良い友人だと、心から思っている。
***
確か小学三年生のときに、燈が転校してきたのだったと思う。屈託のない燈はすぐに皆に受け入れられて、そのころ孤立気味だった私とはさして接点もなかった。自分だけが見えているもの、それを信じてもらえないことをすでにわかっていた私は、あまり人と関わらないようにしていた。嘘つきと呼ばれることにも、疲れていた。
「いきなりごめん、夏油くん、ちょっといい?」
だから、突然話しかけられた時にはひどく驚いた。夏も近づく夕暮れの教室で、燈は妙に緊張した顔をしていた。
驚き冷めやらぬまま、なに、と返すと、燈は少し黙って、おそるおそる口を開く。
「……幽霊が、見えるって」
またその手合いか、とすうっと頭が冷えた。今にして思えば幽霊でなく呪霊なのだが、そんな知識もないころだった。
興味本位の言葉に付き合ってやるほど暇じゃない、そう思った私は、さっさと鞄を持って帰ろうとした。
それを、やけに必死な顔をした彼が引き止める。
「聞いて欲しくないことだったらごめん! 俺、知りたいだけなんだ! そういうのが、本当にいるのかどうか!」
「……何で?」
その勢いにおされて、つい問い返せば、ぽつりぽつりと燈は話し出した。
自分の両親が、失踪したことになっていること。だが、本当はおそらく両親がすでに亡くなっていること。両親が、彼の目の前で「見えない大きな何か」に飲み込まれるようにして消えたこと。ぐしゃ、ばき、と噛み砕かれるような音を聞いてしまったこと。
それを、誰も信じてくれなかったこと。
「……俺には、何も、見えなかったけど。でも何かがいて、それが父さんや母さんを、……食べたんだって、思った。何でか俺は食べられなかったけど、……何も残さず食べられちゃったから、死んだかどうかもわからないって、俺を残してどこかに消えたんだろうって、……何て無責任な親だって、皆悪口ばっか言うんだ。何も、知らないくせに……!」
両親を失った悲しみでなく、怒りと悔しさで目を潤ませていた燈。
何故燈が私に話しかけてきたのか、ようやくわかった。両親を殺した「何か」は存在すると、誰かに認めてもらいたかったのだと。自分の両親は、子どもを捨てて逃げるようなひどい大人ではなかったのだと、証明したかったのだ。
「……見えるよ」
ばっと燈が顔を上げた。
「人の形をしてない、《何か》としか言えないようなものだけど。他の人には見えないものが見えるし、それはちゃんといる」
そう言ったときの、燈の顔と言ったら。
ごめん、とありがとう、と延々繰り返し、燈は泣いた。さすがにそのまま放っておくのも気が引けて、仕方がないので持っていたポケットティッシュをまるごと押し付ける。そしたら燈は、泣きながら笑った。
「夏油くんて、下の名前なんだっけ」
「? 傑だけど」
「じゃあ傑。俺も燈でいいよ」
「……は?」
「あ、もう下校時間過ぎてんじゃん。帰んなきゃ」
「いや人の話を、」
はいダーッシュ、と手を引っ張られる。どこまでも人の話を聞かない燈はごしごしと目元を擦りながら、廊下を走った。
何故だかその日から、燈はやたらと私に構ってくるようになった。
*
「俺が明るくしてれば、俺が施設で生活してることとか余計に噂されずに済むだろ。別に恥ずかしいとかはないけど、何でか皆、自分より可哀想な奴見つけたら優しくしてあげなきゃってなるじゃん。気持ち悪い」
「ああ……まあ、わかるけど」
どれだけ邪険にしようが諦めない燈のしつこさに負けてしまった頃、燈に聞いてみたことがある。私といるときはそこまででもないのに、相変わらず教室内ではやたら明るく振る舞うのは何故か、と。
燈の快活さは嘘ではないが、ずっとハイテンションでいるほど脳みそがお花畑なわけでもない。それでも明るく振舞ってみせるのは、燈なりの考えがあってのことだったのだと初めて知った。
聞けば、両親が亡くなってしばらくの間、親戚の間をたらい回しにされ学校も転々としたらしく、それなりの処世術を学ばざるを得なかったのだという。
「ヒトヅキアイってよくわかんねーけど、面倒は少ないほうがいいじゃん。俺からすれば、傑のがよっぽどめんどくさいことしてるように見えるけど」
「俺が?」
