初めて、大切にしたいと思ったから。
***
ぶっ倒れた傑がまともに動けるようになるまで、それなりの日数がかかった。
長いこと無理してきたツケだと硝子は言ったが、「無理」というのが俺にはよくわからなかった。ずっと、隣にいたはずなのに。
『何お前落ち込んでんの? 気色悪』
暇つぶしついでに燈に連絡をしてみれば、傑に押しつぶされて呻いていたパンピーはけろりとそんなことを言う。つい低い声で聞き返しても、俺のすごさを理解していないらしい燈はけらけらと笑った。
『お前とは対等でいたいからこそ隠してたんだろ、もともと弱音吐くタイプでもねーし。悟に気でも使われた日には、それこそアイツ、マジで落ち込むから。やめてやれ』
「……」
『あー? お前な、人付き合いで生きてきた俺とお前を比べんじゃねえよ。というか俺だって気づけたかわかんねえし。たまたま限界だったときにうちにいたってだけだし』
「……何も言ってないだろ」
はいはいそうだな、と軽く流すこいつが恨めしい。
何でもやれば出来る自信はある。どんな敵が来ようが余裕でぶっ倒せる自信もある。だけど、こういう部分はどうも経験値が足りない自覚があった。
自分の手にあるものを、大切にする方法が、わからない。
『驚いた。マジで落ち込んでんのか』
「……うるせー」
『うわ可愛くないこと言う。……悟』
「んだよ」
『お前は別に、いいんじゃないの。気づかなくても』
傑の大丈夫って言葉を、信じてたんだろ。
そう言われて、これが電話であることも忘れて、頷いた。しかし、何故だか燈には伝わったらしい。小さく笑う声が、鼓膜を揺らした。
『そのまま信じとけよ。あとは傑の問題だ』
少し黙って、そういうもんか、と聞けば、そういうもんだよ、と軽く返される。
弱っちくて小っさくてひょろっこいパンピーのくせに、燈はそういうところがあった。俺より何も出来ないくせに、俺よりずっと多くをわかったような物言いをする。だけど、その言葉がやけに強く響くのも、確かだった。
人付き合いで生きてきた、と燈は言ったが、それはきっと限りなく事実なのだろう。俺が呪術で生きてきたように、燈には燈の事情があって、人間関係や人の中での立ち回りを武器として生きてきた。
それは、弱い立場であるからこその生き方だ。だけど、だからこそ、燈は確かに俺が持っていないものを持っている。今になって、それをひしひしと感じていた。
燈にはきっと、俺には見えないものが見えている。
「……燈」
『ん?』
「お前、ほんと変なやつ」
『はっは、お前にだけは言われたくね-』
全く物怖じしない、軽い声はどうしたって心地いい。悔しいのに嬉しくて、仕方ないから少しだけ笑って、そういえば、とふと思い出して尋ねる。
「お前硝子振ったってマジ?」
『ちょっと待てそれどこから聞いた』
*
「俺は誰にも言わないで欲しいっつって口止め料にラーメン奢ったよね!?」
「そうだっけ? チャーシューメンまじ美味しかった」
「めちゃくちゃ覚えてんじゃん!!」
頭を抱える燈と、それを指さして笑う硝子。
ねえこれどういうこと、と視線だけ傑に向ければ、私が知るわけないだろうと言わんばかりに首を振られた。そりゃそうだ。
ようやく傑の熱も下がり、だいぶ体調も戻ってきた。来週には軽めの任務から復帰、となったところで、傑が言い出した今日の外出。
『少し、気晴らしに付き合ってくれないかい?』
ふたつ返事で頷いて話を聞けば、久しぶりに映画でも観たいとのこと。なので適当にレンタルをして、燈の部屋で観ることになった。
