それは見知った腕だった。この体温も匂いも、わずかに伝わる心臓の音も。私が間違えることは決してない。
「……おにいちゃん?」
「……どんだけ寝惚けてんだ、妹」
その呼び方小学生以来だなと、思い出の中のそれより遥かに低い声が鼓膜を叩く。
一瞬で頭が覚醒した。
「……兄貴、状況説明」
「硝子、起きたんなら離せ」
「状況説明」
なぜ私は兄貴の腕の中で寝ているのだ。見上げた先にあった顔を睨みつけると、いや全部お前のせいと言わんばかりの呆れた視線を返される。
「重傷の術師が相当数搬送されてきて処置したんだろ、覚えてねーの? 呪力切れでぶっ倒れたんだよ。仕方なしに部屋まで運んでやったらお前、しがみついて離れねーし」
見てみろこれ、と指されたのはいまだ白衣の襟元を握りしめる私の手。ぱっと離すと、厚みのある白にくっきりと皺が浮いていた。
まじか、と信じられない声が零れる。よくよく見ればここは確かに寮の私の部屋で、私はベッド脇に座る兄貴の腕に抱え込まれていた。
まじかー……ともう一度声が漏れる。やれやれと兄貴もため息をついた。
「おおかた睡眠不足もあんだろ。らしくもなく真面目に勉強してんじゃねーぞ」
「大学編入を目前に控えた人間へのセリフじゃねーわ」
「点数足りてんだろ、適当にしとけ。詰め込みで勉強しても非効率だし」
とりあえず下りろとぺしりと肩をはたかれる。のろのろと膝から下りれば、さっさと寝ろよと兄貴も立ち上がった。
「今さら呪力切れなんか起こす時点で判断力鈍ってんだよ。倒れるまで呪力使うな」
「……まじでヤバかったんだよ、患者」
「だとしてもだ」
それはお前にしか出来ないかもしれないが、お前がやらなきゃいけないわけじゃない。
それは、幾度となく兄貴が口にする言葉。説教臭いことは好かないくせに、度々こうして私の意識に刷り込んでくる。その根底にある柔らかいものの存在はちゃんと理解していたが、私はあえてこう返すことにしていた。
「私がやらなきゃいけないわけじゃないけど、やるって決めたことではある」
もちろん、限界まで身を削ったりはしないけれど。
そうにやりと笑ってやれば、親愛なるシスコン兄貴は何とも言えない苦い顔。
「……まじで誰に似たんだ、その頑固」
「むしろ兄貴以外の誰がいんの? ほら寝るからとっとと出てけよ兄貴」
「運んでやったお兄様に礼もなしかクソ妹」
「あ、起きたら数学と英語聞きに行くからヨロシク」
「聞けよ」
全くと頭を掻きながら兄貴はドアノブに手をかける。ぐだぐだと口では言うが、どうせ怒ってもいなければ気にもしていないことはわかっている。
何せ、この私の「兄」なのだから。
「おにーちゃん」
「……んだよ」
「オヤスミ〜」
「ったく……おやすみ」
早く寝ろよ、といつもの自分棚上げのセリフを残してドアが閉じる。
その声が少しだけやさしく聞こえたのは気のせいだっただろうか。小さく息を吐くと、再び眠気が蘇ってきた。
重症患者が幾人も運び込まれたことを聞いた兄貴は、きっと私を心配して医務室までやってきたのだろう。わざわざ作業の手を止めて、深海から足を踏み出して。それくらい、ちゃんとわかっていた。
もぐりこんだ布団の冷たさが身に染みる。明日の差し入れは少しだけ奮発してやろうと心に決め、きゅっと目を瞑った。