そう、そのとき私の一人称は「俺」で、笑うことも少なかったし、言葉遣いももっと荒かった。それが損にも繋がることを教えてくれたのは、燈だった。
「傑ってかっこいいけど、その分ちょっと近づきにくく見えるんだよな」
「別にそれでいいけど」
「ひとりって楽に見えて案外面倒だぜ? 特にほら、子どもを子どもだとしか思ってない熱血教師とかいるとな」
そうにんまり笑った燈に、私は苦い顔をした。当時の担任が、まさにそういうタイプだったのだ。休み時間に教室にひとりでいようものなら即座に近づいてきて、お前もあの仲間に入れてもらってこい、と引きずっていくような。心底余計なお世話だった。
「だから適当に友だちいますよ、上手くやってますよって見えるようにしときゃいいんだよ。そしたら近づいてこねーって」
「……お前結構そういうとこあるよな」
「俺ができるんだから傑もできるって。傑頭いいし」
ちょっと笑顔を増やして、ちょっと言葉遣い柔らかくして、ちょっと本当のことを言い過ぎないようにすればいい。ついでに特に目上の前では、「俺」じゃなくて「僕」。
何でも楽な方がいいだろ、と燈は笑った。
「傑なら《私》でもいいかもな。大人っぽいから」
「……目上の前でだけ切り替えるのは面倒だな」
「慣れだよ、慣れ」
そう燈は言ったが、結局は常に礼儀正しくしているほうが面倒が少ないことに気づき、今の話し方が身についてしまった。
燈は、それはそれで似合ってるからいーんじゃない、といつも通りの適当さ。
「燈、そっちの道はやめよう」
「ん? わかった」
呪霊が多いから、なんて見えない人間にはわからない理由で遠回りをさせても、燈は何も言わない。適当に、あるがままに、大したことではないという風に、燈は私を受け入れた。
たとえそれが、両親が無責任に失踪したのでなく、死んでしまったのだという事実を自分の中で証明するためだったとしても、私は構わなかった。
燈といる時間が、好きだった。
*
進路がわかれてからも、燈との関係は変わらなかった。
燈は私が呪術高専に進むことを素直に祝福してくれて、そこならきっと俺以外にも友だちできるな、と悪気なく言うのでその頭には拳を落とした。
「マジで痛いんだけどお前の腕力どうなってんのよ……つーか本当のことじゃん……」
「君はどうして私相手だと余計な口が増えるのかな? 他じゃそんなヘマはしないくせに」
「そこはほら、信頼ゆえだって」
寮生活元気でやれよ〜と軽く言う燈に、君もね、と同じように軽く返した。燈は燈でそれなりの進学校にすすみ、しかも春からは施設を出て一人暮らしをすることになっている。
「バイトのあてはいくつかあるし、まー何とかなるだろ。好きに買い物して部屋にもの置けるのはいいな」
「何か欲しいものでもあるのかい?」
「んー、漫画とかゲームとか本とか?」
楽しそうだな、といえばいつでも来いよ、と返される。
「あ、でも寮生活ってあんまり外出出来なかったりすんのかな?」
「いや、そういうわけでもなさそうだから、多分大丈夫だよ。漫画読みに行くから置いておいてくれ」
実家より君の下宿のほうが近い、と言えばお前ほんとそーいうとこあるよなぁと、燈は呆れたように言った。
それでも、私は理解していた。私が燈の部屋に荷物を置こうが、遊びにいこうが、宿に使おうが、燈は一切を気にせず受け入れるだろう。もういっそ合鍵でももらっておこうか、なんて思いながら、燈の横顔を見る。
私より少し低い場所にある顔が、夕日に照らされて赤く見えた。
「あ、泊まる気なら着替えは持って来いよ。お前に服貸すのやだかんな」
「わかってるよ。燈の服なんて短くて着れないからね」
「あえて言わなかったことを言いやがったなこの野郎。俺が小さいんじゃないお前がでかいんだ、俺だって平均あるんだっつーの!! まだ伸びてるし!!」
「わかってるわかってる」
「頭を! 撫でるな!!」
ぎゃんぎゃんわめく燈に笑いながら、夕暮れの道を歩く。
ちなみに燈はそのまま順調に背が伸びて百八十を超えたものの、そのころには私の身長も百九十近くなっていた。そこまで伸びると逆に不便そうだな、俺これくらいでいいわ、と真顔で言われ、何だかイラっときたので渾身のデコピンを食らわせたことを覚えている。
