幽霊狩人佳奈希の怪奇譚   作:音升 佳奈希

2 / 2

 文章を横にして読む事を推奨します。



 登場人物

 音升 佳奈希(おとます かなき)
 この物語の主役を務める青年。高祖父の遺品を手に入れた彼は、カーナッキ本人の遺した手帳を見て自身の運命を悟り、名を改めて日本人として高校生の時に日本へ。現在に至る。本名はウィリアムズ・ホープス・カーナッキ。

 私 倉糸 新庄(くらいと しんじょう)
 佳奈希の友人にして、彼の冒険譚の聞き手を務める。特に佳奈希の仕事に疑問を持ったりはせず、純粋に彼の話を楽しんでいる。佳奈希も新庄の態度が好ましく、彼を招待するとどこからともなく話が始まるのだ。




『怪奇現象』
燻る一軒家


 

 

 

 

 日本人にしては奇妙な苗字をした私の友人が、つい先日に話がしたいのだとメールを送ってきたとわかったのは、私が職場で頑固な爺を必死に宥めていた時だった。帰宅してすぐに佳奈希の友人達へ連絡をとったが、確認した限り佳奈希が会いたいと遠回しに伝えたのは私に対してだけだったらしい。

 佳奈希は私の五つも下だ。もうすぐ二十の歳を迎える頃だろう。それなのに日本各地をふらりと旅をして回る彼は、彼の数少ない友人たる私からしてもとらえどころのない、奇妙な男だった。そんな佳奈希は、滅多にメールを送ってこない。彼自身がそういう性格のもとにある、というのもその理由の一つなのだろうが、恐らく仕事が多忙で連絡を忘れてしまうというのが大きいはずだ。

 佳奈希のメールにはこうある。『新庄くん。また《ドジスン》にならないかな? 待っているよ』佳奈希らしい内容だった。私が帰宅した時には既に時計の短針は六を超えていたが、せっかくの友人の誘いを断っては悪いだろう。珍しく向こうが招待をしてくれたのだから、行かない理由はない。偶然にも、明日は休暇を取っていた。

 

 さて、急拵えだが支度を整えて家を出た。夕暮れというには既に星が見え始めている。私は一人暮らしをしていて、某市のボロアパートを借りている。誰も住んでいないので私一人だから、騒音に気を遣わずに済む、楽な物件だった。逆に、音升宅はとても大きな一戸建てだ。これまでに何度も彼の家に邪魔をさせてもらった事があるが、その度に驚嘆させられるものだ。

 彼は仕事の合間に、建設業者へ増築を依頼している。貯蓄が常人の比ではない佳奈希は、時折仕事先から何かを持って帰ってくることがあるらしい。その中身は様々だが、以前に聞いた話では、海外の呪物を封印しておくための部屋を増築したと聞いた。実際に案内してもらったこともある。中を知ることはないが、佳奈希が描いた絵には、仏蘭西人形とそれを取り囲む五芒星の魔法陣という西洋黒魔術的風景が描かれていた。

 彼の家は、言わばウィンチェスター夫妻の館にそっくりなのである。元は実家を引き継いだものであるらしいが、佳奈希はそれを仕事の都合で自身の拠点として改造を施している。流石に本家本元程迷いそうなものではないが、それでも掃除の為に二人ほどメイドを雇っているのだ。

 

 駅の入り口で切符を買い、スマートフォンを確認する。新着メールは来ていない。佳奈希から送られたメールが、メールボックスの中にあるばかりだ。携帯電話をポケットの中に仕舞い、駅のホームに立つ。電車を待っている間、私は彼の話がどういうものなのか、そればかりを考えている。

 佳奈希は普段、至極無口な男であるが、だが彼がひとたび話し始めれば、まるで年の差すら感じさせる程の教養に満ち溢れた語り口を絶やすことがない。その内側にはとてつもない国語力と豊かな経験、それらから基づく語彙があるからだ。彼に相槌を打つこともなく話を聞いているだけで、私は佳奈希のした冒険を共にしたような錯覚さえ覚えさせられるのだ。

 今日はどんな話なのだろう。私は、これから電車に三十分ほど揺られる間ずっとその事しか考えていなかった。危うく、乗り過ごしそうになるほどには。

 

 自らを嘲笑するかのように苦笑を浮かべながら、私は目的の駅で降りる。人影はなくがらりとしており、駅員もいない、いわゆる無人駅だ。田舎というわけではないのだが、どういう訳かこの辺りの駅は人が少ない。出入りが少ないと言うべきか定かでないが、現状私以外に利用者が見当たらないのも確かである。

 切符を改札に差し込み、駅を出た。秋の中頃というちょうど良い塩梅の気温と、それなりに吹いている風を身に受けながら、私は最寄りのバス停へと歩く。駅周辺は閑散としており、灯りの着いた家があるばかりだ。その中でも一際目立つ、異形とでも言うべき巨大な館が、遠くに映る。それが佳奈希の家、令和に成ったウィンチェスター・ハウスだ。

