黒鎖の情   作:ふみどり

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決意のとき。黒鎖の情とは。


3

 油断していた、のかもしれない。

 甚爾は強い。この家の術師が束になったって敵わない。呪力がなくとも術式がなくとも、そんなことは問題にならないくらい甚爾は最強だ。だが、弱点はある。

 呪霊(のろい)呪力(のろい)でしか祓えない。甚爾は呪霊を見えなくとも感じることは出来るが、呪具がなければどんな低級も祓うことは出来ない。かつてはよくそれを利用して「嫌がらせ」を受けていたそうで、口元の傷痕もそれが原因だと言っていた。だが、それも甚爾の超人的な身体能力が花開くにつれてなくなっていったと聞いていたし、今となってはそんなくだらないイジメをやらかすクズはいないだろうと。

 俺ときたら、この家の人間のクズさをまだ舐めていたらしい。

 

「っ……!」

 

 甚壱にやられた傷が癒え、俺が再び家人としての仕事に戻るようになると、必然的にまた甚爾がひとりでいる時間が増えた。怪我が癒えるまで何かと面倒を見てくれていた甚爾にたまには礼でもしてやろうと奮発して肉の塊を買って部屋に戻ったとき、気づいた。

 甚爾が部屋にいないことは何も珍しいことではない。だが、開けっぱなしになった襖、いつもと違う場所にある座布団、どことなく荒れた空気。

 いや、もはやただの勘だった。こじつけじみた直感が、ただ走れと俺を急かす。全力疾走なんていつもなら絶対にしないが、今だけは咎める声も止める声も耳に入らなかった。

 向かう先は、懲罰にも使われる禪院家特製の呪霊の巣。いつもは誰も立たないはずのそこに、今日は呪具を手にした見張りがふたり。

 

「、止まれ! 今は何人も通すなと、」

「鎖桐、何を!!」

「どけ!!」

 

 見張りの忠実(いぬ)どもを吹っ飛ばし、呪霊を閉じ込める封印の施されたしめ縄をくぐる。結界内に足を踏み入れると同時に漂ってきた血の臭い。ぎり、と奥歯が鳴った。

 呪力を含まない、圧倒的な強者の気配。この空気を纏う人間はこの世にひとりしかない。

 

「___甚爾!!」

 

 諦めきった無関心な眼が大きく見開いている。何で、と口が動いた気がした。部屋の中心で片膝をついたその身体は血に塗れていた。

 その様子にすら腹が立って、思わず身体から呪力が漏れ出る。餌を啄むように甚爾にまとわりついていた呪霊の群れがわずかに下がった。

 禪院家が飼い慣らしている二級以下の有象無象。数こそ多いが雑魚は雑魚、甚爾はお前らごときが討っていい人間じゃない。お前らごときに傷つけられていい強さじゃない。

 だというのに、___何を。

 

「何を、___黙ってやられとるんじゃアホンダラァ!!」

 

 血が沸騰する。呪力が湧き出る。じゃらりと音なき音が身体を這い、昏い鎖が放たれる。ひとつひとつの鎖はか細くていい。()()()()()()()

 少し前までは俺自身が触れてマーキングしなければ繋ぐことが出来なかった呪いの鎖。けれど甚壱に嬲られたあの日、激高して闇雲に黒鎖を放ったあのときに掴んだ黒鎖呪法の次の段階。ある一定の範囲内であれば、俺は感知した「呪力」に触れずとも鎖を繋ぐことができる。

 この部屋程度の広さなら余裕、呪霊の数は百を超えるが毎日毎日敵だらけの屋敷で生き残ってきた俺なら全て捉えられる。俺の受けるダメージを全てトレースするようなレベルの鎖はさすがに難しいが、多少分散させたところで今は問題ない。何せ、この「最強」の一撃なら分散させたってお釣りが来る。

 耳元でじゃら、と音が鳴る。全ての呪霊と鎖で繋がった感覚があった。甚爾、と両足を踏みしめる。

 

()()()()()!」

「___!!」

「手加減無用や、殺す気で来い!!」

 