***
呪術高専での生活は、とにかく新鮮だった。
今まで隠していたものを隠す必要がなくなり、それどころかもっと力を磨けと言われ、学生の身分でありながら戦うことを求められる。そこそこ対人の喧嘩くらいの経験はあったとはいえ、呪霊との戦いはやはり規格外だった。何といっても、負ければ死ぬ。
「ビビってんのかよ、だっせ」
「悟、前みて歩きな」
「ちゃんと夏油ママの言うこと聞けよ五条~」
「硝子?」
「うわ、顔こっわ」
そして、そんな場所で背中を預けられる相手の存在。
どこまでも傲慢で、そのくせ言葉通りの実力を持っている悟の存在は、大きかった。出会ったばかりの頃は幾度となく喧嘩もしたが、なんだかんだで結局は馬が合った。本人には全くその気はないのだろうが、緩衝材のような役割を果たしてくれた硝子の存在も、ありがたかった。
呪術高専は、息がしやすい。
「悟」
かと言って、彼との縁が切れたかと言われればそういうわけでもなく。
悟と二人で組んだ任務の帰り道、付き添ってくれた補助監督に声をかけて車を止めてもらう。その日の任務は楽なほうで、まだ時間も早かった。
「ラーメンでも食べに行かないか?」
「……ラーメン?」
「知り合いがバイトをしてるんだ。一度、冷やかしに行こうと思って」
無理には言わないけど、と付け加えると、悟は数秒黙った後、頷いた。何となくその沈黙が気になったが、悟はいつも通りの顔をして私に続いた。
燈と悟を会わせてみたいと思ったのは、ただの好奇心だった。おそらく呪術師でないひととほとんど関わったことのない悟と、
燈が春から働き始めたという、こじんまりとした個人商店のラーメン屋。のれんをくぐれば、らっしゃーせー、とよく知る声が響いた。
「あれ、傑じゃん。ほんとに来たの」
「や。久しぶりだね、燈」
「おう。そっちはガッコの?」
「ああ。席、いいかい」
「カウンターどーぞ」
ピーク時間とはずれていたせいか、店内の客はまばらだった。カウンターに座ると同時に、お冷を差し出される。
「ずいぶん中途半端な時間に来たけど、昼飯?」
「ああ、ちょっと立て込んでて昼が遅れてね。あ、悟、彼は叶木燈。小中が一緒で、まあ幼馴染みたいなものだ。私たちの学校のことも知ってる」
「へえ」
「燈、こっちは五条悟だ。クラスメイトだよ」
「どーも、叶木でっす。……とりあえず、まず聞きたいんだけど」
少しそっけない様子の悟に対し、燈はいつも通り……と思いきや、真剣な顔で声を落とした。ぴくり、と隣で悟が警戒を強めたのがわかった。
「お前らの学校って長身のイケメンしか入れねえとかあんの? 選抜基準おかしくね? つーか俺、傑より
真顔になろうと燈は燈なので、そんなことだろうと思った。
「うん、燈、全く変わってないようで安心したよ。悟、こういう性格のやつだから、あまり気にしないで広い心で接してやってくれ」
「何となくわかった。まあ俺がイケメンだとわかる程度に目は確かだな」
「はは、俺もわかった。五条くん、友だちすくねーだろ」
は、と悟のこめかみに血管が浮くが、当の本人はどこ吹く風。けらけらと笑いながら、メニューを開いてみせる。この店のラーメンは美味いぞ、とおすすめを指してみせた。ふんふんと頷きながら、セットで餃子もつけるかな、とふと隣を見る。
意外とわかりやすいところのあるクラスメイトは、興味津々と言った態度でメニューを見つめていた。その様子を見て、直感した。
「……もしかして悟、ラーメン屋初めてかい?」
え、と燈も固まる。悟は少し唇を尖らせて、何も言わないまま目を逸らした。いつもなら軽く言い返してくる悟のそんな顔は珍しい。ラーメンに誘ったときの沈黙はそういうことだったかと、思わず頷いた。
そっと燈に視線をやり、余計な茶々入れはするなよと無言で伝える。五条家という特殊な環境で生きていれば、そういうこともあるのだろう。家の事情でひとをからかうのは、趣味のいいことではない。
心得たとばかりに燈は頷いて、そのまま後ろを向いて叫んだ。
「大将きーて、このお客さんラーメン屋初めてだって!」
こいつは視線の意味をどう捉えたんだ、と頭を抱えようとしたところで燈は続けた。