 バス停に到着して程なく、バスがやってくる。本来なら誰もいないだろうバス停に人が一人立っているのを見たのだろう。運転手が驚いた顔をしているのがフロントガラス越しに見えた。なまじ視力が良いと、色々なものが見えるものだ。整理券を手に取り、私は一番出口に近い運転席の左後ろの席に座った。六時五十八分。かなり彼を待たせてしまっただろうか。いや、佳奈希は私がどれだけ忙しかろうと、どれだけ早く到着しようと、何食わぬ顔で私を出迎え、私を館に招き入れる。不気味だが、だがそれがかえって好ましかった。『次は、城前町、城前町です。お降りの際は、足元にお気を付けください』思案しているうちに、もう彼の家の前に到着するらしい。確かに、遠かった彼の館は既に目の前まで迫ってきている。ここまで目立つのに物珍しさ目当てで訪れる人等が少ないのは解き明かされる事の無い謎である。

 料金を支払い、バスを降りる。アスファルトに足を着け歩き始めると、バスは私を追い抜いて暗くなっていく夕影に消えていった。私の目的地はすぐそこだった。暗く、街灯にだけ照らされる歩道の中、佳奈希の家の前に、人が立っていた。彼のメイドだった。

 彼女に連れられるがまま、私は彼の家の庭に足を踏み入れた。アンティークの趣の強いドアのノブを回して家の中に入ると、私を彼が待っていた。

「やあ、新庄くん。もうそろそろだとぼくは思っていたよ。さあ、上がってくれ」私は頷き、メイドに上着を預けてから廊下を進む佳奈希の後を追う。古びた絵画や高価そうな壺が私を迎え、そしてそれは暖炉のあるリビングに入るまで続いていた。

 暖かい空間に二つの椅子がある。私はその二つ並んだ椅子のうち、左に腰掛けた。右の方は佳奈希が座る専用のものであり、椅子の隣にあるテーブルの上には、彼が愛飲しているホットコーヒーが、半ば冷めかけで置いてあった。佳奈希が暖炉に火を灯してから、彼の椅子に座った。部屋は豪奢な飾りばかりだが、どれかひとつが飛び抜けて違和感があるというわけではなかった。館の主佳奈希の飄々とした雰囲気と彼のセンスが、部屋全体がひとつの家具であるかのような一体感をものにしていた。美しいシャンデリアが我々の頭上を照らしていて、暖炉から来る温もりは仕事疲れのある私の足を優しく暖めてくれている。

 ぽつり、と佳奈希は話し始めた。

 

「取り留めのない依頼が大半を占めるのだけれどね、たまには所謂本物が混じってぼくに届くわけだ」

 

 佳奈希が取り留めもなく言葉を連ねていく。彼は本題を話すまではあまり話さず、ただのんびりとその時を待つ。私もそうしていると、やがて興が乗った佳奈希のホットコーヒーを飲み終えた口から、長く、素晴らしい冒険譚が突いて出てくるのだ。

 

「まあ、大概依頼者の気の所為で終わる話なんだが、今回の件に限ってはぼくもある種の勘のようなものが働いてね。これは当たりじゃないかと直感したんだ。ぼくはその勘に基づく本物の依頼を二つ返事で了承したわけだよ。さて、そうと決まれば早かった。ぼくは手頃なカメラやフラッシュライト、護身用のスタンガンや法に抵触しない程度の短いポケットナイフを懐に忍ばせ、財布や携帯を鞄の中に入れて我が家を発った。依頼者はこの場所から六時間ほど新幹線に揺られて到着する、閑散とした田舎に住まうご主人でね。名前を藤野、と言うのだが、これがまた人当たりの良い好々爺なんだが、ぼくに依頼の内容を細かく説明しようという時も、まるで何かに怯えるように震えてしまっていてね。これはいけないな、とぼくも本腰を入れて調査に専念しようとしたわけだ。

 さて。ぼくは藤野老人のお宅にお邪魔したわけだが、そこはとても立派な日本庭園の目立つ、古く由緒正しき屋敷でね。廊下を歩けば、ニス塗りの徹底された、木目の美しい床が続いた。ぼくはそこを歩く藤野老人の後を、屋敷の素晴らしさに感服しながらも続いた。『ここです』案内された部屋は、見るからに高値の着きそうな掛け軸や甲冑が飾られていて、その部屋の中央にテーブルと、座布団が二枚敷かれていた。私は彼に従うがままその座布団に腰を下ろし、調査道具の入った鞄を脇に下ろして、部屋を後にした藤野さんが戻ってくるまで部屋中に目を向けた。その中でも特に、外から強い光を差す窓が奇妙でね。そこだけ丸窓障子と違って硝子張りの窓だったもので、ぼくは気になって、つい手を伸ばした。その先は、やはり庭園が広がっていたわけだが、しかし庭を覆う壁の外に、非常に古く、とても汚れている一軒家が見えたのだ。ぼくは、即座に違和感を抱いた。それもそのはずで、なぜならばそこに民家はなかったのだから。藤野宅と最寄りの民家までの距離は優に百メートル程を越えていて、そこに建物があるはずがなかったのだ。これは後で調べて見た事で分かったことなのだがね。その時のぼくはこの家にそぐわない風景だとしか思わなかったのだが。

