季節なんてものはすぐに流れすぎるもので、つい昨日まで桜が咲いていたような気がするのに、いつのまにか葉桜になって、気づいたら蒸し暑い季節が来ていた。首を伝う汗が気持ち悪い。精密機械があるからと、空調が万全に効いている部屋に足早に飛び込む。
「あ~~~~~、すずし~~~~~」
「うるせーよ妹。ノックしたら返事を待て」
「外暑すぎんのが悪い。あ~~~~~この部屋天国」
「機械が熱吐く分、空調強めだからな」
いつも通り涼しい顔をした兄貴は、どこかぼんやりした顔をしている。よく見ればモニターには兄貴のお気に入り、クラゲの動画。どうやら休憩中だったらしい。
寝るとこだったの、と尋ねてみれば、起きたとこ、とまだ瞼が半分下りていた。
「眠いならまだ寝てれば。私も涼んだら戻るし」
「いや、……そこそこ寝たからな。もういい」
「……何か最近兄貴も眠そうじゃん」
「まあ、任務が増えてる分かな」
くあ、と兄貴にしては珍しい大欠伸。
デスクの端に差し入れを置くと、ほとんど言葉になってない礼が落とされる。とりあえずいつも通りポケットから煙草を抜き取って、兄貴の顔を横目で見た。眠そうと言うのもあるが、いつも以上に疲れがにじみ出ている。
このところの呪霊の発生率はそれなりにヤバいらしい。春が来る前から兄貴が「今年はヤバいだろうな」とは言っていたが、確かにただでさえ少ない術師たちが毎日のように日本全国を飛び回っている。ある程度の任務は免除されている兄貴ですらこうなのだから、ほかの術師たちの忙しさも想像に難くない。
実際、後輩たちはまだしも、あの特級のクズどもはかなりいいように使い回されていた。もはや高専にいることはかなり少なく、単独任務が増えたのもあって、ふたりが揃っているところをしばらく見ていない。
「皆忙しそーじゃんね。怪我ばっかだし」
「お前もだいぶ使われてんじゃねーの」
「つっても私は高専内でだいたい済むしね。たまに夜中に叩き起こされるくらい」
「そのうちお前も隈と仲良くなれそーだな」
「は? 一緒にすんなよ」
多分お前も隈が出来やすい上に目立ちやすいぞ、と言われて思わず目の下をマッサージした。別にできたところで大して気にはしないが、隈まで兄貴とおそろいと言われるのは勘弁してほしかった。ただでさえ顔がそっくりなのに。
夜中に叩き起こされるのは、きついけれど別に構わない。なんと言っても、それだけ緊急性のある状況だということだ。頭が割れていたり、手足がなかったり、腹に大穴が空いていたり。よくもまあこれで生きてるもんだという患者が毎日のように出迎えてくれる。意外と人間って丈夫なんだなと、最近妙な感想を得た。
さすがに、ここまでくると血にも内臓にも慣れてくる。やはり、人間は慣れる生き物だった。患者を前にして吐くなんてことはあってはならないので、解剖の見学をさせられたのは確かに無駄ではなかったのだと思う。
そういえば、兄貴はまだ一度も私のところに来たことないな、とふと椅子に座るその身体に目をやった。包帯やその類いは、一切見えない。
「……何だよ、じろじろと」
「いや、兄貴ってまじで怪我してないの? それとも私のとこに来ないだけ?」
確かに以前、私に見られないよう極力怪我をしない戦闘をしている、と歌姫センパイが言っていたのを思い出す。だが、それでも本当に任務に出て全く怪我をしないなんてことはありえるのだろうか。とりあえず手近なところにあった腕を確かめるように持ち上げてみる。小さな古傷はあるが、やはり新しい怪我の気配はなかった。
ねーよ、と兄貴は私が持ち上げた腕の先をひらひらと振ってみせる。
「あってもせいぜいかすり傷レベル。お前に治してもらうほどのもんはない」
「……まじで?」
「隠してどうすんだよ。俺は無茶はしねーって何度も言ってんだろ」
「へー? まあそれならいーけど」
じゃあ、と腕を放すと、重力にそってぱたりと腕が落ちる。
完全に脱力している。まだ兄貴はどこかぼんやりとしていた。
「……やっぱもっかい寝たら?」
