だいたい俺が外に出るのは、真夜中のことが多い。深夜の冷たい風を受けながら、ぼんやりと自分の口元から上る煙を見つめた。
そこそこ面倒な任務だった。面倒と言っても俺が対処できないレベルのものではなく、例によってとっとと呪霊を斬り捨てて補助監督の運転する車に戻る。よく顔を見合わせる彼は、今回も無事で何よりです、と軽く笑ってくれた。彼曰く、俺の任務はいつも早く片付くので補助監督の間では評判になっているらしい。
『君は送り届けて帳下ろしたと思ったらすぐ帰ってくるじゃないか。いつもほとんど怪我もないし、かといってそれを驕るようなこともないからね。私たちの説明もちゃんと聞いてくれるし、無茶も言わない』
補助監督を雑に扱う呪術師がどんだけ多いかわかるな、と思いながら適当に相づちをうつと、彼はいつものようにからからと笑う。俺より少し年上の彼は、高専時代からよく声をかけてくれた。任務の下調べについて一切の妥協をしない人なので、一応の信頼をしている。
高専に直帰で構わないかと尋ねられたが、そろそろ煙草が切れることを思い出して首を振った。必要な買い物は、任務のついでに片付けることにしている。
高専関係者御用達の山のふもとにある小さなコンビニは、明らかに得物を持った客でも平然と受け入れてくれる。高専と関わりはないはずだが、変人が多すぎて麻痺してしまったのだろうか。夜中でも元気な声で迎えてくれる店員には、もはや尊敬してしまうかもしれない。
買い物が済むまで待っていようかという言葉も断り、さっさと補助監督にもご帰宅願った。今日の任務はほとんど一太刀で済んだ。高専までの山道を億劫がるほど疲れてもいない。
コンビニの外に設置された灰皿の傍で、俺は紫煙を吐き出す。夏が近づいてきたとはいえ、夜はまだまだ涼しい。一本だけ吸ってさっさと高専に戻るつもりだったのだが、思いがけない声がふたつ、深夜の静寂を破った。
「おや。誰かと思えば」
「クラゲさんじゃん。めっずらし」
高専から下りてきたらしい、やけに大きなふたつの人影。スウェット姿のふたりは、俺と違って任務終わりというわけではなさそうだった。
いくら寮の門限があってないようなものとは言え、こんな真夜中もすぎたこんな時間によくもまあ。お前らな、と呆れた視線を向ける。
「何時だと思ってんだ未成年」
「ちょっと小腹がすいたからコンビニにきただけじゃん」
「クラゲさんこそ、高専の外に出ているの初めて見ましたよ。任務ですか」
「まあな」
肩にひっかけた細長い袋を見て、へえと夏油は細い目をさらに細めた。中には俺の愛刀が入っている。
最初の一度だけ硝子に連れられて以降、彼らも気まぐれに俺の部屋にやってくるようになっていた。何が面白いのかわからないが、差し入れを片手にやってきては少し雑談をして去って行く。もしくは、俺のつくった資料を適当に読みあさって帰って行く。何となく、ノラ猫が自分の縄張りを巡回しているようなものなのだろうと思っている。いやひとの部屋を縄張り扱いするなとは思うけれど。
懐かれたつもりはないが、自分たちのことを恐れも嫌いもしない年上というのが珍しいのだろう。研究にも基本的に協力的なので、俺も邪険にする理由はなかった。
「まーじでクラゲさん任務に出てんだ? 全部サボってんだと思ってた」
「一応割り振られた分くらいはこなしてるわ。まあだいたい近場の任務だから、夜中のうちに終わらせることが多いけど」
「なるほど。怪我どころか疲れた様子もないあたり、余裕でしたか」
「俺には相性のいい任務だったな」
へえ、と面白そうに言う夏油に構わず、口を開けて煙を吐き出した。
今回の任務は、ある古めかしい屋敷のなかに巣くう呪霊を祓えという、何の変哲もない任務だった。ただ、呪霊を祓うにあたり、ただし、と付けられた条件が面倒だった。たいがい俺に課せられた任務は、この「ただし」が付いてくるのだ。単純に呪霊を祓って終わりなんて案件は、まず俺にはまわってこない。
