硝子の兄は海月になりたい   作:ふみどり

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 盤星教、それは不死の術式をもつ呪術界の核ともいえる存在、天元を崇拝する非術師の宗教団体だ。久しぶりに聞いたその名前に、過去の任務の記憶が蘇る。他に類を見ないほど、とにかく苦痛な任務だった。

 

「……ああ、調査任務の護衛、今回はお前にまわってきたのか」

「はい。先輩も担当されたことがあると伺ったので」

 

 基本的に呪術界も非術師の宗教団体を気に掛けるほど暇ではない。が、彼らの場合、崇拝している対象が対象だけに、定期的に「ご挨拶」の体で彼らの活動にチェックを入れている。といってもそれを行うのはほとんど補助監督の仕事で、呪術師は「万が一」のときのために護衛として調査にくっついていくだけだった。

 しかし「万が一」のことがあったという事例は、今のところ記録にはない。相手が非術師であることもあって、その護衛はせいぜい二級か三級術師の持ち回りですることになっている。俺も二級だったときに一度護衛任務を受けたことがあるが、補助監督と盤星教の代表の腹の探り合いを延々と聞かされるという、かなり苦痛な任務だった。

 

「暇つぶしの道具もってくといいぞ。俺も本のひとつでも持っとくべきだったと死ぬほど後悔した」

「護衛任務中に読書とかウケる」

「……それ他の人にも言われました……」

 

 マジですか、と硝子が驚いた顔をしているが、マジだ。この任務から帰ってきた術師は皆「どちらかというと拷問」「精神的苦痛を伴う」「呪霊相手にしてたほうがいくらかマシ」「案山子の苦労を身をもって理解した」と呪いたっぷりの報告書を提出している。まあ数日の間、日がな一日突っ立ったままイヤミな言葉の応酬を聞き続けるだけの任務なので当然だと思う。俺も二度とやりたくはない。

 そんな任務を振り分けられた庵に少し同情しながら、改めて尋ねる。

 

「まあ、そういう任務だから仕方ねーわな。で、それで何でわざわざ俺んとこまで」

「任務にあたって、参考としてこれまでの調査任務の報告書を見せてもらったんです。それ読んで思ったんですけど、先輩、この任務、無駄なものだとは思ってませんよね?」

 

 疑問形で聞きながらも断定している様子の庵に、片眉を上げる。そこそこの付き合いがあるとは言え、報告書くらいでそこまで言い当てられるとは思わなかった。

 確かに俺は心底面倒だとは思いながらも、この任務の必要性を肌で理解していた。

 

「詳細すぎる先輩の報告書を見ればそれくらいわかりますよ。だいたい、報告書の書き方や注意事項を私に指導してくれたのも先輩じゃないですか」

「……まあ、そりゃそうか。そうだな、任務は死ぬほど面倒だが、あまり目を離さない方がいい集団だとは思ったよ」

「そんなヤバいやつらなの?」

 

 そこを私も伺いたくて、と硝子の言葉を受けて庵が頷く。

 わざわざそれを聞くために俺を訪ねたのか。相変わらず真面目が過ぎるというか慎重というか。しかし、前線での戦闘に向かない庵に、事前にできる対策はすべてとっておけと言い聞かせたのも俺だったっけ、とかつてを思い出す。俺の言ったことを実践しているのだと思えば、適当に答えるわけにもいかないだろう。

 非術師の集団にすぎない盤星教。多くの術師は、その存在を気にも留めていない。所詮は非術師、呪力もない相手に何を警戒するのかと、この調査任務の継続そのものを疑問視する声も多い。だが俺は、そうは思わなかった。

 

「……盤星教の信者の多くはあくまでも非術師。ほんの一部の幹部に術師もいるらしいが、まあ大したレベルじゃない。だから戦闘力という意味は脅威でも何でもねーよ」

「そう思います。なのに何故?」

「そこそこ思想がヤバいくせに、非術師ってとこが厄介なんだよ」

「厄介って何がよ」

「何をするかわかんねー弱者ってのは、下手に強いやつよりよほど怖いだろ」

 