 まあ、そうしていると時間も過ぎるもので、気が付けばぼくの後ろに、茶を注いで持ってきてくれていたんだろう藤野老人が、お盆と二杯の茶を持って立っていたわけだ。ぼくは彼に向き直り、目を合わせずに席に座り直して、茶を受け取った。抹茶だった。今の季節は寒さが背中を押してくるからね。熱い茶は素直に嬉しいものだった。本音を言うならば熱燗を受けとりたかったが、どうにも仕事というのは面倒なものだからね。さて、半分ほど喉を通したところで、ぼくは切り出した。あの民家は撤去しないのですか、と。藤野老人はぼくのその言葉に心底驚いた後にこう切り出した。見えていたんですね、と言ったのだ。ぼくはそこで、ようやく違和感の正体に気が付いたわけだ。その民家は藤野老人曰く、民家に誘われた人間しか目をする事が叶わないというものだった。そして誘われる条件は、この席に座るか、この部屋から窓の外を見る。たったそれだけだそうだ。それが判明するのに、藤野老人は客人を三人見送ってしまっているのだという。それ(客人)に関しては、聡明な新庄くんならば検討も着いているものだろうから、ここでは詳しく触れることもないだろう。ともかくぼくは、そう聞いた途端にあの民家からただならぬ気配を感じるような気さえしてね。その時はもう午後六時を回っていたので、調査は翌日に持ち越すことにして藤野宅で泊まらせて貰うことにした。選ばれたものにしか見えず、とても貪欲で、ぼくという四人目をあちら側に連れ去ろうとしている一軒家だ。ぼくは恐ろしくも強い興味を抱いたわけだ。しかし、それとは裏腹にぼくは割にすぐ眠りについた。

 だが遅くまで眠っているぼくでもない、翌日の午前五時三十分に目覚めたぼくは、カメラとフラッシュライトを手に早速民家へと向かった。寝起きだが同時に興奮していて、正常な判断を下しにくかったわけでもあって、だからこそぼくはその時冷静に立ち回るべく近辺の調査から開始したわけだ。ボロの民家は低い塀で囲まれていて、藤野老人の話が本当ならこれは今ぼくにしか見えていないはずだ。ぼくは塀を指先で触れてみたのだが、本物の岩を削り取って造られたようにしか──つまり、霊的なものをだが──感じられなかったわけだ。ともかくぼくと藤野老人にしか見えず、他の誰にも見えない訳は、正しく霊的干渉の他に有り得ず、ぼくがそれを感覚で受け取れない体質である以上は外堀を埋めていく他に道はない。ぼくはさらに塀の調査を進めるべく、次は足元に注目したのだ。ぼくはそこで奇妙な真実に気が付いた。この辺りの土地は全く手入れが行き届いておらず──それも当然で、この土地一帯を買う奇特な人間はいなかった──雑草さえ生き生きと育ち切っているわけだ。それでぼくが見たのは、塀の中に埋まるように伸びていく雑草だった。埋まると言っても、上からどん、と塀が被せられたように下敷きになっているわけではない。本当に、文字通り塀の中に背丈のある草が中程から埋まっていたのだ。隙間でもなければ雑草がこんなところに埋まるか、とぼくはその草を引っ張った。草はぶちりと音を立てて引きちぎれたわけであるが、それがぼくの推理をより正しいものとしたわけだ。つまり、元々そこにあった雑草を石造りの塀に巻き込むように突然、そこにあたかも存在したかのように発生したのではとね。

 ぼくは塀の調査も程々に、続いて玄関周りの調査を開始した。汚れが凄まじい他は、まあ変哲のない鉄製ドアの、ただの玄関だったのだが、そこでぼくは汚れの正体に気が付いた。黒ずんでいて、最初はスプレー缶か何かでただひたすらに落書きをされただけのものじゃないかと推察していたのだが、ぼくはこの黒ずんだものの正体は、指で触る事によって理解した。煤だったのだ。煙突の内側によく見られる煤だ。特に黒煙が吹き出ることによって生じるもので、それが風の当たる筈の外側であるにも関わらず付着していた。実に奇妙だった。煤の正体を掴めないまま、ぼくは塀の内側、つまり民家の周りをぐるりと一周して、外側がどうなっているかの調査を進めた。玄関隣の壁には、古びた自転車が立てかけてあった。これも民家と同様煤まみれで、恐らくは接合部やチェーンも錆に覆われていただろうから、まあ間違いなく使い物にならないものだったと思う。ともかくぼくはそんなボロに興味を持たなかった。続いて右回りにぐるりと外の壁を見ていく事にしたのだが、これがなんとも奇妙なもので、汚れだけでなく、なんと炎が燻っているような見た目をしていたのだ。おかしく思うだろう、だがこれはぼくが見た確かなものだよ。耳を澄ませてみれば、ぱちぱちと木々が燃えるような音さえ聞こえてくるようだった。わかったろうか、この家はつまり、燃え続けていたんだ。ぼくは知っての通り建築業ではないので滅多な事はわからないが、それでも燃えている民家が、それも木造建築が焼き崩れずに残り続けているというのは些か変ではないか。ぼくはその時から、この家に多少なり恐怖感を抱き始めていた。それと同時に、強い好奇心もね。