そう言うと、五条は舌を出してうえ、と吐き出す真似をしてみせる。
「何、めっちゃ嫌がらせじゃん。陰湿~」
「はは、完全に死んでも構わない便利屋扱いされてますね」
「どこぞの特級術師どもが器物損壊しまくったり帳下ろし忘れたりしなけりゃ、たかが一級の俺にそんな面倒な任務は回ってこないと思うんだけどな」
「だってよ傑」
「どう考えても悟のことだろ」
「両方だよ。お前らもう少し穏便にことを済ますということを覚えろ」
さっと目をそらした破壊魔ふたりにため息をつきつつ、また煙草に口を付ける。
今回の「ただし」は、「屋敷内にある鏡に一切の傷をつけるな」だった。この屋敷がまた「鏡屋敷」と呼ばれるくらい鏡だらけの趣味の悪い屋敷で、しかも各所にある鏡は全部アンティークの値打ち品。その上、その値打ちに目を付けて屋敷ごと買い付けた金持ちが呪術界上層と縁のあるやつだったとかいう面倒のオンパレード。
さらに面倒を言うと、今回祓うべき呪霊は鏡の中を自由に行き来できるという、なんともわかりやすいアドバンテージ持ちだった。
「……鏡と鏡の間を反射で移動する感じ?」
「そ。しかも移動時はほぼ『光』になってたみたいでな。迂闊に遮ると触れた部分が灼けるそうだ。それで『窓』が何人か怪我を負ったらしい」
「それはそれは。なのに鏡を傷つけるなとは……いや、鏡そのものを外すのはOKなのか?」
「指紋も傷のうちらしいぞ。あとその屋敷、玄関から廊下からとにかく鏡だらけ。全部外そうと思ったら数日かかるな」
「……屋敷ごとぶっ壊そ?」
「おい破壊魔」
だってめんどくせーじゃん、とか言いながら俺のもつビニール袋に手を突っ込んだ五条。おい、と声を掛けるより先に中のガムを掠め取り、勝手に開封して中の一枚を抜き取る。夏油もこらこらと諌める声を上げながらしれっと一枚抜き取った。何こいつら。
もう文句を言っても無駄なのはわかっているが、そういえば、とふと思い出して煙草を口から離す。
「そのガム結構、」
「かっっっっっら!!」
「……辛めだからお子様舌には向かねえぞって言おうとしたんだけど。まあ勝手に盗ったお前が悪いな」
「お子様舌は大変だね、悟」
「傑テメッ」
「深夜にでかい声出すな」
毛を逆立てる猫のような五条を、夏油はあくまでもにこやかに眺めている。一応騒ぐなと言えば口を閉じただけ偉いと言えばいいのだろうか。いや小学生かよ。
そろそろ「やれやれ」以外の言葉が出ねーなと、だいぶ短くなった煙草を再びくわえると、それで、と夏油に続きを促された。
「結局、どうやって祓ったんです?」
「……たいしたことはしてねーよ」
俺の術式を解放する。鏡の配置と角度を把握し、絶対に呪霊が通らない安全地帯を見つける。呪霊の動きをしばらく観察して、移動のパターンを把握する。情報を集約して呪霊が移動時に通る可能性の高い一点を演算で弾き出し、そこに俺の刀を差し出す。それも、刃でなく刀身の腹が呪霊に当たるように。
俺は愛用の呪具の手入れを欠かすようなへまはしない。磨き上げた刀身は、たとえ闇の中のわずかな光でも「反射」させ、煌めく。
「なるほど、刀身に反射させてルートを変えたと」
「あとは天井に突っ込んだ呪霊が降ってきたところを斬り捨てて終わり。天井は少々へこんだけど、鏡に傷はつけてねーんだからセーフだろ」
「高速演算ねー……それ疲れねーの?」
「そら疲れる。昔はよく頭痛起こしたり熱出したりしてたしな。まあ今は加減も呪力操作も覚えたから、それくらいは何てことねーよ」
ふーん、と興味があるんだかないんだかわからない声を聞きながら、とん、と灰皿に煙草の灰を落とした。だいぶ短くなったそれを、ぎゅっと皿の底に押しつける。
「じゃ、俺そろそろ高専戻るから。お前らもさっさと帰れよ」
「え、ここは後輩にアイスのひとつでも奢ってくれるところじゃねーの?」
「ついさっき不本意ながらガム奢ったろうが。不本意ながら」