 血ぬれの身体が動いたと思ったときには、すでに拳が目の前にあった。

 背筋が凍る。恐怖で身体が竦む。本能的に逃げようとする身体を理性で押さえつける。抜けそうになる腰に力を入れ、術式(くさり)を放してなるものかと拳を握りしめた。

 対象に押しつける「衝撃」にも限界はある。甚爾の渾身の拳という「衝撃」を術式で呪力に変換しきれるかどうか、俺にもわからない。だが、頭のどこかで「出来る」と自信をもっていた。まるで根拠のない自信だが、それでも。

 呪術師にとって怒りは呪い(ちから)、憎しみは呪い(ちから)。ならば怒りと憎しみとともに生きてきた俺の呪いだって、そんな生半可なものではないはずだ。

 俺の呪いを舐めるな。その意地だけで身体が弾け飛びそうな「拳」を受け止める。

 

「っ____!」

 

 衝撃を受けたそばから呪力に変換。膨大なエネルギーを片端から鎖に流し込み、俺の身体から逃がしていく。押し込まれた呪力に耐えきれなかった呪霊は順番に弾け飛んでいき、繋いでいた鎖が順番に消し飛んでいく感覚があった。

 呪力への変換が遅れれば死ぬ。呪力を変換しきれなくても死ぬ。変換した呪力を押しつける対象がいなくなっても死ぬ。……やばい、最後の可能性を失念していた。

 次々と消滅していく呪霊に冷や汗が流れる。やばいやばいやばいこのドアホまじで殺す気で殴ってきよった呪力変換がギリ間に合っても押しつける相手がおらんと俺が受けるしかないあかんあかんあかんこんな呪力俺が受け止めたらまじで死ぬこちとら怪我治りたてほやほやでまだ本調子やないんやぞやば、と頭のなかでやかましくアラートが鳴ったところで気づいた。

 

「何を勝手に、」

「鎖桐、」

 

 来よった生贄。これも俺の日頃の行い、そしてお前らの因果応報。

 おそらく甚爾をここに放り込んだ張本人たち、常から俺を身代わりにつかう当主直系のクソ馬鹿兄弟ども。一瞬かからず鎖で繋ぎ、呪霊たちだけでは捌ききれなかった甚爾の拳の威力の残りを押しつける。

 何、まだ何分割か出来るから死ぬほどではないだろう、せいぜい顔の骨がいくらか持っていかれる程度だ。常日頃痛みから逃げているクズどもにとって、それがどれだけ辛いのか俺にはわからないけれど。

 

「が、ああああああ!?」

「っあ、ああ、うああああああ!?」

「ぐ、が、……!?」

 

 嗚呼、足りた。何とかなった。ようやく安堵の息をつく。ぺとりと頬にくっついていた甚爾の拳がゆっくりと下ろされた。わかっていても俺が吹っ飛ばないのが不思議なのか、甚爾はきょとんとしたまま俺の顔を見つめている。

 平気なのか、と子どものように問い返され、思わず笑って血に濡れていない甚爾の肩に軽く拳を入れる。

 

「平気やないわホンマに殺す気でやりよって。あの追加の生贄おらんかったら俺が死んどったぞ」

「いや殺す気でやれっつったのお前だろ。何かすげえ変な感覚だったけど」

「お前の拳の威力全部呪力に変換して他に押しつけたからな。呪霊も残らず消しとんどる」

 

 俺の術式をつかえば、甚爾の力は呪霊にだって届く。俺ひとりであの数相手に甚爾を庇うのは難しいと判断しての咄嗟の手だったが、俺が次のステップへと進むいい腕試しにもなった。触れなくても鎖に繋げれば術式の汎用性は格段に上がる。戦い方も変わってくる。俺は、この呪いの鎖とともにまだまだ強くなれる。

 さて、と血まみれで蹲るクズどもに目を向けた。お前ここに放り込んだんあいつらよな、と聞けば、隣で甚爾が面倒くさそうに頷く気配がする。どうせ直哉の台頭によって冷遇されるようになってしまった鬱憤でも晴らそうとしたのだろう。幼い頃から血縁に対してはヘタレになるよう叩き込まれた甚爾は、こいつらに逆らうことをしない。

