この季節は、育ち切っていない稲穂が、風に唆されてゆらゆら揺れる様が好きだった。
甘酸っぱい山葡萄を探して分け入った薮の中ともまた違う、青臭い水田の香り。
目一杯走り回ってくたくたの体を涼しい風が撫でて、緩やかに沈む夕日が俺達に帰路を思い出させて、蚊帳の中の仄暗い影が家族全員をとろとろとした眠りに落とす。
俺は故郷のそんな日常が好きだった。
だからもしかしたら、俺はそもそも故郷を出た事自体が間違いだったのかも知れない。それが例え、故郷全体が時代の波に負けて、若者全員で都会の企業に就職する為だったとしても。
「本当にええのん? うちの所に婿入りしてしもたら、もう向こうには帰れんよ?」
物思いに耽っていた俺を慮って、故郷に帰ってから再会した友達が眉根を下げる。その顔には喜びやら不安やら心配やら、色んな感情が入り乱れていた。
幼い頃、子供の間で定番の遊び場だった神社の境内。そこにある石垣に座りながら、俺は友達へと──今日、自分と夫婦になる友達へと、故郷の訛りを隠さない本来の口調を返す。
安心させるように、後悔はないと伝える為に。
「ええ、ええ。向こうの暮らしは、どうも俺には合わんかったんじゃ。ちと疲れてしもてん。じゃけん、どうしても帰って来たくてな。
……まあ、まさか久し振りに
「そか。まあ、うちもあの悪餓鬼が都会出て企業にお勤めするて聞いた時は飛び上がって驚いたもんやけどな。
思い出すなぁ。うちの境内つこうて、村ん皆でお祝いしたん」
「……誰が悪餓鬼じゃ、誰が。お前にだけは言われとうないわい。俺が悪餓鬼やと、お前は悪鬼かなんかじゃろ」
なんでよ!? そう言って腹を立てる妻をぼんやり眺めた。過去の懐かしむ顔に向けた子供じみた悪口は、俺に出来るせめてもの照れ隠しだった。
今更ながら、世間の波に負けた俺じゃ本当に釣り合わない婚姻だなと思う。
都会に出て、俺は色んな経験をした。嬉しい事よりも辛い事の方が多くて、本当に辟易とした。
故郷じゃ悪い事と教わって来た事も当然みたくやらされて、心の中で何度も何度も親父とお袋に謝っていた。
その都度、俺がどれ程に真っ暗な帰路で故郷の夕日を思ったか。こればかりは此奴にも知る由はないし、知って欲しくもない。
「でも、この
「うるさいな! 仕方ないやろ、誰も直しにこんのじゃから!」
「悪かった悪かった。社の事になると、本当にすぐ怒るのう。その分、俺がきりきり働くわい」
「約束よ!? 思いっ切り働いて……そんで、今度こそきちんと幸せになって貰うからね!?」
やんわりと肩を竦める。
怒る友人の、優しい顔の向こう側。式を挙げる神社の茅葺き屋根で、旅立ち前の燕の雛がぴいぴい泣いた。
■□■
「いよいよじゃのう」
灯籠の並んだ板間で、ぽつりと呟いた。
社の、穴の空いた障子の隙間から月が見える。中秋の名月には、村の年寄り連中に団子をご馳走になったなと、なんとはなしに思った。
今からだと、
緊張を誤魔化すように、清酒を注いだ盃を煽る。
口の端が震えて、酒が垂れそうになって……それを拭おうとした手も震えていると、ようやく気付いた。
俺は、怖がっているのだろうか?