話の流れで硝子もついてくることになり、意外と堅いところのある燈は男の部屋に女子をあげることをちょっと渋っていたが、結局はちゃんと部屋掃除しとく、と頷いた。硝子相手に今さら何を気にしているんだコイツ。
レンタル屋に映画を選びに行く途中で燈も合流したのだが、出会いしなから燈は大きなため息をついている。
「まあいいじゃん、事実なんだし。夏油のせいで振られたことも」
「そこまで言ったの? 誤解生みかねないからやめてって言ったのに!」
「そう、それ。何で私のせいなのか詳細を知りたいんだけど」
「何、燈と傑が出来てるって話?」
「違いますけど!?」
「悟、怒るよ?」
マジの顔でわめく燈と、笑ってない笑顔の傑が妙に面白い。
硝子が面白がって言いふらしたせいで、呪術高専ではとっくに広まっている噂だ。曰く、硝子を振った男と、傑が付き合っている、と。実際を知っている俺としては面白いことこの上なくて、傑が珍しく本気で嫌がっていたのを笑いながら見ていた。
止めなかったのかって? やだよ面白いだろ。
「俺は傑の世話で手一杯だから勘弁してくださいって言っただけだよ」
「ほら夏油のせい」
「……燈の部屋で倒れた手前否定しにくいけど……もうちょっと何かなかったのかい、燈」
「そこ俺が言われるとこ!? まさか言いふらされるとか思わないだろ!?」
「思いなよ。硝子だよ」
「言うじゃん夏油。あってる」
「硝子ちゃんそこは否定して!!」
にまにまと笑いながらその様子を眺める。
美人美人と言っておきながら燈が硝子を振ったのは少し意外だったが、まあ付き合う付き合わないとなると話は別なのだろう。そもそも硝子も、燈に対して惚れただの何だのという気配は微塵もないから、ネタの範囲なのだろうとは思っている。
俺としては、今見ている光景がとても面白いのでそれでいい。
「あーもう……いや、いいけどさ。どうせ直接的被害こうむるのは傑なんだろうし」
「何がいいのか説明してもらおうか」
「いでででででアイアンクローやめろ!!」
「別に夏油だって誤解されたところで痛くもかゆくもないじゃん?」
「ないけど不名誉」
「いっだい!! 握力強めんな!!」
「うわ、でこに指のあと残ってんぞ燈」
「マジ? もーやだこのゴリラ」
もう一回いくかい、といい笑顔をする傑に、さっと燈は俺の後ろに隠れる。そんな様子に笑いながら髪が乱れていることを指摘してやると、燈はめんどくさそうに髪をほどいた。肩にはつかないほどの中途半端な髪が、ぱさりと広がる。
で、と首元で髪を束ねながら、燈は改めて口を開いた。
「うちで映画はいいけど何観んの? というか悟とか硝子ちゃんって映画観んの?」
「私はたまーに。でもあんまり」
「……ほとんど観たことねー」
五条家での生活は、決して娯楽に溢れたものではなかった。自分の力を自覚してからはそれなりに好き勝手振る舞ったし、家を抜け出して遊ぶことも多かったが、それでもやはり触れたことのないものは多い。
あえて口にするのは何となく面白くなかったが、それを本気で馬鹿にするような奴らではないことは知っている。傑は何も言わないし、燈は茶化すがフォローはするし、硝子はそもそもどうでもいいのか興味を示さない。
そして、なんだかんだ結局はいつも俺の「初めて」に付き合ってくれる。ありがたいと思わなくもないなんて絶対に認めないし、決して口にも出さないが。
俺たちの言葉を聞いてふむ、と一瞬考えた傑は、特に気にした様子もなくさらりと言った。
「まあ、このメンツならいつものでいいと思うよ。タイトルはレンタル屋で選ぼう」
傑の言葉に、いつものって、と返すと、ホラー映画、と傑と燈は声を揃えた。