「うちが初めてとか超光栄じゃん! 味玉サービスつけていい!?」
「ばっかやろうお前、そういうときは黙って大盛にしてトッピングつけてやるのが粋ってもんだろうがよ! チャーシューも足しとけ!」
「餃子は?」
「好きにしろ!」
そして燈は、視線を私たちのほうに向けてにやりと笑う。それは完全に悪戯が成功したときの悪い顔で、燈もひとの性格をどうこうは言えないだろうと苦笑する。
いつも通り適当に、何も気にしていないという顔をして、燈はラーメン初心者に笑顔を向けた。
「五条くん苦手なもんとかある? ネギとかニンニクとか平気?」
「……へーき」
「よっしゃ、じゃあ餃子もサービスらしいし好きに食ってけよ。ごゆっくり~」
そのまま燈はしれっと背を向けて仕事に戻った。さすがというか、要領よく立ち回っているようで、店主や常連らしき客とも軽く会話をかわしながら手際よく仕事をこなしていた。それをぼんやりと眺めながら、まだ何となく慣れない様子の隣に声を掛ける。
「変なやつだろう? あれで意外と、ちゃんとしているんだ」
悟は、お冷に口をつけながらぼそりと返した。
「まあ……あの感じなら、呪術師のこと知っても平気なのはわかるわ」
「ああ、悟とも気が合うと思うよ」
馬鹿だけど、と付け加えれば、それもわかる、と悟も笑う。
この日から、私が燈のところに行くときは、何となく悟もくっついてくるようになった。
*
「ねえ、いつも思うけどお前ら暇なの?」
「馬鹿言ってんじゃねーよ、めちゃくちゃ忙しいわ。引っ張りだこだわ」
「実はそれなりに人気者なんだよ、私たち」
説得力皆無、と言いながら燈はため息をついた。まあ説得力がないのも無理はない。何せ悟と二人して下宿に押しかけ、漫画を開きながらごろ寝しているのだから。
狭い部屋に二メートル近い男がふたり転がれば、それだけで足の踏み場がない。
「漫画読むのはいいから、せめて家主の足の踏み場くらい残してくれます〜? 勉強すっからどけオラ」
「えっ燈ベンキョーとかすんの? マジで?」
「悟、これでも燈は成績いいんだよ。それなりの進学校で特待生をもらう程度には」
「ガリ勉くんかよ見えね〜」
「るっせえわ、こっちゃ生活かかってんだっつーの」
はいはいどいて、と私たちを跨ぎ、燈は窓際ローデスクにノートを開く。時折、カリカリとシャーペンの走る音が聞こえた。
私たちが乗り込んでも、燈は燈で自分のペースを崩さない。全く私たちに対して気を使わないとわかっているからこそ、入り浸っても罪悪感はなかった。
「……んー? 燈、これの続きは?」
「どれ? ……ああそれは続きまだ。それが最新巻」
「マジで。うわ、次の出てから読めばよかった」
燈と悟は完全に打ち解けて、何なら大喧嘩をしてはケロッと仲直りするくらいの関係は築いているようだった。燈はもともとああいう性格だし、悟は悟で弱いのに物怖じせず接してくる存在が珍しかったらしい。
世界広しと言えど、五条悟相手に「やーいやーい世間知らずのボンボン〜!」とからかって殺されずに済むのは燈くらいのものだろう。悟曰く、「弱っちすぎてどれだけ手加減すれば死なないのかわからない」らしい。パンピーの相手って逆に難しいんだな、と悟が本気で零していたので思わず笑ってしまった。
そういえば、ラーメン屋に硝子を連れていった時も面白かった。
「うわ美人さん。何、クラスメイト? やっぱお前らのガッコ選抜基準おかしいだろ、この贅沢者どもめ!!」
開口一番これだったのでさすがに噴いた。いや、硝子の外見がどうこうということはないが、何せ中身が中身なのを知っているので、悟も見る目ね〜とひたすら笑っていた。
硝子は気にした様子もなくカウンターに座る。
「さすがクズ共の知り合いは変人か〜」
「え、俺、変? クズって言われるよりはいいけど」
「クズと友だちやれるだけ変じゃん?」
「そこはほら、俺の心の広さだよね。つーかお前ら、クラスメイトの女の子からクズ認定されるって何やったの?」
「クズクズうっせえよ、俺らがクズならお前もクズだっつの」
「少なくともお前らよりマシだわクズ」
「大将、今日のラーメン代、燈の給料から天引きしておいてください」
「おう、いいぞ」
「よくないっすよ!? 傑お前!!」
