「お前、反転の素質皆無だな」
「クラゲさん、せめて言葉を選びませんか?」
夏油に協力を求められて以来、少しだが夏油が部屋に来ることが増えた。請け負っている任務が増えていることを考えれば、これでも相当時間をつくって顔を出しているのだろう。話を聞いて適当な資料や文献を渡したり、ときにはこうして実際にちょっとした実践を見たりと、これでも一応の協力はしていた。
とりあえず夏油は、今自分にできることとできないことの整理をしているらしい。身体を巡る呪力を操りながら、ひくりと頬を揺らした。
「反転の素質あるやつのが珍しいんだから気にすることねーだろ。お前の同期ふたりが特殊例なんだよ。硝子に至っては例外も例外だし」
「……それは確かに」
「素質のない方向で努力するのは建設的じゃない。やっぱ術式を拡張する方向で考えた方がいいだろうな」
術式を裏返すよりも、伸ばす方向で。
ふむ、と考えた夏油は、迸る呪力を引っ込める。難しいな、と呟いたその声には、わずかな悔しさが滲んでいるような気がした。まったく、無い物ねだりが好きな奴だ。
「そんだけの呪力量あるくせに反転までなんて欲を出すなよ。あるもんを使え」
「ああ、クラゲさん呪力量少ないですもんね」
「……お前こそ言葉選べるようになったほうがいいぞ」
別に本当のことを言われて腹を立てるほどガキでもないが、こいつまじで素でこれを言っているようだからすげーなと思う。あれ、と不思議そうに自分の言葉を辿り直す夏油は、クズの自覚のないクズだから厄介だ。
でも本当にクラゲさんの呪力はかなり少ない方ですよねと繰り返す夏油、少しは俺の話を聞けと思う。
「……まあ自覚はあるよ。一級の中なら最低ランクだろうな」
「それで呪力切れとか起こさないんですか?」
「昔はあったけど、今はほぼない」
「……そういえば、ここ数ヶ月で灰原の呪力操作が格段に良くなった気がするんですが」
「灰原くんは意外と筋が良いぞ」
七海くんもなかなかだったけど、と続ければ、なるほどねと夏油は苦笑した。
確かに俺は呪力の総量がそもそも少ない。硝子にも格段に劣るし、だからこそ自覚なく術式を使っていた昔は呪力切れで体調を崩すことも少なくなかった。だが、エネルギーが少ないなら節約するすべを覚えればいいだけのことだ。
呪力を必要なだけ、必要なところに。呪力のロスを限りなくゼロにすれば、俺程度の呪力量でもそれなりに戦うことはできる。
緻密も緻密な呪力操作には相応に努力も必要だったが、得られたものは大きかった。
「呪力操作か……そちらももう少し精度を上げられるかな。コツとかあるんですか」
「お前もそれなりに出来てそうだけどな。まあさらに伸ばしたいなら、日常生活から皮膚の薄皮一枚内側に常に呪力流しとけよ。当然、一切乱れさせるな。これが無意識に出来るレベルになれば相当」
「想像以上に地道。いえ、鍛錬はそういうものですね」
「日々精進だよ。生憎と俺は凡人なんでな、地道に努力するしかなかったの」
その若さで一級やってるひとが何を、と夏油は笑うが、いやそれこそ特級のお前が言うんじゃねーよというか。
こうか、と薄い薄い呪力をまとって見せた夏油。それをさらりとやれただけ、十分嫌味だと凡人の俺は思う。俺も要領が悪い方だとは思っていないが、少なくとも何でも一回で出来るほうではなかった。ただ、効率よく努力するすべを演算で導き出せるだけだ。
とはいえ、夏油相手に嫉妬をしてしまうほど俺はガキじゃない。
ふと、くすりと夏油が小さく笑った。何だよ、と言ってみると、いえ、と笑みを深める。
「私はどうもすぐに相手を怒らせてしまうんですが、クラゲさんはそうじゃないのでありがたいなと」
