「望、生きてっか」
「生きとるわドアホ」
挨拶代わりに生死の確認すんのやめろや、と言っても改めるはずもなく。甚爾は肩を揺らしながら、なんの遠慮もなく俺の部屋に入り込んできた。まあ今さらのことではある。
電卓を叩く手を止めずにおかえり、と言えば、甚爾はおう、と軽く答え、その無駄にでかい図体を畳に転がした。このところ甚爾は外出や外泊という新たな遊びを覚えていた。
前に少し付き合わされたこともあるが、どうも俺はそういう遊びに興味がもてなかったので今は遠慮することにしている。というか、そういう遊びでもらう小遣いより、呪霊を祓った方が実入りがいいというのが大きい。
「……あれ、何や今日はクッサイ香水の臭いせぇへんな。女のところいってきたんやないんか、ヒモ野郎」
「うるせえよ。今日は見物だ」
けんぶつ、と振り返ると、甚爾は何となく複雑な顔でだいぶ伸びた髪を指先でいじっていた。
「あれだ、五条の
「……ああ、今日お披露目やったっけ。例の」
この禪院家とは犬猿の、五条家に生まれた秘蔵っ子。最強の術式と呼び声高い五条家の相伝「無下限呪術」と、その力を最大限に引き出せる「六眼」。そりゃ五条家も鼻高々だろう、何百年と生まれてこなかった「最強」の逸材が生まれたのだから。逆に禪院家が歯噛みしてしまうのも無理はないというわけで。
ご感想は、と振ってみれば、甚爾は思い出すように視線を浮かせた。
「……ありゃ、本物だな」
知らず、口角が上がる。
甚爾は禪院家の誰に対してもこんな評価を下したことはない。現当主のことすら「弱くない方」としか評価しない甚爾が「本物」と判断したのなら、きっと「彼」はこの家の誰よりも強い術師に育つだろう。禪院家の術師では到底敵わない、まごうことなき「最強」の呪術師に。
嗚呼、愉快だ。別に「彼」に特別な興味はないが、生きているだけで彼は禪院家の悩みの種になってくれるだろう。数百年前にその「最強」に対抗したという「十種影法術」をもつ術師もいない今、きっと彼の存在は禪院家を苦しめる。
生まれてきてくれてありがとう五条なんとかくん、どうか健やかに育ちますように。
「……何にやけてんだお前。金か?」
「せやねん返済がなかなか順調でな! って金の話はええねん、確かに借金の残額計算しとったんやけども」
「毎日毎日傷だらけになってる甲斐があるな」
「ホンマにな。全部終わるまでもう十年はかからへん」
借金の返済にも、俺が黒鎖呪法を使いこなすのにも。
黒い鎖の呪いは奥が深く、決して恨みを忘れない。それも知らずに俺を痛めつけるアホどもに目にものを見せてやるのは___まあ、今はまだ言わないでおこう。
子どもといえば、とふと思い出して言う。
「またこっそり来よったで、例の坊ちゃん」
「あ? 誰の話だよ」
「ほら、あの……名前何やっけ、ご当主んとこの末っ子の……」
「あー……ああ、あれ、……どれかはわかる」
あーとかうーとか言いながら名前が出てこない俺と甚爾、ホンマに興味がなさ過ぎる。お前は覚えてないとやばいんじゃねーのかと言われるが、基本どいつもこいつも敬語をつけて敬うふりをしておけば何とかなるので、別に覚えていなくても問題はなかったりする。
そっちこそ一応親戚やろ、と言ってみるが、甚爾も興味なさそうに髪をいじるだけ。邪魔ならいい加減切った方がいい。
「で、何だよこっそり来てたって」
「お前ホンマひとの話聞かんのも大概にせぇよ。言うたやろ、ちょくちょくお前を見に来とるって」
いつだったか見つけてしまった、仕立てのいい着物を身につけた小さな背中。どう見ても本家筋の顔立ちがどうしてこんな隅っこにと近寄ってみれば、その瞳はただただ通り過ぎていった甚爾の背中を見つめていた。