いいから働け、と大将に頭をはたかれ、燈はしぶしぶ仕事に戻る。
そんな姿を見ながら、三人で笑った。硝子と燈はそんな初対面から普通に会話をしていて、いつのまにか連絡先も交換していた。硝子は何か面白そーだから、とさらりと言っていたが、硝子は硝子で燈という人間が気に入ったのだろう。たまにやり取りをしている、と燈も言っていた。
ちなみに燈曰く、硝子は「美人すぎ」て、範疇外らしい。それは良かったと本気で言ったら、悟から硝子に告げ口された。その後の任務で負った怪我を硝子がなかなか治してくれなかったのは、そのせいだったのかもしれない。
*
あと笑った記憶と言えば、やっぱり悟の誕生日だろうか。悟の誕生日をどこかで知ったらしい燈は、とてもいい笑顔で私に悟へのプレゼントを託してきた。その中身を見て、なるほど、と頷く。
「自分で渡さなくていいのかい?」
「俺じゃ無理だもんよ。あと、結果は見たいけど掃除はしたくない」
「正直が過ぎるよ、燈」
「悟のやつよく最強最強言ってるけど、やっぱ傑でも難しい?」
「そうだな……いや、」
確かに、簡単ではない。簡単ではないが、不可能とは思わない。硝子や先輩方の協力を得て策を練れば、一瞬の隙くらいは作れるだろう。何より、燈の手作りというのは大きい。
「成功したら写メ送るよ」
「楽しみに待ってる」
そして何をしたのかと言われれば、二重三重にトラップを仕掛け、隙をついたうえでの顔面クリームパイ。
日頃悟の生意気ぶりに振り回されている先輩方は腹を抱えて転がりまわり、カメラ役の硝子はひたすらシャッターを切っていた。
手を下したのはもちろん私で、まさか人の顔にパイをぶつけるのがこんなに楽しいものだとは思わなかった。ちなみに隙をついてパイをぶつけようとした一瞬、悟は「無限」でかわそうとしたのだが、「燈の手作りだよ」と付け加えれば大人しく術式を解いて顔で受けとめた。友人の手作りパイを地面に叩き落すのは、さすがの悟も思うところがあったらしい。もちろんそれも、こちらの計算のうちだったのだけれど。
クリームで顔をどろどろにして怒りで震える悟は、それはそれは見ものだった。
「傑テメェ……なんかちょっと美味いのが逆に腹立つ……!!」
「お菓子作りの本を片手に一生懸命作ったらしいよ、燈。ああ硝子、あいつに写メ送ってくれたかい?」
「返信きたよ。《これで向こう三年は笑える。ありがとうありがとう》だって」
「……傑」
「何だい?」
顔のクリームを拭いながら、綺麗な笑顔を作って悟は言った。
「燈の誕生日って、いつ?」
そのすぐあとだった燈の誕生日には、ほぼほぼ全身をクリームまみれにされて白い塊と化した燈の姿があった。
面白すぎて涙が出るくらい笑ったし、次は傑の誕生日な、とその直前までやりあっていたくせにすぐに結託してしまう馬鹿二人の頭をはたいて、また笑った。
そう、たくさん笑った。楽しくて、馬鹿をやって、笑った。喧嘩をしたこともあったけれど、それでもただ、楽しかった。
それが崩れる日が来るなんてそのときは全く思っていなかったのだ。
***
歯車が狂い始めたのは、星漿体の一件からだった。
自分の中で揺らいでしまった価値観、自分が命を懸けて戦う理由。生まれてしまった、非術師への嫌悪感。それは、私の燈への感情にまで揺らぎを与えた。
好意は持っている。燈はなんだかんだいいやつで、良い友人だ。なのにそこに、「しかし呪術師ではない」という項目が付け足された。そんな自分を、最低だと思った。しかし、その項目を消すことは出来ないままでいる。
それが苦しくて、少しずつ、燈に連絡をすることが減っていった。少しずつ少しずつ、適当な理由をつけて、会うことも減らした。悟や硝子は普通に連絡を取っているようで、悟には「喧嘩でもしたのかよ」と軽く言われたが、「してないよ」と流すことしかできなかった。
会わない日が数か月続いて、とうとう痺れを切らした燈がメールを寄こしてきた。
《俺、何かした?》
ひとのことをよく見ている燈だから、私が燈を避けていたことはすぐに気づいただろう。それでも数か月間何も聞いてこなかったのは、燈なりの気遣いで、自己防衛だったのだと思う。
どう返事をしようか一瞬悩んで、結局そのままを返した。