「怒ってないと言った覚えはねーけど?」
「でも実際怒ってないでしょう。しかも面倒見もいい」
「そこまで俺の器は小さくねーよ」
「ええ、助かります。特に年上にはすぐ嫌われてしまうので」
「……別に年上だけじゃないんじゃ」
「何か言いましたか?」
いや何も、ととりあえず目をそらしておくが、何だ一応嫌われてる自覚あったのか、とむしろちょっと感心した。
まあ確かに、夏油にとっては事実を事実として口に出しているだけで、悪意はないのだろう。そのあたりの感覚は俺としてもわからなくはない。何せ俺も、同じ理由で爺どもには蛇蝎のごとく嫌われている。
小さく息を吐いて、改めて夏油に顔を向ける。
「よほどのことがねー限り怒りゃしねーよ、労力の無駄だし」
「むしろ怒ることあるんですか?」
「お前は俺をなんだと思ってんの?」
「そろそろアンドロイドか何かかなとちょっと思ってます」
「積極的に喧嘩売りに来るのやめろ。なくはねーよ、何年か前に禪院のドクズを半殺しにしたこともある」
「何ですかそれ詳しく」
「絶対言わねー」
半殺しというか殺そうとしたところを直毘人さんに止められてしまったのだが、まあ詳細はいいだろう。あのクソ生意気なドクズは今も元気にしているだろうか。直毘人さんに俺の奥の手を晒すことになってしまったのは彼のせいなので、どうか元気に死んでいて欲しい。
よく禪院家に手を出して無事でいますね、と言われるが、俺が直毘人さんに気に入られてしまった事実もあって、どちらかというと積極的に命を狙われているような気がする。今までに差し向けられた呪いのなかには、おそらく禪院家からのものもあることだろう。まあこれというほど興味もないのであまり覚えていない。
「クラゲさんも実はそれなりにやんちゃしてるんじゃないですか」
「適当に流してやってたのに、しつこく喧嘩売ってきたから仕方なく相手してやっただけだよ。何でこんな温厚な俺に一生懸命喧嘩売るんだろうな」
「温厚の意味を都合良くねじ曲げるのどうかと」
「うるせ」
そんな軽口の応酬をしていたとき、ふとドアをノックする音が響く。はい、と返事をすると、失礼するよ、と聞き慣れた声がしてドアが開いた。
そういえば、と頼み事をしていたことを思い出す。
「おっと失礼、取り込み中だったかな」
入ってきたのは、俺より少し年上の、よく任務で顔を合わせる黒スーツ。
補助監督の、と夏油が応じると、そのひとは軽く会釈をしてみせた。いくら彼の方が年上とはいえ、基本的に補助監督のひとたちは術師に対して敬意を払う。相手が特級ならなおさらだ。
構いませんよ、と立ち上がると、椅子がぎしりと悲鳴をあげた。
「任務の追加報告でしょ。ありがとうございます」
「いえいえ、補足情報も入れてあるのでまたご確認を。あとこれ、差し入れ」
「……さては灰原くんや七海くんが余計な話をしましたね?」
「はは、一昨日彼らの任務に同行したときに、少し」
情報媒体とともに渡された紙袋は見たことのある和菓子屋のもので、中からはふわりと桜の香り。そういやもうそんな季節かと、あまり外に出ない俺はようやく今の季節を思い出した。
仕事に関係ない頼みごとを引き受けてくれたどころか、俺の好物を選んで差し入れをもってくるとは、つくづくこのひとはお人好しが過ぎる。性格的に術師があわなくて補助監督になったと小耳に挟んだことがあるが、こういうところだろうなと心から納得した。
ありがとうございます、と受け取ると、いえ、とそのひとはにこりと微笑む。
「よければ夏油術師も召し上がってください。甘いものが苦手でなければ」