「二回言いましたね。ああ悟、ガムの残り私がもらうよ。君食べられないだろ」
「結果的にガム奢ってもらったのは傑だけで、俺には何もねーじゃん」
「お前厚顔もそこまでくるといっそすげーな」
コンビニ前でヤンキー座りした白髪グラサン野郎に服の裾を掴まれているこの絵面、端から見たらどうなんだろう、と頭の片隅で考えつつ、今日何度目かわからないため息をついた。
こんなもん、術式を使うまでもない。癪ではあるが、下手にごねるよりさっさと買ってやるほうが絶対に早く帰れる。
というかお前ら、絶対俺より高給取りのはずなんだけど。
「……ならとっとと選んでこいよ」
「お、さすがクラゲさん話がわかる」
「クラゲさん、私はアイスより唐揚げが食べたいんですが」
「ガムはどうした」
「それはそれ、これはこれ」
「……よくこんな奴らと同期やってられるな妹……」
「いや硝子なら俺らがたかられてるって」
「妹さん、強かに育ってますよ」
どう考えてもお前らの悪影響だろと返せば、いやクラゲさんの教育の賜物と綺麗に声を揃えられた。うるせえ絶対違います。
コンビニの軽快な入店の音楽が、再び夜の静寂を破る。さっさと帰らせてくれと思いながら、明るすぎる屋内に足を進めた。
***
ずいぶんとこの部屋も明るくなったものだ、としみじみと思う。
窓がないのも、モニターの画面がほぼ灯りがわりになっていることも変わりはないけれど、訪れる人がいるだけでこの深海も何となく光が差したように感じられた。私が買ってきたものではない食料が、デスクの端に積まれている。
それぞれのビニール袋の中をのぞき込んで、ふと眉をひそめた。
「……待って兄貴、何でコンビニの袋に混ざってペットショップの袋があんの?」
「ああちょうどよかった硝子、それ適当に五条のメシに混入させといてくれ。きっとたぶん人体に害はないんじゃねーの、内容物見てないけど。腹壊す程度で済むといいよな」
「めっちゃ希望的観測じゃん。え、何これ。五条?」
「五条。クラゲ用人工プランクトンだとよ。ガチのやつ」
うわマジでガチだ。中に入っている小さな袋には、可愛いクラゲのイラストがプリントされている。この近辺にペットショップなんてないはずだが、あのクズこの悪戯のためにわざわざ出かけていったのだろうか。そのやる気と労力を他で使えと心から思う。
食わせとくわ、と返事をすると、よろしく、と兄貴はモニターを見つめたまま片手を振った。
「……ずいぶん懐かれたじゃん」
「これ懐かれたっていうのか? 体のいい標的にされてる感がつえーんだけど」
「構ってやるからっしょ。何、こっちの袋は夏油?」
「ガムと十秒メシ入ってんのが夏油。おにぎりと野菜ジュース入ってんのが後輩ズだよ。性格出るよな」
「めちゃくちゃ懐かれてんじゃん」
「知らねーよ」
まあ後輩ズの方は面倒みてやってる自覚あるけど、と兄貴は首をひねる。
私が兄貴からだと言って飴の袋を渡してやって以来、七海と灰原はちょくちょくこの部屋を訪れては兄貴に質問をしたり、過去の任務資料を見たりして勉強しているらしい。さすがに実地で戦闘まで見てやっているわけではないようだが、部屋の中で教えられる範囲のことは教えてやっているようだ。呪力操作がちょっとだけわかった気がします、と灰原が嬉しそうに言っているのを聞いたような気がする。
兄貴も兄貴で、素直に話を聞いて学び得ようとする態度にはわりと真面目に感心したらしい。マジで呪術師向いてねーふたりとか言いながらも、邪険にすることはなかった。
「けど、五条と夏油まで懐くか〜。何、意外とひとたらしなの、兄貴って」
「いやだから知らねーわ。自分を怖がらねー年上が珍しかったんじゃねーの」
「へえ、あいつら怖くないの、兄貴」
「ただのクソガキにしか見えねーのにどう怖がれってんだよ。お前だって別にあいつら怖くはねーだろ」
「まー、そりゃね」