 社会の大原則は弱者生存。弱いものが強いものに淘汰されずに生き残るために、人間は集団生活を覚え、社会を生み出した。弱いものを庇護し、強いものを抑圧することによって、社会の秩序は保たれている。大多数の人間の生存と平穏を保障するためには、非常に理にかなっている考え方と言えるだろう。

 その大原則は、当然呪術界にも当てはまっている。

 

「基本的に、術師は非術師に手を出せない」

 

 世界の平和が呪霊の発生を抑圧するから、という意味もあって、呪術界の基本姿勢として「非術師」は「守るべき存在」だ。

 力のない者を守れ、と。彼らに自分たちや呪霊の存在を知られるな、と。関係のない者たちに力を行使し、いたずらに傷つけるな、と。

 わかりやすくこれに反した者たちは「呪詛師」の烙印を押され、呪術界から追われる立場となる。別に、それ自体をおかしいとはさすがの俺も思わない。俺だって、弱い者をいじめて愉しむような変態的趣味はない。

 だが、この原則は時として「強者」と「弱者」の関係を逆転させる可能性を秘めている。

 

「……別に、盤星教が今すぐに呪術界に逆らってくるとか、そういうことを思ったわけじゃねーけど。あそこまで狂信的に天元を崇拝してるやつらなら、正直どっかで道を外れてもおかしくはねーと思った。で、俺たち術師は、奴らが道を外したという明確な証明がされるまでアイツらには手を出せねーだろ。つまり何かあったとき、確実に後手にまわることになる」

 

 後手にまわるということは、すでに何かしらの被害を出してしまっているということだ。誰かが傷ついているかもしれないし、死んでしまっているかもしれない。そこからどんな手を打とうとも被害を受けた事実は消えず、喪われたものは戻らない。

 これで相手が術師の集団だったらまだ話は違っただろう。相手が呪力をもたないという事実は、それだけ術師にとって大きな意味がある。

 

「術師が迂闊に手を出せない非術師の集団であること、信仰の対象が自分たちの理想から離れることを許せないという過激思想をもっていること、天元のためなら倫理も道徳も投げ出せる思考放棄系馬鹿であること。俺が盤星教から目を離さない方がいいと思う理由はそんなとこだ。まめに様子を見に行って、こっちはお前らに目を付けてんだぞってことを見せといた方がいい」

 

 この調査任務を誰が提唱したのかは知らないが、ちゃんとそれをわかっている呪術師がいたということだと思う。非術師を見下す術師が多い中で、よく定期的な調査にまでこぎつけたものだ。その慧眼には素直に敬服する。

 真剣な顔で俺の話を聞いていた庵は、そこまで聞いて少し考え、頭の中で内容を咀嚼し、頷いた。なるほど、と真面目な声で言う。

 

「やっぱりこの任務、気を抜かない方がよさそうですね」

「いや、何もねーなら顔見せとくだけで十分だと思うけどな。それはそうとオムライス冷めるぞ」

「あっ、えっと、すいません失礼します!」

 

 俺が話している間、真面目にスプーンを置いていた庵の皿には、まだ三分の一ほどオムライスが残っていた。別に食いながらでいいって言ったのに、庵は少し堅すぎるところがある。俺ごときにそこまで礼儀を気にしなくてもいいものを。

 退屈そうに聞いていた硝子は、すっかり空になった皿にスプーンを置いて、ふーん、と少し首をかしげた。

 

「何かめんどくさそ」

「めんどくせーんだよ。無駄に歴史も規模もあるから適当な理由つけて潰すこともできねーんだろうな。信者が多いぶん金もあるし、拠点も多い」

「あっ、ひょのほろなんれふれろ!」

「食ってから喋れな、庵」

 

 礼儀は重んじるが、どこか抜けている庵は口を押さえてもごもごと唸った。ごくりと口の中のものを飲み込み、ちょっと恥ずかしそうに改めて口を開く。

 

「先輩のことだから、どうせ個人的にも盤星教の調査続けてますよね?」

「どうせって何だよ」

「警戒してる相手を放置しておく性格じゃないことは存じてます」

「……まあ」

「やっぱり。盤星教が拠点に使ってる施設の最新のリストとかあれば是非拝見したいんですけど!」

 