「──待たせてしもうたなぁ」
すろりすろりと開いた障子から、敷居を越えて友達が──妻が、入って来る。綺麗な白無垢。初恋だった近所の姉さんが着ていたそれと同じ、故郷の仕来り通りの婚儀の衣装だ。
「……流石に似合うとるの。綺麗じゃ」
「せやろせやろ? まあ、うちもこれ着て契る事んなるとは思わんかったわ。そっちも……馬子にも衣装、ではないな。よう似合うとるよ。それ、お義父さんのん?」
「おお、まだ実家に残っとったみたいでな。手を合わせて拝借して来た。間に合わせの羽織袴で悪いが、そもそも結婚が急やってんから許せ」
「別に怒らんよ。何やったら、畑の作業着着たままで結婚式した人らもおったし」
ほんまかよそれ。頬をひくひくさせながら思わず零れた言葉に、妻がくすりと笑った。
「ようやっと、ええ顔しよったなぁ」
「……なんの事やねんな」
「いやな、帰って来てからも怖い怖い顔しとったからな。こっちでくらい楽に過ごせばええのに。本当に責任感強いやっちゃなぁ」
ちょっとこっちに寄りぃ。
俺の傍に座った妻が、俺の肩に腕を伸ばした。白い指先が灯籠に揺られて、影法師が逃げているように見えた。
妻の腕は体を寄せた俺の肩から、そのまま頭を覆うように包んで──ゆるりと、俺を抱き締めた。白檀と、梅の花の香りがした。
「辛かったんやろ?」
「何がや。辛い事なぞありゃせんわ。俺を誰やと思うとる」
「強がってても無駄やで。うちはな、あんたが生まれた時から見守っとったんやで? 小難しい顔して、此処に帰って来たんや。何考えとんのかわからん訳ないやろ」
「知った口利きよる」
「そりゃそうや。知っとるんやもの」
俺はびくりと肩を震わせた。俺が見て来たもの。感じて来たもの。それはどれもが故郷に持ち込みたくないものだった。
故郷には、俺の記憶の中のまま、綺麗なままでいて欲しかったから。
「ええんよ。ええんよ。泣きたい時は泣けばええねん。頑張ったもんばっかり苦しむんは間違えとるんや。どうしようもない時は、あるかもしれへんけどな」
「……どうしようもなくとも、人として腐っとる事はしたらあかんのじゃ。俺は、腐れじゃ」
「……そう思ったから、心ん中では誰かに許して欲しくてうちん所に来たんやろ? ええよ、ええ。うちで良いなら全部許したるよ。あんたは悪餓鬼やったけど、一番真っ直ぐな心根しとったやんか。だからうちも、最期に連れ合いであんたを選んだんや」
白無垢の色に、月の光が色を差す。幼い頃から、ただの一度も女として見た事のなかった妻は、息を飲むほど綺麗だった。
「……さて、時間掛けることでもなし。ここまで来てあれやけど、本当にええの? 未練とかない?」
「……おう。今、無くのうた。末永く、頼むわな」
「それ、本当はうちが言うべき言葉なんやけど。その口上言うの、ちょっと憧れとってんけどなぁ……」
「なら、言えばええやろ。どうせ俺しか聞いてるもんはおらんねん。それに未練はない方が良い。そうじゃろ?」
「せやなぁ」
妻はおずおずと居住まいを正した。此方へ向いて、三つ指を着く。俺は妻と自分の前に盃を並べ、酒を並々と注いだ。
「──幾久しく、末永く、宜しくお願い致します」
「……色々と足りぬ夫ではありますが、お頼み申す」
しばしの間が空いた。
そしてお互いに、くすりと堪え切れず笑いを漏らす。今更畏まったのが、お互いに面白かった。
二人で盃を空けていく。月は綺麗で、気の早い虫の鳴き声が夜間に響いた。
幾つもの灯籠が人魂のように、滔々と光った。
ずっと郷愁の中にあった我が故郷が……ずっと友が待っていてくれたこの場所が、俺はやっぱり大好きだった。
「ああ……ずっと待っててくれて、ありがとうな」
「ええよ。それがうちの仕事やってんから。……まあ、もうちょい遅かったらうち、引っ越しさせられててんけどな」
「そうか。それは幸運じゃった。日頃の行いが良かったからやな」
「かもしれへんねぇ。……それじゃあ……ね?」
「ああ。それじゃ……もう、お休みなさい、じゃな」
「うん……お休み。うち、誰かと一緒に寝るんは初めてやわ」
それじゃあの。俺達は、そう言って、ゆっくりと瞼を閉じた。
鈴を転がしたような草木の眠る音と、自分がゆっくりと溶けた。
幸福は、最初から心の中にあった。俺はようやく、それに気付けたのだった。
薄れて行く意識の中で、妻が優しく笑った気がした。
──ようやっと、一緒になれたねぇ。
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『──次のニュースです。■■県山中にある廃村の神社で、男性のものと見られる遺体が発見されました。外傷はなく、警察は自殺と見て捜査を進めるとの事です。遺体発見現場の本殿は設備の老朽化が進んでおり、来月には御神体の移設が予定されていました。この神社は縁結びの御利益や無理心中の逸話で知られており──』