確かにあのふたりは最強で、私も兄貴も殺そうと思えば一瞬で殺せてしまうのだろう。けれど、アイツらはそれをするほど馬鹿ではない。クズではあるが、情を解さないわけでもない。それが理解できる程度には、同じ時間を重ねてきていた。
そんなこともわからない呪術師たちはただ闇雲にあのクズどもを恐れるが、わりと時間と労力の無駄だと思う。兄貴もきっと、そう思ったのだ。無駄が嫌いな兄貴だからこそ、必要のない恐怖に怯えることもない。
「連絡も寄越さずに乗り込んでくるのはめんどくせーけど、まあノラ猫の巡回と思って諦めてる」
「特級術師をノラ猫扱いとかウケる」
「首輪付けようとか考えなきゃ別にひっかきもしねーのにな、アイツら」
「ひっかくどころか一応協力的なんしょ?」
それについては俺もびっくり、とリズムよくキーボードが鳴り続ける。何となく、兄貴の機嫌がいいのが伝わってきた。
「報告書もちゃんと詳細書くようになったしな。夏油が取り込んだ呪霊を直接見せて説明してくれんのもいいデータになるし、五条もまさか五条家から呪霊関係の資料持ってきてくれるとは思わなかったわ」
「……マジでめちゃくちゃ懐きすぎじゃん?」
「門外不出の資料なんじゃねーのって聞いたら、俺がいいって言ってんだからそれが全て、だとよ。ワンマンとは聞いてたけど五条やべーな」
「いやそんだけ五条懐かせてる兄貴がやべーわ」
よくわからんけどもらえるもんはもらった、と機嫌のいい兄貴は、顔こそ無表情だが鼻歌でも歌いそうな様子だった。ここまで花を飛ばしている兄貴は高専入学以来初めて見たかもしれない。率直に言ってわりと気持ち悪かった。
しかし、そこまで五条が協力的だとは。確かに兄貴を気に掛けている雰囲気は感じていたが、いったいどこで頭を打ったのだろう。何となく腑に落ちない気持ちのまま、もってきた差し入れを兄貴の手元に置く。
「おお、サンキュ」
「ん。ほら対価寄越しな」
「お前ヤニ以外の対価もうちょっと考えらんねーの? 最近俺より吸ってるだろ」
「んなことねーし。オラ寄越せ」
そうは言ってみたものの、最近煙草が増えている自覚はあった。
美味しいかと言われればさして美味しくもなく、ひたすらに肺を汚すだけのものでしかないのはよくわかっている。けれど、今の私には必要だった。
煙草の煙は、血と臓物の臭いをリセットしてくれる。
「……硝子」
掌にぽすりと、煙草のケースが置かれた。不思議とそれは、温かい。
「お前も最近顔色わりーな。ひとのこと言えねーけどちょっとは日に当たれよ」
「マジでひとのこと言えねーじゃんウケる。はい兄貴に言われたくないベストファイブ入り~」
「ベストスリーだったのが更新されてんじゃねーか。残りひとつは何だ」
「そりゃ『口が悪い』でしょ」
「……お前マジで俺の口調真似んのやめろ?」
「もう無理じゃん?」
真顔で言われたので真顔で返してみれば、目元をおさえた兄貴は項垂れた。
別に真似をしてきたつもりはなかったが、生憎と一番私の面倒をみてきたのは兄貴だ。そりゃ口調が似ても仕方がないと思う。
まあ諦めてるけど、と兄貴はため息をつく。
「口の悪さはともかく、外には出ろよ。こんな陰気くさいとこ閉じこもってても気が滅入るだけだぞ」
「いやだから説得力皆無。兄貴こそたまにはちゃんと休み作って外出れば?」
「別に行きたいところもねーし、買い出しもお前の差し入れと任務後のまとめ買いで足りてんだよ」
「うわ、寂しいやつ」
「うるせ」
じゃあせめて明るいうちにこの部屋を出ろと言ってみれば、兄貴は露骨に嫌な顔をする。あんなに日光浴が好きだったくせに、どうしてこれほどまでに深海の住人になってしまったのか。
私の胡乱な目線の意味を理解してか、少し唇をとがらせた兄貴はそっぽを向く。
「気が抜けるんだよ、日光浴びると。今は研究から気を抜きたくないってだけ」
「いや何年も気を抜かずやってるほうがおかしーんだよ、かえって効率悪いわ。少しは未来の医者の言うことを聞け」
