強い悲しみから流す涙のことを、唐紅の涙と言うらしい。
それを知ったときは紅い涙て何やねんと内心で零したものだが、なるほどあながち間違ってもいないのかもしれない。蒼白に近い頬を次々と滴っていくそれは、どちらかというと致命傷かというほど深い切り傷から溢れ出る血のように思える。
「……ごめんなさい、ごめ、なさ……!」
俺よりももう少し小柄な体躯、まだ幼さの残る顔立ち。自己紹介なんてされなくてもわかった。この世で唯一、俺と同じ鎖の呪いを首に刻む者。
ただひとり憎むに憎めなかった肉親が、俺の前で膝をついて絶望に涙を落としている。それを見て喜びなんて感情をもった俺は、もはや人間として壊れてしまっているのだろう。毎日毎日傷だらけになるほど痛めつけられれば当たり前やろボケと言いたい。
包帯だらけの身体を引きずり、弟の前に膝をつく。それだけで身体中に痛みが走るが、そんなことはどうでもいい。何とか手を伸ばし、短く整えられた黒髪に手を添える。両手で撫でるように両頬をつつみ、涙まみれの顔を上げさせた。
絶望に染まる瞳を見て心の奥底から安堵してしまった兄を、どうか許して欲しい。
「……ええ子に育ったんやなぁ。……賢くて、優しいな。ホンマびっくりや」
なあ、刻、と名前を呼んでやればひくりとその喉が揺れた。それに合わせ、俺と同じ昏い鎖が波を打つ。
あんな頭の中お花畑の親類に囲まれて育ったはずのに、刻はひと目ですべてを理解した。俺にとってこの十数年がどんなものだったのか、親類の言う「奉公」の本当の意味、今まで自分や親類が使っていた金は誰がどうやって稼いだものだったのか。
わざわざ門の前で俺の帰りを待っていた刻は、包帯だらけで傷痕だらけの俺を見ただけでそれらを察する思慮深さと、謝罪を繰り返すしかできない程度のマトモな精神を持ち合わせていた。
どれだけ愚かでどうしようもないやつだったとしても刻だけは生かしてやるつもりだったが、これは嬉しい誤算だ。
血の繋がりすら呪わしいクソ親族だが、刻のことはちゃんと育ててくれたのだ。
「……そ、か」
そうか、と口の中で言葉を繰り返す。
たったひとりの俺の弟。俺の傷をみて涙を流すことができる可哀想で可愛い弟。
だからといって今までのすべてが報われたなんて少しも思わない。だが、ほんのちょっとだけ、本当に少しだけ、唐紅の涙に免じてやってもいい、と心が揺れた。
あまりにチョロい自分に、それでいいのか、お前の憎しみはそんなものかと呪術師としての本能が警鐘を鳴らすが、どうでもよかった。俺の大事なものはそれじゃない。
とはいえ、赦すつもりは微塵もない。
「寄んな」
ぴり、と呪力が疾る。たとえ呪力がわからずとも殺気くらいはわかるだろう。
俺たちの様子を見て駆け寄ってこようとしたクソ親族ども、おそらくは俺の両親らしき顔も見えるが、もはや敵としか思えない。
それぞれの顔に浮かんでいた気色の悪い笑みが凍り、足が止まる。残念なことにすでに術式の射程内だ。
反射的に動かそうとした鎖を、理性でもって押しとどめる。
「……皆殺しにしたろ思てたんや」
ひゅ、といまだ手の中にある刻の喉が小さく鳴った。
お前は違うよ、と言うようにさらりとその頭を撫でた。
「どうせわかってへんやろ、何で俺がこんな傷だらけなんか。まだ中学生の刻でもひと目で理解したんにな」
俺が文字通り血塗れになって稼いだ金で食った飯は美味かった?
その言葉に、そんな、と俺の母らしきナニカの口が動く。何も聞く気などなかった。
「まあおかげさんで鎖桐の呪術師らしい人間にはなれたと思うわ。鎖桐と黒鎖は決して恨みを忘れへんって言うもんな」
刻から手を離し、ゆっくりと膝に力をいれて立ち上がる。
いま全身に走る痛みも、包帯の下に滲む血も、すべてはこいつらのせい。全身を巡る呪力が炎のように熱い。首に刻まれた鎖もまるで日に炙られたように熱をもっている。
いま視界にある全てを殺し尽くせと、そう言っているのがわかった。俺だってずっとそのつもりだった、けれど。
「……けど、刻のことはちゃんと育ててくれた」
へ、と足下で間抜けな声がして肩が揺れる。
正直、まだ内心では揺れている。殺してやりたいと心底から思っている。けれど刻のことを考えろと叫んでいる俺がいるのも嘘ではない。
呪術師としての俺と、兄としての俺。そりゃあ、どちらを取るのかと言われれば。
「俺は、もう二度とお前らに会わん」
殺しはしない。
だが、もうのうのうと暮らすことは赦さない。
「刻の生活費や進学費用は俺が出す。けどお前らの面倒は見ん。好きなように野垂れ死ね。刻に渡す金に手ェ付けたら今度こそ皆殺しや」
これが、俺にとって最大限の譲歩。
目を見開くばかりのクソどもから目を離し、足下にいる刻に視線を向ける。可哀想な弟もまた、涙を零し続ける眼を一生懸命見開いて俺を見上げていた。
「……呪術師なんてろくなもんやないけど、お前がやりたいんやったら高専行ったらええよ。今さら俺に気ィつかうとか無駄なことはせんでええ。ただしやるんやったら本気でやれ。俺の金を無駄にすんのは許さん」
金稼ぐ言うんは大変やからな、ともう一度その丸い頭に手を置き、ゆるく口角を上げる。するとようやく刻の目が瞬きを思い出した。
「に、い、……あ、え、っと、」
「ええよ、好きに呼び」
「……にい、ちゃんは、どう、すんの」
これから、と混乱の抜けきらない舌を見つめ、そうやな、と少し視線を浮かせた。
とりあえずまずは身体を治さないといけない。どこか仮の拠点をつくって傷が癒えるのを待ちつつ、情報収集だ。
何の情報って、それはもちろん。
「約束は果たさんとな」
「……やくそく?」
「俺にもいろいろあるんや。少なくとも傷治るまでは関西のどっかにおると思うし、何かあったら連絡寄越し。……何もなくても連絡してきてええ。刻だけな」
泣き虫に俺の連絡先を握らせ、もうひとつ頭を撫でて背を向ける。
あまりに平和的な結果になってしまったが、意外と気分はすがすがしかった。どうせまともに働くことも知らないクソどもだから勝手に苦しむだろうというのもそうだが、外に出たらまず片を付けなければならないと思っていたことがひとつ終わった。
あとは、もうひとつ。先に行くと抜かしたあの背中を見つけ、その隣に並ぶこと。そうしてようやく、俺はこの世界でまともに息ができる。
「……けど、ホンマにあいつ俺のこと覚えとるかな」
考えれば考えるほど自信がなくなる信頼のなさだが、まあそれはそれで構わない、と腹筋が揺れる。腹の傷が痛むが気にするほどではない。
別に覚えていて欲しいわけじゃない。俺には俺のケジメがある、それだけのこと。
「ま、もし忘れられとったら一発殴って逃げればええか」
そう呟くと同時に、気付く。背後から猛然と近づいてくる小さな呪力。
考えてみれば俺の弟が大人しくひとの話を聞くだけの人間なわけないよな~と、頬が緩んだ。俺は仕方なく足を止め、ゆっくりと振り返る。
「兄ちゃん待って!!」
その声が、ひどく愛しかった。