 この後輩、よく先輩のことわかってんなとちょっと遠い目をした。なるほど、俺を訪ねてきた本当の理由はこっちの方か。

 確かに俺は、室内にいて調べられる範囲ではあるが、盤星教ほかちょっと気になった団体や個人については継続的に調査をしている。研究優先なので片手間程度だが、それでもその中には上層も把握していない情報だってなくはない。何で上層に報告しないのかってそりゃ、わざわざ教えてやる義理がないからに決まっている。

 

「……別にいーけど、情報源が俺だってことは言うなよ」

「もちろんです! ありがとうございます!」

「兄貴、ちょっと手広くやりすぎじゃん?」

「気になったことを放置しとくほうがストレスだってだけだ」

 

 不安要素(イレギュラー)は見張っておくに限るだろ、と言ったところで食べ終わった庵が両手をあわせる。ごちそうさまでした、という言葉に、お粗末さん、と軽く返した。

 米粒ひとつ残されていない皿を見て、悪い気はしない。

 

「本当に美味しかったです。お皿の片付けやりますね」

「あ、センパイ私やりますよ」

「いいの硝子、やらせて」

「……じゃあお皿洗うので拭いてもらえます?」

 

 流しに並ぶふたりの背中を横目に、ぼんやりと窓の外を見る。

 そういえば、昼間の高専はこんな感じだったなと、改めて思った。盤星教の話で少し動いていた脳が、柔らかな日差しにあてられて再び緩み始める。……嗚呼、これはまずい。

 まだ、気を抜いていい時期じゃない。

 まだ、これを自分に許せるほどのことを成してはいない。

 気晴らしが必要だという言葉も理解はしているし、硝子の顔色が悪かったからつい連れ出されてしまったが、これは頭が緩みきる前に深海に帰った方が良さそうだ。俺の怠け癖は俺が一番理解している。

 眩しさにくらむ目を擦り、皿を片付けているふたりに声を掛けた。

 

「俺は部屋に戻る。庵、拠点のデータは用意しとくから夜にでも取りに来い」

「あ、はい!」

「なに、もう戻んの?」

「昼飯は作ってやったろ。それで良しにしとけ」

 

 皿洗いで硝子が手を離せないのをいいことに、俺はさっさとその場に背を向ける。

 日光と、平穏と、妹と、それに後輩までいたその空間は、確かに俺にとって居心地がいい。だが、だからこそ。

 今の俺がそれを享受するわけには、いかなかった。

 

 

 ***

 

 

「で、何があったの?」

 

 こっちの手が塞がっているのをいいことに、やるだけやってさっさと逃げた兄貴。それに思わずチッと舌打ちをすると、苦笑気味のセンパイが柔らかく言った。

 何がって、と問い返すと、センパイは拭き上げた皿を棚に戻しながら言った。

 

「あのひとが昼間に外に出て、料理までするなんて。確かに実は世話焼きなひとだけど、妹のためとは言えそこまでするのは珍しいじゃない。硝子だって、普段なら研究の手を止めさせることは言わないようにしてるし」

 

 兄貴が私のわがままを聞いてくれた理由、そして私がそんなわがままを言った理由。その両方を尋ねているのだと気づいて、ちょっと気まずい気分になる。このセンパイ、そういうところはチョロくなかった。

 言いたくないなら聞かないけど、と微笑むその顔が優しい。

 

「……珈琲でも飲みません?」

「いいわよ。付き合う」

 

 珈琲豆なんて上等なものはないが、インスタントくらいは常備してある。センパイのために砂糖とミルクも用意して、またセンパイと食卓で向かい合った。

 柔らかい色になった珈琲を、センパイはスプーンでかき混ぜる。渦をつくるそれをぼんやり眺めて、ちょっとだけ小さな声で言った。

 

「……別に、特別なんかあったわけじゃなくて」

「ええ」

「とっくに慣れたつもりだったんですけど、……血とか臓器とか、そういうのの臭いが、鼻の奥に残る感じが最近、ひどくて」

「そう」

「……ちょっとイラついてたかもしんないです」

 