 ともあれいよいよ中に入ろうと、玄関の前に立ってドアノブに手をかけ始めたわけだが、その時に強い悪寒と、そして扉をほんの少しだけ開いたその途端に、顔に凄まじい熱波を浴びたような感覚に襲われて、ぼくは思わず扉を閉めて玄関を離れ、道路に飛び出す勢いで歩道に転げ落ちた。その最中に見たのだが、玄関からは炎が吹き出ているように見えた。ぼくは顔を歪めた、これはただでは済まなくなったぞ、とね。まあ、そんな感じで最初の調査は幕を閉じた。お気に入りの懐中時計を取り出して吃驚したのだが、調査を始めたのが午前五時三十分。その時の時刻は午後二時二十分。夢中になっていて、気が付いたら八時間と五十分も、あの民家に釘付けになっていたのだ。いくら時計を見るのを忘れていたとしてもだ、最初にぼくが行なったのは塀と外壁、そして玄関の調査だけだった。なのに、気が付けば短針は九回目の役割を迎えようとしているのだ。そこでぼくは、これには《外宇宙的霊干渉》が引き起こされているのでは、と考えた。要するに、これは人間の幽霊の仕業ではない、という考えだ。人の幽霊の行える精神的干渉には限度がある。外宇宙からやってくる何者かが、この事態を引き起こしているのではないか、というものだ。人間を拉致したり、あるいは孤独な空間に閉じ込め続けるというのは、普通の人間や、人間の霊体には難しい。やれなくはないが、途方もない犠牲と時間がかかって然るべきなのだ。だからこそこれは人には無理だとぼくはその時点で判断し、路線を大きく変更する事にしたのだ。

 翌日、ぼくは前日までに用意を終わらせてから、再度一軒家を訪れた。ぼくが持ってきたのはストロボとチョーク粉の入った箱、そして真空管だ。これの用途は後ほど説明するとして、ぼくはそれ、を脇に抱え込んであの燃える家の前に立っていたわけだ。それでぼくは何をしたかというと、チョーク粉を使って、玄関の目の前に五芒星の魔法陣をえがいた。無論燃える家の中に潜む何かを刺激しないよう、慎重を期してね。そして、そこに描いた五芒星の全体像を照らしてくれるように、ストロボを配置した。コードを接続していて、ぼくがその時手にしていたスイッチを押すと、五芒星の中にあるものを強力な光で照らせる。これをどう使ってやるのか、説明してあげよう。チョーク粉で描かれた五芒星自体には、実は意味が無い。あるにはあるが、それはあくまでも本番で失敗を犯さないための言わば保険であったわけだよ。チョーク粉の五芒星の五つの頂点に、ぼくは持ってきていた真空管、より強力なテトロード型を設置していく。それで完成した魔法陣こそが、ぼくの先祖代よりし伝わる由緒正しき電気式五芒星というわけだ。まあ新庄くんには今まで何度も話したから知っているだろうが、あれの効果は何度も実証して確かめているのだからね。

 さて。本題に戻ろうか。あの燃える家は、ぼくと藤野老人が証明してしまったように、霊的干渉によって象られたものであると確定してしまったわけだ。あれを退けるには、どうするべきか、ぼくはその後も数時間に渡り思案した。持参していたサンドイッチすら、喉を通らない程だった。あれが人為的な悪意による諸相であったのなら、まだ容易い問題だった。根源を絶てばよいだけの事だからだ。だがしかして、あの燃える家自体が外宇宙的霊干渉であると決まってしまえば、それはぼくの手には御し切れない。だからこそ見定める必要もあるというものだった。それにぼくは、人は目的の達成に際して確実な手段を執れる時以外は臆病でなくてはならないという考えを持っているのを、君も知っているだろう。だから今回の依頼は慎重に慎重を重ねる必要があった。

 電気式五芒星の存在は、ぼくの心の支えになってくれるが、順番を間違えてしまえばこれは不完全なものとなってしまう。その為にぼくはある事をしなければならなかった。『サアア・マーア典儀』に記載されている、ある儀式を行う必要があったわけだ。自身の血を利用して行う儀式、そして魔術は多数あるものなのだが、ぼくが主に行使するものはふたつある。ひとつは、付近にある魔法陣等の効果を特に強力なものにする、というもの。これも後述の魔術と同じ術式なので、デメリットも交えぼくが最も多く使おうとしたものを説明するが、こちらは前述の補助とは違い、自身の血を用いて、血液の肉体を象った魔獣を創り出すという魔術だ。しかし、これは負担が大きくてね。何せ、自身の血液を二百ミリリットルほど失う必要があるので、ぼくは貧血を起こす可能性があるのだ。倒れてしまえば調査は難しいが、これは今までぼくの他にも共に依頼を受けていた仕事仲間がいたからできた技法だ。それを一人でやるという決断は、ぼくにとても強いストレスを及ぼしたが、それをしなければならない程今回の相手が強大であった事も念頭に置いていて欲しい。

 そしてようやく話は進展を迎えるわけなのだが、別の用意を始めようとしたところで、藤野老人から迎えが来たのだ。懐中時計を見てみれば、またも四時間弱あの家の前に拘束されていた。今まで大小様々な依頼を受け、悪意の干渉を跳ね返し、封じてきたぼくも、今回は恐ろしい相手だと錯覚させられるほどのおびただしい恐怖心に襲われた。君にはわからないかもしれないが、夢中になっていたとしても時計というのは時折気にするものだ。それを忘れるほどぼくは、この恐ろしい家屋に対して敏感で、そして臆病であったのだ。逃げ帰るというわけではないが、ぼくは事前準備をそのままに燃える家を後にした。考えてみるといい、背を向けた途端に剥き出しの殺意を突き刺されるように感じるのを!