『……どうかなさいましたか?』
放っておけばいいものを、つい声を掛けてしまったのはその瞳に憧憬らしき色が見えたからだ。この禪院家において呪力のない甚爾は見下される。俺としては強いなら何でもええやんと思うのだが、どうやらそう思う人間は禪院家にもひとりはいたらしい。
驚いたように振り返ったその子どもは、……思い出した、確か直哉と言った。誰や、と警戒しつつも偉そうな態度に、何歳でも
『知っとる。兄ちゃんらがよう使とる身代わり人形やろ』
『……はあ、そうですね。それで、どうしてこんなところへ? あまり来ていい場所ではないでしょう』
『俺に指図するんか』
『まさか』
彼に御用なら呼んできましょうか、とにこやかに尋ねれば、直哉はぱっと顔を上げて、それから躊躇って、首を振った。へえ、と思った。何となく、我慢や躊躇という言葉が似合わない子どものように思えたからだ。
今はええ、と言ったその内心の葛藤は、さて、どんなものだったのだろう。教え込まれた価値観と、自身で目にしたものに抱いた感情の間で揺れている様子が見て取れる。どうやらこのガキ、兄たちよりはマシな目をもっているらしい。
何とか偉そうな態度を作り直した直哉は、改めて俺の顔を見て言った。
『俺がここに来たこと、誰にも言うたらあかんよ』
『はい』
『絶対やで』
『もちろんです』
別にどうでもええし、とはさすがに言わなかった。俺の内心など知らない直哉は満足そうに頷く。
『名前、さぎり、なんやったっけ』
『望です』
『望くん。覚えといたるわ』
そうして母屋のほうへ駆けていった少年は、それ以来たまにこの落伍者用の隅っこに訪れるようになる。甚爾に声を掛ける勇気はないようだが、俺の顔を見かけると寄ってくるようになった。すでに禪院家の思想に染まっている直哉は悪気のないクソガキだったが、とりあえず俺を「使う」様子はないので可愛いものだと思うことにしている。
周囲から「天才」と持ち上げられて天狗になっている哀れなクソガキは、扱いやすくてありがたい。
『ほな、父ちゃんは望くん使たことないんや』
『ええ。……こう言ってはなんですが、必要がないのでしょうね。非常にお強いと伺っておりますから』
『つよかったら身代わりなんかいらんもんな。兄ちゃんら情けな~』
もっと言ったれ、と思いつつ、おそらく直哉が聞きたいことを付け加えてやることにする。これをほかで聞かれたら俺もかなりの折檻を食らうだろうが、いまは周囲にひとの気配はない。
『ちなみに、甚爾さんも俺を使ったことはありませんよ。……一度もね』
そもそも甚爾はいろいろ違うのだが、そんなことはどうでもいいし別に嘘ではない。ぴく、と耳を揺らした直哉はきゅっと唇を結んで、ぐっと小さな手を握った。子どもなりの決心らしい。
『俺も望くん使わん! 強なるから、いらんし!』
よっしゃ身代わり回避成功、と内心でガッツポーズをとったことなどおくびにも出さず、さすが頼もしいですねと笑ってみせる。得意げな顔で胸を張った直哉は、可哀想なほどに愚かしい。
本来は認めることが許されない甚爾への評価を、自分の中で消化できるだけマシかもしれない、とは思う。だが、ただ「マシ」なだけだ。これは俺のひがみも多大に含まれるが、全てを与えられる恵まれた子どもが術師として大成するとはどうしても思えなかった。
まあ、そもそも直哉がどうなろうと俺にはどうでもいい。俺は思考を目の前の甚爾に戻して、軽く笑った。
「せっかく天才天才言われとんのに、五条の坊ちゃんと同世代なんて気の毒になぁ」
