其れは幸福の物語   作:ふみどり

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「解釈はひとそれぞれ」と三回唱えてからご覧ください。


完全無欠のハッピーエンド

 

 

 私という物語の結末は、もう決めてある。

 それ以外のエンディングは、許さない。

 

 

 ***

 

 

 木造作りの冷たい廊下を、ひとり歩く。

 春もうららかなんて呑気な言葉がまったく似合わないこの学校にも、どこかで桜は花開いているらしい。開いていた窓からふわりと飛んできた花びらを見て、そう思った。

 

「……《桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!》」

 

 しかし、そんなのどかな春の風物詩を見て思い浮かんだのが梶井基次郎『櫻の樹の下には』であるあたり、私の発想も相当に毒されている。

 こんなよく晴れた入学初日に考えるには辛気くさいことこの上ないが、この学校の実際を思えば当たらずも遠からずなのだからなんともはや。

 東京都立呪術高等専門学校は一応は学校と銘打ってはいるが、実際のところはただの呪術師の坩堝。学生だろうが何だろうが、その実力に見合った(正確には見合っている()()の)任務に放り込んで使い倒すための機関に過ぎないと私は思っている。人材不足もここに極まれりというか、そんなに人足りねーなら上層でふんぞり返ってないでテメーらが前線出ろよ老害どもというか。

 それでも来てしまったものは仕方ない、とため息をついて指定された教室へと進む。昨日女子寮で挨拶した先輩曰く、今年の入学生は私を含めて三人。残りの二人は一般家庭出身の男子だというから、どんな陰気くさいやつだろうと思ってきてみれば。

 

「初めまして、僕は灰原雄! これからよろしくね!」

 

 教室に入ってまず目の前に現れた、まるで暑苦しさの塊のような。思わずぱちくりと瞬きをすれば、その後ろから小さなため息が聞こえる。灰原と名乗った彼の横から、ひときわ背の高いもうひとりが顔を出した。

 

「すみません、驚かせましたね。私は七海建人と申します」

 

 その髪色と顔立ちは外国の血を思わせたが、口から出たのはとても流暢で礼儀正しい挨拶。すでに二人は打ち解けているのか、前のめりがすぎる灰原に七海がちくりと苦言を呈すと、灰原はそれすらも楽しそうに笑った。

 

「挨拶は大事って言ったのは七海だろ?」

「驚かせろとは言っていません」

「あはは、やっぱり新しいとこ来るとわくわくしちゃってさ! いきなりごめん、……えっと、」

「……ああ、うん、大丈夫。私は美作(みまさか)佳乃(よしの)。これからよろしく」

 

 まさかこんな根明っぽいやつとまともそうなやつが高専に来るとは、とはさすがに言わなかった。一般家庭出身とは聞いていたけど、これでクズしかいない呪術界を泳いでいけるのだろうか。他人事ながら心配になる。

 美作さん、と繰り返した灰原に、さんとかいらないよ、と言えば、また太陽のようにぱっと笑った。うわ、まぶしい。

 

「じゃあ美作! 改めて、これからよろしく!」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 

 あまりにも呪術師らしくない同期二人との出会いは、こんな当たり障りのない自己紹介だった。そのときは「本当にこいつら大丈夫だろうか」としか思わなかったのだが、あとになって考えてみれば、これは確かに幸運だった。ちょっと同期を取り替えてみないかと硝子先輩に言われて即座に首を振ってしまう程度には、きっと。

 私は確かにこの幸運に、感謝をしている。

 

 

 私自身、それほど喋るのが得意なつもりはない。そもそも友人といえる友人もたいしておらず、会話をしてきたのはまともとは言いがたい家族ばかりだ。それでも気まずい空気が流れずに済んでいるのは、適度に話を振ってくれる彼らのおかげだろう。

 

「そっか、美作はそういう家系の生まれなんだ?」

「そう。って言っても、そんな力のある家じゃないけどね」

「こういう世界にも、やはり家同士の力関係のようなものが?」

「あるよ、すっごいめんどくさいやつ。特に有力な家が三つあって、御三家なんて呼ばれてるけど……寮とかで会わなかった? 確かひとつ上の学年に、そのひとつの、……!」

 

 と、言いかけたところで感じた気配。強すぎる呪力が二つ、いや三つ。まだ距離はあるが、廊下を歩きながらこちらに近づいてきている。

 呪力も残穢もそこら中にあるこの場所にあってなお、それでも異彩を放つほどの気配。思わず呪具に伸ばしかけた手を、息をついて戻す。三つの気配のひとつには覚えがある。ということは、残りの二つはそういうことだろう。

 噂をすれば影と言うが、もう少し猶予をくれてもいいのではないだろうか。化け物だらけの呪術界にもほんの一握りしかいない、()()()()の化け物。

 

「これ、……何かな? 変な感じがする」

「……実は昨日、寮では誰にもお会いしなかったんです。任務だとかで」

「なるほど? じゃあさっそくご挨拶かな」

 

 少し緊張した様子の七海と、わからないなりに「何か」の気配を感じ取っているらしい灰原。さすがにこの二人、全くの素人というわけでもないらしい。自分より強い存在を感じ取れる能力は、生き残るうえでもっとも必要な力だ。

 足音が近づくにつれて、どくん、と心臓が大きな音を立てる。落ち着け、昨日お話しした硝子先輩は、少なくとも話が通じるひとだった。担任の教師だって、もうそれほど経たないうちにやってくるはず。

 落ち着け、ともう一度内心で繰り返したとき、がらりと教室の戸が開いた。

 

「お、いるじゃん新入生。聞いてたとおり三人」

「悟、君ね、少しは気を使ってあげたらどうだい。今日は入学初日なんだから」

「オハヨ佳乃、制服似合うじゃ~ん」

 

 柄の悪いガタイのいい男がふたりと、昨日と同じく軽く声をかけてくれる硝子先輩。とりあえず殺気がないことに息をついて、硝子先輩には笑顔を返した。先輩こそ真っ黒な制服がとてもよくお似合いです。顔立ちもスタイルもすっとしてて綺麗だから、シンプルな服がよく似合う。

 

「おはようございます、硝子先輩。わざわざ一年の教室までどうされたんです?」

「こいつらが新入生見に行くって聞かねーから、一応ね」

「こいつらってまとめないでくれないかい。うるさかったのは悟だろ」

「傑だって気になるって言ってただろーがよ」

 

 さとる、すぐる。どこかで聞いた話が頭の中で蘇る。

 御三家のひとつ、五条家相伝の無下限術式と六眼を併せ持つ「最強」の特級呪術師、五条悟。一般家庭の出身でありながら、呪霊を使役する呪霊操術を使いこなす「最強」の特級呪術師、夏油傑。

 年齢なんて関係のない世界とはいえ、若くして特級に認められる実力者が目の前に二人。硝子先輩がいなかったらマジで逃げ出してる場面だ。私だって命は惜しい。

 

「で、お前が美作?」

 

 サングラスの奥にある六眼がまっすぐに私を射貫いてくる。その瞳は雨上がりの空の色か、深海に差し込む光の色か。なるほど、下手な宝石の類いよりずっと美しい。こんな状況でなければもっと鑑賞していたいところだけど、と私はとりあえずにこりと笑ってみせた。

 

「はい。美作佳乃です」

「ふーん? 何だ、普通じゃん」

「悟、」

「『奇人変人デタラメ術式の美作』って聞いてたから、もうちょい変なやつ期待してたんだけど」

 