「俺は別にいいけど、あれ悟や硝子ちゃん観て楽しいか? というかいつも思うけど、
「私は楽しいよ? リアルを追求した名作は見えないなりに頑張って想像したんだろうなって笑えるし、B級C級のチープなやつはどれだけエログロでも普通にありえないからコメディとして笑える」
「お前そんな性格の悪い観方してたんかい。制作陣まじで可哀そう」
「あは、私はいーよ。確かに笑えそ」
「俺も」
ふたりがいいんならいいんだけど、と燈は苦笑する。
お前らはよく観んの、と聞けば、中学時代に燈とよく観てたよ、と傑はさらりと言う。燈も思い出すように視線を浮かせたが、その目は完全に死んでいた。
「あの頃、外を歩けば次々と喧嘩売られてさ……もう面倒でひたすらインドアの趣味開拓してたんだよな」
「何、そんなに荒れてたの叶木。意外」
「俺じゃないよ傑だよ。この外見だけで目立つのにさ、今以上に言葉選ぶのも下手だったから、そりゃもういろんなところで絡まれて恨み買って。治安のいい学区じゃなかったってのもあるけど、ほんっとにもうさぁ……せめて穏便に済ませろよ」
「傑は昔っから傑だったんだな、ウケる」
「それはどういう意味かな、悟」
わりとすぐキレる、と俺と燈が声をそろえれば、傑で笑顔で無言のまま指を鳴らした。そういうところだというのが、わかっているのかいないのか。
「というか燈だってそれなりに喧嘩してただろう。平和主義とか面倒ごとはごめんとか言っておきながら、一発食らって正当防衛の口実作った後は普通に暴れてたじゃないか」
「俺だって自分の身くらい守るわってか、お前自分に都合の悪いこと忘れるのもいい加減にしろよ。俺が喧嘩をしたのは向こうから喧嘩を売ってきたからであって、しかもその理由の九割九分は《夏油傑には敵わないからそのダチぼこって憂さを晴らすため》だかんな」
「そうだったかな。忘れたよ」
「うっわ、夏油サイテー」
何とでも、と言わんばかりに傑は微笑んで肩をすくめる。
そのあともぽんぽんと軽い言葉の応酬が続き、ときどき硝子が茶々を入れて、そしてまた笑う。いつもなら俺も乗り込んでいくところだが、今日は何となく聞いていたかった。
傑と燈の、数か月間の空白期間。それから、傑が燈の家でぶっ倒れたこと。
俺は、傑が「無理をしていたこと」は聞いたが、「無理をしていた理由」までは聞いていない。何となくだが、傑は、たぶん燈も、言いたくないんだろうと思う。だったら、きっと聞かないほうがいい。
らしくもない考えだという自覚があるだけに、笑える。俺がまさか、「我慢」なんて性に合わないことをするなんて。それも、自分じゃない誰かのために。
「……悟? さっきから静かだけど、どうかしたのかい?」
「いや? 別に。……傑、その手にもってるやつ」
「B級スプラッタものだよ。もうパッケージだけで笑えるだろう?」
「この向きで包丁刺しても骨が邪魔でこんな刺さんなくね? 血も出すぎ」
「そういうのが面白いんだよ。ほらこれとかも」
「……たかが人間殺すためだけにチェーンソー持ち出す意味がわかんねえわ。使い勝手悪いし邪魔だろ」
「悟ならそう言ってくれると思っていたよ」
レンタル屋のホラー映画の棚を物色しながら、傑はやけにイキイキとしていた。燈と硝子も棚の前でしゃがみこみ、適当に手にとっては燈が解説を入れ、硝子が感心したように頷いている。
じゃあこれは、と硝子がまた一本手に取ったところで、あ、と燈が声を上げて俺たちのほうを振り返る。
「これ、悟好きだと思うよ」
「何、どういうの?」
「ヒロインが死ぬほどムカつくんだけど、最後派手に死ぬ」
「普通にネタバレじゃねーか」
