薄赤いもやのかかった謎の世界。
あたりを見渡すと、昔どこかで見た三途の川のようなものを広がっていた。
そんな謎の世界を、イデオはさまよっていた。
見えざる何かがイデオの手を引っ張っていて、イデオはそれに導かれるままに前に進んだ。
しばらく歩くと、左右の視界が狭くなり、突然目の前に扉が現れた。
イデオはその扉をぼんやりと見つめていた。
現実とはかけ離れた世界。
夢の中なのか、それにしては意識がはっきりしていた。
意識はあるが、そこが寒いのか暑いのかもわからなかったし、皮膚に感じる大気の感覚も希薄だった。
扉には、神々しい老人の顔が浮かび上がってきた。
「汝は選ばれた」
老人は低い落ち着いた声でそう言った。低音だが、良く響く声だった。
「汝は……光でもあり、闇でもある。すべては汝が指し示す運命にゆだねられた」
イデオはその言葉をぼんやりと聞いていた。夢の中なのだろう。意識ははっきりしているが、思考が追い付いてこなかった。
「汝の名を名乗れ」
男性はイデオに名前を尋ねた。
イデオは自分の足元を確かめた。地に足をつけている感覚がなかった。
やはり、ここは現実とは異なる世界。
ならば、特別不安を覚える必要もないだろう。
イデオは顔を上げて名乗った。
「僕の名前はハザマイデオ」
「くくくく……」
老人は押し殺すような声で笑った。
「名乗ったな。汝よ、いま確かに名乗ったな?」
「はい」
「いま、混沌と安寧が渦巻く世界、その境界に汝の名が刻まれた。世界は汝によって分断されたのだ」
「……」
イデオは何も考えずに老人の話を聞いていた。
「もう1つ尋ねよう。汝の答えいかんによって、世界はさらなる調律の時を迎えよう。聞くがいい」
「……」
「汝よ、どんなパンツをはいている?」
「え?」
老人は突然おかしなことを尋ねてきた。
イデオが答えずにいると、老人は突然苦しみ始めた。
「はいていないだと……? そ、その答えは……ぐ、ぐわあああああああ」
老人は低い悲鳴を上げると消滅し、やがて前方の扉が開かれた。
その先には美しく広大な泉が広がっていた。
あまりの美しさにイデオは我を忘れてその泉を見つめていた。
すると、突然、その泉に女性の姿が現れた。顔ははっきりとわからない。しかし、なじみのない女性だった。
「イデオ、そこにいるのはイデオでしょう?」
「……」
イデオが黙っていると、女性は一方的に言葉を紡いだ。
「私はあなたの永遠のパートナー。私はいつもあなたのそばにいるわ。忘れないで」
女性はそれだけ言うと、姿を消してしまった。
その後、目の前の美しい泉は姿を消し、世界が暗転した。
◇◇◇
翌朝、まだ人々が十分に起床しないうちから、パトカーの音が鳴り響いていた。
最近の東京の治安は悪く、政府が関東地方全域に危険勧告をしていた。
イデオの住む渋谷方面は、すべての18歳以下の学生らに対して、学校に通学する際に、警備隊が誘導することになっていた。
イデオは遠くにパトカーの音を聞きながら目を覚ました。
体を起こすと、いつもよりも体の芯が重たかった。
「変な夢だったな……」
イデオは頭を押さえながら、昨晩見ていた夢を思い返した。
おかしな夢だったことだけは覚えているが、細部のことは思い出せなかった。
不思議な夢だったはずだが、思いがけず、記憶がはっきりしていなかった。
イデオは夢のことを忘れてあたりを見渡した。
自分の部屋だが、イデオにはよその家のように感じられた。
それもそのはずで、ここはイデオの親戚の家である。
幼いころに、家の事情で、イデオはここにやってきた。
あれから長い時間が経過していたが、イデオはいまだにこの家に馴染むことができずにいた。
イデオはいまだに馴染まないベッドから起きて、机のほうに目をやった。
机には立派なパソコンが置かれている。
イデオにとって、唯一の居場所。それが電子の中の世界だった。
イデオの日課。
起床すると、まずはパソコンの電源を入れる。
あてがなくてもそれがくせになっていた。
イデオはインターネットを使いこなして、いくつかの情報を集めた。
イデオが自作したアプリケーションに、インターネットから世界中の情報を集めてくれるものがあった。
イデオはこのパソコン一台で、さまざまなアプリケーション、さらにはコンピュータウイルスの作成にまで手を伸ばしていた。
イデオは自作のコンピュータウイルスを用いて、しばしば自分が通っている軽子坂高等学校のパソコンに侵入したり、クラスメートのスマートフォンの通信情報を盗み取ったりしていた。
イデオには気になる異性が二人いたから、出来心から少し前から彼女らのことを盗み見するようになった。
イデオがアプリを起動すると、例によってコンピュータウイルスが集めてきたさまざまな情報が集まっていた。
気になる異性の通信情報でもチェックしようと思ったが、それよりも先に目に留まるものがあった。
「昨夜、井之頭公園で35人が殺傷される事件が発生」
「HN「STEVEN」から」
イデオはまず昨夜発生したとされる井之頭公園の通り魔事件を確かめた。
「物騒だな。まあ、自業自得だろうがな」
イデオはそうつぶやきながら、痛ましい事件の詳細を読んだ。
イデオには「かわいそう」というような感情が喚起されなかった。
誰かが痛ましい事件に巻き込まれたとしても他人事だった。
