アブソリュートゼロ・動じぬ心の可憐な標的者   作:kazuya2009

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4.新たなる目標ーそして黒い影も動き出す

 グラウンドに響く蹄鉄の音。

 なびく秋風が気持ちいい。が、季節の流れに浸る程リラックスは出来ない。

 今は、アブソリュートゼロが次に出走する予定の秋華賞に向けて調整中なのだ。

 アブソリュートゼロは適性距離は千六百メートルから二千四メートル。まあ有馬記念くらいなら許容範囲だが、菊花賞となるとさすがに適性外だ。

 王道路線からは外れるが、最後のティアラを奪いに行ってもいいと思う。

 王道路線でなくても出てくるウマ娘たちは一流だ。いかに皐月賞とダービーを善戦しているとは言え秋華賞は「簡単」なレースでは決してない。

 ティアラ路線での最強クラスで言えば今や伝説と語られているヒシアマゾン、エアーグルーヴの二人の教官だろう。王道路線のウマ娘に決して引けを取らない実力ある二人だ。エアーグルーヴはシニアになってから天皇賞・秋を王道路線を戦ってきたウマ娘を下し盾を手にした。ヒシアマゾンに至っては当時同世代最強の三冠ウマ娘ナリタブライアンに対して王道、ティアラ路線含めて唯一対抗出来ると言っていい実力者だった。

 結局のところクラシックシーズンのGⅠである以上、万全を期せずして勝てるレースではないわけである。

 

 今日使っているのは学園の南トレーニング場のCコース。一周、千八百メートルだ。スタート位置をずらして丁度二千メートルになるようにしている。

 グラウンドに目を向けると、アブソリュートゼロが残り八百に差し掛かり、スパートを始めたところだ。当日だと阪神レース場だ。阪神の二千となればスタートして直後に坂がありコーナーも多い。更に直線が短い上にやはりスタートの時と同様坂がある。

 早めに仕掛けて先頭に出ないとバ群に飲まれかねない。かと言って早めに仕掛けすぎても普通のウマ娘では最後の坂でスタミナ切れを起こす。

 だからロングスパート出来るアブソリュートゼロには残り四ハロンからのスパートを指示している。

 当日、先行するウマ娘が多い。いかに阪神といえどハイペースになると考えていた方がいいだろう。

 アブソリュートゼロが直線に入って更に加速する。いい末脚だ。瞬発力もある。これでも皐月賞、ダービーは掲示板に乗るところまでなのだから今年は久しぶりにハイレベルだ。

 俺の目の前を通り過ぎ、ストップウォッチを止めると共に、アブソリュートゼロが駆け抜けた風が俺の頬を撫でて行った。タイムは一分五十九秒三。上がり三ハロンだと三十三秒二。今の時期の二千メートルと考えれば十分優秀だ。

「はぁ、はぁ、はぁ! んっ! ト、トレーナーさん、た、タイムは?」

「いいぞ。一分五十九秒三。秋華賞でも十分勝負になるタイムだ」

「ホントですか!」

 俺の言葉に嬉しそうに顔を上げる。滴る汗が陽の光を反射し彼女の健闘を称えるように光る。何より彼女の嬉しそうな顔がとても眩しい。

「あの、トレーナーさん?」

「あ、すまん。ちょっと俺には勿体ないウマ娘だなと思ってな」

 本当は少し見とれてしまったのだが、そんな事言えない。実際ウマ娘が走る姿はいつだって見とれてしまうものなのだが。

 しかし、事件がなければ綾峰のところで充実したトレーニングが出来るだろうになと思ったのも嘘ではない。

「むしろ、わたしはトレーナーさんを独り占め出来ちゃって嬉しいですけどね」

 笑顔で言うアブソリュートゼロ。無邪気な発言は男性トレーナー殺しだな。

 まあ言いたいことも分かる。いかに優秀なトレーナーの下であっても手掛けるウマ娘が増えればその分、自分に割いてもらえる時間は限られてしまう。

 そう考えれば「トレーナー」という存在そのものを独占出来るのは、ウマ娘にとってはこの上ない贅沢かも知れない。

 

