面倒と思えば生命活動以外の一切を拒否するこのひとだが、ごくまれに脳に溜め込んでいた思考を吐き出すように訥々と言葉を並べていくことがある。抑揚が少なく淀みのない話し方には妙な説得力があり、しかも広く深い知識があるひとだと知っているだけに、ついつい耳を傾けてしまうのが率直に言って厄介というか何というか。
任務を終えて高専に戻る車の中で、助手席に座ったクラゲさんは誰に聞かせるでも口を動かし続ける。トリガーになったのは、後部座席に座る虎杖くんの何気ない言葉だった。
『それにしても、何でぬらりひょんが妖怪の総大将なんだろな?』
任務を終え、高専に戻る車の中。
近頃すっかり頼りがいのある呪術師の顔になってきた一年生たちは、任務後の高揚感のまま、後部座席で学生らしい何気ない会話を繰り広げていた。最近の授業の話から夏油さんが調伏した呪霊の話、そこから虎杖くんが見たという妖怪が出る映画の話へと話題が転がり、それは有名な創作の設定が定着しただけ、と伏黒くんが返したところで、任務の引率として同行していたクラゲさんが珍しく口を挟んだ。
『実際、ぬらりひょんは呪霊として最強クラスだろ』
え、と身を乗り出した後部座席の三人に、ガキじゃねーんだからちゃんと座れとクラゲさんは欠伸混じりに返し。どういうこと、と後部座席を揺らす釘崎さんに嫌そうな顔をしながら、それでも特に嫌がることなくクラゲさんは語り出した。
呪術的な観点で考えてみろよ、の一言で車内が講義室に変わる。
「ぬらりひょんには確かに恐怖を煽るような逸話はない。大衆から負の感情を向けられていないという点において、等級が高い呪霊である可能性は極めて低いと考えていい」
ぬらりひょん。一般に、禿げ上がった瓢箪のような頭蓋が特徴的な妖怪。
江戸時代の書物にはすでにその姿が描かれているが、解説文がないためにどういった妖怪なのかは不明。「ぬらり」と手をすり抜け「ひょん」と姿をみせることからその名がついたという伝承が岡山県の備讃灘に残っているが、それが一般における「ぬらりひょん」と同一なのかも定かではなかったはずだ。
不明だらけの妖怪だが、現代においては「家の者が忙しくしている間にいつのまにか入り込み、茶や煙草を嗜む妖怪」と呼ばれ、さらには「妖怪の総大将」にまで大出世している。
創作と拡大解釈を重ねた結果だとされているが、確かにいくら怪異の総大将とあっても勝手に人の家でお茶をするだけの妖怪を怖いかと言われれば微妙なところだろう。いや逆に人間にそれをやられたら違う意味で怖いけども。
低級なのに最強っておかしいでしょ、と返した釘崎さんに、クラゲさんは前を向いたまま、最強だろ、と声の調子を変えずに続けた。
「知らんうちに家に入ってきて我が物顔で茶ァしばくんだぞ。つまりぬらりひょんは、
運転席の真後ろに座る伏黒くんが息を呑んだ気配がした。それは、とクラゲさんの言葉を引き継ぐように伏黒くんが口を開く。
「ぬらりひょんには結界が通用しないってことですか」
「その可能性はある。しかも結界内の人間はぬらりひょんを敵として認識できんらしいからな。家の主だと思い込んでしまうなんて説もあるが、その辺もどう解釈するか」
従うべき相手だと洗脳されるのか、命令に逆らうことができないのか、攻撃をすることができないのか、そもそも攻撃が無効化されるのか。
どれも負けるし死ぬよな、といっそ軽い調子でクラゲさんは続ける。
少し車内のクーラーが強すぎたかもしれない。にわかに冷え始めた空気に、さっとクーラーを緩めた。少し先で信号が黄色に変わったのを見て車の速度を緩めていく。
赤信号を前に車が完全に動きを止めると、まっすぐ前を見ていたクラゲさんは少し視線を左に逃がす。街並みでも眺めているのか、私の方から表情は見えない。
「この国は昔から『境界』にこだわるくせに、その線引きは状況によって変化するし、境界を越えることも禁忌なようで不可能ではない。そういう『曖昧さ』の具現みたいなもんなのかもな、ぬらりひょんは。いうなれば俺たちにもしっかり染み付いている『概念』の化身。もしそうなら低く見積もってもそう簡単に祓える存在じゃないし、何よりーー領域展開も結界術の一種だ」
今度こそ三人が揃って息を呑んだ。
限られた者のみが辿り着ける呪術の極地、領域展開もまた結界術の一種。本来ならば脱出はほぼほぼ不可能と言える必中・必殺の結界から、容易く抜け出ることが叶うのだとしたら。限りなく自分が有利であるはずの領域内において、ぬらりひょんを敵だと捉えることができないのだとしたら。
力ある呪術師ほど理解するだろう、その『曖昧』がいかに脅威であるかということを。
信号が青に変わった。ブレーキを緩め、アクセルを踏み込んでいく。周囲の景色が動き始めても、車内の空気は未だ冷えたまま。
ほらな、とその声の温度も変わらない。
「わりと最強だろ、ぬらりひょん」
欠伸混じりに落とされた言葉に、若き呪術師たちは静かに考え込んでいた。
*
高専に戻り、クラゲさんと共に報告に向かう。
なんと言ったものかと言葉を選んでいたが、口を開くのはクラゲさんの方が早かった。あいつらさ、とその声はどこまでもいつも通りで。
「なんで信じちゃうんだろうな、あんな適当話」
「……クラゲさんはもう少しご自分の影響力を理解されるべきかと……」
「ただの思考実験だろあんなもん。俺は思いついたまま喋っただけ」
まあでも本当にいるなら夏油とかが手駒に欲しがりそうだよな、とクラゲさんが言った数日後、任務帰りの灰原さんが「何か急に夏油さんが岡山に旅行に行ったらしいよ! いいなあ、魚とか美味しそうだよね!」と話しているのを耳にした。
いや、きっとただの観光旅行だろう。そう言い聞かせる私の脳裏では、頭の大きな老人がにんまりと湯呑みを傾けていた。
たまによく喋ったと思ったらその全てが大嘘というかその場での作り話だったりする男、家入海月です。
本当は術式「ぬらりひょん」を思いついていたのですが、うまくストーリーにならなかったので呪霊にしてみました。でも日本の怪異って基本的に「自分のテリトリー(条件)なら敵なし」みたいなやつが多いイメージなので、その「テリトリー」を簡単に踏み越えちゃう存在って実際だいぶ最強だと思うんですよね。
「無限」を「境界」として捉えられるかどうかについては、ぬらりひょんの解釈と力量に期待したいところ。
なんていう、与太話でございます。本気にしないでね。