《何もしていないよ。少し、考えたいことがあるだけだ》
燈は、言葉を言葉の通りに受け取る人間だ。言葉の裏なんか読みたくないからそのまんま言えよ、といつも言ってくる。だからこそ、下手なごまかしはしたくなかった。
燈からはただ、わかった、とだけ返信があった。短い返事が、むしろありがたかった。
「……私は、」
迷っている、自覚があった。
九十九さんとの邂逅で得た、「非術師を皆殺しにする」選択肢。ひとりでも「最強」たりえるようになった、悟の覚醒。親しくしていた、灰原という後輩の死。
その全てが重かった。誰かに吐き出したいという思いもあった。だが、いつもその役目を担ってくれていた燈とは、会うことが出来なかった。
結論が出ないまま請け負った任務先で見た光景で、私は
「……猿どもが」
監禁され虐待されていた幼い双子を保護し、邪魔をする猿どもは力づくで排除した。殺してやろうとその時は本気で思ったが、頭の片隅に残っていた理性がストップをかけた。
殺すな、ではない。
ここで猿を皆殺しにするということは、もう後戻りは出来なくなるということだ。己の本音を定め、それを大義とするのなら、私は迷っていてはいけない。この先に進むためには、何よりまず、切り捨てなければならない存在がある。
私は双子を補助監督に預け、恐れおののく猿どもを放置し、久しぶりにそこへ足を向けた。
そして今、私の目の前には困ったように笑う友人がいる。
***
いきなり下宿を訪れた私を、燈はいつも通り受け入れた。長く避けていた理由を聞くこともなく、何か飲むか、と笑顔を向ける。
「……燈、」
「何?」
「私は、呪術師ではない人間が、醜く思えて仕方がない」
私に背を向けて飲み物を用意していた燈が、ぴたりと動きを止める。ジュースのペットボトルをそっと置き、手を拭いて私の前に座った。その顔に、表情はなかった。
「で?」
たった一文字で続きを促される。自分のこともか、とか、そういう意味のない鸚鵡返しはしなかった。
「私たちが祓っている呪霊は、非術師からしか生まれない」
「へえ」
「非術師のいない世界をつくれば、呪霊は存在しなくなる。力ある呪術師が、力のない非術師を守るために消費されていくことがなくなる」
「うん」
何の感情も浮かべないまま、短い相槌だけが打たれる。私も、ただ事務的に事実のみを述べていた。自分が今どんな感情を抱いているのか、自分でもわからない。
「非術師を皆殺しにするなら、一番迷ってしまいそうな君をまず殺すべきだと思ったんだ」
「……そっか」
うーん、と燈は首をひねり、しばらく考えて、何か納得したように頷いた。俺を避けてたのはそういうことか、と燈は困ったように笑う。組んでいた両腕をほどき、こつり、と背後の壁によりかかった。
「……傑さ、」
「何だい?」
「……いや、きっとお前のことだから、めちゃくちゃ悩んだんだよな。いろんなこと考えて、いろんな意見あることを理解したうえで、そう言ってんだよな。しかもきっと、そんだけずるずると悩み引きずった原因の一個が俺なんだろ? だから、一番先に俺んところ来た」
「……ああ」
「お前、俺のこと好きすぎだろ」
そうさらりと言った燈の顔があまりに切なげで、反論することも出来なかった。実際、事実だ。非術師である彼を友人として好ましく思っていたからこそ、苦しかった。
今も、彼の前にいるのが苦しい。相反する感情が、胸の中で暴れている。
「……前に傑、言ってたよな。毎年だいたい一万人が変な死に方したり行方不明になったりしてて、そのほとんどが呪いの被害者だって」
唐突に変わった話題に、少し驚く。ふざけている様子はなかったので、私は頷いた。
「それ聞いたときにさ、俺の両親もその一万人に含まれてて、……俺もそうやって死ぬ可能性あるんだなって改めて思って、ちょっと怖かった。今こうして生きてるけど、もしかしたら次の瞬間には食べられてるかもしんないし、首を飛ばされてるかもしんない。呪いじゃなくても、事故とか病気とか、とにかく人間、いつ、どんなふうに死ぬかわかんねーんだなって」
「……そうだね」
「それ考えたらさ、」
ダチに殺されて終わるのって、わりと幸せな死に方じゃねえ?