 まじまじと無遠慮に落とされる視線に、隣からカタリと音が聞こえた。音のもとは灰原か、七海の方か、どちらにしろ頼むから大人しくしていてほしい。せめて五条家の説明が終わってから来て欲しかったものだ。二人がどれだけ戦えるのかは知らないが、少なくともこのデリカシー皆無の失礼な男は、私たちなど一瞬で殺せてしまう。

 ぴり、と嫌な空気が流れたところで、その視線を遮るように大きな掌が現れる。やめな、と男性にしては柔らかい声が鼓膜を叩いた。

 

「さすがに本当に失礼だよ、悟。後輩の女の子相手に」

「さっそく後輩いじめとかマジでクズだな五条」

「はあ? 見てただけだろうがよ」

「すまなかったね、美作さん、君たちも。いじめに来たつもりはないんだ、本当に」

 

 申し訳なさそうな顔で、彼は夏油傑と名乗った。

 あくまでも優しげな顔を作っているが、どうにも嘘くさく見えてしまうのは私の心が汚れているからか。しかしとにかく、五条悟をおさえてくれたのはありがたい。

 

「失礼を働いてしまったのが五条悟、それから紅一点の家入硝子だ。君たちのひとつ上だよ、何か困ったことがあったらいつでも聞いてくれ」

「! ありがとうございます! 自分は灰原雄です!」

「七海建人です。よろしくお願いします」

「うん、よろしくね」

 

 一通りの自己紹介が済んだところで、つつつと硝子先輩が私の後ろに立つ。椅子に座る私に抱きつくように、後ろから腕を回された。頭の上に、こつりと硝子先輩の顎が当たる。

 

「油断すんなよ佳乃、五条は当然として夏油も大概のクズだからな。優しい顔してるだけの真面目系クズだから気を許すな。いいな」

「やっぱりですか」

「風評被害甚だしいんだけど。というか美作さん、今やっぱりって言ったかい?」

 

 おっと失言、と笑顔で無言を通すと、頭上でくつくつと笑うのが聞こえる。五条悟も肩を揺らしていて、かろうじて笑顔の夏油傑の頬がひくりと揺れた。わりと沸点は低いらしい。

 機嫌を直した五条悟は、笑ったまま夏油傑の肩に腕をまわした。

 

「何だ、いい性格はしてんじゃん。お前の家、呪術界でも変わり者が多くて有名なんだろ?」

「そうらしいですね。『奇人変人デタラメ術式の美作』ですか? 言い得て妙だと思いますよ」

「ふーん? じゃあ見せてみろよ、デタラメ術式」

「その六眼ですでに見えているのでは?」

 

 情報が見えるのと実際見るのは違うだろ、と五条悟は一歩前に出る。

 

「お前の親父のは見たことあんだよ、偶然な。けど、相伝の術式のくせに術者によって術式効果が異なるんだろ?」

 

 実際、俺の眼には全く同じ術式が見えるけどな、とサングラスが少しずらされる。

 あのクソ親父、絶対この眼が見たいがために術式晒したな、と内心でうんざりと肩を落とす。一応そのクソ親父が美作家当主にあたるわけだが、「奇人変人」の筆頭でもあるわけなので、あの人の奇行についてはすでに諦めている。諦めているが、せめて娘に面倒ごとを残さない程度の気遣いくらいしてくれないものだろうか。無理かな。無理か。

 夏油傑は口先では五条悟を諫めてみせるが、それだけだ。この人も「デタラメ術式」に興味があるということだろう。硝子先輩も言うことなんか聞かなくていいぞ、と私の頭を撫でてはいるが強く止める様子はない。硝子先輩では五条悟を止めることはできない、ということか。

 はあ、と思わず口からため息が漏れる。

 

「お見せすればいいんですね?」

「最初からそう言えっての」

「佳乃、」

「硝子先輩、そのまま動かないでください。灰原、七海も」

 

 さて、何にしようか。ただの見世物にたいした呪力を込めるつもりもないが、効果よりも見た目のインパクトがあるものを選んだ方がさっさと満足してくれそうだ。それに、灰原と七海もそうだが、硝子先輩に万一も影響が出ないもの。見世物、……そうだ、()()物ならあれがいい。

 私の両手が、見えない本のページを開く。

 

「__《一点の色を注ぎ込むのも、彼にとっては容易な業でなかった。》」

 

 霧が立ちこめるように、視界が揺らぐ。あ、と隣で灰原が小さな声を上げたのを七海がとどめる。ありがとう七海、そのまま灰原を抑えておいて欲しい。

 教室であったはずの場所が、薄暗いどこかへと変わっていく。

 

「《さす針、ぬく針の毎度に深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。》」

 

 ちくり、ちくりと刺さるその感覚は、堪えきれないほどのものではないだろう。ただ、自分の目では見ることの出来ない背中に小さな痛みが這うのは、きっと気持ちの良いものではない。

 五条悟と夏油傑の二人は、肩口に背中を振り返る。もちろんそこにはまだ何もいない。そう、()()

 

「《針の痕は次第々々に巨大な女郎蜘蛛の形象を具え始めて、》」

 

 ほら、現れるのはここから。

 二人の広い背中を覆うほどの、通常なら有り得ない巨大なそれが形作られていく。

 

「《再び夜がしらしらと白み初めた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本の肢を伸ばしつゝ、背一面に蟠った。》」

 

 長い手足。鮮やかな黄色と緑青色の帯。腹部に隠れる鮮紅の紋はあでやかに、雄など餌だとばかりに牙を見せつけるそれ。

 さあ、食い殺されてしまえ。男という男を肥料として美しく在る、その蜘蛛に。ひとを見世物扱いした報いを受けるがいい、……なんて。

 

「……谷崎潤一郎『刺青』より」

 

 私がそう言い切って見えない本を閉じるより一瞬先に、爆発音とともに教室の窓が吹っ飛んだ。そしてその外で宙に立つ五条悟と、自身が操る呪霊に乗る夏油傑。

 二人の顔には、ひどく愉しそうな色があった。まるで、面白い玩具でも見つけた子どものような。

 

「うっわ、ぞわっとした! いーもん持ってんじゃんお前!」

「領域展開に至らずあのリアリティか。恐れ入るな」

 

 別に本当に危害を加えるつもりはなかったのに、そんなに露骨に逃げなくても。

 やれやれと首を振ると、やるじゃん、と硝子先輩に頭を撫でられた。さすがというか、全くビビった様子がない。

 むしろビビっているのは、隣の二人のほうか。

 

「……大丈夫?」

 

 声をかけると、ようやく二人ははっと我に返る。今のは、と七海が口を開こうとしたところで、ばたばたと足音が聞こえる。シッと合図を送ると、ほとんど反射的に七海は口を閉じた。灰原にも静かに、と目線で告げると、よくわからなそうな顔のままに頷く。

 入学早々、説教なんてごめんだ。頭の上で、硝子先輩がくすりと笑ったような気がした。

 

「何の音だ!! 何があった!?」

 

 ばん、と大きな音を立てて入ってきた大柄で刈り上げの男性。名前は存じ上げないが、まあきっと教師の一人なのだろう。吹っ飛んだ窓を見て早々に頭を抱えたその人は額に青筋を浮かべて叫ぶ。

 

「だいたいわかるが、一応聞いておく。校舎を破壊したのは誰だ?」

「あそこのクズどもです」

「先輩たちです。怖かったです」

「はい、あのひとたちでした!」

「ええ、私たちは無実です」

 

 即行で硝子先輩が窓の外の二人を指さし、私はさっと取り出したハンカチを目尻に添え、灰原は馬鹿正直に答え、七海も自信満々に頷く。お前ら、と五条悟は口を動かし、夏油傑はやってしまったという顔で天を仰いだ。

