視界になんて入っていないと思っていたから、何だってできた。
見られていないなら、どんなに汚れたって構わない。気にしない。
だけど、そうじゃなかったと知ってしまったから。
どれだけその言葉に似つかわしくない自覚があろうと、それでも。
俺は、
***
こんなに身体が痛いのは久し振りだった。
慣れない松葉杖をつき、引きずるように身体を進める。身体中に巻かれた包帯や固定されたギプスが煩わしい。医師には絶対安静と言われたが、そんなことはどうでもよかった。
彼が治療のために来ていると聞いている。ならば俺は、会わなければならない。たとえ会わせる顔がなくとも、伝えなければならないことがある。
走れば一瞬のような距離に数分をかけ、白いドアをノックする。返事を待たずに横スライドのドアを引っ張るように開けた。
「あ、」
見慣れたそいつがベッド脇に立っていた。
治療を終え、身支度を整えている最中だったらしい。喉を灼かれかすれた声と、包帯で覆われた身体。包帯の隙間から漏れ出るように見えた赤い羽は、雛のように儚かった。
セントラルの医療技術がなければ今もまだ死の淵だったという彼は、俺を見て困ったような笑顔を作る。
「すずめ、」
喋るな、と口が勝手に動いた。呼吸をするだけで喉が痛むだろうホークスに無理をさせたいわけではない。話すべきなのは俺の方。
俺がまず言わなければならないのは、これだ。
「わ、……るかった、」
「、え」
「俺が、手を打つべきだった。その可能性も危惧してた。敵がお前の素性を調べることを予想しておきながら、公安のセキュリティを過大評価した」
一歩、二歩とホークスに近づく。背後でドアがごとんと音を立てて閉まる。
最悪の形で暴かれてしまったホークスの任務、その素性。ホークスが尻尾を見せようと見せなかろうと、敵連合は絶対にスパイを疑ってホークスを徹底的に調べてくると思った。そのときにまず探ってくるのはホークスの消せないもの、つまり家族や過去だろうことも。
それを理解しておきながら、俺はホークスの母親の転居やセキュリティの強化を進言しなかった。そもそも現時点で最高レベルに隠されているのだからと、高をくくったのだ。
どんなセキュリティも不変のままではいつかは破られる。それくらいちゃんと考慮にいれるべきだったのに。俺には出来ることがあったのに。
俺なら、阻めたはずなのに。
「……荼毘の演説のこと言うとる? スズメのせいじゃない」
母さんのことも、とよろける俺を支えようと駆け寄ってくれたホークス。喋るなって言ってんだろ、と俺は歯を噛みしめた。
あの映像が脳裏を駆け巡る。一人がけのソファに腰掛け、高らかに一方的な言い分を宣ったあの野郎。
確かにこのヒーロー社会に大打撃を与える最高の手だ、戦略という意味では頭の隅で感嘆さえした。だが、それ以上の感情で俺の脳みそは塗りつぶされた。血が沸騰するかと思った。必死で押し込めたその感情は、今でも俺の腹の奥で煮えたぎっている。
脳の奥が焼き切れそうなほど強く思った。───お前が、こいつの何を知っている?
「……俺は、エンデヴァーのことは、よく知らない。から、家族がどうとか、本当は何があったのかとか、……どういうひとなのか、それはわからない。……けど、」
ホークスのことならわかる。
きっと、誰より知っている。
それこそ実の親より、もしかしたら公安の誰よりも。
「おまえは、……あんなことを言われていいやつじゃない……!」
ホークスの目が、見開かれる。
俺はずっと見てきた。ずっとその背を、赤い羽を見つめていた。
こいつがヒーローになるためにどれだけ努力を重ねてきたか、ヒーローとしてどれだけの覚悟を決めているか、俺は知っている。そんなホークスだから俺は憧れた。ホークスが大空を飛ぶためなら何だってやってやると思った。
だというのにあの火傷野郎、親への復讐、ヒーロー社会を崩壊させるためにホークスを利用しやがった。プロヒーロー「ホークス」に、「鷹見啓悟」という人間に、これまでこいつが積み重ねてきた全部にケチをつけた。
許せるわけがない。許す気もない。荼毘とエンデヴァーとの関係だって俺にはどうでもいい。
そもそもどんな苦しい目に遭おうが、何をしても許される道理など存在しないのだ。傷つけられたなら傷つけていいなんて理屈はこの社会では通用せず、情状酌量イコール無罪では決してない。