まあまあと笑いながら、それを燈はそれを抜きとって、これも観よう、と傑に手渡す。はいはい、と傑も楽しそうにそれを受け取った。というか今日何本観る気だこいつら。
「じゃあこの辺にしておこうか。借りてくるよ」
「お、今日は傑の奢り?」
「まあ言い出しっぺだし、今日くらいはね」
そう言って傑はレジへと向かう。その後ろ姿を眺めながら、何の気なしに硝子が言った。
「……今日、夏油の機嫌良すぎて気持ち悪くない?」
「はっは辛辣。ま、傑も久しぶりに遊べて嬉しいんじゃない?」
「それにしても浮かれすぎじゃん?」
キッショ、と真顔で言う硝子に、燈は苦笑を返す。それから俺をちらりと見て、まあいいじゃん、と笑って言った。
「うだうだ悩み引きずって辛気臭くなるよりいいだろ。なー悟」
「何でそこで俺に振るんだよ」
「いや今日妙に静かだから。神妙な悟とかマジで気持ち悪いんだけど、何か悪いもんでも食った? うちで倒れるのは傑だけで十分だぞ」
「食ってねーし倒れねーわ」
浮かれすぎの夏油と神妙な五条とか両方レアすぎ、と硝子が言えば、言えてる~と燈も軽く笑った。何となく決まりが悪くて押し黙れば、そんな俺を横目で見ながら燈は頭の後ろで両手を組む。何も言っていないのに、考えすぎ、と言われたような気がした。
それが、何故だか妙に悔しくて。
「……燈、」
何よ、とこっちを向いたその額に、渾身のデコピンを決める。ずびし、といい音がして、燈は声もなく額を押さえてうずくまった。ぷるぷる震える燈を見ながら、硝子はうわ、とちょっと引いた声を上げる。
弱っちくて小っさくてひょろっこいパンピーのくせに、多分俺の六眼でも見えないものが見えていて、傑に何があったのかも知っていて、俺の内心とかももしかしたらお見通しで、そのくせ何でもない顔でしれっとフォローしたりする。面白くない。めちゃくちゃ面白くない。ガキくさいと言われようが何だろうが、とにかく面白くない。
ようやく痛みがおさまってきたのか、いきなり何すんだ、と涙目で顔をあげた燈に目線をあわせる。
「いつか、ちゃんと話せよ」
俺だって、お前らに何かあったことくらいはわかってんだよ。その気になればいくらでも聞き出せるけど、聞かねーでいてやるんだよ。それがどんだけ特別なことかわかってんのかよ。俺を誰だと思ってんだ、「五条悟」だぞ。最強の悟くんなら大抵のことは何とかしてやるってのに、お前らが何も言わねえから何も出来ねーだろーが。
そう口に出したいのを抑え込んで、そのまま情けねー涙目を覗き込んだ。燈はぱちぱちと間抜けに瞬きをして、そして。
「ぷ、」
「……は~~~~? 何笑ってんだよ燈クンまじ生意気~~~~~~~」
「ふ、はは、わり、いや悪かったって、だからヘッドロックはやめ、はは、」
「よし、落とす」
「うえっ、ちょっ、頸動脈やめろ!」
「……これはどういう状況なんだい? 硝子」
「私が知るわけないじゃん」
「見てわかれよ助けてすぐるえもん!!」
「さすがに四次元ポケットは持ってないんだ」
でもお店ではやめときな、と会計を済ませてきた傑に諫められ、仕方なしに腕を離す。はー、と燈は息を大きく吐きながら首筋をさすった。大して力をいれたつもりもなかったが、あの程度でも燈にはそれなりのダメージになるらしい。
ふーん、と思いながら手をにぎにぎと動かした。
「悟、燈で手加減の練習をしようとか考えるなよ」
「え、何でわかんの傑、こわ」
「……本当に考えてたのかい……」
「どうしよう硝子ちゃん、俺悟にうっかり殺されるかもしれない」
「ないと言えないあたりがマジでウケる」