「天才ねぇ……俺の記憶に残らねえレベルな時点で格が違えだろ。あれは努力どうこうの問題じゃねえよ」
興味なさげな顔のまま、容赦なく甚爾は言い放つ。
憧れの甚爾にこんな風に言われて可哀想にと思う反面、それすらもどこか愉快だった。いつか直哉が甚爾への感情を「憧れ」と認めたとき、五条なんとかくんと相対して確たる差を思い知ったとき、いったいどれだけ打ちのめされるのだろう。折れるか、歪むか、理解を投げ捨てるか。是非とも苦しんでほしいわ~と思う俺も、すでに歪んでいるのだと思う。けれど、そんな自分を恥じるつもりもなかった。
黒い鎖に縛られた術師は術式と同じく決して憎しみを忘れず執念深いのだと、鎖桐の記録にも残っている。
「ま、どうでもええか」
「ああ」
五条に「最強」がいようとも、禪院の「天才」がそれに及ばずとも。そんな日向の事情を気にしている余裕は
でも甚爾は違うやろとは、俺には言えなかった。
***
禪院家に売られ、そろそろ十年に近づこうかとしている。このころになると俺をとりまく周囲の環境はだいぶ変わっていた。
揺れる視界に堪えながら、何とか足を引きずって自室に向かう。自室横の廊下では、甚爾が庭に長い足を投げ出して座っていた。戻ったか、と視線だけで言われ、ん、と桶を差し出される。正直その準備のよさはホンマに助かる。
「う、え、……!」
「毎度毎度よく吐くなお前」
受け取った桶に顔を突っ込み、堪えていたものを吐き戻す。もはや吐くものもなくて胃液が逆流していた。食道やら喉やらにひりつく痛みが走る。一通り吐き戻したところで、水の入った湯飲みが出された。口の中をすすいで、また桶の中に吐き捨てる。
ようやくひと心地ついて、はあ、と大きく息をついた。
「……あーきもちわる……」
体調の意味もなくはないが、おもに「気持ち悪い」のはそこではなかった。甚爾もさすがに気の毒そうに頷く。
「まあ気持ちはわからんでもねーわ」
「……ホンマなんなんアレ。禪院家ってどういう精神構造しよんの?」
「俺が知るかよ」
知りたくもねーけど、とあぐらをかいた膝に頬杖を立てる甚爾。
甚爾に聞いていい言葉じゃないのは百も承知だったが、それでも言わずにはいられなかった。吐いてしまうほどの俺のストレスの原因、それは禪院家の一部の人間による見事な手のひら返しにある。
いつもの俺を使い続けるボンボンどもに、特に変化はない。俺に傷を押しつけ、死なない程度にいたぶっては偉そうな顔をしている。強いて言うなら最近は機嫌の悪いことが多いが、せいぜいそれくらい。
変わったのは、それ以外のやつらだった。
「……ここにきたばっかの頃の俺やったら泣いて喜んだかなぁ……」
「いや、絶対うさんくさすぎて引いてたな」
「せやな」
早い話が、俺にお情けを見せるようになったのだ。
ボンボンに使われるのを止めることこそなくとも、それが早めに終わるように声を掛けてくれたり、傷によく効く軟膏をわけてくれたり、こっそり慰めの言葉を頂戴したことさえある。何とか笑顔で礼を言うようにしているが、これまで一切を無視してたくせにどの面下げてというのが俺の本音だった。
俺の「禪院憎し」は、すでに確固とした柱となって俺を支えている。憎い相手に気を遣われたところで吐くほど気持ち悪いだけというか、実際こうして吐いてしまうというか。
その手のひら返しの原因はわかっていた。禪院家の「天才」の台頭だ。
「ボンボンどもに見込みがないことくらい前からわかっとったくせに」
「比較対象ができてより明確になったんだろうな。この家は
そして逆に俺は、「才能もないやつに使われてしまっている可哀想な術師」として捉え直されたというわけだ。俺が禪院家の人間じゃないということを差し引いても、ボンボンどもより俺を評価する声が出てきたということだろう。
