かぶのを感じたところで、知った足跡が近づいてくるのを感じた。
「何だ、お前らまだやってんのかよ」
ひょい、と視界の隅で長い黒髪が揺れた。今日は僕以外の皆は実習に出ていたはずだが、真希さんだけ先に戻ってきたらしい。
僕がおかえりなさい、という前にクラゲさんが口を開いた。
「ああちょうど良かった真希、少し手伝え」
「はぁ?」
何だよ急に、眉をひそめた真希さんに構うことなく、クラゲさんは僕を指さして言った。
「乙骨に思いつく限りの罵詈雑言を投げろ。日頃思ってること全部言っていい。乙骨、落ち込もうが腹が立とうが呪力揺らすなよ。当たり前だが里香も出すな、俺らが死ぬぞ」
「え、……え!?」
「もっかい言う、里香を出すなよ。俺に特級過呪怨霊なんか止められねえからな」
今の状態を保ち続けろ、と言った声には、ほんのわずかに先ほどまでと違うものが含まれていたような気がした。ひく、と自分の口元が揺れたのを感じる。
「あの、……実はやっぱり怒ってますか……?」
おそるおそる口から出た言葉に、クラゲさんは初めて「面倒くさい」以外の感情を表情に乗せた。それは、そう、あえて言葉にするなら「愉悦」のような。
「怒ってないっつってんだろ。真希、頼む」
「……鍛錬だっつーなら仕方ねーなァ?」
そしてクラゲさんと同じ表情をした真希さんによって、僕は心に盛大な傷を負うことになる。
*
「大丈夫大丈夫、その程度で怒るなら僕とっくに口聞いてもらってないよ!」
「自覚あんじゃねーか特級クズ。乙骨、五条の人間性だけは絶対見習うな」
「え、ええと……」
「心配すんなよクラゲ、悟のクズは真似できるほどヌルくねえよ」
「それは確かに」
「アハハ僕泣いちゃうよ~?」