イデオのゆがんだ思想も影響していた。
人間は罪深い生き物。だから、殺されても文句を言える立場ではないと考えていた。
それゆえに、通り魔事件も、イデオには当然の報いとしか映らなかった。
「愚かな人間の魂が解放されたんだ。むしろ、連中にとっては良い罪滅ぼしだよ」
イデオはそう言うと、井之頭公園殺傷事件のニュースを閉じた。
続いて、イデオは「STEVEN」がネット上にばらまいたとされるファイルを開いた。
STEVEN。
STEVENは欧州の科学者であり、ただいま、アメリカやイギリスから指名手配されているといううわさがある。
イデオが集めた情報によると、いまは日本の東京に雲隠れしているという話だ。
STEVENは「魔界」の存在を立証したことで、ノーベル物理学賞を受賞した経歴がある。
それだけにとどまらず、魔界と人間界をつなぐ方法をも発見し、アメリカ政府は重要人物としてSTEVENを確保した。
だが、STEVENは身内の協力者の力を借りて、アメリカ政府の観察下から逃亡。
いまは日本に逃げ込んでいるといううわさがある。
そんなSTEVENが世界の天才たちのもとに謎のファイルをばらまいていた。
そのファイルがイデオにも届いていた。
イデオはそのファイルを開いた。
以下、ファイルの添付メッセージ。
◇◇◇
ハロー、イデオ。
君のことは良く知っているよ。この前のインターナショナル・プログラミング選手権に君が持ち込んだ発明は実に素晴らしかった。
そんな君には、この世界の秩序を守るために、次のファイルを送るよ。
君なら使いこなすことができるだろう。
聞いてほしい。
いま、アメリカは魔界を利用して、この世界を支配しようとしている。
アメリカは「カテドラル計画」を打ち立てている。
自分たちにとって不都合な存在を悪魔の力によって封じ込め、自分たちに忠実なものを洗脳し、支配する。
彼らが「ユートピア」と語る世界は、そんな世界だ。
民は「ファクトリー」と呼ばれるエリアで奴隷のように働かされる。
資産家は「ヴァルハラ」と呼ばれるエリアで利用され、用がなくなれば一掃されることだろう。
残るのは、「偽りの正義」を掲げる為政者のみ。
私はそんな醜い計画を阻止したいと思う。しかし、いまの私に世界を変える力はない。
世界の命運は君に託された。
世界を救ってほしい。
◇◇◇
そんな添付文の後に、謎のファイルがあった。
そのファイルは携帯電子機器にダウンロードして使用するものだった。
イデオは自分のアームターミナルにその情報をダウンロードした。
このアームターミナルはSTEVENが開発した「量子テレポーテーション装置」である。
腕に装着できる小さなものであるが、量子テレポーテーションによって、世界中のあらゆる場所とつながることができる。
遠くにあるものを目の前に転送することができる。
転送には、転送する物質の量子情報をダウンロードする必要がある。
頻繁に量子情報が変化する人間を転送することはできないが、物を転送することはできる。
イデオの持っているアームターミナルは簡易的なものであるが、いまアメリカの研究所では、魔界からさまざまなものを転送する研究がさかんに行われている。
イデオはそんなアームターミナルにSTEVENの謎のファイルをダウンロードした。
ダウンロードすると、アームターミナルに次のモードが追加された。
悪魔会話プログラム
悪魔召喚プログラム
オートマッピングプログラム
デビルアナライズプログラム
「悪魔……」
イデオはとてつもないものを手に入れたと思った。
STEVENが魔界の存在を立証した後、世界中で悪魔召喚の研究が行われている。
STEVENが送ってきたこのファイルは、まさにその悪魔召喚に関連したプログラムだった。
ただ、悪魔召喚プログラムを起動しても、「必要なマグネタイトが不足しています」というエラー文が出るだけだった。
◇◇◇
登校時間が近づいてきたので、イデオはSTEVENが送ってきたファイルの解析を後回しにして、学校に行く支度を始めた。
まずは財布を確認した。
「あれ、おかしいな……」
昨夜確かめたときは空だったと思っていたが、財布の中には5万円が入っていた。
「まあいいか」
イデオは財布を懐に入れて、自室を出た。
1階に降りると、親戚の伯母が黙々と朝食の支度をしていた。
イデオが音も立てずに入ってくると、伯母はそれに気づいて、冷たい声で一言言った。
「おはよう」
イデオは無言でうなずいた。
「ごはんできてるから食べて。今日は遅くなります」
伯母は他人行儀にそう言うと、さっさと居間のほうに引っ込んだ。
この家に来てから、伯母はいつもそんな感じだった。仕方なくイデオを引き取っただけで、愛情はなかった。
あれからずっとそんな感じだった。イデオも伯母とまともに会話をしたことがなかった。
イデオは一人で静かに朝食を取ると、家を出た。
家を出ると、心が落ち着いた。
不思議なもので、家に帰るときより、家を出るときのほうが心が落ち着くようになっていた。
目の前には東京の喧騒が広がっていた。
このあたりはまだ住宅街。住宅街を降りると、そこには人の波が途絶えることなく続いている。
イデオは思った。
もし、核兵器を撃つなら、東京以上に最適な場所はないだろうと。
そんな東京に、イデオは静かに溶け込んでいった。