あの野郎、必ずとっ捕まえて監獄にぶち込んでやる。
再び腹の底の怒りが燃え上がりそうになったとき、かさつきながらも愉快そうな息が俺の耳元で揺れた。ふは、と、まるではしゃぐ子どものようなそれ。
「う゛、れし、い」
ふらつく俺の肩に手を添えるホークスの顔は、確かに笑っていた。少しだけ困ったように、どこかくすぐったそうに。
その顔に怒りも引っ込んだ俺は、喋るなって言ってる、とまた繰り返す。今さらながら顔が熱くなった。
さっとどこかから端末を取り出したホークスは、にこにこしたまま指を高速で動かす。
『どしたのスズメ、も~デレ強すぎてびっくりだよ。照れちゃう』
「……あるんじゃねーか声のかわり」
『そりゃまあ不便だからね。入力が面倒だけど仕方がない』
とりあえず座ろうよ、と傍のベッドに促される。自分も全身火傷でぼろぼろのくせに、それでも松葉杖の俺を気遣うコイツが少々憎らしい。でも、それがホークスという人間だということは嫌と言うほどに知っている。
まっさらなベッドがぎしりと音を立てる。ベッド脇に松葉杖を立てかける俺を見て、ホークスは端末の画面に指を走らせた。
『タルタロスの一件に巻き込まれたって聞いたときは心配したよ』
「……まあ、よく生きてるよな」
『自分で言っちゃう~~~?』
「うるせえ事実だ」
対“個性”最高警備特殊拘置所、通称「タルタロス」。あらゆる危険な“個性”持ちが収監されるそこは、生きて出ることは叶わないとされる収容施設。たとえオール・フォー・ワンであっても脱獄は不可能だろうと言われていたし、事実そうだった。
外部と内部の両方から同時刻の襲撃を受けることさえなければ、だが。
『スズメくん、きみは随分僕の暇つぶしに付き合ってくれたね』
緊急事態を告げるサイレンに、そこかしこの配線から飛び散る火花。いつも通り事情聴取のためにタルタロスを訪れていた俺に向け、これでも感謝しているんだよ、と笑みを浮かべた巨悪。両の足で床に立っていたそいつを見て、俺は悟った。
やはり、諦めていなかった。こいつは死柄木弔にすべてを託す気なんてさらさらなかったのだと。
『だから、きみのことは助けてあげようと思う』
そうして落とされた悪魔の囁きの結果がこの大怪我だ。
無事でよかった、と落ちた音に俺は小さく息を吐く。今回はぎりぎり無事で生き残ったが、我ながら無茶をしすぎた。まさか戦闘向きじゃない俺が、文字通りの地獄を走り回るだなんて。
だが、逃げるわけにはいかなかった。それはきっと、俺がヒーローであるために。
「……全員は助けられなかった」
『でも、助けた』
下がり掛けた視線を、機械の声が押しとどめる。視線を戻した先にあった瞳は、柔らかくも厳しい。
『助けたんだろ、そんなボロボロになっても』
強く握りしめた拳のなかで、また小さな傷ができる。爪の形をした傷から、わずかに血が滲んだような気がした。
***
いつも通り、事情聴取という名の腹の探り合いを済ませたあとだった。
本土でどんな作戦を執り行い、その結果がどうなっていようと、俺は俺の仕事を果たすしかない。せめて諸悪の根源に欠片たりとも外の情報なんて渡してたまるかと、それだけを考えて「いつも通り」を顔に貼り付けて職務を果たし、得た情報を纏め直していた夜。
崩壊は一瞬だった。
鳴り響くサイレン、セキュリティシステムの作動音、それを嘲笑する轟音と揺れ。
反射的に
脱獄不可能な“個性”社会の闇が暴かれることなどあるはずがない、と。どこまでも認識が甘かった自分を心底殺してやりたい。
咄嗟に待機していた部屋を飛び出し、走った。
たとえ、どれだけ否定したい事実が待っていたとしても。
『───ああ、君もまだタルタロスにいたんだね』
スズメくん、と昼間は透明な壁ごしに聞いていたはずの声。
二本の足で立っているだけで絶望を与えられる人間なんて、世界でもきっとこいつくらいなんだろうなと、そんな現実逃避じみた感想が頭に浮かんだ。
***
オール・フォー・ワンは言った。俺だけは助けてやってもいい、と。君は
『そこに小部屋があるだろう? 見たところ何の変哲もない倉庫、薄暗くて汚れているようだが一晩くらい構わないだろう』
『大丈夫、これでもひとに言うことを聞かせるのは得意なんだ。第一、囚人たちも監獄の出口を目指して進むだろう。わざわざ監獄の奥底にある倉庫になんて近寄らないよ』
だから、そこにいれば安全だと。