 確かに顔色が良くないとは思ったのよね、と歌姫センパイは苦笑した。何となく決まりが悪くて目をそらすと、いいんじゃない、と優しい声が落ちる。

 

「というか無理もないわよ。特にアンタの立場ならね」

「……」

「最近、術師の遺体の解剖なんかにも立ち会ってるんでしょ?」

「……医師免許とること決めたって言ったら、そういうのも経験しといた方がいいからって言われて」

 

 空間に満ちる、血と臓物の臭い。目の前に横たわる遺体は形が残っていればいい方で、もはや元が人間だったとは思えないようなものもある。人ではないものを相手にしているのだから仕方のないことと言えばそうなのだが、グロテスク以外に表現しようのないものを何度も眼前に叩きつけられるのは、正直、堪えた。

 きっと繰り返していけばいつかは慣れるのだろう。それまでの我慢だと自分に言い聞かせても、あの独特のどす黒い赤が目に焼き付いて離れない。

 何より、いつか自分のよく知る「誰か」も、こんな肉塊に成り果ててしまうのかもしれないと思うと。

 

「……人間って、所詮血と肉の塊なんですよね。誰しも、いつかは死ぬし」

「何悟りきったこと言ってんのよ。……まあ、言いたいことはわかるわ」

 

 死と隣り合わせの仕事だと知っていることと、実感することは違うのよね。

 そう言ったセンパイの言葉が、重く響く。

 

「まあ少なくとも、アンタのお兄さんはそう簡単には死なないわよ。下手したらあのクソ生意気な最強どもより生き残るんじゃないかしら」

「別に兄貴の心配はしてませんけど、……あのクズどもより?」

「ええ」

 

 本当に変なひとよね、とセンパイはどこか懐かしそうに笑う。

 歌姫センパイと兄貴がこの高専で同じ時間を過ごしたのは、実質二年ほど。その間に何があって、どんなことを話したのか、これまであまり詳細を聞いたことはなかった。だけど、なんだかんだで兄貴はちゃんと歌姫センパイを気に掛けていたし、センパイはセンパイで兄貴のことを頼りにしているのは見ていてわかる。

 家入先輩は、と続けるその声は柔らかい。

 

「何よりも生きて帰ることを第一に考えるひとでしょ? 学生時代はそりゃ吐くほどしごかれたけど、いつだって先輩の指導は『戦って勝つこと』じゃなくて『戦闘を自分に有利に進めて生き残ること』を前提にしてた。おかげで攻撃することより回避することの方が上手くなっちゃったけど」

「それはまあ……そんなこと言ってんの聞いたこともありますけど」

「ね。しかも生き残ることを最優先に考えるどころか、怪我をするのすら嫌がるのよね、先輩って。こんな世界に身を置いてるくせに、どんだけ潔癖なんだって思ってたんだけど」

 

 硝子のことを知って納得したの、と愉快そうに笑うセンパイは、そっと珈琲に口を付けた。ちょっと甘すぎたかな、と小さくぼやく。

 

「何でそこで私」

「そりゃ、アンタにそんな姿を見せたくないからよ」

「……は?」

「怪我を負ったら、どうしたって反転術式を施せる硝子のとこに連行されちゃうじゃない? 自分の血とか傷とか、もちろん自分の死も、そういうのをアンタに見せたくなかったのね。だから先輩は、極力血を流さない戦闘スタイルを確立した」

 

 最低限の被害で、最良の結果を。死ぬくらいなら、血を流すくらいなら、さっさと撤退して敵の情報を整理し、きちんとした策を立てて「次」に挑む。血を流すことなく、私の前で傷ついた姿を晒すことのないように。

 実はわかりやすいひとよね、とからかうように言うセンパイに、思わず言葉を忘れた。

 

「……歌姫センパイ、それマジで言ってます?」

「マジで言ってるわよ。アンタだって自分で言ってたじゃない、あのひと相当なシスコンでしょ」

「……うわー……」

「アンタだって大概ブラコンなんだからドン引くのはやめたげなさいよ」

「えっ嘘、マジでやめてください鳥肌たってる」

 