「ありがたく頂きます。……任務の追加報告というと、クラゲさんの研究の関係ですか?」
「そ。本当は俺に提供しちゃいけない情報までもってきてくれる悪いひとだよ」
「ははは、そんな危ない情報だったら夏油術師の前で堂々と渡すわけないでしょ。家入くん、君の冗談わかりにくいから本当に勘弁してくれるかな」
「さーせん」
あながち嘘でもない気がするけどな、と思いつつ桜餅をひとつ取り出して齧りついた。強烈なほどの春の香りが、すうっと鼻を通って抜けていく。
ん、と夏油にも袋を差し出すと、夏油も中からひとつ桜餅を取る。春ですね、とか言いながら夏油も大きく口を開けた。
「うん、美味しい。すみません、私まで頂いてしまって」
「いえいえ。最近はこの部屋によく学生さんたちが訪れると伺っていたので、そのつもりでおおめに買ってきましたから」
「そんな気を遣わなくていいのに。こっちが頼みごとしてる立場なんだし」
「頼みごとなんて気にしなくていいんですよ。俺も君の研究は応援したいと思ってるしね」
「へえ?」
相槌を打ってみせた夏油に、補助監督には結構そういうひとは多いんですよ、とそのひとは笑う。
「任務に赴く術師の方の前で言うことではありませんが、……補助監督だって、自分が任務先へ送り届けた術師が傷つくのは見たくないですから。家入くんの研究に期待するひとも多いんです」
「……なるほど。そうですよね」
「夏油、今のほかで言うなよ。アンタも、それ迂闊に口にすんなって言ってんでしょ。俺みたいに爺どもに目ェ付けられてもしらねーぞ」
「ははは、気を付けるよ」
からからとそのひとは笑ってみせるが、本当にわかってんのかと少し呆れる。あの爺どもはひとり気にくわなかったらまじで一族郎党、末代まで呪いかねないクソどもだ。俺は自分の身を守る程度の策くらい講じてあるが、このひとはそうはいかない。
笑う彼と呆れる俺を見ながら、夏油は何だか愉快そうにくすりと笑う。何だよ、と言ってみれば、いえ、とさらに笑みを深めた。
「クラゲさんにも気安く話せる間柄のひとがいたんだなと」
「お前やっぱ言葉選べるようになった方がいいわ」
「家入くんは素直じゃないだけでいい子なので、補助監督の中では人気なんですよー」
「俺とっくに成人してんだけど、まだ『いい子』とか言われなきゃなんねーの?」
彼の「いい子」発言に笑って桜餅を喉に詰まらせた夏油の背を引っぱたきながら、言うほど歳変わんねーのに、とじとりと彼を見た。いやいや実はそれなりの歳なんだよ俺、というが、言うて俺と入れ替わりで高専を卒業した程度の年の差のはずだ。
それでも、とそのひとは笑みを絶やさない。
「焦って大人になる必要はないって話だよ。特に君みたいに大人びて、ひとの面倒を見るのが当たり前な子にとってはね」
「……アンタはお人好しが過ぎるし、俺に贔屓目を使いすぎです」
「はは、君がそう言うならそうなのかもね」
じゃあ俺はこのへんで、とさっさとそのひとは去って行った。
たまにこうして用事のついでに俺の部屋を訪れる彼だが、少し雑談をするものの、決して長居はせずに帰って行く。その辺りの塩梅というか、距離感の取り方がわりと心地よく感じているのは否めなかった。
笑いどころが微妙にひととずれている上に、ツボにはまると意外と長い失礼な後輩は、ようやく息を吐いて体勢を戻した。面白いひとですね、と軽く言葉を続ける。
「今まであまり補助監督のひとと話すことはなかったんですけど、ああいうひともいるんですね」
「? フツーに変なひと多いと思うけど……ああ、クソ生意気で柄の悪い特級相手じゃ皆萎縮しちまうのか」