「何だよ今日はやけに押しが強いじゃねーか。やなことでもあったのか?」
「別に」
短く言い切れば、いや絶対何かあっただろ、という顔をした兄貴はまたため息をつく。
いつもなら適当なところで私が引き下がるし、兄貴の研究の手を止めさせるようなことは極力言わないようにしていた。しかし、何となく今回はとにかく連れ出してやりたくなったので折れてやるつもりはない。
そして兄貴は、絶対に本人は認めないだろうけど、結局妹のおねだりには弱いのだ。
「今が区切り悪いなら明日でいーし、高専からは出なくていーから」
「……敷地内とかさらにやることねーだろ。俺に何しろっての」
小さな声で白旗をあげた兄貴に、にっこりと笑ってみせる。同期や後輩が買ってきた食料をちらりと見て、じゃあ、とわざと明るい声を作って言った。
「メシ作って。久しぶりに、いつものやつ」
材料は買っといてやるから、と続ければ、兄貴はうえ、という顔をしつつも無理とは言わなかった。
兄貴の料理の腕は、私が一番よく知っている。両親が忙しかったぶん兄貴がキッチンに立つことは多かったし、何より料理は科学だ。手先もそこそこ器用な兄貴にとっては、料理が失敗すること自体がよくわからないらしい。
諦めた顔をした兄貴は、仕方ない、とため息をつく。
「ほかのやつには言うなよ。作る量が増えたら面倒だ」
「わかってるって」
結局折れてくれる兄貴ににやりと笑うと、こつり、と小さな拳が額におりる。
相変わらず、兄貴の手は痛くもなんともなかった。
***
そういえば卵の殻を割るのってこんな感じだったなと、指先の感覚を確かめる。牛乳と塩を加え、菜箸でぷっくりと膨れた黄身をつついた。どれくらい、どんな風に混ぜればベストな結果に繋げられるのか。俺の脳はとっくに答えを弾き出している。
頭の奥ではいくつもの数式が並び、最良の結果へ到達するための道筋は、すでに俺の中にあった。
「……え、料理に術式使ってんの……?」
「あーアレ、もう癖なんですよ、昔から無意識で術式使ってたから。術式のオンオフできるようになった今でも、結局昔みたいに術式使った方が楽みたいで。ほら、ほとんど考えなくても演算通りにやれば美味いもん作れるから」
「ああ、あれこれ考えるのが面倒なのね。さすが先輩」
聞こえてるからな、と口に出すのも面倒でぼんやりと卵を見つめる。俺の手はほとんど勝手にベストを求めて動き続ける。白身の塊がほぼ消えたところで腕は止まった。卵の状態を目視で確認する。問題なし、と俺の脳は答えを示した。
フライパンの温まり具合、表面を転がるバターの量、さっき作ったチキンライス。できあがりを乗せる皿まで用意すれば、あとは卵を焼いて、包むだけ。失敗する確率は……ゼロではないが、限りなく低い。まあ油断さえしなければ、イレギュラーさえ起きなければ問題ないだろう。シミュレーションを続けながら、俺はただ手を動かしていく。
やれやれ、と俺の口から小さなため息が漏れた。
『え、先輩が昼間に外に出てる……!?』
硝子に引きずられて寮のキッチンに向かう途中、久しく会っていなかった彼女と顔を合わせた。いつもの巫女服に、ゆるく二つに束ねた髪。まるで化け物にでも会ったかのような顔をしているが、まあ別に腹も立たない。俺自身、日光にあたるのが久しぶりすぎて完全に体内時計が混乱しているレベル。眠いのか眠くないのかも、もはやわからなかった。
歌姫センパ~イ、と硝子が嬉しそうに声を上げる。
『どうやって先輩を外に連れ出したの硝子……やっぱり先輩も妹のおねだりには弱いとか?』
『そうなんすよ~兄貴ってばシスコンなんで~』
『しばき倒すぞクソ妹。めんどくせーけどいろいろあったんだよ』
お前は任務か、と尋ねれば、庵はいえ、とちょっと目を逸らした。