 だろうな、と頷いたその人は窓に近づき、叫ぶ。

 

「とっとと下りてこいお前ら!! 掃除と説教だ!!」

 

 そのあとには、頭にこぶを作った「最強」の先輩たちの姿が見られたとか何とか。正直まじでいい気味である。

 

 *

 

「すごかったねあれ! 蜘蛛が見えたときはびっくりしちゃったよ!」

「呪術というのは本当に奥の深い世界ですね」

 

 パンを頬張りながら感心したように言う二人に、思わず苦笑した。野菜ジュースを飲みながら、そうでもないよ、と本心から言う。

 あの後教室を移動し、担任から一通りの話を聞いた後、昼前には解散になった。せっかくだからお昼を一緒に食べようと誘われて、購買で適当に買ったパンをそれぞれ食べている。硝子先輩には改めてクズどもが悪かったね、と謝られ、夕飯をご一緒させていただけることになった。同性の先輩に可愛がってもらえるのは正直嬉しい。

 

「今回は見た目のインパクトがありそうな話をあえて選んだけど、たいした威力のあるものじゃないよ。正直、実戦にはあまり向かない術式だし」

「そうなの?」

 

 そう、と私もサンドイッチにかぶりついた。しゃくり、とみずみずしいレタスが音を立てる。

 私の術式は、物語の原文を読み上げて対象に聞かせる必要がある。文章の内容にもよるが、読み上げる部分が短ければ威力も落ちるし、強いイメージを作ることができない。しかしその時間を待ってくれるほど、実戦は甘くない。

 

「ただでさえ今の私の術式の精度じゃ、直接的なダメージを与えるのは難しい。なのに術式の完成にまで時間がかかるとなると、ね。一人だと低級呪霊祓うのがせいぜいかな」

「じゃあ大丈夫だね! 僕たちも一緒に戦うから!」

「えっすごいポジティブ……こんな呪術師存在するんだ……」

「そこは衝撃を受けるところなんですか?」

 

 七海もすぐにわかるよ、と言えば、出来ればわかりたくありませんが、とさらりと返された。残念ながら、そのうち絶対七海も「呪術師はクソ」とか言い出すに決まっている。呪術師はクソ、これは世界の真理です。

 そういえば、と言いかけていた御三家の話を改めて持ち出した。一つ上に「五条」がいる以上、こういうことは早めに知っておいたほうがいい。

 五条、加茂、禪院からなる御三家と、その術式。六眼と無下限術式をあわせもった「五条悟」の存在の意味。ついでに呪術師の階級の話と、私が知っている限りの呪霊操術のことも。

 何で私こんな世話を焼いているのだろうと思うけれど、まああれだ。一人で戦うことにまだ限界がある以上、一緒に戦ってくれそうな人間にそう簡単に死んでもらっては困るのだ。彼らの力はまだ未知数だけれど、高専に見出された以上はそれなりの呪力はあるはず。しかも、家柄だの何だのと面倒な予備知識のない貴重な人材。ただでさえ、変わり者の「美作」は周囲から奇異の眼で見られるのだから。こんな便利な手足、逃がしたくはない。

 

「早めに知っといたほうがいいのはそれくらいかな……まあ、多分早々に先生から説明があるとは思うけど」

「いえ、助かります、美作さん。呪術以前のこの世界の常識については、なかなか授業でも伺えないと思いますから」

「うん、ありがとう! ……まだちょっと全部はわかってないと思うけど……」

「いつでも聞いてくれていいよ」

 

 助かる、と元気よく返されて、何となくちょっと笑った。今日だけで、ずいぶんと笑ったような気がする。日頃は本ばかりを相手にして表情筋を動かさないから、何だか不思議な気分だ。

 食べ終わったパンの袋をまとめて、ジュースの紙パックと一緒にゴミ箱に捨てる。すでに食べ終わっていた二人も、私に続いた。

 まだ慣れない校舎をゆっくり歩きながら、寮へと向かう。それにしてもさー、と頭の後ろで手を組んだ灰原は呑気に笑った。

 

「五条さんはまだよくわかんないけど、夏油さんはいいひとそうだったね!」

 

 ねっと軽く笑いかけられて、これはマジで言ってるのかと耳を疑う。思わず、逆隣りにいた七海の表情を確かめた。その顔には、私と同じ理解できないという表情が浮かんでいる。良かった、私の感性は多数派だった。

 というか灰原お前、硝子先輩の言葉聞いてなかったんかい。

 

「……えっと、灰原、それは本気で言ってる……?」

「? うん。何で? ちゃんと挨拶してくれたし、何でも聞いてくれって言ってくれたし!」

「……、……七海!」

「私に助けを求めないでください」

 

 いや表面上は「いい先輩」っぽくしてたけど、絶対あれは腹の中が真っ黒だ。

 五条悟と同じく私の術式に興味をもっていたくせに、五条悟が諦めないのを見越した上で自分は止める側にまわっていた。そんな自分の手を汚さずに目的だけは果たそうという立ち回りをするやつが、いいひとのわけがない。

 

「私、今まで灰原がどんな生き方してきたのか知りたいけど知りたくない」

「え、それどっち?」

「わかる気がします」

「だからそれどっち?」

 

 どっちでもない、と私と七海が声をそろえたところで、灰原が声をあげて笑う。もう息が合ってるね、と楽しそうに。誰のせいで、とため息まで同時についてしまって、さらに灰原は笑った。どこまでも騒がしくて、暑苦しくて、人の話を聞かないやつだ。

 思わず少し高いところにある淡い色の瞳を見上げると、その瞳も私のことを見下ろしていて、目が合った瞬間に少し細められたような気がした。

 そして再び、楽しそうにすたすたと歩いていく黒い髪の太陽に目を向ける。

 

「……何かと苦労はある気がしますが、四年間よろしくお願いします」

「こちらこそ。……ま、退屈はしないかもね」

 

 私は退屈で本を読む時間がたくさんあるほうが嬉しいんだけど、と小声でぼやけば、全く同感です、と隣で大きく頷く気配がする。

 ふと、春特有の強い風に吹かれて、淡い色の花弁がどこかから流されてくる。何となくその花弁が流れてきた方向に目をやると、高専を囲む山々の一部が白く染まっているのが見えた。あの様子だと、ちょうど今が満開らしい。

 妖しいほどに美しく咲き誇っているであろう桜の樹が、何故だかやけに遠く感じた。

 

 

 ***

 

 

 ヒュ、とその切っ先が虚空を切る。

 その反動をいなすと同時に、身体の流れにあわせて自分の汗が飛んだのが見えた。しかし、私の太刀筋など軽くかわして見せたその人はいまだ涼しい顔のまま。

 

「へえ、つまり美作の術式は『刺青』だけではないどころか、芸術といわれるすべてを具象化できるんだ?」

「な、んでもいい、というと、語弊は、ありますけど! 術師が、心を強く揺さぶられたもの、とでもいいますか、ね!」

「おっと、」

 

 急所を狙った一撃も軽くかわされる。そのまま身体をひねって次に、と行こうとしたところで、呪具ごと腕を掴まれ、放り投げられた。呪力で強化しているとはいえ私ひとりを片腕で数メートル投げるって、いったいどんな腕力してんだこの馬鹿力。

 空中で姿勢を整え、夏油先輩から目を離さないまま着地し、柄に呪符が巻きつけられた短刀を構える。そんな私を見て、夏油先輩はうん、とひとつ頷いた。

 

「今のは良かったね。ちょっと休憩しようか、美作」

「あ、りがとう、ございます」

「うん、お疲れ」

 