「起きるっつの。……硝子、最近夏油に会ったか?」
「夏油? 何で?」
いや、と兄貴はどこか歯切れが悪い。
例に漏れず任務で出ずっぱりの夏油には、たまにしか会えていない。夏油もほとんど怪我をしないし、気がついたら遠方の任務に飛んでいて数日いないなんてこともざらだ。最近ではむしろ、教室に座っている方が驚いてしまう。
確か最後にあったのは、五日ほど前だっただろうか。
「……まー、何か疲れてるっぽかったけど。夏油も任務詰め込まれて疲れてんじゃん? 前の五歳児の五条ほどじゃねーけど」
「あれは死ぬほど迷惑だったな。しかも起きても謝るどころか『忘れろ』って脅しつけてくんだから。まじでクズ」
「五条なんだからもう仕方ねーじゃん?」
「全部が『五条だから』で片付く辺りすげーわな。……いや、夏油も普通にしてんならいい」
「何、今度は夏油のお兄ちゃん役でもしてやんの?」
「やめろ気色悪い。五条相手にもそんなもんしたつもりはねーわ」
ただ、と兄貴は少し言葉を濁す。
言おうか言わないかで迷ったようだが、結局、いつもより少し小さい声で呟いた。
「たまにここに顔出すけど、そろそろメンタルヤバそうだから」
「……メンタルってあの夏油が? まじで?」
「気のせいならその方がいいんだけど。あとあんまメシ食ってなさそう」
「あ、それは思ってた。ちょっと痩せてきたよね」
まだまだ強くなれるってふっかけたの俺だしなぁ、と兄貴は小さな声で続ける。
夏油が兄貴のところにちょくちょく通って、何かしら学ぼうとしているのは何となく察していた。しかしどうやら、それは上手くいっていないらしい。いや、私の勝手な予想で言えば、たぶん進歩はしているのだろうけれど、それは夏油の思うスピードではなかった、とかだろうか。
何せ少し前に、五条が無下限呪術をものにし始めたのを目の当たりにしている。
「俺から見りゃずいぶん進歩はしてる。呪力操作は格段に上手くなったし、補助監督とかいろんなひとに話聞いて知識も入れて、戦術の幅が広がってんのは報告書からでもわかる。でも、アイツにとっちゃたりねーんだろうな。……それ以外にも、たぶん、何かぐだぐだ考え込んでるっぽいし」
「うーん、真面目系クズ」
「まじでそれ。……多分、自分が術師であり強者であるってことにプライド持ちすぎなんだよな、アイツは」
「兄貴その辺のプライドなさそーだよね」
「お前もだろ」
だって必要なくね、と返せば、さすが俺の妹、と変に感心された。ということはやはり兄貴もその必要性を考えてないのだろう。
自分は呪術師だから、とか。
自分は強いから、とか。
そこに意味と意義を見いだして、それらしい理屈をくっつけて、いったい何になるというのだろう。私にはよくわからないが、夏油にはそれが重要らしい。正直めんどくせーやつだな以外の感想が浮かばない。
お前はそれでいーんじゃねーの、と兄貴は眠そうな顔にわずかな微笑みを乗せた。
「必要ないと思うならそれまでだ、大したことじゃない。……けど、うん、そうだな、やっぱり素質がありすぎなやつだと思っちまうもんなのかもしれねーな。しかも、五条みたいにそういう家系なわけでもなく、偶然生まれ持ってしまった力だからこそ。そこに理由を見いだして、安心したくなる。納得したくなる、のが正しいか」
「……そういうもん?」
「偶然を運命に言い換えたくなるって言ったらわかりやすいか?」
そう言われてなるほど、と頷いた。
確かに世間では、運命だの何だのという言葉があふれている。ただの偶然に意味と意義を見いだして、そこに価値まで乗せてしまう人間が多いと言うことだろう。
夏油も、そうだったのだろうか。ほかにはない自分だけの力を、そうやって納得して受け入れて。そのために使わなければならないと、自分に呪いを掛けたのだろうか。
「……自分の強さにも意味と意義があるものだと思ってるから、思うように強くなれない自分がストレスって?」
「もしそうだったら俺にも僅かばかりの責任があるんだろうかとちょっと思っただけだよ。まあ九割くらい知ったこっちゃねーって思ってるけど」