二級術師、庵歌姫。高専を卒業したばかりの彼女は、俺の一学年下の後輩にあたる。一学年の人数が少なく先輩後輩の交流が盛んなこの学校では、先輩が後輩の指導するのはごくごく当たり前にあったし、彼女と一緒に任務にあたったことも数え切れない。
鍛錬で吹っ飛ばしても吐くまでしごいても食らいついてくる彼女の根性にはわりと感心していたし、なんだかんだと義理を欠かさない彼女のことは嫌いではなかった。
『その、今度の任務のことでちょっと先輩にご相談をと思ったんですけど……』
『俺に?』
『いえ、でもご用事だったんですよね。まだ時間あるし、改めます。今度はちゃんと事前に連絡しますね』
『ちなみにセンパイ、お昼ごはん予定あります?』
え、と瞬きをする庵と、にんまりと笑って見せた可愛くねー妹。おい、と止めるより先に、やけに庵に懐いている硝子はさらりと言った。
『兄貴の手料理、興味ないですか?』
そら俺みたいなやつが料理するとか思わねーよなと、我ながら思う。高専時代も基本買い食いだったし、お湯を沸かすレベル以上のことはしなかった。ある程度金銭的な余裕さえあれば、別に料理なんてしなくても生きていけるのだ。
センパイノテリョウリ、とまるで知らない言語のように繰り返した庵の顔はなかなか面白かったが、じゃあ三人分な、と親指たてた妹、お前誰が作ると思ってんだ。いや俺が作るから軽く言ってんだよな、うるせえ知ってるわ。
混乱する庵ともうどうにでもしてくれ状態の俺をひきずる硝子は、近年まれに見るほどの上機嫌だった。我が妹ながら気色悪い。
結局三人前の「いつもの」オムライスを拵えることになった俺は、卵の具合をチェックしながらチキンライスを包みあげている。
皿にうつして形を整え、背後で呑気に座っている妹に皿くらい運べ、と声を掛けた。
「一応聞くけど、もう人数増えねーんだろうな」
「野郎どもなら全員任務出てるって。まあ帰ってくるかもだけど、さすがに昼は過ぎるでしょ。さっさと食っちゃえばダイジョーブ」
てかもう材料ねーし、と硝子はまずひとつ焼けたオムライスの皿を受け取った。オムライスは一人前ずつしか作れない。この作業をあと二回するだけでも面倒なのに、これ以上増えるのはさすがに勘弁して欲しかった。
目の前にオムライスを置かれた庵は、まるで子どものように目を輝かせている。
「まだ食うなよ、庵。硝子」
「へーい」
小皿にケチャップを絞り出した硝子は、そのままレンジに放り込む。それを横目に見ながら、俺は二つ目のオムライスに取りかかった。
「ケチャップ温めるの?」
「こうすると酸味が飛んでイイ感じになるんで」
「今はこんなだけど、硝子にも酸っぱいもん苦手な時期があったんだよ」
「え、可愛い」
「でしょ?」
「でしょじゃねーんだわ、手間増やしやがって」
「子どもの好き嫌いごときでグチグチ言うなっつの。だいたいいつも私がやってんだろが」
相変わらずの憎まれ口を叩きながら、硝子はレンジからケチャップを取り出した。その姿が、かつての幼い妹と重なる。
忙しかった両親と食事をともにすることはかなり少なかったと思う。いつも食事は俺と二人で、できたてとは言えないごはんを食べることがほとんどだった。
まあそんな食事、俺だって嫌になるんだから妹だってそうだろう。作り置きの冷たくなった料理も、外で買ってくるありものももう嫌だと言った妹。気持ちはわかるだけに上手く宥めることも出来ず、どうしたものかと考えたときにテレビに映った名店のシェフ。ご家庭でも簡単に名店の味を、なんてよくある煽り文句と同時に紹介されたレシピと、実演された調理の流れが目に付いた。
たぶん、術式はすでに解放していた。一応火を使うことも許されていた俺は、家のコンロの火の癖も、フライパンの使い勝手も把握している。勝手に食材を使っては怒られるかもしれないとは思ったが、硝子が食事を抜くよりはマシだと思った。
必要な
『わたしもてつだう』
『いいよ、火は危ないから座ってな』
『てつだう……』
『……じゃあ硝子、ケチャップお皿に出して、チンして』