 仲良し兄妹ね、とにやにやと笑われて頭を抱える。

 いや兄貴が私に甘いのはわかっていた。それに乗っかって好き勝手やってきた自覚も正直なくはない。だがそれに「シスコン」「ブラコン」と名称を付けられるとさすがにぞっとした。そんなことはないと言い張りたいが、センパイは笑うのをやめない。

 ちょっとやけになって、手元にあった珈琲を一気に呷る。珈琲はまだちょっと熱かった。

 

「……ブラコンではないです」

「はいはい、わかったから珈琲一気はやめなさい。熱かったんでしょ、涙目なってるわよ」

「いやマジで違うんですってば」

「わかったわかった」

 

 絶対信じてね~~~と泣く真似をすれば、とうとうセンパイは声を上げて笑った。いやマジでこっちからすれば笑い事じゃない。あの兄貴に対してブラコンとか末代までの恥というか、もはや死んだ方がマシ。

 ぐぬぬと唸ると、いいじゃない、とセンパイはただ楽しそうに笑う。

 

「アンタの八つ当たりと気晴らしにもなんだかんだ付き合ってくれる『いいお兄ちゃん』でしょ? こうして私にアンタの気晴らし相手を頼んだりね」

「え?」

「じゃなきゃわざわざ『夜に来い』なんて言わないわよ。『夜まで硝子に付き合ってやってくれ』って意味でしょ、あれ」

「…………マジすか」

「マジよ」

 

 たっぷり数秒、沈黙が流れる。

 あ、これ煙草吸いたい。めちゃくちゃ吸いたい。煙を肺に入れて、このぐちゃぐちゃな羞恥をまとめて吐き出したい。そして全てを忘れ去ってしまいたい。

 とりあえずあのクソ恥ずかしい兄貴には五条が買ってきたクラゲの餌でも食わせてやると心に誓う。

 

「……センパイ、この話はどうか内密に……」

「そんな苦悩に満ちた顔で言わなくても」

「私にとってはわりとマジで深刻な問題です」

 

 まああえて他で言うようなことはしないけど、と呆れたように言うセンパイはまた珈琲に口を付けた。

 というかこのセンパイ、マジで兄貴のこと理解しすぎではないだろうか。何せ兄貴が兄貴なので今まで考えたことはなかったが、これはひょっとしてひょっとするのでは。

 思わず身を乗り出してそれを尋ねると、センパイは照れるどころか死んだ目をして軽く手を振った。希望の欠片もない声で、儚く甘い夢を切り捨てる。

 

「ないわよ」

「え~それにしちゃ兄貴のこと理解しすぎでしょ」

「あのね、硝子、私はこれでも先輩のこと信頼してるし、呪術師にしては珍しいくらいまともなひとだとも思ってる。尊敬だってしてるつもりよ。ただ、ただね、」

 

 アンタの前でこんなこと言うのは気が引けるけど、と歌姫センパイは今日でいちばん真面目な顔で拳を握った。

 

「私、付き合うなら健康で文化的な最低限度の生活を送ってるひとがいい……!」

「タイプじゃない理由が生存権の放棄なのマジでウケる」

 

 

 ***

 

 

 世間の保育士さんはきっと大変なんだろうなと、背後の喧噪を聞きながら思う。

 

「だから私のが先輩だっつってんだろ五条!」

「弱っちい歌姫相手に敬語使えとか無理じゃん?」

「こら悟、たとえ弱くても敬意は払うべきだよ」

「聞きましたよ、今日クラゲさんがオムライス作ったって! 僕も食べたかったな~!」

「灰原、声が大きい。クラゲさん、これ今日の任務先で買ってきたお土産です」

 

 いや、七海くんにはありがとうと言っておこう。受け取った紙袋の中を見ると、入っていたのは安眠効果のあるハーブティの類い。そういうのを作っているおばあさんと任務先で話をしたらしい。なるほど寝ろと言いたいのはわかったから俺の隈を見ながら「クラゲさんには必要なものかと」とか言うんじゃない。

 改めて思う。ガキの相手をする職業のひとのストレスは、きっと俺の比ではない。心の奥底から尊敬します。俺には無理です。

 

「とりあえずちょっと口を閉じろお前ら。うるせえ」

 

