生存権取り戻したところです。ご注意ください。
もう少しだと、もう何度心の中で繰り返しただろう。だというのに、いざ「そこ」に辿り着いてみれば、呆気ないと言えば呆気ない。
機材もデスクも全て運び出し、まっさらな箱に成り果てた深海。その中心に立ってようやく、解放感と喪失感はわりと似ていることを理解した。
いや、寂しいとかそういうことはまったくもってない。呪術にも高専にも一切の未練はなく、もう働かなくていいという一点についてはこのうえなく嬉しい。怠惰に浸るための準備はすでに整っている。そのためだけに俺はこの地獄を生き抜いてきたのだから。
ただ、
そんな
「──庵、」
最後の挨拶にきた義理堅い後輩に、その辺の紙に書き留めたメモを差し出した。何の疑いもなく素直に受け取る様子に、俺のわずかばかりの良心がきしむ。
「引っ越し先の住所と新しい連絡先」
「あ、はい」
「家族とお前にしか教えてねーからあんまり大声で言うなよ。無駄だとはわかってっけど一応の抵抗はしたい」
「それ私に教えていいんですか」
いえ言い触らしたりしませんけど、と真顔で言う庵に肩をすくめる。
どうせどれだけ隠したところで、必要になればあのクズどもは勝手に調べあげるだろう。いや「必要になれば」どころか「暇だから」くらいの理由で俺のプライバシーなんて軽く無視するやつらだ。クズどもの性根などとうに諦めているが、せめて「もうお前らと関わる気はない」という主張くらいはさせてもらおうと思う。
だから、本当なら誰にも教える気はなかった。空気を読んだ善良な魂の持ち主たちも、あえて聞いてくることはなかった。これで呪術界と縁を切る、それでよかったのに。
「……お前がその情報を使うかどうかは自由だけど、まあ来たけりゃ来いよ。近くに温泉もあるし、骨休めにはいいとこだ」
俺が余生を過ごすためにあらゆる情報を集めて選んだ場所なので、快適さは保証できる。地酒も美味いらしいと付け加えると相変わらずの酒好きは目を輝かせた。
いつもなら呆れるところだが、さすがに俺もいまそんな余裕はないらしい。軽く頷いて口を開こうとしたとした考えなしの馬鹿を、ただし、と少し強い声で遮る。
「……まあ、男のひとり暮らしだから。その気がねーなら硝子か誰か連れてこいよ」
「……えっ」
「いや、うん、好きにしろ」
「そこで逃げないでください先輩!」
咄嗟に顔を背けた俺の腕を、よくよく知った小さな手が引き留める。
いま、自分がどんな顔をしているのかわからない。
「……『いい先輩』でいてほしいなら逃がしたほうがいいと思うね、俺は」
「そ、ういうところがずるいんですよ貴方は、しかも今さらになって!」
「巻き込めるわけねーだろ」
今さらになったのは、庵を俺の「特別」にするわけにはいかなかったから。俺自身が多方面に喧嘩を売り続けた自覚があるから。
何より俺が、俺のためにしか生きられないとわかっているから。
「これは、……ただの、けじめだ。俺の事情でしかない」
「……相変わらず本っ当に勝手ですね」
「自覚してる。いらなかったらそれ破り捨てていーぞ」
喋りながらうるさく響く鼓動を落ち着ける。ようやく顔を前に戻すと、珍しく俯きがちな庵が視界に入った。
顔に傷つくろうが弱かろうが俯くなと言い聞かせてきた後輩の、こんな姿を見るのは随分と久し振りのような気がする。それが俺のせいだという事実に、随分と奇妙な気分に駆られた。
身長差のせいで庵の表情は見えない。だが、黒髪の間から覗く耳は真っ赤だった。
せんぱい、とか細い声が静かに海底に落ちる。
「……う、かがい、ます、ね」
ひとりで、と付け加えられた囁きよりも微かな声が、俺の鼓膜を確かに揺らす。
聞こえないふりをしてやれなかった俺は、きっとクズどものことを言えないくらい性格が悪いのだろう。
その手を振り払ってやる優しさを、俺は持ち合わせていない。
「……お前、男の趣味サイアク」
「知ってますよ……」
庵の手が俺の腕を滑る。指先までおりてきた小さな手は、冷たくて心地よかった。
*
「おいクズども祝杯あげんぞ。付き合え」
「何、ヘタレのクラゲさんがようやく勇気出したんだ? おっっっそ」
「そう本当のことを言うもんじゃないよ悟。歌姫先輩の鈍さも大概だったんだから」
「確かに、クラゲさんはかなり露骨でしたからね。あれは自覚があったのか、なかったのか」
「あったんじゃない? それでも庵さんに優しくしたかったんだよ、きっと!」
「クラゲさんはある意味どこまでも正直なひとですからね、──自分の心に」
破り捨てて欲しかった(そう言えるやつにはなれなかった)
こんな日、来るのかなぁ……(来ない気がする)