 しかしだね、ただ燻るだけの家に恐れを為したといえば聞こえは悪いのだが、あの時逃げるように撤退したのは今にして思えばよくやったと、つまりはファインプレーだったと自らを褒め称えたいところだった。それもそのはずで、ぼくが藤野宅に戻っていたほんの十分間の間に、チョーク粉やストロボ、テトロード型真空管などの、ぼくが持ち込んだあらゆるものが影も形もなく消えていたからだ。

 ぼくはこの依頼は深刻になるかもしれないと頭を抱えさせられた。誰か別の人間が訪れていた形跡はもちろんない。ぼく以外にはあの燻るだけの家に立ち入ることは、家自体から許されていないからだ。そこで、ぼくは考えた。これは家の中身の仕業ではないか、とね。つまりは機嫌を損ねた家の犠牲に、チョーク粉と真空管、ストロボはなったのだ。であれば、小休止を挟んでしまえば用意はすぐに無くなってしまうのと同じだろう。だからぼくがやるべき事は二つだと、頭の中ですぐに整理した。一つは、一度で全ての用意を終えること。もう一つは、用意を終えてから燃える家と対峙するまでの短い時間で、決着をつける手段を講じねばならないということ。

 そうと決まってからは、ぼくは早い。藤野老人に、ぼくの要求する道具を全て揃えて欲しいという旨を伝えた。それとは別に、ぼくもその時はここまで凄まじい霊干渉だとは想定していなかったので、護符や追加の真空管を持ってこなければいけなかったのだが、それは伝えなかった。必要がなかったからだ。あくまで藤野老人には、ぼくがすぐに用意できない範囲で要するものを用意してほしいだけだったのもある。彼に要求したのは、適当な刃物とタオルケット、そしてなんでも良いので絵を描ける紙だ。刃物は、ぼく自身を切り付けて血を流すために、タオルケットはそれの止血のために、そして紙はぼくの血を用いて魔術を解き放つためだ。

 こういった霊的干渉の発生する事件においてはしばしば魔術に頼る事があるというのを、新庄くん、君には以前話したような気がするが、今回もその例に漏れなかったわけだ。とはいえ、ぼくの血自体を用いて魔術を行使しなければならないというのは、稀なケースであるというのは知っていてほしい。これはぼくに対しての負担も著しいのだから。

 さて、時計を確認すればもうじき午後五時三十分を迎えようとしていたのをぼくは見た。夕方から夜にかけての時間帯は、魔の時刻でもある。霊体や魔物が好き勝手に活動を始める時間帯であるのだ。

 

 ぼくは四年間に渡り、この時間帯に活動を行なったことは一度しかない。君に話す事のなかった話だからついでに教えるとだね、これはぼくともう一人の在日イギリス人のジェームズ・ホークスという男が共同で依頼を受けた時なんだが、それは魔の時刻に姿を現して人を殺すという悪霊が、とある町に出没するという内容だった。ぼくとホークスは順当に準備を終え、いざ対峙という段階まで入っていた。しかし一向に現れる様子が見られなかったので、魔の時刻に差しかかろうとしていたのを見てぼくはホークスに『今日はもう戻ろう、魔の時刻が来る』と言ったのだ。ぼくは人としての本能から来る恐怖心を大切にする人間だが、ホークスはそうじゃなかった。ホークスを失うのはぼくとしても困るので、共に魔の時刻を迎える事にしたのだが、これが全くもって悪い判断としか言えなかった。夕日が沈んだ瞬間、電灯というのは着くものだ。だが、ぼく達が最も出没率の高い空き家の前の道路で待ち構えていた時、一斉に点灯した電灯が一瞬の間に全て消えてしまったのだ。

 その瞬間、ぼくは嫌悪感と悪寒を覚え、すぐさまここを立ち去るべきだと伝えたのだが、ホークスはこんな状況にあっても蛮勇と無謀を足したような男だった。彼が懐中電灯を照らした途端、ホークスは背後の影から伸びてきた無数の、大小様々な大きさの人の手に引き寄せられ、電灯の失われた暗闇の中に引き込まれたのだ! ああ、ホークス、ぼくは叫ぶ間もなく未知の怪異に対し、電気式五芒星の中に逃げ込むしかなかった。電気式五芒星の弱々しくも頼りになる青い光だけが、ぼくの心の支えとなってしまった。遠くでホークスの叫び声が聞こえるような幻聴さえした気がした。君にわかるか? つい先刻まで共にいた仲間が、たったの五秒も足らずに姿を消し、孤独の中に取り残される恐ろしさを、悍ましさを!!