 一、二年合同で行われる実習の時間。私は夏油先輩に、灰原と七海は五条先輩に近接戦闘の稽古をつけてもらっていた。こういうとき、硝子先輩はだいたい別のところで違う実習をしているらしい。ちょっと寂しい。

 任務に挑む呪術師ならば、術式以外の戦闘術の心得もあって当たり前。ということで私も一応幼いころから鍛えてはいたが、それでもやはりこの先輩達には掠ることすらできない。それが男女の差以上に実力の差だとわかるだけに、悔しさは残った。やはり、呪力操作の精度ももっとあげないといけない。

 ついでに筋トレももっと増やすかな、と思ったところで、目の前に飲み物が差し出される。

 

「水分補給はしっかりね」

「……ありがとうございます」

「うん。悟、そっちもそろそろ休憩にしたらどうだい?」

「おーう」

 

 じゃあ一旦休憩、と軽く言った五条先輩の前には屍のように転がる二人。どうやら二人も同じく、今日も五条先輩には一撃も入れられなかったらしい。近くに置いてあった二人のタオルを、それぞれの頭に放り投げてやった。虫の息の合間に、小さく絞り出したようなお礼が聞こえる。

 

「喋んなくていいから息整えなよ」

「まだまだ体力ねーな、お前ら」

 

 そんな先輩の軽口に、二人の口からは少し悔しそうな唸りが漏れる。気持ちはわかるぞ二人とも、いつかあの小憎たらしい美形に一発くれてやろうな。

 と、そのとき、背後から頭に大きな手が乗せられる。撫でられる、とかそういう感じじゃない。まさしく、ただ置かれて、がっしりと抑え込まれているような。

 

「……何ですか五条先輩、私汗かいてますよ」

「見りゃわかるわ。で、ゲイジュツなら何でもありだから、美作の術式は術師ごとに効果が違って見えるってわけ?」

「聞いてたんですか」

 

 なんて地獄耳、と思わず口走ったら、身長縮ませてやろうか、と上からぎゅうぎゅうと押し込まれる。このいじめっこめ。

 その負荷に地味な反抗を示しながら、何とか五条先輩のほうを振り返って、言う。

 

「そうですよ。それぞれが一番好きなものだけをモチーフにするっていう縛りを科してるんです。たとえば私は文学、父は宝石ですね。芸術というか、はたから見て偏執だと思えるくらい好きなら何でもいいんですよ。絵画、音楽、工芸、過去には本物には届かない贋作(コピー)を愛した、なんて術師もいたらしいです」

「マジで何でもありじゃん」

「何でもありです。好きならいいんです。自分が好きだと思ったもの、それについての自分のイメージを具象化するのが美作(うち)の術式です。具象化術式なんて無粋な名前を嫌って、うちのひとたちは術式そのものを『芸術』って呼んでますね。奇人変人でしょ」

「それ自分で言っちゃうのかい」

「私はあの家系のなかではまだ一般常識を知ってるほうだと自負してますよ。文学というか物語全般が好きなので、そこから多少は常識学んでるつもりですから」

 

 現代の大衆小説とか漫画も読みますし、と言いながら五条先輩の手を剥がそうと両手でその腕を掴むが、腹が立つことにぴくりとも動かない。そんな私を性格のひんまがったいじめっこはにやにやと見ている。ほんと腹立つなこの人。

 

「うちの人間は基本的に芸術家気質というか、美しいと思ったものには目がないので、父が五条先輩の前で術式晒したのもわざとでしょうね」

「……は?」

「言ったでしょう、宝石好きなんですよ。きらきらしてて透き通った石みたいなものが好きなんです。よっぽど見たかったんでしょうね、その六眼」

 

 まあ確かに綺麗です、とサングラスの奥の宝石を見据える。長い睫毛で装飾されたそれは、ぱちりと大きく瞬きをした。

 

「え、何、確かに俺は世界が認めるイケメンだけどお前には興味ねーわ」

「ご心配なく、私が綺麗と思うのはその六眼のみであって、そのほかには微塵も興味がありません。ルックスも全体として整ってると思うんですけど、性格それだと思うと不思議なくらい唆られなくて」

「はいこの後輩マジで生意気~縮めオラ」

「く、首、首折れる、」

「こらこら悟。いくら後輩に振られたからって」

「何で俺が振られたことになってんの?」

 

 夏油先輩によってようやく外された腕に、やれやれと首をまわす。

 こき、と肩を鳴らすと、足元からようやく息が整ったらしい声が聞こえた。

 

「ねえ、『刺青』以外でも大丈夫ならさ」

「うわびっくりした」

「あははごめんごめん。他の文学作品でもいいんでしょ? で、文章の解釈は美作次第で、それがそのまま具象化する」

「……そうだけど」

 

 文学に限らず、ありとあらゆる作品にとって、解釈は自由だ。作者には作者の想いがあってつくられたものだとしても、作品から受け取った全ては受け手のもの。解釈はどこまでも自由に広がっていくのだから、美作の「芸術」に限界などない。それが美作(うち)の信条だ。

 それなら、と灰原は地面に身体を投げだしたまま、きらっきらの笑顔で言った。

 

「『吾輩は猫である』とか読んだら、聞いた人は猫になったりするの?」

 

 その言葉に、周囲の時間がぴたりと止まる。

 数秒間の沈黙が流れ、私は手に持っていた飲み物をそっと地面に置いた。そして両手を一度あわせて、見えない本をゆったりと開く。きらきらの笑顔でこちらを見る灰原と、その隣で顔を青くした七海が見えた。にこり、と二人に笑顔を向ける。

 

「《吾輩は猫で》、」

「やめろやめなさい美作! 灰原も余計なことを言うんじゃない!」

「え、だって出来そうじゃない? 猫になりそうじゃない?」

「それを平気で私たちで試そうとする人ですよこの人は! そんなふざけたことの実験体になんてなりたくありません!」

「まったく、冗談が通じないんだから七海ってば」

「今、完全に本気でしたよね?」

 

 まさか、と見えない本を閉じると、心底疑っているという視線がこちらに向けられる。ちなみに私の後ろでは、先輩ふたりが全力で肩を震わせていた。ちなみに私が今術式を展開したら、そこにいるアンタらも範囲内だからな。諸共だからな。

 

「ま、正直なところそこまで肉体に変化を与えるのは難しいね。猫になったっていう暗示を与えるくらいならできるかもしれないけど、それ以上のことになるともっと術式深掘りして領域展開くらいまでは持って行かないと。呪霊ならともかく、実体のある相手にそこまで物理的な変化を与えるのは今の私じゃ無理」

「そうなんだ……」

「何でちょっと残念そうなんですか君は」

 

 ちょっと面白そうじゃないか、と呑気にいう灰原に、ちっとも面白くない、と七海は唸る。灰原猫は黒猫で、七海猫は金茶かな。夏油猫は黒の毛長種、五条猫は銀まじりの真っ白だろうか。何それめっちゃ見たい。術式の解釈は自由でイメージも自由なのだから、私の修練次第では本当に一時的な猫化くらいはできるかもしれない。何それ面白すぎか。頑張ろう。

 面白い着想をくれた灰原に内心でしっかり感謝をしつつ、ようやく起き上がった二人にも飲み物を投げ渡す。二人はお礼を言いながら受け取ったが、七海だけはまだ渋い顔をしていた。とても面白い。

 

「美作、面白いことやるときはちゃんと先輩を呼べよ」

実験体(ふたり)の捕獲くらいは手伝ってあげるからね」

「心強いです、先輩方」

 