いや、俺のが強いんは当然やけど。むしろ俺今までどんだけ舐められとったんや。これだけ術式使わされとったら理解も深まるし、甚爾のおかげで体術もそこそこ出来る。あんなボンボンどもに劣るだなんて一度も思ったことはない。
禪院家の血筋や秩序を第一とする一派はともかく、術師を「術師」として評価する目をもっている人間は俺に目を掛ける方へ傾いたらしい。正直ホンマに勘弁してほしい。
「……甚爾」
たぶん甚爾は、俺に目を掛ける禪院家の人間がいることについて何の感情も抱いていない。気の毒そうに俺を見る視線にも、きっと嘘はないと思う。甚爾は、何とも思っていない。だから、甚爾に愚痴を吐いてしまう自分を情けなく思うのは全部俺の勝手な思い込み。申し訳なく思ってしまうのも俺の身勝手だ。
それでも俺は、たまにそんな甚爾が憎らしくて仕方がなくなる。ここで「俺の気持ちを考えろ」とか言って殴り飛ばしてくれるようなやつだったら、きっと俺はこんな気持ちを抱かずに済んだのだろうに。
何だよと目線を向けてきた甚爾に、そんな気持ちの全部を押し込んで、笑顔をつくった。
「桶片付けてくるわ。おおきにな」
ん、と軽く相槌を打った甚爾は、特に気にした様子もなく伸びた髪をつまんでいた。立ち上がり、そんな甚爾に背を向ける。
無駄に長い廊下を歩きながら、十年か、と小さくひとりごちた。俺はとっくに二十歳を超えた。高専でなくその辺の適当な高校を卒業し、そのままこの禪院家で働く日々。
ここ数年は禪院家に来た呪霊祓除の依頼を回してもらい、呪術師として任務にも出ている。その報酬のおかげで借金の返済はかなりいいペースで進んでいた。この調子なら全額返済まではあと七、八年か。もっと上手く任務をこなせれば五年で済むかもしれない。
たったそれだけで、俺は念願の自由を手に入れることが出来る。
「……、」
自由になれるのは嬉しい。この禪院家から出られるのは嬉しい。もう何も堪えなくていい生活が待っている。なのに魚の骨が喉に引っかかったような心持ちになるのは、やはりあのドアホのせいだった。
直接的に身に掛かる火の粉くらいは払っているようだが、甚爾はとっくにすべてを諦めている。何にもやる気がない。禪院家に対して反抗的な態度は見せるものの、所詮は態度だけ。すべての理不尽を、甚爾はただ受け入れていた。
そしてきっと、これからも。
「……ホンマ、ありえへん」
腹の底で苛立ちが暴れ出す。
吐いたものを片付けて桶を洗うつもりだったが、もうそんな気分も失せてしまった。この金持ちの家は桶がひとつなくなったところで誰も気にしないし、敷地内にはあまり使われていない(と言われているが実は結構外に出せないものを処理している)焼却炉がある。ざっと周囲の気配を探り、誰も見ていないことを確認して中身ごと桶を中に放り込んだ。
はいこれで片付け終わりと手をはたく。いつもはこんなことはしないが、俺だって「ちゃんと」やることが嫌になるときくらいある。
は、と荒っぽく息を吐いて俺は踵を返した。
「……明日には灰になっとるやろ」
この苛立ちごと燃やしてくれたらいいのに、とくだらないことを思う。くだらないことを考えてしまう自分自身が、ただただ情けなかった。
***
一応術師としての任務を回されるようになったとはいえ、下働きの仕事がなくなったわけではない。皿洗いに掃除、洗濯、荷運びやら何やら、世間一般では家事と言われる類いの仕事だが、ひとがそこそこ真面目にやっている仕事を軽く扱うのはどうかと思う。
「