「悟と一緒にいた弊害がそんなところにも……」
「いや、お前の話だけど」
「は?」
「いやそこで反射的にガン飛ばす時点でアウトだから」
こうやって他のひとから学ぶ機会を自ら潰してたんだな、としみじみと思う。補助監督の中にも元術師はいるし、性格的・能力的に術師に向かなかっただけで、言うほど弱くないひともいなくはない。術師の家系出身のひとだって当然いるので、意外とそういうひととの雑談のなかにもヒントはあったりする。俺はそういうところから学ぶこともあったけれど、夏油はそれすらなかったと。まあ自業自得だろう。
がしがしと頭を掻きつつ、補助監督のひととも雑談くらいしてみたらどうだと適当を言ってみた。
「ちなみに今のひと、下手な術師より結界術詳しいぞ。帳のクオリティやバリエーションも頭ひとつ抜けてる」
「え、」
「俺もいろいろ教えてもらった。……学びを得るヒントはどこにでも転がってるってこった」
視野を広く持てよ、とそれらしいことを言ってみると、夏油は神妙な顔で黙った。
ひとに頼るのが苦手も苦手な夏油にはいい薬だったのかもしれない。自分より立場が下の人間が相手だろうが何だろうが、学び得る機会を見つけるのは自分自身だ。
ところで、と俺はにやりと笑ってみせる。
「薄皮一枚下の呪力操作。忘れてる」
「……あ」
結局、何事も地道に努力するのが一番の近道なのだ。
***
うわ何この面白すぎる光景。
そう思った瞬間に、私の右手は携帯のカメラを起動させていた。
「何撮ってんだ硝子。とっととこのでかいガキ回収してくれ」
「いやあまりにも面白くて。何そのくっつき虫」
「夏油に振られて傷心の五条さん家の悟くん十七歳」
「振られてねーし傷心でもねーけど!?」
だったらそこから離れろよと心底めんどくさそうに言う兄貴。それでもぶすくれた様子の五条は動こうとはしなかった。五歳児かよウケる。
兄貴が座る椅子の脚に、その長い手足を巻き付けてしがみついている五条。基本的に自分の作業の直接的な邪魔さえしなければ特に気にしない兄貴も、さすがにこれは思うところがあるらしい。
何がどうしてこうなったと呆れるが、まあ私は面白いだけなので構わない。とりあえずもう一度シャッターは切っておいた。
「ひさびさに休みの重なった夏油を遊びに誘ったらすげなく振られたんだと。めんどくさい彼女かな?」
「うっせーし!」
「それで浮気相手に兄貴を選んだか~。今七海や灰原も任務に出てんもんね」
「いや俺を選択肢に入れるなよ。ほらもうひとりいんだろ、今年入ってきた一年生の」
「まだ五条に耐性のない一年を売るなよ兄貴」
おどおどと怯える様子を見せる眼鏡をかけた彼のことはまだよく知らないが、どう見ても七海ほどの反骨心もなければ灰原ほどの図太さもない。そもそもよく知りもしない特級の先輩とか、普通は恐ろしすぎて近づきたくないだろう。さすがの私も積極的に一年生をいじめる趣味はない。
伊地知くんだっけか、と兄貴もようやく名前を思い出したように呟く。
「特級にいじられるのに慣れれば基本怖いもんなんかなくなるよ。何事も経験だろ」
「伊地知ィ? アイツいじったら殺しそうだからやだ、雑魚きら~い」
「こんな先輩をもって可哀想に。後輩が嫌なら夜蛾の呪骸にでも遊んでもらってこい」
「普通十七の男に人形遊びとか勧める?」
「安心しろ、今のお前はどう見ても五歳児だ」
ぶすくれた五条はさらに腕の力を強めた。ぎしり、と兄貴愛用の椅子が嫌な音をたてる。おいやめろ、と仕方なさそうにようやく兄貴は五条の方を振り向いた。
「何、話なら聞いてやってんだろ。お前俺に何してほしーわけ」
「……別に」