 よっしゃ四人まとめて猫にしたろ、と心に誓ったところで実習は再開となった。

 後でその話を硝子先輩にしたら、カフカの『変身』じゃないだけ優しいな、とさらに上を行く返答が返ってきた。この先輩、発想がえぐい。

 さすがの私も巨大な虫になった四人は見たくないなと思いつつも、精神攻撃としては普通にありだなと思ったので頑張って練習しようと思う。

 

 *

 

 高専に入学して、数か月が過ぎた。

 とっくにいくつもの任務を経験していて、お互いの戦闘スタイルについてはおおよそ把握している。中距離でおもに敵の足止め、サポートに徹する私と、前線で駆る二人。なんだかんだで意外とバランスはとれていて、ある程度の任務は三人で難なくこなせるようになっていた。

 

「美作さん、」

「ん。《変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑えませた。》」

 

 いつものように私は、呪霊を前に見えない本を開く。もちろんそこに本はなく、私にとっては掌印とほとんど同じ意味の、術式を構築する予備動作に過ぎない。

 ではあの文章は全て暗唱しているのですか、と七海がひどく驚いていたが、結局のところ単純に「好き」だから覚えようとしなくてもこの頭が勝手に記憶しているのだ。

 私は物語というものを、心の奥底から愛している。

 

「《丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。》」

 

 言葉に応じて浮かび上がるは黄色い果実。どうせなので一個と言わず二個でも三個でもいくつでも。「私」の空想はこんな小さな果実を、恐ろしい兵器へと塗り変えていく。

 呪霊の周囲を、小さな果実が取り囲む。振り払っても消えはしない。だってそれは、術式が完成するまではただの幻なのだから。

 

「《私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」》」

 

 綴られていく言葉とイメージは呪力で見せた幻を本物と違わぬ果実に変え、物語は小さな檸檬を爆弾へと変容させる。ひとつひとつは小さくとも、何せ本屋が粉葉みじんになるほどの威力。さあさあ侮ることなかれ。

 もう十分後には? 残念、物語の中を流れる時間なんて曖昧なのだ。ページをめくれば、十分なんて一瞬と同じ。

 

「梶井基次郎『檸檬』より」

 

 本が閉じると同時に響く、いくつもの爆発音。呪霊の前後左右で弾けたそれは、呪霊の隙を作るには充分だった。

 そして黒い影がふたつ、呪霊の眼前へ躍り出る。

 

「灰原、」

「わかってる!」

 

 二人の手によってまっぷたつに分かたれた呪霊は、悲鳴を上げて闇へと消えた。

 綺麗に着地したふたりは、ふう、と同時に息をついた。空を覆っていた闇はゆらりとほどけ、夜の帳は晴れていく。

 私もひとつ息をついて、二人のもとに歩み寄った。

 

「お疲れ、ふたりとも」

「美作もね! 今日のは僕も聞いたことあるよ、檸檬を本屋に置いてくるやつだよね!」

「ええ、私も久しぶりに読みたくなってきました」

 

 貸そうか、と軽く尋ねると、是非、という声が返ってくる。わりと読書家の七海には、こうしてときどき本を貸すことがあった。数日のうちには感想付きの栞を挟んで返してくるあたり、七海も律義なやつだと思う。

 灰原はあまり本を読まないようだが、それでもあらすじを聞いて興味をもったものについては稀に貸してやることもある。読むのは遅いが、それでも一応ちゃんと読破しているらしい。合わなければ無理しなくていいよ、と言っても、読むのは遅いけどちゃんと楽しんでるんだ、と笑っていた。

 二人のこういうところは、素直に好ましく思っていた。自分の好きなものを大事にしてもらえるのは、やはり嬉しい。

 

「にしても、意外と早く片付いたね。ご飯でも食べていこう!」

「そうですね。美作さん、食べたいものはありますか?」

「今特に浮かばないから、今日は七海の食べたいものにしよう」

「ではお好み焼きで」

「え、珍しい! いいね!」

 

 近くに美味い店があるそうです、と何となく機嫌よさげな七海の背を追いながら、灰原と目を見合わせて笑った。七海がわりとグルメなことは、とっくに気づいていた。

 補助監督の送迎を断り、七海に連れられてその店に入る。

 

「ちなみに私お好み焼きをちゃんと焼いたことがないんだけど、二人とも出来る?」

「たまに思うんですが、美作さんはわりと箱入りなんですか?」

「いやだって、今親戚の中にそっちの術式の人いないから。誰も食に興味がなくて」

「むしろ過去いたんだ? じゃあ僕が焼くね!」

 

 そういって灰原が生地を混ぜている間に、七海が鉄板に油を引く。こんな風にやるんだ、とまじまじと見つめながら口を開いた。

 

「うちの術式、本当にデタラメで何でもありだからさ。何代か前には本当に美食を極めた人がいたらしい。基本食べるほうの専門だったらしいんだけどさ、途中で頭とち狂って呪霊を美味しく食べる方法とか考え始めたんだって」

「……は?」

「え、」

「さすがに呪術界の上層から大目玉食らって、レシピ本は封印されたそうな。発掘して夏油先輩にでもあげようかな」

 

 基本皆、自分の専門分野になると頭狂うのよね、としみじみと言うと、七海は眉間を押さえ、灰原もさすがに硬い笑みを零しながら生地を鉄板に落としていく。

 でも、確かに夏油さんは喜ぶかもね、と気を取り直したように付け足した。

 

「呪術が何でもありっていうよりは、何でもありになるように解釈を広げるのが大事なんだなって最近気づいた!」

「その通りだよ灰原。常識にとらわれちゃいけない」

「失礼ながら、貴方の家系は少し常識を覚えたほうがいいかもしれませんよ」

「いいんじゃない、『奇人変人デタラメ術式の美作』で。『芸術』にしか興味がないからこそ、たいして権力争いに巻き込まれることもなく家が残ってんだしさ」

 

 ここで常識覚えて御三家の権力闘争に巻き込まれたくない、と言うと、さすがに七海も言い返せずに黙った。美作は誰にも制御できず、手元においても厄介なだけ。そう思われていたからこそ、今も私の家族は平和に平気で好き勝手やっているのだ。

 じゅうじゅうと焼ける生地を、ぼんやりと見つめる。

 

「まあ五条先輩と知り合っちゃったから、これからどうなるかわかんないけどね」

「……それはもしかして私たちもですか?」

「さあ。でも今のところ、先輩もそういうのに大して興味なさそうだし。自分がいればそれで充分だろって思ってそうだし。ムカつくけど野心家でないのは助かるよね。積極的に巻き込んでくることはなさそう」

「美作、ひっくり返すから少し離れて!」

 

 はいはい、と言いながら身体を引いて背もたれに寄りかかる。

 ほいっと景気よく灰原がお好み焼きを返した。こいつ、なかなか手際がいい。

 

「すごいね灰原、慣れてる?」

「お好み焼き屋に来るとたいてい僕が作ってたから! いつも妹とヘラの取り合いしてたけど、これは譲りたくないよね!」

「妹さんがいるんですか」

 

 うん、と灰原はいつも通り元気よく頷く。ヘラを鉄板横において、火加減を確かめた。その瞳には、珍しくわずかな懐かしさと切なさが見えたような気がした。

 

「実は妹も()()()んだけど」

「へえ?」

「絶対呪術高専には来るなって言ってきたから、今ちょっと喧嘩中」

 

 一瞬置いて、そうでしたか、と七海が相槌を打ち、私もそっか、と続いた。

 見える人間の方が大多数の家の出身としては、見えることが当たり前すぎて灰原の気持ちは想像するしかないけれど。それはきっと、灰原が「いいお兄ちゃん」てやつをやっているということなのだろう。ろくな兄弟がいない身としては、それは眩しくさえ見えた。