ジンイチさんがお呼びです、と皿洗いをする俺に伝えに来てくれた少年。見たことがあるようなないような、まあこの子も禪院なんとかくんなのだろう。わりと人当たりの良さそうな顔をしているが、ひとの仕事を雑に扱う時点で人間性が知れるというものだ。
とはいえ、俺に文句を言う権利があるはずもない。わかりました、と手を洗い、近くにいた女中さんに後を頼む。少年の「ジンイチさん」という言葉が効いたのか、特に冷たい視線を受けることもなく送り出された。
さて「ジンイチさん」ってどれだっけと視線を浮かせた。少年のあとを追いながら、頭の中で禪院家の偉い人間の顔を思い浮かべる。とりあえず当主ではないことくらいはわかるが、どの立場のやつだったか。確か直系の人間のなかにいたような気がしなくもない。ジンイチさんに呼ばれるなんてすごいことですよと無邪気に言う少年に笑顔を作りつつ、怪我の身代わりや八つ当たりの折檻やったら嫌やなぁと内心だけでため息をついた。
少年に連れてこられたのは、母屋のなかでも中心に近い一角。おもに鍛錬場所として使われている中庭だった。
「……来たか」
その中心に、まるで筋肉の鎧を纏ったような男が立っていた。俺より年上なのはわかるが、粗野ともいえるいかつい外見のせいで年齢はよくわからない。堅そうな長髪にひげ面、そして額の十字傷。
嗚呼、思い出した。確かこのひとは、甚爾の。
「連れてきましたよ、甚壱さん!」
「ああ。もう下がっていい」
はいっと元気に返事をした少年は、頭を振るように大きくお辞儀をして走って行った。もちろん、お辞儀をしたのは甚壱にだけ。
ホンマ禪院家の教育えげつな、と思いながらそのひとに笑顔を向ける。
「鎖桐望です。お呼びと伺いましたが」
御用でしょうか、と言い終えることは叶わない。
呪力の揺れは感じず、地を蹴る音も聞こえなかった。それでもなお、眼前に現れた拳。
「___、」
これは躱せない。ほとんど反射的に首の黒鎖を動かし、__止めた。
それでもなお、俺の背中は壁に叩きつけられる。肩と首からしてはいけない音がした。上手く息もできず、全身を走る痛みのせいで気を失うこともままならない。
「……術式を使おうとしてやめたな」
「、……つ、…ぅ、」
「何をしている。立て」
これで立てとは、よくも簡単に言ってくれる。ある程度痛みに耐性がある俺やなかったら普通に無理やぞと思いながら、痛みと感情を切り離した。幸か不幸か、衝撃こそあったが脚に損傷はない。
地面を両足で踏みつけ、立ち上がる。顔を前に向ければ、甚爾とはあまり似ていないそのひとと目が合った。その目には、何の感情も見えない。
「使っても構わんぞ。鍛錬と思ってかかってくるといい」
「……禪院家の方に、そのようなことは」
「そうか。では耐え抜いてみろ」
また身体が宙を飛ぶ。かと思えば、遙か上空から降りそそいだ拳に地に叩き落とされた。知っている、これは禪院家相伝の術式のひとつ。堅く踏みしめられた地面にクレーターを残すそれは、もはや隕石に近しい。
骨が、筋肉が、全身の神経が悲鳴を上げる。呪力で受けるにも限界がある。多少のダメージを軽減したところで意味があるのかどうか。もはや何本骨がイったのか自分でもわからなかった。
それでも、立てと言われれば立たねばならない。術式を使っていいと言われても刃向かってはいけない。後でひどい目に遭う可能性があるという以上に、まだ手の内をさらすには躊躇われた。どう計算してもあと数年は禪院家にいなければならないのだ、俺の強さを計らせるには早すぎる。
大丈夫、「縛り」がある以上殺されることはない。そう自分に言い聞かせながら、もはや蹂躙というに相応しい拳を受け続ける。痛みも、苦しみも、どうせいつかは終わるのだ。たったひととき、地獄に堪えればいい。