「一割も責任感じてんじゃん。そんなに責任感強くなるなんて兄貴ってば頭でも打った?」
「妹、お前の中のお兄様への認識についてちょっとお話ししようか?」
「やだよめんどくさ」
「まじでこいつ俺の嫌なとこばっか似やがって」
またひとつ欠伸をした兄貴は、ぐっと両腕をあげて伸びをする。ごきり、と兄貴の肩が嫌な音をたてた。年寄りくさ、と言ってやれば、うるせ、とすかさず軽口が返される。
「意味と意義なんかどーでもいーってか、呪術師の使命とか弱者生存とか、アイツまじで似合いもしねー聖職者気取ろうとするよな。その辺は五条のがまだ可愛げあるわ」
「五条は逆にちょっと考えた方がいーんじゃん?」
「別にいーだろ、むやみやたらに人傷つけて回んない程度の理性があれば十分。頭はイカれてるけど、代わりに五条は多分並大抵のことじゃブレねーよ。行動原理がシンプルで、しかもその発端は全部自分にある。自分のために動ける奴はブレない」
「五条はって、じゃあ、夏油は?」
夏油は、と兄貴は少し黙って、軽い口調のままで続けた。
「……意味と意義の根本が揺らいだとき、夏油も揺らぐんじゃねーの」
知らんけど、と軽く続けられたのに、何故だかその言葉には妙な重みがあって。
それ以上深く聞くのを避けた私は、じゃあ、と方向を変えてみる。
「兄貴は揺らぐことある?」
「ないね。俺の優先順位は決まってる」
ようやく目が覚めたらしい兄貴は、手を伸ばしてモニターを切り替える。優雅に海を漂うクラゲたちが消え、数式の海がモニターを塗り替えた。
揺らがないという言葉の通り、一切の迷いのない指がキーボードを踊る。
***
苛立ちが募ると、蝉の声ですら煩わしく感じた。
そもそもあのひとが時間通りに訪れるなんて、全く期待していなかった。期待していなかったけど、少し会わない間にちょっとくらいは進歩を、なんてつまりこれは期待していたんだろうか。なんてことだ、俺があのひとに期待なんてものをしてしまうなんて。ひとなんてそうそう変わるわけがないだろ、他人に期待するな家入海月。ましてあんな人間性破綻している人種相手に。猛省しろ俺の馬鹿。
仕方なしに空調の効いた涼しい深海を出て、蒸し暑い高専の廊下を歩く。さすがに高専には来ているよな、と少々疑わしく思いながらも、適当にひとがいそうな方へと足を向けた。あの特級クズどもに興味を示していたから、学生たちに絡んでいるのかもしれない。
別に探してやる義理など欠片もないわけだが、あのひとを放置してろくなことになった試しがない。さっさと報告を終えて資料を渡し、高専の外へ蹴り出してしまいたかった。
「あれ、クラゲさん! 外に出てるなんて珍しいですね!」
「灰原くんか」
廊下を歩いて行くと、曲がり角でいつもながら元気のいい彼と鉢合わせた。ひとを探しててな、と鉢合わせたついでに尋ねてみる。
「出会い頭に好みのタイプ聞いてくる変質者を見かけなかった?」
「すごいピンポイントですね。さっき会いましたよ、僕はたくさん食べる子が好きです!」
「会ったうえに答えたのかよ。知らないひとに話しかけられて返事をしちゃいけません」
悪い人には見えなかったので、と朗らかに言う灰原くんにはため息しか出てこない。「悪い人じゃない」と「良い人」はイコールではないのだが、その辺りはわかっているのだろうか。まあ、それも彼の良いところではあるのだろうが。
やれやれと思いつつ詳細を尋ねると、自販機の前にいたとのこと。自分がその場を離れたときは、まだ夏油と話をしていたと。何だろう、妙に嫌な予感がする。
まだ近くにいると思いますよ、という言葉に礼を言って、彼に背を向けた。
「明日任務で遠出するので、またお土産持っていきますね!」
気を付けてな、と背を向けたまま手で応えて、俺は薄暗い廊下を急いだ。
任務で遠出、その言葉に覚えたわずかなひっかかりは、とりあえず後回しにさせてもらおう。
*