 呪術師には、まして「美作」には似合わないこんな感情を私が持ってしまっているのも、きっと私が本に埋もれて生きてきたせいなんだろうな、とそんなことを思う。

 考える前に、私の口は動いていた。

 

「じゃあ次はヘラくらい譲ってあげないとね」

「……え?」

「譲れないものは譲れないんだから、譲れるもんくらい譲ってあげなよ」

「……なるほど。美作さん」

「何?」

「貴方にも人を気遣う言葉が言えたんですね」

「お前を猫にしてやろうか」

「謹んでお断りします」

 

 即行で断ってきた同期に遠慮するなよ、と言葉を重ねようとすれば、その隣で噴き出したもう一人の同期。普段からよく笑う彼ではあるが、こうも肩を震わせて爆笑するのは珍しい。何なの、と言葉をかければ、ごめん、と目に滲んだ涙を拭いながら灰原はまた笑った。

 

「つくづく僕は運がいいなと思って!」

「出たよ意味不明のポジティブシンキング。灰原、これもうソース塗っていいの?」

「いいよ! 鰹節と青のりもね!」

「私がやりましょう」

 

 そうして完成したお好み焼きに舌鼓を打ちつつ、ついでに焼そばやもんじゃまでしっかり食べ尽くして、私たちは店を出た。

 私もそれなりに食べたつもりだが、さすが食べ盛りの高校生男子は食べる量が違う。二人は軽く私の倍ほどは食べていた。よく入るね、と言えば灰原はまだイケるよ、と笑う。その身体のどこにその量が入ってんだ。

 

「でも美作もよく食べるよね。健康的でいいと思うよ! 美味しそうに食べるし!」

「そりゃどーも。ところでまだ入るって言ったな? あそこにケーキ屋が見える」

別腹(デザート)ですか。構いませんが、テイクアウトだけのようですね」

「買って帰ればいいじゃん。何で?」

「貴方は甘いものを前にした五条さんの面倒くささを知らないんですよ」

 

 あの無類の甘党が、と忌々しそうに言う七海に笑った。そうか、買って帰るならお土産も必要か。私も硝子先輩にあまり甘くなさそうなのを買っていってみよう。

 まだ嫌そうな七海と、夏油さんは何が好きかなと上機嫌に言う灰原の対比が面白くて、少し笑いながら七海の肩を叩いた。それでも七海が、ちゃんと先輩たちの分も買っていくやつだということを知っている。

 

「ま、先輩たち任務に出てるかもしれないけどね」

「そのときは写メだけ送って私が食べます」

「地味な嫌がらせいいね。任務先で『俺もケーキ食べる!』って夏油先輩にわめく姿が目に浮かぶ」

「あはは、先輩たちは本当に仲が良いよね!」

 

 そんなどうでもいい話をする時間が、ただ楽しかった。

 

 *

 

「佳乃、目を覚ませ。夏油はクズだってあんなに念を押したのに」

「夏油先輩がクズなのはとっくに知ってますけど、それがどうかしたんです?」

「君たち、よくそれを私の前で言うね?」

 

 何でもない、昼休みのこと。

 七海や灰原が任務に出ていることをどこかで聞いたのか、硝子先輩は夏油先輩を引きずって私をお昼に誘ってくれた。五条先輩も単独任務に出ているらしい。

 もはや怒る気力もないらしい夏油先輩は、ため息をつきながら珈琲に口をつけていた。

 

「お前らおとといの夜中、寮の前で会ってただろ」

 

 佳乃をたぶらかしやがってこのクズ、と硝子先輩に肩を引き寄せられ、そういうことかと頷いた。見てたのか、と夏油先輩も苦笑する。

 

「任務で帰りが遅くなったときにたまたま鉢合わせただけですよ。ちなみに灰原と一緒の任務でしたけど、お腹がすいたってうるさかったのでコンビニに置いてきました」

「私は眠れなくて夜の散歩をしてただけだよ。それで少し立ち話をしただけさ」

 

 へええええ、と未だ疑り深い目をしている硝子先輩。心配して頂けるのは嬉しいが、正直その誤解は本当に嬉しくない。

 硝子先輩、と声をかけて続けた。

 

「夏油先輩との関係を疑われるとかお前には見る目がないと言われている気しかしないので、本当に勘弁していただきたいです」

「そう言われると何も言えねーわ。ごめん」

「今回ばかりは言い返さないでおくけど、君本当に私に辛辣だよね。私は何か気に触ることをしたかな?」

「日頃の振る舞いと、硝子先輩から伺った数々の所業の結果でしょうか。ああ、五条先輩に対してもこんな感じなのでご心配なく」

「硝子、何を言ったんだ」

「ありのままだよクズ」

 

 そういうことなら信じとくわ、とよしよしと頭を撫でられる。髪をすくように撫でられるのはなかなか心地いいものなのだと、私は硝子先輩の手で知ったような気がする。

 もう勝手にしてくれという様子の夏油先輩は、机に肘をついて疲れたように笑った。

 

「そういえば美作、貸してくれた本読み終わったよ。後で返しに行くから」

「あれ、早かったですね。ちゃんと寝てるんですか?」

「寝てるよ。短い話だったからすぐ読み終わっただけ」

「何だ、本の貸し借りまでしてんの」

「そのおとといの夜中に鉢合わせたとき、最近眠れないって話を聞いたので適当に貸したんですよ。眠れなくて外うろつくくらいなら部屋で大人しく読んでたらどうですかって」

「寝れない夜の課題図書、だとさ。文学作品なんて久々に読んだけど面白かったよ」

 

 確か渡したのは、井伏鱒二の『山椒魚』。身体が成長しすぎて岩屋から出られなくなってしまった山椒魚の話だ。悲嘆に暮れた山椒魚はすっかり拗ねて性格がねじまがり、岩屋に飛び込んできた蛙を腹いせに閉じ込めてしまったりする。悲劇は悲劇なのだが、ユーモアが聞いていて読みやすい短編小説だ。慣れてない人でもとっつきやすいものを選んだつもりではあったが、当たりだったらしい。

 しかし隈の感じからしてまだよく眠れていないようだから、二冊目も適当に押しつけよう。

 

「面白かったならよかったです。次の課題図書もお渡ししますね」

「課題図書と言われると読まなきゃいけない気がしてくるから不思議だね」

「言っておきますけど、夜ちゃんと眠れるなら読まなくていいんですよ」

 

 寝てるって、と本人は言うが、どうも疑わしい。薄く浮かんだ隈に、お昼だというのに手元には珈琲だけ。七海や灰原ならパンの山を積み上げるところなのに、この食欲のなさは普通ではないだろう。

 少し前にあった任務の失敗以来、何となく元気がないという話は聞いている。ひとの心配なんてする柄でもないが、一応ちょくちょく近接戦闘だの何だのを見てもらっている身としては、多少は気を使うべきなんだろうか。いやしかし、気の使い方なんて私が知るはずもない。

 

「その寝不足と食欲の低下、何か悩みでもあるんですか?」

 

 仕方ないのでどストレートに切り込むと、隣でぶふっと噴き出したのが聞こえた。佳乃のそういうところマジで好きだわ、と硝子先輩が肩を震わせている。私も好きです。

 ぱちぱちと瞬きした夏油先輩も、いっそ感心したという風に私を見つめた。

 

「悩みも何も、ただの夏バテだよ。けど、君もそういうことを言ったりするんだね」

「すいませんね、らしくなくて。けど夏油先輩、夏バテなんて言葉を信じるのはせいぜい五条先輩と灰原くらいですからね」

 