 ぼくは電気式五芒星の中で身を震わせて周囲から襲いかかろうとする恐怖に、必死に耐える必要があった。万が一錯乱でもして、テトロード真空管を倒すような事でもあれば、ぼくはその倒れた真空管の護っていた、脆弱な隙間から襲われ、ホークスの二の舞を迎えてしまうかもしれなかったからだった。正直に言えば、ぼくは電気式五芒星の中でも安全だとは言えなかった。なぜならば電気式五芒星は殆どの霊的干渉に有効であるが、それは逆を言えばごく一部の相手には意味をなさないからだった。その為、本来は電気式五芒星に加えて『サアア・マーア典儀』からその場所や状況に適した適切な()()を張る必要があったのだが、その時のぼくはまだ『サアア・マーア典儀』の内訳を全て把握出来ていなかったので、電気式五芒星の効果を信用する他なかった。

 結果としてそれは杞憂に終わったが、それでもいつか真空管の壁が破られるのではないかと考えると、身体の震えが治まらなかった。夏だというのに心身は冬の山に置いていかれたかと錯覚する程に寒く恐ろしかった。そのまま数時間が過ぎ、完全に月が登った。その日の夜は偶然にも曇りで、そうするとぼくの周りの暗かった空間は一瞬の間に眩く光った。電灯が一斉に灯ったのだ。しかしぼくはしばらくそこを動こうとは思わなかった。いやむしろ、それは罠で、ぼくを五芒星の外側へと誘い出して、そのまま連れ去って殺そうと画策しているのではないかとすら思えた。その時点でぼくは五芒星の中から出る気力もなかったのだ。結局、空腹と多量の汗を書いたことによる脱水に耐えかねて、ぼくは遂に電気式五芒星の外部へと切り出した。まあ、その後は君も察する通り、何も無かった。ぼくはあの事件を相手に、三年前初めての敗北を喫したわけだ。あの後、何も話は聞かない。噂もね。ぼくという格好の獲物を逃したのが、何か諦めさせる事に繋がったのか、それ以降あの町で奴が、つまりあの無数の手が現れる事はなくなったのだ。あれ以降、魔の時刻での活動は一切を控えている。少なくとも野外ではね。野外とはとても広大なテリトリーだ。強大な魔物がいつ現れるともしれない場所で、活動する、そんな気になれると思うか? あんな体験をした後で、すぐさまその決断を下したのは、ぼくがホークスと違い適切な対処を弁えていることの証左でもあったわけだ。

 

 話を戻そう。これだけ話せば、魔の時刻がどれほど恐ろしいものか君にもずっとわかりやすく、理解出来ただろうからね。だが、だからこそぼくは、この魔の時刻にあの燻り続けている家との決着をつけようと考えたのだ。自己矛盾を抱えているかもしれないと思っても不思議はないだろう。だが、ぼくにはその時の為の備えがあった。ぼくが材料や道具を買い込んで藤野宅に戻ってきたのと殆ど同時に、藤野老人はこぶりのナイフとタオルケット、大きめの和紙を数枚、そして止血剤の入った内服薬を持ってきてくれた。藤野老人はそのナイフでぼくが何をするのか、大まかには悟ってくれたのだろう。ぼくはその心遣いを有難く頂戴し、用意を整えたのだ。

 今回企てた作戦には欠陥があったと初めに言っておこう。だがぼくが同じ失敗を繰り返すことはないというのは、君も知っての通りだ。ナイフを使って血を用いる魔術は『血液の方陣』と、ぼくは呼んでいる。『サアア・マーア典儀』の、とある魔術にはこうある。〈絶望的な大敵と相対す時、()()()()()は解き放たれ、自らの使命のまま霊を貪る〉

 血液の魔獣は、ぼくは一度しか呼んだ事がなかった。二度行使を試みた事はあるのだが、そのうちの一度は出血多量によって危うく命を落としかけた為に召喚されなかったからだ。ぼくはその時偶然にも電気式五芒星を崩す事がなかったので無事だったため、違う方法を用いたが、今回は失敗をしない。ぼくは浴室を借りて、自身の手首を切り裂いた。すぐに風呂桶に血液を貯め、目視で二百ミリリットル程出血したのを見て、ぼくはすぐにタオルケットで失血部位よりもすこし内側をタオルケットできつく結び、止血剤を飲み込んだ。通りがかった時にぼくの気持ち悪そうにうめく声を聞いて、藤野老人が心配そうに駆けつけてきた。ぼくの出血量を見て驚愕したのだろう、携帯電話で救急車を呼ぼうとしたのを辞めさせて、ぼくはガーゼと包帯を持ってくるよう頼んだ。魔の時刻まで、あと一時間というところだった。その間、ぼくは血に指を浸して、滴る血液を紙に押し当てて方陣を描いていた。この自ら付けた切り傷から得た自身の血液を指にきっかり十五秒浸し、紙に押し当てるという順序でさえ魔術を行使する為の手段であるから、一切手を抜く事はできない。無論抜く気もないがね。それに、三度目という事もあってぼくはその吐き気を催しそうな、なんとも言えない気持ち悪さに余裕を持って耐える事ができたのも大きかった。

 遅いので和室まで藤野老人を探しに行こうと腰を上げた矢先に、浴室に彼が現れた。近所の医師が、今日が休みだというので急いで来てもらったらしい。ぼくの格好と出血を見て吃驚した様子だったが、そこは医師らしく、すぐに止血処置を施してくれた。医師に診てもらえた事もあって、ぼくの精神は安定していた。高揚とも違う、勇気が芽生えてくるのだ。ぼくは描き終えた四枚の方陣と、五つの真空管を手に、あの家の前に急いだ。