その憐憫の薄皮を纏った明確な嘲笑に、ひとかけらの嘘もなかった。オール・フォー・ワンは俺が戦闘向きの人間でないことくらいとっくに見抜いている。それだけ言って何もしないまま、ただ俺の横を通り抜けた。
俺にはどうすることもできなかった。事実、立ち向かって勝てる相手ではない。
ほかのヒーローだったら命を投げ出して止めようとするのだろうか。せめて一矢報いようとするのだろうか。俺にはできない。してはいけない。
情報を持ち帰るのが俺の役目。
そう、だから今はオール・フォー・ワンの言葉通り、あの倉庫に隠れてやり過ごすのが一番の───。
そのはず、だったのに。
「……そのまま、倉庫に閉じこもってりゃ良かったんだ」
そうだ、そうすべきだった。
自分の生き残りを───自分がもっている情報の保持を最優先すべきだった。
きっと今までの俺なら、ホークスと話す前の俺だったら、───。
『いや、スズメにそれは無理でしょ』
そう、すっぱりと俺の思考に切り込んできた電子音。
下がり掛けていた視線が反射的に上を向いた。
『スズメはそこまで器用じゃないよ』
何を、とは言えなかった。
ホークスの瞳が、あまりにも自信満々に輝いているから。
『言ったっしょ。俺だってスズメのことずっと見てきたし、ちゃんと知ってんだよ』
もしかしたらスズメより、なんて目を細めたホークス。こんな薄汚れた俺に対してさすがに贔屓目が過ぎると思うが、今の俺が
ホークスの視界に入っても恥ずかしくない人間でありたい。
いや、そうでなければならない。
俺はもう、
「……気付いたら走ってた」
『だろうね』
サイレンの鳴り響く中、轟音が事態の非常性を告げる中。職員の中でも限られた人間しか知らない緊急用の通路を使い、タルタロス中を走って、走って、走った。
ひとりでも多く、
『スズメの顔を知ってる囚人も多かったのに、それでも行ったんだ』
「恨み買ってんのなんて今さらだ。……手遅れのひとも多かったけどな」
逃げる途中で襲われたのか、前のめりで血だまりに伏していたひと。
何もうつさない眼を見開いたまま天を仰いでいたひと。
何かを守ろうと、抱え込むように腕をまげて事切れていたひと。
本当ならご遺体も回収すべきだったのだろうが、俺にはとてもそんな余裕はなかった。幸いにも逃げ足はそれなりに速い自信はあるが、俺にできるのは「躱す」「逃げる」ことだけ。あらゆる危険な“個性”と人間性をもつ囚人が解き放たれた中、俺は生きてるひとがいれば声を掛け、息のあるひとを見つければ運び続けた。
当然、俺が逮捕に関わった囚人には積極的に狙われたし、俺の顔を知らない囚人だって鬱憤を晴らすかのように襲いかかってきた。
走って、躱して、身体を貫かれた痛みに堪え、折られた脚を引きずって動かし、自分など放って逃げろと訴え続けるひとたちを一喝した。
あまりにもらしくない自分自身を内心で罵倒しながら、走り続けたのだ。
「……具体的に言うと三回意識飛ばしたし、十六回死んだと思ったな」
『数字が逆にリアル。そりゃ松葉杖も必要になるね』
何としても助けなくては、とは思わなかった。
自分が代わりに死んでもいい、と思っていたわけでもない。
ただ、───“ヒーロー”なら、と。
「……いや、んなことはどうでもいーんだよ」
『またそんなこと言う。どうでも良くないでしょ』
「どうでもいいんだよ、重要なのは脱獄が起きたってことだ。経緯の検証は必要だがそれは専門のひとたちに任せておけばいい。ホークス、お前はエンデヴァーやジーニストと組んで動くんだろ」
『うん、そのつもり』
俺の苦労話なんかどうでもいいのだ。わざわざ痛む身体を引きずってホークスに会いに来たのは、ちゃんと謝罪をしたかったというのと、もうひとつ。当たり前のことだが今後の話をするためだ。
現在、公安はほぼ機能を停止している。俺たちに指示をくだす人間はおらず、そうこうしている間にも世情は悪化の一途。このままではそう遠くないうちにこの国は崩壊し、影響は世界へと伝播していくだろう。
自分の怪我の完治なんて待っていられない。すぐにでも捜査に出て、まずは脱獄した囚人たちの行方を追い、あの巨悪もろとももう一度監獄に叩き込まなければ。
「数日のうちに俺が得た情報はまとめて送る。お前のほうも情報の共有頼む」
『それはもちろんだけど、え、もしかしてまだ単独で動くつもり?』
「……ほかに何があるんだ?」