 すう、と息を吸った。右の拳に呪力を込め、振り向きざまに拳を振るう。油断しきっていた甚爾が柱に叩きつけられた。

 血まみれだろうが何だろうが、俺程度の拳など甚爾にとってはたいした威力じゃないことはわかっている。だが、こうせずにはいられなかった。

 つかつかと甚爾のそばにより、胸ぐらをつかみあげる。鋼のような肉体はずっしりと重い。

 

「……何をしとるんやお前は」

 

 のぞむ、と甚爾のくちが動く。

 甚爾の境遇はわかっている。何度も何度も丹念に心をへし折られてすり減らされてきたのもわかっている。甚爾の苦しみは甚爾にしかわからないし、俺がそれを「そんなこと」というのはあまりにも身勝手で傲慢だ。俺の苦しみだって、俺にしかわからない。

 でも、と俺の心は叫ぶ。だって甚爾には力がある。自分に刃向かう全てを薙ぎ払えるだけの強さがある。俺がいくら望んでも得られないそれをもっているのに、何故それを振るおうとしないのか。

 その苦しみから抜け出せる術を、お前はとうに持っているのに。

 

「何でただ言うこと聞いとんじゃ。呪具もなしに呪霊のなか放り込まれたらお前だってどうすることも出来ひんやろ。俺が気づかんかったら死んどってもおかしくなかった」

「……おう」

「おうやないねん死にたいんかお前は。死にたいんやったらあんなクズどもに使われとらんと自分で勝手に死ね。お前の死までクズどもの娯楽にさすな」

「別に、……死にたいわけじゃねーけど」

「知っとる。……知っとるから言うとんじゃこんクソボケ」

 

 知っている、甚爾は死にたいわけじゃない。ただ、生きたいと言える理由もないだけだ。全てどうでもいいだけ。生きたいと思うに足る理由を見いだせないまま、ただ飼い殺されている。

 それが、ひどく勘に障る。

 

「俺ホンマにお前のそういうとこ死ぬほど嫌いやし殺したくなる」

「……、」

「何でやりかえさへんねん。呪力がないから何や、お前はそれでもこの家の誰より強いやろ。呪霊が祓えんくても術師相手ならお前は絶対に負けへん。呪力も術式も全部問題にならんくらいお前の力は圧倒的や。そんなん俺でもわかるし、この家の誰だってホンマはわかっとる。……お前だって、」

 

 ちゃんと、自分でわかっとるくせに。

 甚爾の襟元を握る手が、震える。

 

「そもそもこんな頭固いクズの坩堝に閉じこもっとる器やないやろお前は。この家のやつらがお前のこと認めへんならとっとと叩き潰して外出たらええねん勝手に諦めんな。いつまでも狭い檻ん中で毒食わされとるんちゃうぞボケ」

 

 強いやつが理不尽に屈するな。不条理に膝を折るな。他者の身勝手を受け入れるな。

 誰よりも強いお前にそんなことをされたら、お前より弱い俺はいったいどうしたらいい。強くなれば何にだって打ち克てると思って歯を食いしばっているのに、お前がそんなでは、俺は。

 歯を食いしばって前を向くことさえ、叶わなくなる。

 

「……お前には出来るんやぞ、甚爾」

 

 邪魔をするやつは蹴り飛ばし、道を塞ぐやつは投げ捨て、理不尽を押しつけるやつは撥ねのけて。自分を否定するすべてを、殺し尽くしてやればいい。

 それをするだけの力が、甚爾にはある。俺には欲しくても得られない、圧倒的な力が。

 

「……とっととこんな家捨てて好き勝手やれやドアホ……!」

 

 絞り出した言葉の最後は震えていた。驚愕で見開かれた黒い瞳。俺はこんなに驚いた顔をした甚爾を初めて見たかもしれない。のぞむ、と甚爾の唇が動こうとした、ように見えた。

 一瞬で身体が引っ張られる。この雑な強引さは甚爾、と思ったところでさっきまでいた柱の根元が弾けた。視線を背後に向ければ、顔が半分潰れたクズのひとりが何とか身体を起こしていた。なるほど、やり返す気力は残っていたか。

 

