楽しいばかりの道ではないよ、と夏油さまは言う。それはきっと夏油さま自身が誰よりも思っていることで、私たちに自分と同じ思いをしてほしくないからこその言葉だと言うこともわかっている。
私たちを救ってくれたこのひとは、本当に、本当に優しいひとだから。
「嫌なことを思い出すこともあるだろう。……それでもいいんだね?」
夏油さまに心配をかけることは申し訳ないけれど、ずっと決めていたことだった。きゅっと隣に座る半身の手を握る。同時に握り返されたそれは、同じ決意を秘めていた。
「マジだいじょーぶだって、夏油さま」
「私たち、……呪術師になる」
だから、呪術高専に行く。
そう言った私たちの脳裏に浮かんだのは、夏油さまの「トモダチ」だというアイツの顔だった。
***
あれは夏油さまから救い出された、その次の夏のこと。
呪術高専と関わりのある保護施設で生活を送っていた私たちはようやく周囲の環境にも慣れ、それまで遅れていた勉強を取り戻しながらたまに様子を見に来てくれる夏油さまを待つ日々を送っていた。
周囲にいるのは夏油さまをはじめ「見える」うえに優しいひとたちばかりで、こんな天国みたいな場所があるなんて、と毎日が楽しかった。五条は嫌いだけど。
そのなかで唯一、「見えない」けど「大丈夫」だと夏油さまから紹介されたひと。夏油さまの幼馴染みだという間抜け面のパンピーは、いつも困った顔で笑っていた。
「私より燈が嫌われてるのを見るのって結構愉快だね」
「なあ、もしかして俺をここに連れてくるのってお前が優越感に浸るためだったりしない?」
「ははは、まさか」
いつも夏油さまにぴったりとくっつき、近寄るなと燈を睨みつけた。
燈は何となく私たちの事情を察しているようで、無理に近づこうとはしなかった。それでも幼い私たちにはそんな気遣いもわからなくて、
同じものが見えないやつに、私たちのことはわからない。それは間違いではないけれど正しくもなかったことを知るのは、ある夏の夜のことだった。
夏油さまが連れていってくれるはずだった高専からほど近い神社で行われる夏祭り、けれどその晩に私たちを迎えに来たのは夏油さまでなく燈だった。
「傑な、急な任務……シゴトが入っちゃったんだって。遅くなっちゃうかもしれないから、先に俺と行っててって言われたんだけど、……あー、うん、俺とじゃ嫌だよなぁ。やっぱ今日やめとく? 少し離れたところのお祭りなら今日以外もあるだろうし」
夏油さまほどじゃない大きな身体を小さくかがめ、私たちに視線をあわせて燈はそう言った。
お祭りには行きたかったけれど、夏油さまと一緒でなければ意味がない。まして燈とだなんて、と思ったところで、頭の中に良くない考えが浮かんでしまった。そっと半身に目を向けると、どうも同じことを思っていたらしい。こくりと頷いた半身の目にも、悪戯っぽい色が見えた。
「……いいよ」
「おまつり、いく」
「あ、ほんと? じゃあごめんな、傑が来るまで俺でガマンな?」
そのあとのことは、本当に愚かだったと今ならわかる。
小さいとは言え山のなかにある神社、そこそこ混雑していて大人なら自由に歩き回ることも難しい人通り。その中で、隙を見て私たちが同時に手を離して走り出したらどうなるか。まして、灯りの届かない森の中に飛び込むだなんて。
しかも、
「み、……みこ、……うしろっ」
「えっ……」
あの村でもよく見かけた、黒く醜く薄汚いモノ。いや、あの村にいたものよりも、ずっとずっと強力なーーー。
思わずあげた悲鳴は、真っ暗な森のなかに吸い込まれた。
暗い森の中をただ走って、走って、走る。お互いの手だけはぎゅっと握りしめて、何度も転びそうになりながら前だけを目指した。耳元で響いた呪霊の声から逃れるように、向かうべき場所もわからずに。
月明かりに目が慣れてきた頃、とうとう足に限界がきて大きな木のうろに飛び込む。
「ど、しよ……っ」
「ななこ、な、なかな、……ふ、え、」
もう走れない。もう動けない。ここもきっとすぐに見つかる。
お互いをぎゅっと抱きしめて震えることしかできない。