歩きながら、耳に呪力を集中させる。聴力を上げすぎると余計な雑音で耳がやられそうになるが、ついでに脳にも呪力を集めて情報を取捨選択できるように調整。拾う音を選び、周囲に気を配りながら歩いて行くと、聞こえた。あのふたりの声だ。
位置的に、どうやらまだ自販機の辺りで話をしているらしい。
『知ってる? 術師からは呪霊は生まれないんだよ』
嫌な予感はこれかと、歩みを早める。
別にひとにそれを教えるのは構わない。きちんとした検証のうえでの結論であり、事実は事実。ただ、伝え方というものはある。
続いていく九十九さんの言葉を拾いながら、俺はほとんど小走りになっていた。
『大雑把に言ってしまうと、全人類が術師になれば呪霊は生まれない』
確かにそれは事実だ。事実だが、
俺がようやくそこに着いたそのとき、じゃあ、と夏油が口を開いた。
「非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか」
「ずいぶん短絡的かつイカれた結論だな。術師らしい傲慢さがにじみ出てる」
ばっと夏油が顔を上げる。その顔は、妙に色味がない。
やあ、と諸悪の根源がにこやかに片手をあげた。
「久しぶりだね、海月! わざわざ迎えに来てくれたのかい?」
「とっくに約束の時間過ぎてるんでね。アンタを放置してろくなことになった例しがないからもしやと思って探してみれば……研究の成果を公開するのは勝手ですが、事実の一側面だけを開示するのはあまりにもアンフェアでしょう」
一側面、と夏油が繰り返す。九十九さんは心外だと言わんばかりに首を振った。
「話の流れだよ、海月。別に何かしらの意図があってのことじゃない」
「へえ? で、アンタは、今の夏油の言葉に何て答えるんです」
「そうだね。……それはアリ、と答えるかな」
ぴくり、と夏油の肩が揺れる。
思わず眉間に皺を寄せると、だってそうだろうと九十九さんは肩をすくめた。動きに合わせて、長い髪がさらりと揺れる。
「実際、それが一番
「……いえ、理屈の上では可能、その通りです。だがあくまで理屈のうえでの話だ。非術師鏖殺の経過におけるあらゆる障害と、それに伴う副次的な結果を考えれば、決して現実的とは言えない」
「そうだね、だから実行していない。私もそこまでイカれてはいないよ」
「現実的じゃないってとこまで説明する気がありましたかって話なんですよね」
理屈の上での「簡単」が、現実において「簡単」とは限らない。
夏油、と少し低い声を投げる。いつも平気な顔で笑ってみせる夏油が、今はやけに覇気のない顔をしていた。聞かれたくない言葉を聞かれてしまったとでも思っているのだろう。夏油の内心で燻る葛藤など知ったことではないが、釘だけは刺しておかなければならない。
ひとは、楽な道に走りたがる生き物だから。
「九十九さんの言葉に踊らされるなよ」
「ひどーい。海月は私を何だと思っているのかな」
「ろくな人間じゃないとは思ってます。だいたいその説明の仕方、非術師を皆殺しにするという選択肢を
「それはさすがに穿った見方をしすぎだ海月。……だが、そうか、確かにそう取られても仕方のない言い方をしてしまったかな。すまない、夏油くん。本当にそんなつもりはないよ」
「、……いえ」
戸惑ったように瞬きを繰り返す夏油は、やはりどうも顔色が悪い。
このところどうも根を詰めているとは思っていたが、そんなときに聞きたい話ではなかっただろう。特に夏油は、自分が術師であることに意味と意義を持っていたいクソ真面目で頑固な馬鹿だ。意義と意味の方向性を誤れば、妙な方向に転びかねない。
謝ってみせる九十九さんを白い目で見ながら、俺は夏油に言った。
「疑っていいぞ夏油。そんなつもりはないけど別にそうなっても構わなかった、それがこのひとだ」
「違うって言ってるのに。本当に海月のそういうところは可愛くないね?」
「好きなように言ってください。俺アンタのそういうところはわりとまじで嫌いです」
ひどすぎる、とめそめそと泣くフリをする九十九さん。いい歳して何やってんだろうとは思うけれど、そういえば俺このひとの歳知らないな、とどうでもいいことを思った。俺よりそこそこ年上なことは確かだし、聞いたら殺されそうなので年齢が噛む話はやめておこう。