「望、」

「いらん、俺がやる」

 

 甚爾に引っ張られた衝撃も抜けきらない前に、ぐっと拳を握りこむ。拳にあるのはクズを縛る黒い鎖。一瞬でクズの身体に絡みつくように黒の鎖が走って行く。皮膚に刻まれる鎖を見て怯える表情が何とも心地いい。

 一度刃向かってしまったなら、もう遠慮する必要はない。むしろ生命を握っているのはどちらなのか、嫌と言うほど思い知らせてやらなければ。

 

「……黒鎖と鎖桐は恨みを忘れへん」

 

 黒い鎖を通して受けた傷。その痛み、その数、その深さ。俺は全てを覚えている。そしてこの昏い呪いの鎖も、また。

 鎖の絡む腕から順に、赤い線が刻まれるように皮膚が裂けていく。

 

「あ、……あああ!? な、何や、何やこれ!?」

「やかましなァ……大したことあらへんやろ、そんなんかすり傷や」

 

 ごぎ、と鈍い音が響いた。穢い悲鳴とともに床に転がる醜い肉塊はひどく見苦しい。何をこの程度で泣いているのだろう、これらは全て俺が堪えきった痛みだというのに。

 

「その骨折は六年前の四月やな。腕の裂傷は一昨年、肩の脱臼は八年前の冬。……何や見苦しい、まだまだ這いつくばるほどのもんやないやろ?」

「や、やめ、……もう、やめ、」

「俺がアンタからもろた傷はこんなもんやない。まだ十分の一にもならんのに、今からそんなんでどうするん?」

 

 全部の恨み(きず)を再現したら、どうなるんやろなぁ?

 にたりと頬を歪めてみれば、痛みか恐怖かその両方か、ひ弱なクズ野郎は失神したらしい。うわホンマ雑魚、と思わず口をついて出た本音に、少し離れた場所で噴き出す声。その呪力が近づいてきているのは感じていた。

 

「……ご子息の教育、手を抜きすぎやないですか?」

「言いよるわ。まあ、教育という教育もしておらんからなァ」

 

 肩を揺らしながら現れた、どこの芸術家だという特徴的な髭の男。実の息子が血まみれのボコボコで倒れているというのに、その一切を気にせず笑うひとでなし一族の筆頭。

 禪院家の最強であり「最速」の呪術師、禪院直毘人。俺の後ろに立つ甚爾がぴくりと肩を揺らしたのを感じた。

 

「しかしとうとう『肆の鎖』まで到達したか。歴代の術師のなかでもそこまで黒鎖を極める者は少ないと聞いたが、なかなかどうして」

「……『犬』の術式のことをよくご存知のようで」

 

 返した皮肉にもご当主は愉快そうに笑うだけ。何とも憎らしい。

 黒鎖呪法には「壱」から「陸」まで六つの鎖がある。もっとも基礎的な一対一での即時的に傷を交換する「壱の鎖」はともかく、数字が上がるほどにその扱いは難しくなる。呪霊の群れ相手にやった一対多数の「弐の鎖」まではギリギリ会得しても、それ以上を使いこなす術師はそれほど多くないと聞いていた。まして「陸」まで使えた術師など数えるほどしか記録にはない。

 俺が今クズ相手に使った「肆の鎖」、音をもじって「死の鎖」なんて洒落のように呼ばれる鎖は、過去に対象から受けた傷を全て再現できる。恨みを忘れず全てをやり返す復讐の鎖は、黒鎖と鎖桐の性質を象徴しているとも言われた。

 正直を言えばぶっつけ本番でやったのだが、まあ出来る気はしていた。毎日のようにこの術式を使って身代わり人形をやらされてきたのだ、術式を理解するには十分な鍛錬であったし、それはもう恨みも傷もたっぷり積み重ねてきた。むしろ出来ない理由がない。

 このさらなる上の「伍」と「陸」も、俺ならあるいはと半分確信している。しかし、おそらく俺が最上級の「陸」を使うことは___。

 俺はただ、無言で当主を見返した。ふむ、とそのひとは面白そうに顎を撫でる。

 