「反抗期の硝子でさえここまで面倒じゃなかった」
「おいそこで私を引き合いに出すなクソ兄貴」
差し入れに持ってきていた缶コーヒーをその顔面に向けて投げつけると、兄貴は悠々とそれをキャッチした。硝子にも反抗期とかあったの、とか聞く五条、お前も黙れと思う。
「まー今も反抗期みたいなもんだけどな」
「兄貴、黙んねーと次はメスが飛ぶぞ」
「だからお前は医療器具を医療目的以外に使うなっつの」
ったく、とか言いながら兄貴は缶コーヒーのプルタブを開ける。甘党のくせに珈琲はブラック党な兄貴は、真っ黒な缶を傾けながら視線を五条に向けた。
相変わらず五条は、不機嫌そうな顔をしながら椅子にしがみついている。
ふう、とひとつ息を吐いて、兄貴は缶をデスクの上に置き、口を開いた。
「……五条、お前昨日まで任務だったんだろ」
「あ? そうだけど。青森に一週間。まじでだるかった」
「んで帰ってきたのは?」
「昨日の夜中っつーか今日の朝方? ちょっと空明るかった」
「そうか、じゃあ睡眠時間足りてねーだろ。寝ろ」
「は?」
兄貴の手が緩やかに五条に伸びる。白く柔らかそうな髪を指ですくように、その大きな手が十七歳児の頭の上に乗った。一瞬びくりと強ばった五条だったが、ゆっくりと頭を撫でられると徐々に強ばりを解いていった。
その様子に、兄貴の方がわずかに目を見開いた。ああ、この反応はわかる。冗談でやったのにまじで受け入れられてしまって、兄貴の方が驚いている。
え、この反応おかしくね、と兄貴が目で私に訴えるが、私はただ黙って親指を立てた。めちゃくちゃ面白いので私的には全然あり。これも撮っとこ、とカメラを向ける。
「……いや、うん、睡眠不足は感情のコントロールにも影響を及ぼすからな。いくらお前でも疲れはあるだろうし、昼寝でもしたらどうだ。夏油も夜には戻るって言ってたんだろ?」
「……ん」
「……お前実はまじで体調悪い?」
「別に」
「……ならいーけど。寝るなら自分の部屋戻れよ、ベッドある方がいいだろ」
「ここでいい」
ここでいい、と小さな声でもう一度繰り返した五条。
少し瞼を伏せた五条はどこか幼くて、本当にそのまま眠ってしまいそうだった。おそらく普段の五条を知らないひとがこの顔を見れば、それこそ卒倒するレベルで顔がいいとか言い出すのだろう。無防備なイケメンってこんなにあざといのか、と感心してしまうほどにはあざとかった。
しかし、普段を知っている私たちからすれば、完全に話は別だ。もう一言で言ってしまうなら、本当に心の奥底からまじで気持ち悪い。これは完全に鳥肌もの。
早々に限界が来た兄貴は、かつて見ないほど顔を引きつらせていた。
「ちょっと待ってキャラ違いすぎてもう俺が対応できないんだけどこれはまじで五条か? あれか俺に認識阻害系の呪いとか掛かってる? それともまじで俺の気が狂った? やっば、俺まだ死ぬわけにはいかないんだけど硝子ちょっと俺の頭診てくんない」
「ウケる。でもわかる」
え~~~~~という顔をしながらも五条の頭を撫でる手は止めないでやるのがさすが兄貴というか。やれやれと思いながら近寄ってみると、五条はすでに半分くらい眠っているようだった。これはもしかしたら、本当に「最強」もお疲れだったのかもしれない。
仕方ねーな、と思いながら、ぺちぺちとその腕を叩いた。
「五条、寝るなら部屋戻りな」
「めんどい……」
「じゃあここでいいから、せめて横になれ。枕とブランケットくらいは提供してやるよ」
「いや俺のなんだけど」
「じゃあこのまま寝かせる?」
「……わあったよ、ほら五条、ここで寝ていいから椅子から手ェはなせ」