 人並み以上に体力のある人間が、例年通りの夏の暑さ程度にやられるものか。

 そう言うと夏油先輩はすっと困った笑顔をしまい込み、いつも通りの微笑みにつくる。その顔で本当だよ、と言われれば、確かにたいていのひとは納得するのだろう。どこまでもプライドの高い人だ。

 

「いやあ、でも後輩に心配されるのも悪くないものだね。後で悟に自慢しよう」

「深く追求したいほど興味もないので、そんな露骨に誤魔化さなくても大丈夫ですよ」

「……」

「佳乃、マジでいい性格してんね。好き」

「ありがとうございます。私もです」

 

 私は何を見せられているんだ、とぼやく声が聞こえたところで、視線を目の前のひとに戻した。その手の中で揺れている珈琲は真っ黒で、ちゃぷりと黒い波を作った。空きっ腹にブラックとは、この人大概自分をいじめるのが好きだな、と思う。

 脳裏に、暗くて狭い岩穴の奥でうずくまる山椒魚が浮かんだ。

 

「……夏油先輩って頭いいですよね」

「唐突に何だい?」

「いえ、だから余計なこと考えすぎるんだろうなって」

 

 考えて、考えて。深みにはまって、ループして、自分を追い込んで。そのくせこの人は、プライドが高くて人に頼るということを知らないようだから。いっそ灰原くらい馬鹿になるか、五条先輩くらいイカれきってしまえば、きっと楽だったろうに。

 自分が楽になる道を選べない、なんて愚かで不器用なひと。

 

「考えてばっかいると頭でっかちになって、岩屋から出られなくなっちゃいますよ」

 

 そう自分の頭を指さしながら言ってやると、そのひとは一瞬目を見開いて、私は山椒魚かい、と小さく笑った。

 

「そのときは君に蛙になってもらおうかな」

「死んでもごめんです。岩屋くらい自力で吹っ飛ばして勝手に脱出してください」

 

 そう言うと今日初めて、夏油先輩は声をあげて笑った。その様子を呆れたように見ていると、硝子先輩の手が褒めるようにそっと私の頭を撫でる。

 

「私の後輩がこんなクズにも気を使えるいい子で泣ける」

「やった褒められた」

「本当に君、硝子にだけはよく懐くね」

「硝子先輩は綺麗で優しいので好きです」

「この可愛い後輩め。あとでジュース奢っちゃる」

 

 よしよしと撫でる手が心地よくて目を細めると、犬みたいだなと失礼な感想を投げられる。術式が完成したら絶対猫にしてやるこのクズ。

 

「夏油先輩や五条先輩見てると、本当に私は同期に恵まれたなって思います」

「それに関しては正直心底羨ましい。チェンジしない?」

「嫌です無理です」

「本当に失礼だな。まあ灰原も七海も確かにいいやつだけどね」

 

 灰原はたまにちょっと心配になるけど、と言われてそれは同感と大きく頷いた。

 七海もそうだが、灰原は入学した時から全く変わらない。いつまでも元気で、暑苦しくて、朗らかで、夜の帳が下りていようと空気を読まずに輝き続ける太陽のような。どんなに胸糞悪い任務の後でも、灰原は変わらなかった。びっくりするような能天気馬鹿も、あそこまで貫けばイカれている。だからまあ、何があっても灰原がつぶれるようなことはないだろうとは思うけれど。むしろ、だからちょっと心配というか。

 呪い呪われ、殺し殺され、そんな物騒で残酷なこの世界では、「いいやつ」から先に死んでいく。

 

「……まあ、大丈夫ですよ」

 

 灰原も、七海も。不幸にもこの私と同期になってしまった以上は、そう簡単に死ぬような自由は与えてやらない。辛かろうが、生きてもらう。苦しかろうが、あがいてもらう。

 誰よりも何よりも、私自身の目的のために。

 

「ちゃんと守るので」

 

 まさかその言葉を、こんなにすぐ実行することになるとは思わなかったけれど。

 

 

 ***

 

 

 産土神は、土地の守り神だ。

 その土地で生まれたものを、たとえ相手がどこにいようと守護してくれるという、鎮守の神。地縁に基づいた神である以上、そこから生まれた「信仰」という呪いは()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その場所に至ったとたんに、跳ね上がった呪力。こちらから逃げまどっていた先ほどまでとは比べ物にならない圧力を、全身に受けた。

 

「……ろくに反撃もしないで一心不乱に逃げてる時点で、嫌な予感はしたよね」

 

 ただの逃げ足が速いだけの二級呪霊だと聞いていた。二級程度なら、私たち三人で充分事足りる。そう判断された、この任務。

 嫌な予感がしながらも、それを予測できなかったのはこちらの失態だ。呪霊にとって有利な土地に誘いこまれ、真っ先にその場所に飛び込んだ灰原の意識は、すでにない。

 

「七海、灰原の様子は?」

「急所は外れていますが、傷が深い。……早く手当てしてしないと、危ないでしょう」

 

 そう、と正面の呪霊を見据える。

 本来のカタチを取り戻したらしい呪霊は、大きく、醜く、まるで穢れの全てを詰め込んだようにどす黒い。これが「信仰」の成れの果て、人の「欲」の成れの果てか。まったく、人間ときたらどうしようもなく薄汚い。

 ニタニタと気色の悪い笑みを浮かべたそれは、ひどく愉快そうにこちらを見つめている。傷だらけの私たちを見て、愉悦に浸っているというところだろうか。自我が芽生え始めているレベルの呪霊なら、低く見積もっても一級相当。今の私たちが祓える相手じゃない。

 となると選べる道はひとつだけ。

 

「七海、まだ走れるよね」

「問題ありません。……美作?」

「灰原連れて、走って。助け呼んできて」

 

 もう握る力も薄れていた手から、愛用の呪具が滑り落ちる。切れ味のいい切っ先は、まっすぐに地面に突き刺さった。

 私の両腕も、すでに血に濡れている。うまく本も開けないが、準備動作の省略くらいは何とかなるだろう。大事なのは、私のなかにあるイメージだ。

 

「何を言っているんだ! 貴方も、」

「三人揃って逃げようとした時点で向こうも攻撃してくるよ。応戦しながらの逃走じゃ、灰原がもたない」

 

 祓う必要はない。この場にあれを留め続ければいい。七海が灰原を連れて補助監と合流し、最低でも一級以上の術師がここに来てくれるまで。先輩らのどっちかとか暇しててくれないかな、あのひとたちなら空を駆れる。借りを作るのは癪だが、命には代えられない。

 助けを待つまでの間、たったそれだけの間、私は意地を見せればいい。

 

「七海、私は自己犠牲の精神なんか持ち合わせてないよ。全員で生き残るために言ってる。いいからさっさと立って走れ」

「美作、」

「物語なら胸倉掴んでキスでもして黙らせる場面かな? 残念だけど今腕使えないんだよね。現実はそう上手くはいかないか」

「……それはただの死亡フラグでしょう」

 

 そもそもキスなんて絶対御免ですが、と言われ、私もだわと軽く笑った。

 灰原を抱え上げた七海が、立ち上がる。納得をしてくれたわけじゃないだろう。言いたいこともたくさんあるだろう。後味の悪さもすべて噛みしめて、それでも七海は立ってくれた。

 それが今は、ひどく嬉しかった。

 

「……死んだら殺します」

「熱烈だね。……待ってるよ」

 

 背後で七海が、地面を蹴った。それに反応するように呪霊はゆらりと動いたが、道を阻むように私も一歩前に出る。ぴたり、と呪霊は動きを止めた。

 イメージだ、と自分に言い聞かせる。

 自分の心象風景の中で本を開く。それを外に映し出す。呪力でカタチを作る。たった、それだけ。ただそれだけだ。

 自分の中にある「うつくしいもの」、それをただ魅せつけろ。

 