ふう、とため息をつくと、ところでおふたりは、と夏油が俺と九十九さんを見比べながら言った。
「海月は私の協力者だよ」
「俺にとっては研究のスポンサー。資金援助と、その他上層との関係を含めてちょっと融通を利かせてもらうかわりに、九十九さんの研究も手伝ってる」
「九十九さんの研究というと、」
「呪霊のいない世界を作る方法について、だね。それについて海月の中でおおよその結論が出たと言うから、今日はそれを聞きに来たんだ」
夏油の目が、再び俺に向けられた。そんな信じられないものを見るような目で見ないで欲しい。だいたい、結論なんて大袈裟には言ってみても、結局やっぱりちょっと考えればわかるようなところに戻っただけだった。
そう、誰もが「呪霊」や「呪術界」を「当たり前」と思わずに考えてみれば、わかるような答え。俺はそれを、一応の数字をもってやはり「有効」だと結論づけたに過ぎない。
「……場所を変えましょう、九十九さん。誰に聞かれるかわからない場所で話すことじゃない」
「オーケー、君の部屋に行こうか。君も来るかい、夏油くん」
「、私は……」
「別に密談をするつもりはねーよ。興味があるなら勝手にしろ」
海月は私とふたりきりだと照れてしまうからね、と戯言が聞こえて頭が痛くなる。本当に、俺にこのひとをしばき倒せるだけの力があればいいのに。こういうときは自分の無力が呪わしい。
そんな軽口に笑う元気すらもないらしい夏油は、のろのろと立ち上がった。
「……疲れてんなら来なくてもいいけど」
「いえ、聞かせてください。平気です」
「ひでー顔色してっけど」
「聞きます」
どうやら頑固に火が付いたようだ。顔色は変わらないが、その表情は絶対に退かないと言っている。まあ、勝手にすればいい。どうせこの状況で無理に帰したところで気になって休めないに決まっている。非術師が呪霊を生む、その事実のみを頭に入れた状態で放置するのも確かに気がかりだった。
勝手にしろ、ともう一度言って、背を向ける。何だか面倒なことになってしまった。これだから九十九さん放っておくとろくなことにならないんだ、と内心で毒づきながら、特級ふたりを連れて部屋に向かう。
蒸し暑いはずの道中が、妙に薄ら寒く感じた。
*
今さらだが、基本的にひとがくることを想定していないこの部屋には椅子なんてものはひとつしかない。いつも俺が座って、学生たちが訪れたときはそのまま床に座り込んでいる。それが馴染まないらしい七海くんなんかは、わざわざクッションを持ち込んだりもしているが。
そして今、部屋にいるのは三人。
夏油はいつも通り立ったまま適当に壁によりかかったが、何が言いたいかって、ここで当然のように椅子を陣取るのが九十九さんだという話だ。序列とか客だとかレディファーストとかいろいろあるのだろうが、勧められもしねーのに座るんじゃねーよというか、何というか。いやまあ確かに絶対に俺は勧めないので、座りたいなら俺が座る前に勝手に座るしかないのだけれど。
やれやれと思いながら、喉が渇いたなという声は綺麗に無視をした。アンタさっきまで自販機の目の前にいただろうが買っとけよ、とは言わなかった。さらに面倒になる。
はあ、と大きなため息をつく俺に、ようやく夏油は苦笑らしい表情を見せる。
「クラゲさんは本当に怖いもの知らずですね」
「じゃあ特級術師ってまじで傍若無人だなって言い返すわ」
「ひとくくりにしないで欲しいんですが?」
「それ本気で言ってんならお前普段の行いまじで見直した方がいいぞ。冗談でなく」
何でたったこれだけの時間で俺は疲れ切っているんだ。強ばってしまった肩を回しながら、どこから話をするかと考える。
とりあえず大前提の話からか、と夏油を見た。目が合った切れ長の瞳は、ぱちりと瞬きをする。