「『陸』まで会得は叶いそうか?」

「……どうでしょう。使えたところで使うことはなさそうですし」

「ふ、……『黒鎖の情』を得たのがよりにもよって甚爾ではなァ」

 

 は、と背後から声が漏れた。

 黒鎖の情__夢うつつのなかで聞いたその言葉は、幼い頃に読んだ鎖桐の文献の中にあった。恨みを忘れぬ鎖桐の術師は、同時にひどく情深き術師であると。その「情」ゆえに鎖桐の優れた術師たちは、自ら死を選んできたのだと。

 

「『陸の鎖』は術師の生命と引き換えに死者すら蘇らせると聞いたが、真か?」

 

 あらゆる呪術をもってしてもいまだ叶わぬ魔の領域、死者の蘇生。これからも決して叶うことはない、叶ってはならないと言われているそれ。黒鎖呪法を極めた先にそれがあるとは言われているが、鎖を扱う人間からしてみれば何てことはない。

 

「さあ、どうでしょうか」

 

 出来るわけないやろ、んなもん。

 現代医学において、呼吸が止まっていても心臓が動いていなくてもまだ蘇生が可能な場合がある。その状態であれば、黒鎖でダメージの取り替えがまだ間に合うというだけの話だ。

 黒鎖のダメージの取り替えは基本身体の傷のみに適用される。死の間際に「壱」の鎖で表面の怪我だけを取り替えても、弱り切った身体を癒やすことはできない。

 その「制限」を取っ払うのが「陸の鎖」そして「黒鎖の情」。自分の生きる力を相手に捧げ、対象の身体を蝕むすべてを引き受ける。

 それはつまり、自分がどうなろうと対象(あいて)を護り抜くという、黒鎖を握る術師の()い。

 

「……出来たところで使いやしませんよ。誰かの代わりに死ぬなんて冗談やない」

「しかし黒鎖を極めた者の多くはそれで命を落とした。常に『唯一』に付き添い、傷を引き受け、最期には身代わりとなった。愛情、友情、忠誠、恋慕___表現は多々あれど、結局は『情』だと。執着のほうが近いようにも思えるがな」

「お好きにご判断ください。俺には関係のない話です」

「ふん。禪院の中に『黒鎖の情』を得る者があれば面白いと思ってお前を引き受けたのだが___まさかよりにもよって()()()()()()()()()()が得るとはな」

 

 当主の視線がすっと浮いた。俺の後ろに立つ大男に向けられる。

 正直なところ俺には「黒鎖の情」がどうとかどうでもよかったし、それを甚爾に向けたつもりもなかった。俺が今甚爾のために生きて禪院家を出られる確率を下げたのも、そのことに一切の後悔がないのも事実だが、それにわざわざ名前をつける必要もない。

 俺にもわからないそれを「黒鎖の情」と呼ぶなら勝手にすればいい。ただ、確かにそれは「黒鎖の情」として意味がない。なぜなら。

 

「呪いの鎖は呪力のないものを縛ることは出来ん」

 

 どんなにその痛みを受け取ってやりたくとも。

 どんなにその苦しみを代わってやりたくとも。

 どんなに生きていてほしいと願ったとしても。

 呪力皆無という最高クラスの天与呪縛の前に、俺の呪いは意味をなさない。

 

「……別にいいだろ、それで」

 

 よくわかんねーけど、といつもの無気力な声が落ちる。ざ、と唯一無二の気配が俺の隣に立った。

 

「情とか普通にいらねーよ。望がンなことするとも思えねーけど」

「出来てもやらん」

「ほらな。そんな生ぬるい性格してねーわ」

 

 ぐい、と目元まで流れ落ちていた血を拭う。全身血に塗れているが、どれも傷は浅いらしい。甚爾の驚異的な回復力もあって、すでに傷は塞がっているように見えた。

 爺、と甚爾はいつもより少し低い声を落とす。

 

「俺、出てくわ」

 

 当主はただ口角をあげる。俺は静かに目を伏せた。

 許可を請うのでもない、確認をするのでもない、甚爾の明確な意思表示だった。このたった一言を口にするために甚爾の中でいくつの壁を乗り越えたのか、それは当人にしかわからない。それは決して低い壁ではなかっただろう。だが、甚爾の馬鹿力ならその気になれば簡単に打ち破れる程度の壁であったはずだ。