『! うん』
俺の料理を興味津々で見ていた妹に手伝いを頼めば、わかりにくく張り切ってレンジに向かう硝子。それ以来、ケチャップを温めるのは硝子の仕事になっていった。
初めて作ったオムライスはさすがに完璧とは言いがたかったが、それでも卵は破れずにチキンライスを隠していたし、もちろん焦げていたなんてこともない。ただちょっと、フライパンが重くて、うまく形を整えることは出来なかった。
それでも硝子は目を輝かせて、それを口いっぱいに頬張った。
『……おにいちゃん』
『うん?』
『おいしい』
『……そっか』
口元にケチャップを付けながら言った硝子に少し笑って、その口元を拭ってやったのを覚えている。それから硝子にせがまれていくつかの料理を覚えたが、結局「いつもの」に落ち着いたのはこのオムライスだった。
「……覚えてるもんだな」
とは言え、最後に作ってやったのはいつだったか。年齢が上がれば生活時間もあわなくなって二人で食べる機会も減っていったし、高専に入って寮生活になればなおさらだった。
軽く数年はキッチンに立つことも滅多になかったのに、術式以上に俺の身体はこれの作り方を覚えている。
最後のひとつを皿に乗せて、硝子に渡した。温かいケチャップで彩られたそれが三つ、食卓に並ぶ。
「めちゃくちゃ美味しそう……!」
「これくらいお前も作れるだろ」
「いや、こんな絵に描いたみたいなオムライスはなかなか……」
「絵に描いたみたいな。確かに」
「何か文句あんのか」
ワンパターンとか思ってねーよとか言いやがった硝子の皿を取り上げようとすれば、冗談じゃーん、としっかりと皿を抱えられた。「いつもの」とか抜かしたくせに変化を求めるんじゃない。
まあまあと庵に宥められ、まったくと思いながら手を引いた。いただきます、と三人揃って手を合わせる。
「おいっしい……!」
「ん~いつもの味」
「お料理上手だったんですね、先輩。さすがやればできる人代表」
「滅多に作らねえけどな」
「どちらかというと必要がなければやらないやつ代表」
「何で必要ねーことをわざわざしなきゃなんねーんだよ」
「真顔で言うな」
そんな軽口を叩きながら、皿を空にしていく。多少材料の違いはあれど、いつも通りの見た目、いつも通りの味。数年ぶりに作ったそれは、確かに落ち着く味だった。
燦々と降りそそぐ日光と、食べ慣れた味。だんだんと、脳の奥で堅く結んでいたものがほどけていくような気がした。いけない、と眉間に皺を寄せる。まだ、それを解くわけにはいかない。
難しい顔をしてしまっていたのか、家入先輩、と心配そうな声を掛けられる。
「どうかしました? 眉間に皺寄せて」
「いや、眠いだけ」
「体内時計狂いまくりじゃん」
「うるせ。……ああ、そういや庵、何か任務の話があんだっけ?」
少しは頭を使う話をしておかないと、いろんなものが壊れてしまいそうだった。食事時にする話ではないと理解しながらも、後で聞こうと思っていた話を振る。
庵に任務の相談をされるのは初めてではなかった。先輩後輩の関係というのもあるが、ある程度俺の研究に理解のある術師はたまにこうして俺のもとを訪れる。俺がもつ膨大なデータの価値を、身をもって理解しているのだろう。
あ、と思い出したように庵は口元を拭いて、姿勢を正した。別に食いながらでいーよと言っても、義理堅い庵はちょっと困ったように笑うだけ。どこまでも真面目な奴だと思う。
「相談というか、ちょっと資料を見せて頂きたいなと。前に先輩も関わったことのある団体だと伺って」
「団体? 何、呪詛師がらみか?」
タチの悪い呪詛師がらみとなれば庵向きではなさそうだけど、と思いながら問い返すと、いえ、と庵は長い髪を揺らす。
ひとつ息を吐いて、庵は真面目な顔を作って言った。
「盤星教です。ご存知でしょう?」
***
深海を揺蕩う海月には、天の星なぞ見えぬもの。知らないままで、いたかった。