まあ命さえ残ってたら治してあげてもいいよ、と付け加えれば、硝子ちゃんそんなこと出来んの、とパンピーらしく燈は驚いた声をあげた。
「まあね。すごいっしょ」
「すごい。聞けば聞くほど何でもありの世界だな」
「いや、何でもありの世界でもかなり稀少な方だと思うよ」
「あー、そうだな。硝子レベルは世界でも少ねーんじゃねーの」
「ほらほら。そんなすごい硝子さんと付き合わない?」
「硝子ちゃん軽いんだって……勘弁してクダサイ」
振られてやんの~、とからかうように言えば、いいよOK出すまで言うから、と真意の読めない紅一点は余裕を崩さない。
何故だか振ったほうが肩を落とし、両手で顔を覆って助けてすぐるえもん……とか細い声を漏らしている。それに傑はまた笑って、まあまあと燈の肩を叩いた。
「早く君の家に行って映画でも見よう、とも太君。正直めんどくさい」
「せめて本音を隠せよこの野郎」
「正直、友人の色恋沙汰ほどめんどくさいものはないと思うんだ」
「同感だけど、これを色恋沙汰に含めていいのかはマジ疑問」
「はー? 五条まじしつれーなんだけど。ねえ叶木?」
「硝子ちゃんちょっと距離が近いデス」
すすすと距離を詰めていく硝子に、燈は照れるでもなく
燈が映画鑑賞にコーラとポテチは絶対に付き物だと主張するので、仕方なしに道すがらコンビニに立ち寄る。ポテチはやっぱコンソメだろ、と適当に味を選んでいる間に、ぼそりと燈は俺の名前を呼んだ。
傑にも、硝子にも聞こえないように、小さな小さな声で続ける。
「話すよ、いつか」
きっと、と、燈は困ったように笑った。
何故だか俺はそのとき、燈がいなくなってしまうような気がした。いや気のせいだと、ごまかすように燈の髪をぐしゃぐしゃに撫でまわす。
癖のある猫っ毛がいい感じに逆立ったのを見て、俺は指をさして笑った。
*
ちなみにそのあとのホラー鑑賞会は、「普通のひとは泣くレベルのガチホラーでこんなに笑うやつら初めて見たし、B級C級作品とは言えここまで現実的な目線でこき下ろして笑うやつらも初めて見た。人間殺すならもっと効率のいい方法があるとか普通に議論しないでほしい」と燈がため息をつく結果になった。
あと燈が勧めてきた映画は普通に面白くて気に入ったので、また燈におすすめを聞いてみようと思う。
***
「……なー傑」
「何だい?」
いつも通りの、静かな時間。
燈の部屋に乗り込んで、適当に転がって、漫画を開いて。近くには傑がいて、燈がいる。傑もその辺にあった本を適当に開いていて、燈は早朝のバイトがあるからと、さっさと布団にもぐりこんでいた。燈の深い寝息が聞こえる。
漫画から目を離さないまま傑に話しかければ、傑もまた本から目を離さずに返事をする。
「俺って強いじゃん」
「……唐突だな。そうだね」
「燈って弱いじゃん」
「まあ、うん。身体能力で言うなら、一般人の中の上程度かな」
「でも燈、俺には出来ないこと出来るんだよな」
数秒沈黙が流れて、へえ、と傑が本を閉じた。その視線がこっちを向いた気配がして、あえて反対側に顔を向ける。目を合わせてたらこんなこと絶対に言えない。
少し楽しそうな声が、静かな部屋に響く。
「何か心境の変化でもあったのかい、悟」
「……変化っつーか……」
あれから、また少し考えた。
傑も完全に復帰して、いつも通りの日常が戻って、なのに何故だか、胸のどこかにこびりついて離れない妙な不安がある。今目の前にある日常は、ふとした瞬間に失われてしまうのではないかと。ほんの少しのきっかけで、崩れ去ってしまうものなのではないかと。