 僅かに心に吹く隙間風に気づかないふりをして、それでいい、と内心でひとりごちる。甚爾が甚爾として在るためには、そうするしかない。

 気だるげに部屋の外へと向かう背中は、いつもと同じ猫背だが何かが違う。望、と甚爾は背中で言った。

 

「先行ってる」

 

 言葉の意味を正しく読み取り、結んだ口を解いて息をついた。おう、とその背中に言葉を返す。 

 

「せいぜい野垂れ死なんように気張り。お前生活力ないんやから」

「うるせえよ」

 

 いつもの軽口、いつもの憎まれ口。それだけで十分だった。これが今生の別れなどでは決してないことくらいお互いにわかっている。

 甚爾の気配が遠くなったころ、愉快そうな顔を崩さない当主が改めて俺を見つめる。いいのか、と視線だけで尋ねられたような気がした。甚爾についてこの家を出れば、お前もこの生活から解放されるぞ、と。この煽るような視線はおそらく気のせいではない。

 俺はその視線を正面から受け止めた。舐めるな、と同じく視線で返す。

 

「金は返します。ケジメはケジメ、筋は通す」

「健気なことだ。自分を売った家の借金だぞ?」

「それでも俺が背負ったものには違いない。きっちり返して大手を振ってこの家を出ます」

「そもそも無事に出られると?」

 

 俺を殺さないという「縛り」は俺が金を返し終えるその瞬間まで。その後は何の保障もない。

 甚壱に目をつけられただけでなく、俺は当主の直系にも完全に刃向かってしまった。「縛り」が果たされたその瞬間、十中八九俺は禪院家の敵と見なされる。どころか、「縛り」がある間だって死なない程度に嬲られ続けることだろう。

 だが、___それが、何だというのか。

 

「無事に出ていきますよ、俺は」

 

 むしろ、そう、俺が恨みを晴らさずに出て行くとでも思っているのかと言いたい。黒鎖と鎖桐は恨みを忘れず、どこまでもどこまでも執念深い。

 俺は自分が受けた傷をただのひとつとして忘れていない。俺に傷を引き受けさせたクズの顔をひとりとして忘れていない。

 ケジメはケジメ。金は返し、やられた分もきっちり返す。全部綺麗に清算し、晴れ晴れしくこの家を出て行ってやる。この後どれだけいじめ抜かれようが、絶対に。

 

「俺の憎しみ(のろい)を、甘く見るな」

 

 全て片付けた先で、俺は。

 きっとまた、あの「最強」の隣で笑うのだ。

 

 

 ***

 

 

「あーもー! 五条クン縛った時点で勝ったと思ったんに!!」

 

 殴られた頬がひりひりと熱をもっている。いや、殴られたのは俺ではない。黒鎖によって繋がっていた五条家の当主にして「最強の呪術師」、五条悟。

 完全にぶすくれた顔で椅子に腰掛けている五条クンは、苛立った様子で貧乏揺すりをしている。その横では彼の同級生だというふたりが心底愉快だというふうににやにやと笑っていた。

 

「何なん『五条』で『最強』なら絶対めっちゃ怖がられとるか崇拝されとるかの二択やって普通思うやろ! 何でこんな嫌われとるん人望なさすぎちゃう!? ちゅーか東京のひとらも何やねん、普通先輩に傷がいくってわかっとってぼこすか殴りにくるか!?」

「貴方のおかげで五条さんに一発いれることができました。本当にありがとうございます」

「ま、まさかのお礼……嘘やろ、俺の作戦根底から否定された……!」

「うっせーーーー!! 七海お前あとで覚えとけよ!!」

「はいはい落ち着いてくれ悟、君に人望がないのは今に始まったことじゃないだろう?」

 

 すごい顔で同じく「最強」と呼ばれる相棒を睨む五条クン。少しも怯まないところを見るとホンマに仲良いんやろなぁとしみじみと思った。

 言い争いを始めたふたりに構わず、近くにいた美人さんがつつつと俺に歩み寄る。

 