 彼女のそんな気持ちも分かるが、一つだけ注意した。

「とりあえず俺が男性トレーナーだというのを自覚して男を勘違いさせそうなセリフは控えるように。若いトレーナーだったら勘違いしているぞ?」

 担当ウマ娘のストーカーになってしまったトレーナーという事例は決して少なくない。共に過ごす時間が長いからこそウマ娘本人が意図せずともに心を奪ってしまっていた、なんて事もあるのだ。

「うーん、どうでしょう? 勘違いさせに行っているのかも知れませんよ?」

 なかなか挑戦的なセリフを言いながら、いたずらっぽく笑う。

 まあ冗談と捉えるのを分かっての事だろうが。

「俺がもう少し若かったら敢えて勘違いしてたかも知れないぞ?」

「ふふふ。トレーナーさんってノリいいですよね。綾峰トレーナーと仲がいいって聞いてましたが何となくわかります」

「まあ、綾峰は元カノだからな]

「え!? そうなんですか!」

 おっと口が滑ってしまったな。

「誰にも言うなよ? まあ綾峰のところのサブトレーナーたちは全員知ってるけどな」

「黙ってるんで、詳しく聞いてもいいで……。あ、ごめんなさい。やっぱりいい……です」

 嬉々として聞きたいという前のめりの姿勢だったアブソリュートゼロが、顔を引きつらせながら後ずさりする。

「ちょっと?」

 後ろから聞こえてくる声に、俺は全身の血が一気に引いていくのが分かった。

 同時にアブソリュートゼロがくるりと身を翻したと思ったら。

「わ、わたし先にトレーナー室に戻ってます!」

 と、言って薄情にも逃げ出してしまった。

 その足は恐らくレースより早い。きっと一ハロン九秒台は間違いないレベルだ。

「ねえ、なに人の許可なく昔話をしようとしてるのかしら?」

 ゆっくりと振り向くとアブソリュートゼロが逃げ出した原因の人物。綾峰祥子が笑顔にもかかわらず纏うオーラは、かの軍神アルスさえ逃げ出しそうなほどの強烈なものを放っていた。

「いや、俺の昔話でもあるわけでな?」

「だから?」

 トレーナー室とか寮内なら強引に唇を塞いで誤魔化したいところだが―

 ここはトレーニング場だ。関係のないウマ娘達も見ている。

 今の俺に出来ることと言えば。

「すみませんでした」

 深々と頭を下げることしか思いつかなかった。

 なお、綾峰がこの後、トレーニングのために連れて来ていたウマ娘たちから質問攻めにされたのは言うまでない。

 すまん、綾峰。このお詫びはいつかする。

 

 アブソリュートゼロがトレーナー室へ逃げてしまったため俺も一度トレーナー室へと戻ることにした。

 後ろから突き刺さる視線を何事もないかのように去っていくが、寿命がわずかに縮んだ気分だ。

 数年前まで付き合ってから、普通に周りには知られていた。

 だから、つい軽口に出てしまったのだ。

 隠さなくてもいいのだが、この手の話はウマ娘も好物。恋バナに花を咲かせる時期でもあるわけでバレンタインデーとなれば男性トレーナーも一時的に体重増加という事になる。

 ウマ娘同士でも恋はあるわけで、今では教官だが先に述べたヒシアマゾン、エアーグルーヴもだいぶ他のウマ娘たちから熱がこもった視線が送られいた。いや、彼女らは現在進行形だったな。未だに多くのウマ娘たちから黄色い声援を浴びている。

 もちろんウマ娘とて年頃の女の子だから当然なのだが、やはりクラシック級のウマ娘にはこの時期に浮ついた話で集中力を欠いて欲しくないと綾峰は思ったのだろうな。

「あの頃はお互い青かったからな」

 付き合っていた当時も今と同様に、彼女は若手でも屈指のトレーナーとして名をはせていた。俺はいつもの通りで声が掛からず苦悩するウマ娘に声を掛けては、その娘達の仮トレーナーや専属トレーナーなどになり可能性を見つけることをしていた。

 綾峰は常にトップ思考を持って、俺はウマ娘の娘たちが自分の力を十分に発揮できるようにと充実した日々を過ごしいたな。

 綾峰の担当するウマ娘が日本ダービーを取った日にはトレーナー室で祝杯を挙げたりしていた。しかも二人でソファーに肩を寄せ合って寝てしまったせいか翌日トレーナー室に来たウマ娘たちに盛大にからかわれたのを懐かしく思い出す。