 夕日が辺りを照らしていた。だがそれは既に低く、時間的猶予もあまりなかった。ぼくはすぐに電気式五芒星の作成に取り掛かった。五つの頂点が繋がれた時、星を描くように設置し、それを繋ぐように蓄電池を設置できるように電線を張っておく。更に、用意した方陣の全てを、結界の外側に置き、石で四隅のうち三つだけを留めておく。これは、石という霊体の行き先で、獣の通り道を塞いでしまわないための唯一の方法だ。ぼくはこの動作の一つ一つにも慎重を期して臨んだ。それで用意は完了した訳だが、ぼくはそこで肝心なものを忘れてしまったのだ。懐中時計だ。現在時刻を確認できなければ、魔の時刻がいつ訪れるかもわからない。だが今戻ってその間に用意を台無しにされてはまずい。だから離れる訳にはいかなかったのだ。だから待った。

 自らの不手際を恨みながらも、ぼくは無限とも思える時間を耐えた。もちろん、気を抜くわけはない。この付近は街灯などの、霊の登場を知らせる合図などが一切ない。更には、多数の霊体を相手に、この電気式五芒星がどれだけ無敵でいられるかわからなかったからだ。では今のうちに電気式五芒星を起動して、燃える家の玄関を開けてしまえばいいと、普通の人間は思うだろう。だが、強力な結界というものにはそれだけ強い制約が課されるもので、一度五芒星を起動してから外に出ると、結界は新しいものを護るべきものとして認識せず、中に何も無いとして結界は意味をなさなくなる。つまり、外に出る事はできるが、内に入っても電気式五芒星の恩恵は二度と得られなくなるのだ。その為に、魔の時刻によって他の霊体を誘き寄せてしまう危険性を孕んででも、燃える家には自身から現れてもらう必要があったのだ。

 ぼくはいらだちを覚えずにはいられなかった。現在時刻を確認できないことから来る不安が徐々に高まっていくのに加え、どこからか霊体が襲いかかろうとしているのではないかと思えて、ぼくの足元から頭頂部までの全てを凍らせてしまうかのような恐怖心も積もっていた。そして、その時は不意に訪れた。目の前に見据えていた玄関の扉が荒々しく開き、そこから爆炎が噴き出してぼくを襲ったのだ! わかるだろうか、君に、あの恐ろしさが! ぼくはその時死の恐怖を感じる暇もなく、ただ反射的に電気式五芒星の導線の収束部分に蓄電池を差し込んだ。その瞬間に五箇所、爛々とぼくの足元から輝く青い光が目に入ったのだ。ぼくは確信した、結界は動き出した! そして結界から火傷する覚悟で結界の外側に手を伸ばし、紙に手を触れ、叫んだ。『血液の魔獣よ! 音升佳奈希が厳命す、悪しき魂を喰らえよ!』右手が猛々しく燃え盛る業火に焼かれ、身悶えする。しかし方陣の描かれた紙からは決して手を離すまいと、ぼくは勇気を振り絞って我慢を続けた。その瞬間だった。

 方陣から、ぼくの血を肉体とする血液の魔獣が姿を現し、燃え盛る炎に果敢に喰らいついていく。続けて二体目、三体目も詠唱し、顕現させる。魔獣は手当り次第に噛みつき、ぼくのいる電気式五芒星の結界から奴を押し出していく。

 魔の時刻は既に過ぎているようだが、他の霊体は一向に現れる気配はない。ぼくは酷い火傷の痛みに恐怖心を煽られながらも思案した。なぜこの地に蔓延るはずの霊体は姿を見せないのか? ぼくは考えていたが、目の前のあの家を見た瞬間、疑問はさっと拭われた。燃え滾る扉の中から伸びる炎、その内側に無数の霊体が囚われているのだ。そしてぼくは理解した。この家が、近隣の霊体を全て貪ったのだと。それ程強大な相手を前にしている事にぼくは打ち震え、同時に立ちすくんで動く事がままならなかった。血液の魔獣が斃れれば、ぼくに打つ手はない。だが彼等がどれだけやってくれるか、ぼくは知ってもいる。四体目を起動し、ぼくは天命に身を任せる事にした。想像したまえ、ぼくの置かれたその環境を。肝心の策はもはや神頼みに似て、自ら手を打つ事は既にできない。ひとつのミスがこうまで余裕を無くさせるのだ、ぼくはその時から五芒星を破られた時の想像が収まらなくて、怖いという感情ばかりがあったのだから!! だが、予想だにしなかったのだが、そうはならなかった。炎は結界を破れなかったのだ。

 獣は酷く暴れ、意志を持って動き回る炎を、中の霊体諸共喰らい、引きちぎる。ぼくはその怪物と怪物の戦いに慄くほかなく、文字通り指を加えて見ているだけだった。しかし、徐々に優勢になっていくと、火の勢いが弱まるのに比例するように、ぼくも勇気を取り戻していった。それに、ぼくはその時になってようやく気付いたのだが、付近の霊体をこいつが食べ尽くしてしまったうえに、こいつがこの電気式五芒星の内側に入って来れないのであれば、ここは絶対的な防衛力を発揮してくれるという事ではないかと。ぼくは利き手の疼く痛みを抑えながら──無論後で治療するつもりだが──奴の消滅を心から願った。あれには無駄になった真空管とストロボの恨みがあったためだ。