「きみやるね~あんなに顔腫らした五条とか初めて見たわマジでウケる。面白いもん見せてくれたお礼に怪我治してやるよ。顔見せな」

「は、すご、え、反転術式……治った! おおきにありがとうございます!」

「いーよ。にしても面白いね、夏油に殴られた五条の傷が君のそれなんだ?」

「黒鎖呪法いいます。俺を殴った……ええと、七海クンと灰原クン? の傷が五条クンにいってます」

「すごい呪いらしい呪いだね! あえて五条さんを狙いにいくのもすごい!」

「ええ、貴方には悪いですが非常にスッキリしました。是非またお願いします」

「七海クンて五条クンに恨みでもあるん?」

「数え切れないほど」

「ウワ根が深い」

 

 東京と京都の呪術高専が互いに競い合いさらなる成長を目指すという交流会。「最強」を誇るふたりを恐れて俺以外の学生はボイコットしてしまったが(新幹線に乗ったら俺しかいなかったけどどういうこと)、俺はこの日を楽しみにしていた。

 術師として「最強」を誇る彼ら相手に殺されることなく自分の力を試せるというのもそうだが、何よりもその顔を一度見てみたいと思っていたのだ。五条家が誇る「最強」、無下限呪術と六眼をあわせもったひとつ上の彼。

 真っ黒のサングラスごしでもめちゃくちゃ睨まれているのがわかって面白い。はははと笑いながら俺は頭を掻いた。別に怒らせたいわけではなかったのだが、あまりに上手く術式に掛かってくれたのでプライドに障ったのだろうか。

 すんませんでした、ととりあえず素直に頭を下げる。

 

「いや~いっぺん五条クンの顔見てみたいて思てたから、ついはしゃいでしもて。お気に障ったならすんません。いい勉強さしてもらいました、ありがとうございます」

「……お、おう」

「きみ、えっと、鎖桐くんだよね。悟のファンか何かなのかい?」

「ファンと言いますか、存在に感謝してます。生きててくださってありがとうみたいな」

 

 え、と東京校の皆さんが目を瞠る。

 紛れもなく本心なのだが、この言い方は良くなかっただろうか。えーと、と首元を掻きながら次の言葉を考える。

 触ることもできないはずの黒鎖がじゃらりと音を立てたような気がした。

 

「ほら、五条クンが生きとってくれるだけで禪院家の皆さん歯噛みしよるでしょう。是非このまま健康に長生きしてほしいなというアレです」

「ああ、つまり敵の敵は味方的なアレかな?」

「えっと、禪院家って五条さんのところと同じ、御三家のひとつだよね」

「何か恨みでも?」

 

 七海くんの率直な問いに、にこりと笑う。

 恨みなんて一言で片付けていいのだろうか、抑えるのも必死なこの感情を。俺が今ここに生きている理由、そのためにあの人が被った苦しみと流れた血。五体満足で高専に通わせてもらっていることが恥ずかしくて仕方ない、けれども生き抜いて果たしてみせると決めた俺の悲願。

 俺は、強くならなくてはならない。そして、絶対に。

 

「禪院家は兄貴の仇やから」

 

 いつかあの家は、俺が呪い殺してみせる。

 




イフとして

「……なあ俺死んでへんけど。生きとるけど」
「兄貴の仇は俺が討つ……!」
「いや普通に無理やからやめとき。お前俺にも勝てへんやん。よわよわやん」
「誰がよわよわじゃクソ兄貴」
「ばっちり聞こえとるやんけクソ弟。俺並みに黒鎖使いこなしてから吠えんかい」

という会話とか、

「……は、おま、」
「な、にをしとるんじゃこのクソボケアホ!! ええか、親はおらんでも子は育つけど金がなかったらひとは生きれんのじゃ生み出した以上は最低限の生活くらい保障せえやどこのクズやお前は!! 金がないならそこらの呪詛師の数人でもぶち殺して札束でもなんでも作らんかいまずは土下座じゃ禪院家に攫われる前に手ェ考えるぞドアホボケ!!!」
「……生きてるどころか相変わらずすぎねーかお前」

があるかもしれません。
お付き合いありがとうございました。
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