ようやく椅子から手足を離した五条は、そのままよろけるように床に転がる。ほとんど使っている様子のない枕をその頭の下に押し込み、ブランケットをバサリと掛けてやる。暖を求めた五条は、自分でブランケットにくるまった。見た目が完全に巨大な蓑虫。
そしてそのまま数秒して、どうやら狸寝入りではない様子の寝息が部屋に響く。
「……実はまじで疲れてた系?」
「かもな。まあ誰でも疲労は溜まるだろ、確かに徐々に呪霊の発生件数が増えてる」
「去年の災害のせい?」
「も、あるだろうな」
俺ですら任務増えてるし、とため息交じりに兄貴は言った。兄貴が任務でこの部屋を空けているところにはあまり遭遇したことはないが、確かにこのところ兄貴もうたた寝の回数が増えている。それだけ夜の間に任務を片付けていると言うことなのだろう。
五条も疲労で頭狂うのか、と思わず言うと、確かに、と兄貴も深く頷いた。
「いやいつも以上に素直にガキみたいなこというからおかしいとは思ってたけど、まじで頭働いてなかったんだろな。反転術式がどうとかぐだぐだ言ってたから、五条も何かいろいろ試してるみたいだし」
「気晴らしに夏油付き合わせようとしたら振られるし?」
「いい加減夏油離れしろってんだよな。何でもかんでも夏油基準に動きやがって」
いつまでも一緒にいられるわけじゃねーだろうに、とさらりと落とされた言葉がどこか重い。五条にとって、きっと夏油はひとつの指針だった。何が綺麗で、何が汚いのか。何を守り、何を殺すのか。夏油の目を借りて世界を見るのはきっと楽しかったし、楽だったことだろう。五条にその自覚があるかは、別として。
けれど、ずっとそうしているわけにはいかない。そんなふうに思ってしまうのは、三年生になって進路がどうという話を夜蛾にされたからだろうか。
私の進路は、もう決まっているけれど。
「……硝子?」
ふと黙った私に、兄貴の手が伸ばされる。額にあてられた手は、大きくて温かい。
「お前も疲れてんのか? 熱はねーよな」
「別にへーき。五条みたいに任務詰め込まれたりしてねーし」
「お前には勉強があんだろが。医学部行くからって詰め込みで勉強したりすんなよ。効率が落ちる」
「しねーし。点数は足りてっから」
いつも通りの軽口を飛ばし合いながら、考える。
いつまでもこのままではいられない。それはきっと、兄貴や私にも言えることだった。今は、こうして近くにいてくれるけれど。
いつかはきっと、兄貴も自由になることを考えている。
「……兄貴」
何だよ、と小さく落ちる声が近い。
額を離れた手が、今度は頭に乗った。昔はこうして、よく頭を撫でてもらっていた。兄貴の撫で方は、ひどく優しい。
今は、振り払う気にはなれなかった。
「……夕飯、いつもの食べたい」
「またかよ。……わあったよ、夕飯な」
お前もそれまで昼寝でもしてれば、と兄貴はもうひとつ私の頭を撫でて、それからモニターに向き直る。リズミカルなタイプ音に迷いはなかった。少し前まで時折みせていた躊躇いが、消えたような気がする。
足下で五条が寝返りを打った。
「……ちなみに五条どうする?」
「夜まで起きなかったら夏油に回収させる」
「起こさねーの?」
「寝ぼけて術式でも使われてみろ、俺は死ぬぞ」
やべーじゃん、と言ってみれば、やべーだろ、と同じテンションで言葉が返ってくる。何だか妙に笑えてきて、ウケる、と付け加えた。
ちょん、とつま先で五条をつつく。ひとの兄貴に甘えやがって、私の兄貴だぞ、とちょっとだけ言ってやりたくなった。絶対に口に出してなんかやらないけれど。
「改めて、ここまで五条に懐かれた感想をどうぞ」