つい聞き返せば、鳶色の瞳と目が合った。ぐっと眉間に皺を寄せ、むっつりと口を結んだ様子はどう見ても不機嫌そうだが、何が問題なのかわからない。
基本的に俺は常に単独で動く。俺の仕事の特性上、
数秒何やら考えたホークスの指が、また高速で動き出す。
『また地下に潜って脱獄犯たちの情報得て、俺に渡して終わり?』
「……珍しく険のある言い方だな」
『いやね、スズメの情報の貴重さは理解してんだよ? スズメだから持ってるネットワークもあるんだろうし、きっと脱獄犯のひとりふたりの居所くらいすぐに掴んでくるだろうね。で、その逮捕は俺の領分。この役割分担に不満なんて一切ないんですよ?』
「まどろっこしい、結論言え」
『情報収集以外にも出来ることいっぱいあんだからこっちも手伝って深刻な
たたみかけるような合成音声に必死な顔、そしてきゅっと掴まれた服の裾。合成音声では俺の“個性”は働きにくいが、その言葉に嘘がないことくらい“個性”がなくてもわかる。そもそもホークスは、俺に嘘をつかない。
ほんのちょっとの照れは心の奥底に押し込め、痛む腕を動かしてこめかみを掻いた。自分の危険は承知のうえではあったが、ヒーローの人員不足が深刻だというのも理解していた。といっても、俺は戦力面ではほぼ力になれないと思うのだが。
だが一切退く様子を見せないホークスは、俺の裾を離さないまま先ほどよりは幾分か冷静に端末上の指を動かす。
『情報収集は必要、それはわかってる。でも正直、一番欲しい『オール・フォー・ワンの居所』をひとりで探り出せる自信ある? 公安のネットワークも使えない状況で、ほぼ手がかりなしなのに。羽もないのに全国ひとりで飛び回る?』
「……まあ、確かに可能性はかなり低いけど」
『でしょ。それに、仮にスズメが有益な情報掴んできてくれたとしても、
その言葉に、つい目を見開いた。
ホークスが口にしたこと、その意味はつまり。
「……内通者が?」
『確証があるわけじゃないけど、可能性はあるでしょ。避難民の中に紛れてるかもしれないし、……ヒーローだからって信頼できる状況でもない』
だから、
そこでホークスはおもむろに端末を置いた。ひゅ、と微かに息を吸う音を鼓膜が捉える。もはや声とも言えないようなガラガラの声で、ホークスは言った。
どこか、そう言えることが嬉しくて堪らないという風に。
「い、しょに、たたかって」
あまりにも真剣な言葉、そこに確かに嘘はない。
が、こいつ全力で絆しにきたな、と思ったというのが正直な。公安で仕込まれたひとたらしが俺に通じると思ってんのかと。誰と一緒にずっと訓練受けてきたと思ってんだと。
まあ全部わかってるくせに絆されてる自分が、いちばん腹立つのだが。緩みそうになる口角に、ぎゅっと力が入る。
「……わかったから喋んな、治りが遅くなる」
『よし言質取った~。スズメって本当に俺に甘いんだ?』
「うるせえいい加減裾はなせガキか」
『はい照れ隠し~』
「うぜえ」
ぱっと表情を笑顔に戻したホークスに、もうため息も出ない。鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌になったホークスを横目に見つつ、まあ裏切りの心配がないやつに近くにいてほしい気持ちはわかるか、と無理矢理納得することにした。俺の“個性”があれば、内通者に裏切られるどころか、内通者を通して敵を欺くことだって出来るかもしれない。
不満や不安がないではないが、こうなっては顔を晒して人前に出るしかない。俺にだって出来ることがあると、俺がいれば安心できると、他でもないホークスが言うのなら。
やれやれと首を振りつつ覚悟を決める。
ようやく解放された服の裾に、ホークスの指の形が残っているのが見えた。
「……ホークス」
『うん?』
いや、啓悟、と。
口にした本名に、切れ長の鳶色がすっと見開いて、また緩む。
何、と返ってきた合成音声が、やけに柔らかく聞こえたような気がした。
その声につられて零れ落ちるのは、心の奥底からの本音。
「……早く暇になりてえな」
平穏を取り戻した先で、きっと。
任務も関係ない、もっと「普通」の、───些細な、どうでもいい話を。
美味い飯や酒を前に、何の気兼ねもなく。
『うん、───取り戻そ、早く』
ただ、お前と笑い合えたら、と。
その約束を果たすためだけに、俺は“ヒーロー”として在ると決めたのだ。