「まず、この『呪霊のいない世界を作る』という命題について。当然だけど、いきなりゼロにするなんて魔法みたいなことはまず無理だ。だから『呪霊を減らしていき、最終的にゼロを目指す』という方向で考える。そして現時点で発生してしまっている呪霊については地道に祓っていくしかないから、考えるべきは『いかに呪霊の発生を減少させるか』だ。これが大前提」
それはわかります、と夏油がこくりと頷いた。だから海月に協力を持ちかけたんだよ、と九十九さんも歌うように言う。
追加でもうひとつ、と俺は指を立てた。
「もっと言うと、ただ呪霊の発生を減らすのではなく『強力な呪霊の発生を減らす』方向で考えたい。祓う手間や犠牲を考えても、そっちの方が建設的だからだ」
「確かに。それこそ蠅頭程度なら、ほぼ無害と言ってもいい訳ですし」
「最終的には蠅頭もいなくなるのが理想だけどね。けどまあ、経過の段階ならそれでも十分だ」
それで、と九十九さんは続きを促した。抑えきれない好奇心と期待で目が輝いている。子どもかよ、とちょっと呆れたが、無理もないのかもしれない。
呪霊のいない世界を作ることは、俺にとっては目的のための手段のひとつでしかない。そうなれば俺の目的の達成にかなり近づく、という要素のひとつではあるが、それ以上の意味はなかった。
しかし、九十九さんにとってはそれこそが最終的な目的。気持ちが高ぶるのも道理か。
「強力な呪霊の発生を減らすなら、やっぱり呪霊の発生要因について考える必要がある。で、前にも言ったが、詳しいメカニズムとかその辺はさっぱりだ。だが、術師の報告書を中心に入力した俺の統計データと、九十九さんの経験値や観察によるデータをもとに、いくつかわかったことがある。そのひとつがさっき九十九さんが言った、術師からは呪霊が生まれないってこと」
「!」
「まあ当然といえば当然だ。術師がまず学ぶのは呪力のコントロール、呪力を漏出させるなんて術師にとっては無駄でしかない」
呪力というエネルギーに対して自覚的であり、それを利用するすべを知っているのが術師だ。だから、術師からは呪力が漏出せず、当然呪霊も生まれない。死後呪いに転ずる場合は話が変わってくるが、それはかなりの特殊例だから今は数に入れないでおく。
とにかく言えるのは、今この世界に蔓延っている呪霊たちは、おそらくほぼすべて非術師から漏出した呪力によって出来ているということだ。
そこまで言って、夏油の顔色を伺う。夏油は少し唇を噛みしめ、それから解いた。自身を落ち着かせるように間を置いて、口を開く。
「……さっきはそれを、一側面に過ぎないと言いましたよね」
「ああ。呪霊は確かに非術師の漏出した呪力によって形作られている。だが、これだけでは説明できないことがある」
「それは?」
「夏油、知ってるか? 諸外国は日本に比べて圧倒的に呪霊が少ないんだよ。特に強力な呪霊の数の差はかなり顕著だ」
俺も海外出張の経験は少ないからその辺は九十九さんの情報頼りだけど、と目をやると、九十九さんはにっこりと微笑んで自信満々に頷いた。
「それについては断言できるよ。もちろんデータでの提示でもできるけど、行ってみれば一目瞭然だ」
「聞いたことはありますが……そんなに違うんですか。人口や豊かさの問題ではなく?」
「総人口や人口密度、GDP、犯罪率、それに宗教や戦争なんかも踏まえて考えてはみたけれど、どれもこれも日本が突出して呪霊が多い理由にはならなかったね。海月、その辺りについては?」
「説明できます。術師の存在です」
夏油は目を見開き、九十九さんはほう、と頬杖をつく。
そう、強力な呪霊の発生の要因には、非術師だけじゃない、術師も噛んでいる。だから俺は言ったのだ。非術師が呪霊を生み出しているのは事実だが、あくまでもひとつの側面に過ぎない、と。
呪霊の発生についてまるで非術師にすべての原因があるような言い方をするのは、数字の上で実証された事実を鑑みれば決して正しくはない。
「術師の存在って言い方は正しくないかもしれませんね。要は身近に強い呪力が存在しているということです。これは予測の域を出ませんが、人間も呪霊も同じなんじゃないですかね。つまり、そう、生存戦略です」