 仕方がないのでちょっとした呪力の放出とともにそう言ってやると、さすがに部屋は一瞬静かになった。これくらいしないと静かにならないのがマジでめんどくさい。

 ひとつため息をついて、背後に向けて書類ケースを差し出す。

 

「庵、資料まとめといたから持ってけ」

「あ、ありがとうございます!」

「何よ、任務関係?」

「盤星教関連だよ」

「ばんせいきょう」

「ついでに灰原くんと七海くんには盤星教の基本的資料をやろう」

「やったー!」

「ありがとうございます仕事がはやい」

 

 私たちにはないんですかと夏油が文句をつけるが、そもそもお前ら盤星教くらい知ってるだろというか。俺は素直に学びを得ようとする相手には協力的なだけです。

 どれどれと灰原くんを押しつぶしながら資料をのぞき込む五条、お前後輩に尊敬されないのはそういうとこだぞと思う。

 

「……まあ確かにこれくらいは基本知識だわな。つかクラゲさんこんなのまで資料作るって、実は暇?」

「五条、アンタね、」

「いーよ庵、その程度で腹立ててたら血管何本あっても足りねーから」

「その理屈で言うと歌姫先輩は血管何本あるんでしょうね」

 

 んだと夏油、とまた大声を出そうとする庵にため息をつくと、うっと詰まった後輩は小さな声ですみません、と呟く。基本的には素直な庵だが、どうもクズふたりには熱くなってしまうらしい。まあ気持ちはわからんでもないが、さすがに怒りくらいはコントロールできるようになれよと思う。感情のコントロールは呪術師の基本だ。

 お前はもうちょい受け流せるようになりな、と言えば、うううと唸る声が聞こえる。

 

「はいクラゲさん、質問いいですか!」

「俺、灰原くんのそういう空気読まねーところ嫌いじゃないよ」

「ありがとうございます!」

「うん、そこでお礼言える素直さもな。で、何?」

 

 そして天元て何ですか、と軽く言い放った彼に、俺は改めて高専の教育体制を心から憂いた。さすがに唖然とする庵に、困った顔をする夏油。平然としているのは五条だけで、七海くんもまた頭を抱えていた。一応七海くんは知っている様子なので説明を受けてないわけではなさそうだが、理解していないのを放置している時点でダメだろ教師。

 とりあえず俺はキーボードを叩き、プリンターに新たな資料を吐き出させる。

 

「……はい、天元の資料」

「ありがとうございます!」

「それも資料あんのかよ。口で説明してやりゃいいじゃん」

「いや、口頭での説明で頭に入らない場合もあるから、資料があるというのはありがたいことだと思うよ。繰り返し読んで復習できるしね」

「そもそも口頭での説明で理解していなかったから灰原もこう言っているので……」

 

 クラゲさんの資料はいつもわかりやすくて助かりますと元気いっぱいの灰原くん、ありがとうなんだけど何だか複雑な気持ちになるのは何故だろうか。

 とりあえず、と夏油は優しい顔のままで言い聞かせるように言った。

 

「灰原、天元さまには『さま』をつけるようにしよう。この呪術界のまさに『核』といえる方だからね」

「はい! ……あれ、クラゲさんはさっき、」

「俺は俺だろ。見習わない方がいいぞ」

 

 しれっと言い放てば、困ったように笑う夏油。俺が誰に敬意をはらうかは俺が決めることなので、是非とも放っておいて欲しい。

 相変わらずですね、と庵に呆れたように言われるが、今さらだろと軽く返す。

 

「そんなだから無駄に敵を増やすんですよ……」

「敵を増やしても殺されねー程度の対策は取ってる」

「また嫌がらせ任務まわされますよ、クラゲさん」

「別にいーよ。どんな任務だろうが俺は無理だと思ったら逃げるから」

 

 このひとは……と呆れる夏油の肩に腕を置き、笑いをこらえる五条。ま、いーんじゃん、とひらひらと手を振りながら言う。

 