「懐かれたも何も、こいつ夏油が俺に興味示さなかったら絶対俺に興味もたなかっただろ。夏油のついでに懐かれてもなって感じ。いや普通に懐かれても正直微妙だけど」
「そろそろまじで夏油と五条ってデキてんのかなって思うんだけどどう思う?」
「俺にはどっちかっつーとカルガモの親子に見える」
夏油のあとをてちてち歩いて行く五条が思い浮かんで、思わず噴き出した。
多分卵からかえったときに一番最初に見ちまったのが夏油だったんだろうな、といっそ気の毒そうに言うのはやめろ兄貴。ひよこの五条とか想像しただけで笑える。
「……問題は夏油にその自覚が一切ないことかな」
「へえ?」
「ま、知ったこっちゃねーけど。たぶんそのうち夏油と五条が大喧嘩するだろうから、巻き込まれないようにだけ気を付けとけよ」
「何それ。術式使った?」
「や、ただの予想。特級術師の大喧嘩とか高専も無事じゃすまなそうだよな」
ここまで被害が来ないといいけど、と変わらずキーボードを叩く兄貴。ただの予想だとは言ったが、その口調は妙に確信をもっているようだった。ふうん、と一応その言葉を脳に刻んでおく。確かに特級同士の喧嘩になど巻き込まれたくはない。
特級のカルガモの子どもは、ただ呑気な寝息を立てていた。起きる様子は、まだない。
***
そろそろ日が暮れるという刻限に、携帯が震えた。
着信ではなく、メールが届いたらしい。それは海の外からのメールで、ざっと中身を確認する。予想通りの相手と内容に、小さく息をついた。
『予定を調整したら帰国するよ。君が出した結論は、君の口から聞かせてもらいたいからね。そのついでに君の検証に付き合うのも、もちろん吝かではない』
まだ、今日明日という話ではない。しかし、おそらく数か月後には、きっと。
これを九十九さんに伝えることによって、
『君の答えを、楽しみにしているよ』
それでも俺は、迷わない。俺の優先順位は、もう決まっている。
ぱたんと折りたたみの携帯を閉じて、もう一度開く。足元の寝息を、いい加減片づけてしまわなければならない。
「……そろそろ夏油も帰ったかな」
足元で寝こけている「最強」を回収させたら、さっさとオムライスを作りに行かないと。五条や夏油のぶんまで作ることにならないように祈りながら、夏油の連絡先を呼び出した。
はい、と聞こえた声に、ため息交じりの言葉を返す。
「夏油、お前んとこのカルガモ引き取りに来て」
は、と戸惑いながらも、悟のことですかと言い当てた夏油に、実は夏油ってめちゃくちゃひでーやつなのでは、とちょっと思った。この実力と権力と財力まであるクソ生意気な特級クズを懐かせ、しかも好かれている自覚もありながら、それが五条にどんな影響を与えているのかはおそらく理解していない。
思わせぶりなことをしておきながら最終的には振るタイプかな、とちょっと引いた。さすが特級クズの片割れ。
「俺の部屋で寝こけてるんだよ。回収にきてくれ」
お前のせいでこうなってるんだから責任をとれと言えば、何の話ですか、と本当にわからない様子のクズが言う。どうでもいいから早く来い、とだけ言って通話を切った。そのまま携帯をポケットに放り込んで、足元の五条の顔を覗き込む。
いまだ熟睡している様子の「最強」は、どう見ても五歳児の寝顔をしていた。
「……お前も、難儀なやつを指針にしちまったもんだよな」
まじで見る目ねーよお前、とその眉間をつつけば、少し眉間にしわを寄せた五歳児は、俺の手をよけるようにブランケットに顔をうずめる。
聞こえてくる寝息がやすらかなことだけが、救いだった。
***
星より多く、溢れる数。それでも海月は迷わない。
見たい光は、もう決めた。