それはどうも傑や燈に関わりのある事のような気がして、でもそれだけではないような気がして。俺の周りにあるすべてが、妙に不安定に思えた。
崩したくはない。失いたくはない。だけど、何故だか、本当に俺らしくないことに、思ってしまった。今の俺じゃ、だめだと。
「俺がいくら強くても、どうにもなんねーことって、多分、あるんだろ」
「……悟、頭でも打ったのかい?」
「……す~ぐ~る~く~ん?」
「あ、ああ、すまない、いや、あまりにも意外だったから。ごめん、もう口を挟まないし茶化さないから、続けて」
苦い顔を向けてみれば、本気で驚いた表情の傑。いや自分でもらしくねーと思うけど、人に驚かれると腹が立つ。
けっと言い捨てて、また傑から顔を背けて、続けた。
「俺が好き勝手やんのは簡単なんだよ、邪魔するやつを全員殺せばいい。けど、……それじゃやれることに限界あるし、頭の悪ィやり方だってのも、まあ、わかる」
俺は強い。だけど、きっとそれだけじゃだめだ。
もっと、知らなければならない。もっと、考えなければならない。もっと、見つめなければならない。大切にしたいと初めて思えたものを、傍に置いておくために。離れていくことの、ないように。
俺はもっと、「人間」を理解しないといけない。
「本音とか建前とか、年上とか年下とか、個人とか集団とか、俺にはわっけわかんねーけど、そういうの考えて動くほうが、遠回りに見えてもきっといろいろ楽なんだろ? んで燈は、そういうのめちゃくちゃ上手いじゃん。傑はたまに俺より下手だし」
「今さらっと喧嘩売ったね?」
「ほんとのことだろ。お前もわりと余計な事言って人煽るじゃん」
「……」
一応自覚があるらしい傑は黙る。これでもだいぶマシになったほうだと燈は言うから、きっと昔は、それこそ俺より下手だったんだろう。そんな傑でもある程度取り繕えるようになったのなら、俺にだってきっと。
「……燈に出来て傑にもちょっと出来るなら、俺にだって出来るだろ」
悟くんやれば出来る子だから、と付け加えてみれば、ふ、と傑が笑う気配がした。それは馬鹿にしたような笑い方ではなくて、もっと別の、柔らかい何か。
じゃあ、と穏やかな声が鼓膜を揺らした。
「まず、言葉遣いからかな」
「言葉遣いィ? またそれかよ」
「私も昔、燈に言われたんだよ。私が《俺》と言ってた頃だね」
「……お前も?」
「ああ。人間関係で面倒を減らしたいなら、まず自分の振る舞いを変えろってね」
上は適当に受け流し、下にはそこそこ慕われるように。無用な面倒ごとを減らし、より少ない努力で自分の望みを叶えるために。言葉は柔らかく、態度も柔らかく、ちょっと笑顔を増やすだけで、話が楽に進むなら、と。
「まあ燈は必要な時に切り替えればいいって言ったんだけど、一度やってみると確かに面倒が格段に減ってね。結局これが普通になってしまったよ」
「……ええ……」
「はは、まあ悟に《私》は似合わないから、せめて《僕》くらいにしたらいいんじゃないか」
「……僕」
うわ、違和感がひどい。思わず顔をしかめると、傑は愉快そうに慣れだよ、と言った。
「言ってるうちに慣れるさ。大丈夫、笑ったりしないよ。私も、燈も」
「……いや、燈は笑うだろ」
「一回茶化したらそれ以上は言わないさ。知っての通り、人の機微には聡いやつだからね」
その察しの良さが、燈の強みだろう?
そう言った傑の視線の先では、当の本人がすかー、と寝息を立てている。馬鹿面、と笑うと、確かに、と傑も笑った。
「……ちょっと、やってみるわ」
マジで笑うなよ、と念を押せば、わかっているよ、と傑は穏やかに微笑んだ。
*
この手にあるものを逃がさないためなら、なんだって。
俺が