こんなもので折れるほど、俺の
「……甚爾と連んでいるというからどんなものかと思ったが」
血を流しすぎてそろそろ意識も朦朧としてきた頃、ただ俺を嬲り続けた鬼畜はぽつりと言葉を落とす。「甚爾」という言葉がなければ聞き落としていたかもしれないほど、小さな呟きだった。
「所詮は出来損ない同士の傷の舐め合いか」
血管の切れる音が聞こえたような気がした。
今こいつは何と言った。俺だけでなく甚爾も含めて「出来損ない」とかいう妄言が聞こえたような気がしたが幻聴だろうか。いいや俺は確かに聞いた。
心臓の音がうるさい。全身に血と呪力が巡る。出血も激しくなるが気にもならなかった。体内が燃えるように熱い。押さえ込んでいたものが沸騰したように暴れ出す。
甚爾の近しい血縁でありながら、おそらくは甚爾の実力も知りながら、たかが呪力をもたないという理由だけでそのすべてを否定するのか。もはや凡人には理解することも出来ない、あの人智を超えた強さを。
お前なんか、甚爾の足下にも及ばないくせに。
禪院の全てを集結しても、甚爾には敵わないくせに。
アイツがその気になれば、今すぐにでも禪院は滅ぶくせに。
それを恐れたから、アイツの心を折り続けたくせに。
「……だれが、」
術師にとって、怒りは力。憎しみも力だ。だからコントロールをしなくてはならない。必要なときに必要なだけ呪力として操れるように、感情の抑制は術師の基礎の基礎とも言える。
なるほど、ならば今の俺は確かに「出来損ない」かもしれない。でも、アイツは違う。絶対に、違う。
「誰が、出来損ないや!!」
全身を迸る呪力が、鎖となって俺の身体を巡る。俺の意志と関係なく四方八方に放たれた鎖は、夜の闇より昏い色をしていた。
*
最初に気づいたのは、身体を動かすのに付き合えと言われたときだった。それくらい構わないと頷いて相対し、甚爾と改めて向き合ったときの、あの感覚。「敵」として甚爾を見たときの、あの感情。この家の誰と向き合ったときだって、そんなものは感じなかった。
呪力ではない、底知れないもの。
理解の範疇を超越した強さ。
手を伸ばして届くような、そんな明らかなものではない。もはや次元が違う。
俺はただ、すごいと思った。畏れ、焦がれもした。そんな甚爾と鍛錬できる幸運を噛みしめた。内心に黒く歪んだ気持ちも生まれたけれど、それでも。
甚爾は、強い。きっと、この世界の誰よりも。
すんなりと胸に落ちたその事実は、暗闇に光の道をつくる灯台のように感じた。
*
消毒液のツンとした臭いで目が覚める。
といっても、まだ瞼のひとつも動かせない。呼吸をするたびに全身に痛みが走り、かろうじて自分が生きていることを確認する。身体中に包帯が巻かれ、折れた手足が固定されているのを感じた。一応死なない程度に手当はしてくれたらしい。
黒鎖の制御を忘れたあのときからの記憶がなかった。暴走するだけして呪力切れでも起こしたのだろうか。俺もまだまだ鍛錬が足りない。
しかしあのときの黒鎖は、と首元の痣に意識を向けたそのとき、襖一枚を挟んだ向こうから知った声が聞こえた。反射的に耳を澄ませる。
「__
余裕と威厳を含んだ低い声。ずいぶんと久しぶりに聞く声だが、この声を忘れることはない。禪院家の当主、いったいどういう毛根しよるんやと突っ込みを入れたくなる髭を蓄えた「最速」の呪術師、禪院直毘人。愉快でたまらないというその声は、傍にいる誰かに向けられているようだった。
対して、不機嫌そうな声がそれに応える。