 魔獣は炎を食い荒らすと、次に家の中に入っていった。ぼくは安全を期すため五芒星の内から出るようなことはしようとは思えなかったが、それでもつぶさに観察を続け、家の中で何が起きているのかを推察したのだ。家の中からは血の弾け飛ぶような音が聞こえ、ああ、あれは血液が暴れているのだ、とぼくは直感した。

 その後の事は、あまり覚えていない。それでも、あの燻りを抑えられなかった燃える家が、深夜に目にした時は完全に消失していたのを見て、ぼくはついにこの焦熱の悪意に幕を下ろしてやったのだとわかった。本来であれば仔細をメモなどに書き連ねてみたりしたいのだが、ぼくはそれよりも早く眠りたかった。藤野宅に帰ると、そわそわしたように藤野老人と、彼の友人の医師がぼくを迎えてくれた。医師は藤野老人からあの家に関する話を聞いていたらしく、気が気でなかったのだろうか、ぼくが玄関に入ってくるまで廊下を行ったり来たりしていたようだった。藤野老人は、焼け爛れて血が滴り、肉まで見えているぼくの痛々しい手を見て唖然とし、医師もこれを見て心苦しそうに首を振った。『傷は治らないでしょう、申し訳ありません』彼は謝ったが、ぼくは彼に、ぼくを心配してくれたお礼としてひとつ面白いものを見せたかったのだ。わかるだろう? 好奇心と、童心にも似た悪戯心は混同されやすいが、だがぼくはこれを見せ、驚かせてやりたかったのだ!

 翌日目覚めたぼくは、居間に座っている藤野老人と医師のふたりに、火傷したはずの手を見せた。皮膚は完全に綺麗な状態になっていて、まるで怪我など元から無いかのように。ふたりは驚いた顔をしていて、特に医師の方はぼくを驚きと感動に入り交じった目で見ていた。『貴方、これは、どうして』ぼくは意気揚々と答えてやったのだ。『『シグザンド写本』にはこうあります。〈五つの点は線となり、繋がりは縁であり、今と以前とを繋ぐ円環である〉これは奇跡でもなければ、医術でもないのです』ぼくはその言葉を残して、藤野宅を去ったわけだ。怪我は悪化しておらず、ぼくは五体満足です、と、後で手紙を出して、今は文通もしているよ。それに、歴史的観点から見ても、藤野宅には価値のある様々な物品が並んでいる。また訪れたいものだね」

 

 佳奈希は一通り話し終えて満足したように頷き、私に右手を見せてきた。なるほど確かに、火傷跡などは見られず、健康体そのものだと言ってよいはずだ。

「だがやはり佳奈希、君も今回ばかりは命の危険を感じたんじゃないか?」

 私のその問いに、佳奈希は大きく笑って答えた。

「ぼくはね、何時だって負ける勝負はしないんだ。負けそうになっても、取り返す。それが幽霊狩人、音升佳奈希だからだ」

 確かに、君は危なげなしな旅をすることはないが、だが毎回生きて帰ってくるからね、と語りかけると、当然だ、と彼は返した。

「さあ、今日はもう帰…るには、少し遅すぎるかな」

 彼が懐中時計を見ているのを見て、私もスマートフォンの時計を見た。既に十一時を回ろうとしている。懐中時計を大切に握る佳奈希の姿を見て、私は少し笑ってしまった。

「なるほど、ミスは繰り返していないわけだ」

「……ああ! 上手いな、新庄くん。さあ、今日はもう寝よう。君の寝室を用意させよう、来たまえ」

 佳奈希に促されるがまま、私は寝室で深い眠りについた。

 

 





 藤野 浩一郎(ふじの こういちろう)
 作中で藤野老人と呼ばれていた、年老いた男性。彼の客人が一夜にして姿を消したのをきっかけに人との関わりを絶っていたが、親友の医師とは縁を切れず、彼の言伝で佳奈希の存在を聞き付け、依頼した。

 松本 勇作(まつもと ゆうさく)
 藤野老人と唯一友人の関係を崩さなかった男性。ただ医者としてしか認識されていなかったが、佳奈希の心を励ました立役者。


 サアア・マーア典儀
 様々な魔術等が描き収められた魔術古文書のひとつ。シグザンド写本と並び、かつてのカーナッキと佳奈希を助ける。

 シグザンド写本
 かつてあった魔術書、ネクロノミコンと並びかねない程の力を秘めるとされる、トマス・カーナッキの秘書。佳奈希はこれの完全読破と引用に、著しく精神を摩耗した時期があった。カーナッキがどうだったかは定かでないのだが、佳奈希は高祖父を英雄視している事だけは確かである。

 電気式五芒星
 上記の古文書と並び、カーナッキ及び佳奈希を助けてきた、二人の切り札。由来は過去カーナッキが読んだという文献『霊媒をめぐる実験集』から着想を得たもの。原理は、霊媒体質者の周囲で、真空空間の中に、ある量の電気を通した時、その霊媒体質者から能力が失われた、というものである。カーナッキはこれに加え、星という魔術的恩恵のもっとも強い形を採用し、その五つの頂点に真空管を設置した事で理論は現実となり、彼の切り札を確立させたのだ。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。