 

 昔を懐かしみながらトレーナー室に戻ってきた。

 ドアを開けて中に入ると、わずかに空気が重い事に気が付く。

「トレーナーさん……」

 ロッカーの前で佇むアブソリュートゼロ。そのロッカーに目をやると、こじ開けようとした跡があるのがここからでも分かる。

 そうか。こっちにも被害が出るようになったのか。

「ロッカーの鍵が入らなくなっちゃいました」

 わずかに悲しそうな表情で困った顔を浮かべる。だが、恐らく日常茶飯事だったんだろう。この手の事は。

「まあ、こんなこと想定の範囲内だ。こんなことを言うのはなんだが、こっちに被害が出たの俺にとっては好都合だ」

「トレーナーさん?」

「前にも話したがあらゆる事態を想定している。なんなら、俺のPCが壊される。ハッキングされる。俺の私物がなくなる程度は君を受け入れる時点で盛り込み済みだ」

 アブソリュートゼロがわずかに申し訳なさそうな顔を浮かべた。自分のせいで巻き込んでしまったと。

「綾峰のところにいた時に恐らく、トレーナー室にまで被害は出なかっただろう。自分が所属しているチームのトレーナーに何かすれば大変なことになるだろうしな。ソリューは俺の事に関しては気にしなくていい。むしろ面白いじゃないか、トレーナーに喧嘩を売ってきたんだからな」

 だがアブソリュートゼロは辛そうだった。

「無理だけは、無理だけはしないでくださいね? わたしのためにトレーナーさんまで」

 目頭に涙を溜めて言う。いかに強いと言え傷付かないわけではないのだ。

「その分だと、同室だった娘も被害にあっていたんだな?」

「はい。わたしがトレーナーさんのところに来た理由の一つでもあるんです。わたしがいなくなれば、もう少し彼女が楽になるんじゃないかって」

 部屋にいて私物がなくなるんだ。それは十分考えられた。

「君が、こっちに来たという事は同室の娘は今は一人なのか?」

「いえ、実は彼女身辺の安定を図りたいと伝えたところ、先輩が同室になったんです。わたしのいじめを見ていて憤りを感じていた先輩なので大丈夫だと」

 なるほど。綾峰もそこは気が付いていたわけだ。

「とりあえず中身を出そうとしたんだよな?」

「はい。でもこれじゃ……」

 こじ開けようとされたからか鍵穴は潰れているわけだが―

「言っただろ? あらゆる事態の対策はしているんだ」

 そういうと彼女が私物を入れているロッカーの隣を開けた。

 死角になってる部分に鍵がかかっていても開けられるよう細工をしておいたのだ。ロッカーの鍵は単純だ。だから横からレバーを引く事で鍵を開けることが出来る。

「え?」

「こんなこともあろうかと、って事でな。学園長に許可取ってロッカーを少しいじっているんだ」

「トレーナーさん……」

 アブソリュートゼロは安堵の表情を浮かべる。ロッカーが開いたことではなく、既に俺があらゆる手を尽くしている事にだろう。

「秋華賞を目指しトレーニングをしているんだ。君には何も心配をさせずにレースに集中できる環境を用意する。それが俺の『ウマ娘たちに最高の走りが出来るようにする』という理想さ」

 俺の言葉に涙を流しながらアブソリュートゼロは感謝の言葉を口にしてくれる。

「トレーナーさん、本当にありがとうございます。あなたに頼めたことは本当に幸運です」

 涙を拭おうとしない彼女に俺はハンカチを差し出すと、頭を撫でてやった。

「これから二人三脚だ。俺が君の盾にも剣になるさ」

「トレーナーさん!」

 いつもは強気のアブソリュートゼロだったが、やはり辛く無かったわけてはないのだろう。

 俺に思い切り抱き着くと思い切り、たぶんこの件が始まってから誰にも見せなかっただろう程の涙を流しながら声を上げて泣いた。

 彼女の頭を撫でながら俺は気が付いた。

 この子は思った以上無理をしていたんだという事に。




22.6.2 9:06
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