「……それに異論はない。だが、あれは危険だ。弁えたように振る舞ってはいるが、表面だけだろう。現に、痛めつけて煽ってやれば本性を出した」
あれはいずれ、禪院家に牙をむく。
そう続けた声は、俺を嬲ったあの
「『黒鎖』と『鎖桐』は決して恨みを忘れんと聞く。たかが術師ひとりとは言え、一時は手元で飼っていた犬に手を噛まれるようなことがあれば禪院家の恥だ」
誰が犬やねん、とつい内心で喚いた。
さすがは身内の術師しか人間扱いしないクズの一族、他所の呪術師など動物扱いで充分らしい。期待に応えて数年後には絶対に手どころか喉笛に噛みついてやる。
甚壱の言葉を聞いた当主は、それは愉快そうにくつくつと喉の奥で笑った。
「犬の呪いを恐れていては禪院家の
真っ先に死ぬのはあれを身代わり人形にした愚か者やもしれんな、と当主は軽く言い捨てた。その「愚か者」が、実の息子たちであるにも関わらず。
甚壱が小さくため息をついた気配がした。
「……それが『当主』の判断なら何も言わん。だが、俺は俺で勝手にやるぞ」
「ああ、構わん。『縛り』さえ破らなければ好きにすればいい」
「わかっている。殺しはせん」
その「縛り」が、果たされるときまでは。
痛む身体に冷たい汗が伝ったことには気づかないふりをする。わかっていたことだ、と内心で呟いた。
俺の命の保証は、契約が果たされるときまで。つまり、借金を完済して禪院家を去ると当主に告げるときまでだ。そのときに禪院家がどう出るか。俺はどうするか。覚悟はとうに出来ている。
くく、とまた当主は低い声で笑った。それにしても、と言葉を続ける。
「しかし『黒鎖の情』を得たのがよりにもよって甚爾とは。わからんものだな」
こくさのじょう、と当主は言った。知っているような知らないような、大昔にその言葉を鎖桐の記録で見たような。
どんな意味だったかと記憶をたどろうとしたところで体力の限界がきた。再び、深い眠りの底に引きずり込まれる。
瞼の裏で、黒い鎖がちらついたような気がした。
*
ゆらゆらと揺れる振動が傷に響く。次に目を覚ました時には、眠っていた布団ごと誰かに運び出されていた。布団の皺しか見えないので「誰かに」なんて言い方をしたが、重傷を負った人間を布団で簀巻きにして運ぶなんて雑なことをする人間なんて限られている。しかも荷物のように肩に担いで運ぶなんて、ひとの痛みが理解できない奴に違いない。
超ド級のドアホ野郎め、腹の傷にお前の肩が食い込んで痛いんじゃボケ。
「……と、じ、……いた、い……」
「んだよ、起きたのか」
寝てる間に運んでやろうと思ったのに、と甚爾は改めて俺を担ぎなおした。その振動で全身に貫くような痛みが走る。あまりの痛みに悶絶していると、ああ悪ィ悪ィと軽くぺしりと俺の背中に添えた手ではたかれた。再び走る痛みに歯を食いしばる。
何だこんなのも痛いのかと不思議そうにいうこのドアホ、動けるようになったら絶対しばく。
「お前がやられてから三日経ってる。とりあえず傷はふさがったし骨折の処置も終わったからあとは自室で寝てろってよ」
運んでやるから寝てろ、と軽い言葉が胸に落ちる。
その声に優しさはない。乾燥した、気遣いなんてものとはほど遠い声色。だからこそ、俺の空虚にはよく響いた。いつも、そうだった。
甚爾、と音にならなかった言葉も、五感に優れた甚爾の耳には届いたらしい。ふと甚爾が足を止める。
「……なんだよ」
溢れ出る感情はあれど、それを表せる言葉はなく。伝えたい気持ちがあるようで、伝えるべき言葉は何もなかった。
俺が何も言わないことを悟ったのか、甚爾はまたゆっくりと歩き出す。先ほどまでより振動の少ない歩みには、確かに不器用な気遣いが見えた。