あえて、九十九さんの言葉を借りて言葉を続ける。
日本において、強い呪霊が多い理由。日本において、呪術師が多い理由。これはおそらく、どちらかが原因でどちらかが結果という話ではない。お互いがお互いに関係して、数を増やしていっている。それが俺の見立てだった。そう、つまり、シンプルに「生き残るため」という理由で。ほかにもいくつか解釈は考えられるが、現状集まっている情報から考えた結果、一番確率が高いのはこれだった。
「非術師が種をまき、呪術師はそれが育つ環境を作り上げている。言うなれば、呪霊にとって呪術師は天敵だ。より強い天敵が数多くいるから、呪霊も増えるし、強くなる。強くならざるを得ない、と言おう」
「……術師が、呪霊を育てている……?」
「そういう言い方もできる」
そんな、と言い募ろうとする夏油に、さらに事実を突きつける。これを実証するものはいくつかあるが、何よりも自分の目で見たものが一番納得できるだろう。
夏油には酷だろうか、と頭の片隅に少しだけ浮かんだ感情。だが、それを理性でもって切り捨てた。事実は事実として、認めなければならない。
夏油を、正面から見据える。
「そのわかりやすい実例と、お前は二年以上も一緒に過ごしてきただろ」
何を、と呟いた夏油の目が、次の瞬間に見開かれる。それについての詳細な資料は、よりにもよって本人から俺の手に渡っていた。
「十七年前……一九八九年十二月七日。その日を境にこの世界の均衡は一度崩れ、強力な呪霊たちが次々と発生し始めた」
その変化は、数字で見てもあまりに顕著だった。特に五条家から提供された資料には、「彼」の誕生による世界の変化が事細かに記されていた。呪霊の発生数、その強さが、その日を境に綺麗に右肩上がりしている。
たったひとり、そのたったひとりのために世界が塗り変わっていた。
「この場合、何をもって術師の『強さ』とするかは微妙だが……まあ、その定義はここで重要じゃない。呪霊にとっては脅威でしかない天敵、『強すぎる』術師がたったひとり生まれただけで、日本中の呪霊が影響を受けた」
「……なるほど、確かに生存戦略だ。もっとも、呪霊に生き物と同じ法則を当てはめるのは少しばかり違和感があるけどね」
「
確かに、と九十九さんは視線を浮かせた。これまでに提出した報告書でも思い返しているのだろう。本当に、いっそ笑えてしまうくらいに、それは明確だった。
強い呪術師が、強い呪霊を発生させてしまうのだ。
「しかし、だからこそ話は簡単です。強すぎる術師の存在そのものが呪霊の発生、さらに言うなら強力な呪霊の発生にも大きく影響している。なら、その原因を絶てばいい」
俺がそう言った瞬間に、距離は詰められていた。ぐっと胸ぐらを掴みあげられる。
俺よりいくらか高い場所にある黒い目が、まっすぐに俺を睨みつけた。いつもは切れ長の瞳も、今は瞳孔が開ききっている。ぎり、と奥歯が噛みしめられる音すら聞こえたような気がした。
向けられている、明確な激情。それは、殺意にもよく似ている。
「何が、言いたいんですか」
それに恐怖を感じるより先に、どちらかというと安堵にも似た感情を覚えた。
夏油が五条に向ける感情と、五条が夏油に向ける感情はきっと同じものではない。そのズレは、おそらくどこかでふたりの衝突を生むだろうという予感はあった。だから硝子にも、そのときには巻き込まれないよう気を付けろよ、などと言ってみたりもしたけれど。
形はどうあれ、程度がどうあれ。確かに夏油も、五条のことを大切に思っている。
「……夏油、」
まあだからといってそんなことは関係なく、俺は俺の意見を言葉にするだけだ。嘘偽りなく伝えるという「縛り」があるという以上に、俺だって俺の研究にプライドくらいは持っている。それを個人の感情でねじ曲げるという選択肢は、俺にはなかった。
やれやれと小さく息を吐いて、その瞳を見返した。そして、改めて口を開く。
俺の出した結論が、
***
数の海。星の海。あらゆる可能性があふれる坩堝。
海月は欠片をひとつ、掬い取る。掲げたそれは、