「げ、とさま、が、き、と」
「そ、……でも、きょ、は、」
夏油さまがきっと来てくれるという希望、けれど今日はアイツしかいないという絶望。まして私たちは、アイツから逃げて今ここにいる。
仮にアイツがここにいたところで、見えもしないのに私たちの言葉を信じるはずがない。何を馬鹿なと鼻で笑い、でも見えない何かに怪我でもさせられれば私たちのせいにする。見えないやつはいつもそう。見えないくせに、わからないくせに、全部全部私たちのせい。
希望と絶望の間で揺れ動き、煽るように近づいては離れる呪力を感じながら、涙を堪えていた、そのとき。
「美々子、菜々子、ーーーいた!」
道なき道には慣れており、ひとの気配がなさすぎる森だからかえって見つけやすかったのだと後に燈は言ったが、それでもすでに汗だくで細かな傷をいくつも負っていた。どれだけ必死に探し回ってくれたのかは、そのときの私たちが見ても一目瞭然。
あ、と驚きに目を丸くした私たちに叱るよりも先に怪我を尋ね、怯え震える私たちを見て燈はすぐに察した。
「もしかしてーーー
何か、と燈は言った。つい目を瞠る。
その反応だけで理解したらしい燈は、すぐに携帯に手をやった。
「……携帯は通じる。リョーイキ、だっけ、それはなし。……なんつってたか、呪霊はヒトやモノに憑かない限り基本的にその場に留まる、から……」
「え……?」
「二人とも、近くにそいついる? とりあえず、目に入る範囲内で」
「い、……いない、」
「よし。……ふたりとも、ちょっとごめんな」
傑が来るまでだから、と繰り返した燈は私たちを抱き上げた。夏油さまよりずっとひょろく見えていたその腕が、私たちを容易く抱え込む。
「はっは、夜の森で鬼ごっこか~。やりがいあるな!」
「、え」
「あ、」
「美々子ちゃん、菜々子ちゃん、」
悪いけど、俺のこと助けてくれないかな。
そう言った燈の顔には、少しの恐怖も見えない。
「俺まじで才能ないらしくてね、危ない場面でもたぶん呪霊は見えない。だからふたりの目を借りたいんだ」
「へ……」
「このまま森を突っ切って走り抜ける。ふたりは呪霊を見たらどこにいるか教えてほしい。俺が呪霊に向かって突っ走ったりしないようにな!」
そう言って笑った燈は、本当に私たちの言うとおりに走った。
私たちが見ているモノを本当に信じてるの、とか。本当に見えていないの、とか。そもそも逃げたことを怒ってないの、とか。
思うことはたくさんあったけれど、もう疑いようもないくらい燈は私たちを信じてくれた。両腕に抱えた私たちを庇い、身体中にたくさんの傷を負いながら、燈の連絡を受けて急いで駆けつけてくれた夏油さまと森を出たところで合流するまで、ずっと。
ぼろぼろの血まみれ、泥まみれ、汗まみれになった燈は私たちを夏油さまに託し、やっぱり笑った。
「じゃあ傑あとヨロシク~」
「はいはい。硝子ももうすぐ来るからその辺で寝てな」
「はっは、扱い雑」
いいけどさ、と地べたに座り込んだ燈。
本当に助かったことを理解し、あ、と二人で口を開こうとした、そのとき。
「ありがとう」
先に言われてしまった、その台詞。
おかげで助かったよなんて、そもそも私たちのせいでそんなボロボロになってしまったのに。見えないくせに私たちの言葉を信じ、傷だらけになっても責めるどころか御礼の言葉を吐くなんて。
「……燈、きみね」
「野暮言うなよ、傑。そもそも俺に預けたお前が悪い」
今まで、誰にも言われたことのなかった「ありがとう」。
よりにもよって燈から向けられたその言葉は、私たちの胸に深く深く刻まれた。
***
今にして考えれば、あれはもはや呪いだったのだと思う。
あの言葉は、夏油さまが持ってきてくれたどんなお菓子より甘かった。甘くて甘くて、ずっと忘れられなかった。
呪霊を見えない
「……ちょっとくらい、助けてあげてもいーかなーみたいな?」
「ちゃんと、……考えて決めたの」
だから、応援してね、と。
そう笑いかければ、夏油さまは降参というふうに両手を挙げて笑った。