そう言った燈の声は、震えていた。
「あー、うん、だいぶ強がりのかっこつけで言ってるけど。そりゃほんとは死にたくねえけど。でも、お前にとって俺を殺すのはケジメなわけで、だったら俺が死ぬのは無意味じゃねーよな。問答無用でやりゃいいものを、こうして先に宣言までしてさ。心の準備ができて、意味があって、理由がある死に方だ。俺なんかには、だいぶ贅沢」
俺
いつだって、自分は自分だからとマイペースを貫くやつだった。親がいなかろうと、生活が大変だろうと、呪力がなかろうと、それでも上手く世の中を渡っていた。
それがただの強がりでしかなかったことを、今、初めて理解した。
「もう俺の言葉聞くのも嫌かもしんねーけど、出来りゃ長い付き合いのよしみで、あんまり痛くないようにだけは頼むわ。反撃とか無理だし、逃げても意味ないんだろうし、大人しくしてるから」
ほら、と燈は座ったまま両手を広げた。それを見て、私は、そうか、と一言呟く。
掌に呪力を集めた。手持ちの呪霊を一体、そこに呼び出す。目の前にいるのは非術師がひとり。大した呪霊は必要ない。
「燈、」
名前を呼ぶと、すっと燈が息を吸って止めたのがわかった。燈に呪霊は見えていない。ただ私が自分のほうに手を伸ばしているようにしか見えないだろう。
それで、いいと思った。
さらに力を込めて、呪霊を動かす。異形のそれは、狙いを過たず、まっすぐに飛び込んだ。
「ものわかりが良すぎてムカつく」
大きな音を立てて、燈の顔のすぐ隣の壁に大きなへこみができる。
目を真ん丸にした間抜け面が、目の前にはあった。
「お、……っ前、理不尽にも限度ってあんぞ!? ってあああああああ敷金んんんん!!」
「うるさいな。近所迷惑だよ」
「お前が言う!? ねえお前が言う!?」
一瞬で空気が壊れた。いつも通り、そう、いつも通りの軽い空気。
何故だか私は笑っていて、多分燈も私につられて、困惑と驚愕が抜けないまま笑っている。大家さんに謝らないと、と壁の穴を撫でる燈に、つい今自分が殺されそうになっていたことはわかっているのかと呆れた。呆れたが、燈が現実逃避をするほど馬鹿じゃないことも知っていた。
燈は、逃げても無駄なことをわかっている。死にたくないと思いながらも、両親とは違って「意味のある死」を迎えられることを喜んでいる。理不尽に殺そうとする私に反感をもちながらも、自分の存在が私を苦しめる一因であることを辛く思っている。
結局のところ、やはり燈はいいやつで、そして頭がイカれているのだろう。こんな状況でもなお、私を友人だと思っているのだから。
「……参ったな、」
乱れた前髪を搔き上げて、苦笑する。心の奥底からの本音が、口から零れ落ちた。
「何でお前は、呪術師じゃないんだよ」
そしたらきっと、私はもうとっくに本音を決めて、今日見た猿どもを鏖にしていただろうに。ここまで苦しむこともなく、自分のやるべきことを決められただろうに。
燈は一瞬驚いたように目を見開いて、眉根を寄せて、そして笑った。その目尻から、涙が一筋の線を引いた。
「俺も、そう思う」
その言葉に、どれだけの意味が込められていたのか。考えようとして、やめた。それは、意味のないことだから。
「燈」
「ん?」
「私は、お前のことを良い友人だと思ってる。本当に。……ごめん」
「……バーカ、謝んな」
燈は、笑っていた。恐怖と、哀しみと、後悔と、苦しみと、いろんな感情をひとまとめにして、奥深くに押し込んで、きっと意地だけで笑っていた。
私は何も言わず、手を伸ばす。友に向けて、まっすぐに。
それが、私の選んだ
さて、ラストの解釈は。