「大丈夫っしょ、クラゲさんならたいていの呪霊からは逃げ切りそーだし」

「特級にそこまで言わせるなんて俺も捨てたもんじゃないな」

「まあ俺たちにクラゲさん殺せって任務が下りたらそうはいかねーけど」

「せいぜい狙われねーように気をつけるわ」

 

 また庵の視線が剣呑になっているが、事実は事実なんだから腹を立てるほどのことでもなかろうに。七海くんにすらもの言いたげな目線を向けられるが、あえてその碧眼を避けてモニターに目を戻す。俺はあんな軽口に感情揺らされるほど暇じゃありません。

 背中に向けられた視線の一切を無視して、いつも通りの作業にうつる。今日の昼間にサボってしまった分は夜のうちに片付けたかった。

 

「……そう言えば先輩」

 

 集中しようとしたそのときに、ぽつりと零された後輩の声。何、と声だけ返せば、ちょっとだけ優しげになった声が続いた。

 

「硝子、今日は早く休むそうです」

 

 あのあとたくさんお喋りしたら疲れちゃったみたいで、と明るい声。

 相変わらず庵はそういうところが鋭い。そうか、と相づちを打って、その辺にあった飴を後ろに放り投げる。

 わ、と驚いた声はしたが、どうやらちゃんと受け取ったらしい。

 

「アイツ機嫌悪いとうるせーんだわ。さんきゅな」

「少しは素直に心配だったって言ったらどうなんですか」

「別に。今日みたいに外に引きずり出されるのはもう勘弁てハナシ」

「クラゲさんて素直じゃないだけで家入さんのこと大好きですよね! 僕も妹いるのでわかります!」

「灰原くん、ちょっとお口チャックしような。おうそこのクズども、笑ってんならいい加減出てけや」

「知ってたけどシスコン……!」

「わかってたけどシスコン……!」

「……俺、お前らと歳離れてて良かったよ」

 

 こいつらと在学期間が被っていれば、この七面倒なやつらと毎日のように顔を合わせていた可能性がある。そうなればさすがに温厚な俺もどこかで我慢の限界はきていただろう。なるほど、そう考えれば庵がこいつらにキレやすいのも無理はないのかもしれない。

 何か同期と先輩がすみませんと真面目な顔で言う七海くん、むしろあんな先輩をもってしまった君には同情しかないので安心して欲しい。あと灰原くんはもう何か諦めている。

 

「それはそれとして盤星教についていくつか質問があるのですが、いいですか? 関連して、天元さまについても」

「いーよ。庵、そこの笑い袋ふたつ外に捨ててきてくれ。うるさい」

「こいつらの前で言ったのは謝りますから無茶ぶりやめてください!」

「? 家族が大事なのは恥ずかしいことじゃないよね?」

「灰原、否定はしませんがとりあえず君はその資料を熟読しなさい。天元さまを知らないのはさすがにまずい」

 

 復活した喧噪にため息をつきつつ、キーボードを叩く指は止まらない。

 少し前までは訪れるひとなんてたかが知れていたこの部屋も、ずいぶんと賑やかになったものだ。深海みたいに静かで暗い部屋だと硝子が零していたのが嘘のよう。

 

「……どっちかっつーと南国の浅瀬だな」

「? 何か?」

「や、何でもない。で、質問て?」

 

 少し不思議そうな顔をした七海くんが、では、と資料の該当箇所を指さした。その隣で灰原くんは一生懸命に天元についての資料を読み、相変わらず笑いを堪えてうずくまっているでかいガキ二匹を引きずり出そうと庵がもがく。庵、外に捨てろと言ったのは俺だけどさすがにそれは無理だと思う。

 やれやれ、と質問に耳を傾けながら目の前の数式を辿っていく。このところ研究の手が止まることこそ増えたが、協力者が増えたことでデータの収集は妙にはかどっていた。

 今までひととの交流はめんどくさがってばかりだったが、案外悪いことばかりでもなかったと認識を改める。

 

「そういやクラゲさん、俺にも飴ちょーだい」

「五条さんの面の皮ってどれだけ分厚いんですか?」

「あ゛あ゛ん?」

 

 ただ、頼むから喧嘩は外でやってほしい。

 

 

 ***

 

 

 静かに近づく大波に、未だ海月は気づかない。

 

 

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