「《自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。》」

 

 夜の帳のうちで流れ始める、流星群。空を流れ、大地に落ちる。地に落ちてなお輝きを失わない星に、いつのまにか地面に伏していた大きな真珠貝。

 異変に気づいた呪霊が、周囲を伺い始める。その動きを、降り注ぐ星々が押しとどめた。

 

「《「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」》」

 

 星が降る。日が昇る。日が沈む。移り変わる空の色は、ひたすらに美しい。

 死の淵にある美しい「女」が「自分」に向けた、幻想的で切なる願い。所詮は夢。されど夢。夢なればこそ妖しく美しい世界に、この醜いものを閉じ込める。

 

「《自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。》」

 

 呪力という呪力をつぎ込んで、私だけの領域(ゆめ)を組み上げていく。

 百年。よくもまあ、そんな永い歳月を言ってくれるものだ。けれど、今はそれくらいがちょうどいい。百年だって千年だって、待ってやる。堪えてみせる。

 こんなところでは、死んでやれない。私の望む物語(もの)は、それじゃない。

 

「《「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」》」

 

 あれくらいで死なないよね、灰原。

 きっと今必死で走ってくれてるよね、七海。

 待ってるよ。ちゃんと生きて、待ってるから。

 

「……夏目漱石『夢十夜』より」

 

 術式が完成する。物語(せかい)が閉じる。動こうとした呪霊が、重力に押しつぶされるように大地に縛り付けられた。

 空間を維持しているだけで、滝の水が流れ落ちるように呪力が奪われていく。両腕の傷の出血もまだ止まっていない。ぽた、と地面に血が落ちると同時に、視界が揺れた。

 それでも、苦しいとは思わない。何故ってそう、目の前に広がる物語(せかい)がひたすらに美しいからだ。これを百年眺めていていいなんて、我ながら最高すぎる。

 そうでしょ、と地面に無様にもがく幸運な呪霊に目を向けた。どうやら大人しくこの風景を眺めるつもりはないらしい。嗚呼、無粋にも程というものがある。

 く、と自分の口角が上がるのを感じた。ここから先は、我慢比べだ。

 

「墓はここだよ産土神、大人しく座って待ってな?」

 

 百年の時が流れ、真白の百合が花開くまで。

 

 

 ***

 

 

 ふと、百合の香りが漂ったような気がした。

 しかしすぐに夢か、と思いなおす。百合の香りなどどこにもなく、漂っているのは消毒液の匂い。動かない瞼を無理やり動かして、目を開けた。どこかで見たような天井が目に入る。ああそうだ、高専の医務室だ。

 す、と息を吐いたところで、両側の気配に気づく。私の眠るベッドに頭を伏せるようにして眠る、七海と灰原。深く寝入っているのか、静かな寝息が病室に響いている。

 何してんだこいつら、と呆れたところで、同じ部屋にまだ三人の気配があることに気づいた。

 

「……せ、んぱい?」

 

 喉がからからで上手く声が出せなかったが、それでも気づいてくれたらしい三人はベッドを囲んでいたカーテンを開けて、こちらを覗き込んだ。

 

「目が覚めたんだな佳乃。身体は?」

「びっくりするくらいうごきません。……しゃべりにくい……」

「限界ぎりぎりまで呪力使った後遺症かな。それくらいで済んでよかったよ」

「ったく、俺が助けに行ってやったんだぞ、感謝しろよ。自分より格上のやつ足止めして二人逃がすとかかっこつけやがって」

 

 ああ、五条先輩が来てくれたのか。そういえば意識が途切れる直前に、白い光を見たような気がする。あれは先輩の術式だったのだろうか。

 よかった、と顔に触れる硝子先輩の手に、優しい呪力を感じた。

 

「せんぱ、そこのばかは……」

「ああ、灰原? 出血はひどかったけど、間に合った。とっくに治したよ。一応安静にしてろとは言ったんだけど、安静にしてればどこにいてもいいですよねって聞かなくてね。寝ている女性の部屋にいるのは、とか七海も葛藤してたけど、結局二人ともずっとここにいた。ちなみに任務に出てた日からはもう五日経ってる」

「……むりやりひきずってでもねかせといてくださいよ……」

「そうしようかとも思ったんだけど、……あんな必死な顔見せられちゃね」

 

 相変わらず、仲が良いね、と。

 そう穏やかに響いた夏油先輩の声に、瞬きをひとつ。そうか、これ、仲が良いって言うのか。なんだか妙な感じがして、視線を二人に向けた。顔は見えないが、相変わらず深い寝息が聞こえてくる。

 はあ、と五条先輩がわざとらしくため息をついた。

 

「美作、あれ、領域展開か?」

「あれって……ああ、あれは……どうでしょう。()()()くらいじゃないですか」

「まー確かに中途半端でぶっさいくで雑だったな」

「うるせーんですけど」

「けど、あれが完成してりゃ、俺が行く必要はなかった」

 

 そう言ってふい、と顔をそらされる。必要以上に足りない言葉の裏に、小さな温かい、柔らかいものを感じた。……驚きすぎて鳥肌が立ったと言ったら怒られるだろうか。

 硝子先輩は小さく噴き出し、夏油先輩は愉快そうに肩を揺らす。

 

「すごいね美作、悟にそんなこと言わせるなんて。『よくやった』だってさ」

「言ってねーけど!?」

「病室で大声出すな、五条。二人が起きる」

 

 う、と七海が身じろぎをした。ぴたりと先輩たちが自分の口を押さえる。再び深い寝息をし始めたのを聞くと、そろってふうと息をついた。そんな様子が面白くて、小さく身体が揺れた。まったく、身体が動きにくいと笑うのにも一苦労だ。

 改めて五条先輩に目線を向ける。ようやく、少し口が動くようになってきた。

 

「五条先輩」

「ん?」

「助けて頂いてありがとうございました」

「……おう」

「次は先輩が来る前に片づけます」

 

 そう笑って見せると、五条先輩は一瞬きょとんとした顔をして、それから先輩も笑った。生意気、と言葉を落とすことを忘れずに。

 

「つーか俺が行かなくて済むようにしろよ」

「そうですね。もっと強くなります」

「はは、いい心掛けだ」

 

 もっと、もっと強くならなければ。

 わかってはいたが、今回のことでさらに強く実感した。弱いままでは、私の目的は果たせない。もっと強くならないと、私の欲しいものは得られない。

 まずはちゃんと、どんな事態に追いやられても生き残れるようにならなければ。

 

「いつまでも先輩方を『最強』のままにはしておきませんよ」

 

 素質がどうとか、術式がどうとか関係なく。

 そう大口を叩いてみれば、五条先輩は言うじゃん、と愉快そうに笑ったが、夏油先輩は何故だかひどく驚いたように見えた。うろたえたように瞬きが増える。

 夏油先輩、と言いかけたところで、跳ね上がるように右側に見えていた黒い塊が動いた。がばっと身を起こした灰原は、そのまま私に目線を向ける。真っ黒の黒曜石と目が合った。直前まで眠っていた脳を覚醒させるように頭を振って、灰原は改めて私をじっと見る。

 灰原、と思わず名前を呼ぶと、じわりとその大きな瞳に涙が浮かぶ。

 

「七海いいいいいいいい美作が起きたあああああああああ!!」

「うわ、うるせっ」

「灰原、落ち着いて、」

 

 止めにかかる先輩たちと、もう諦めたとばかりに自分の耳をふさぐ硝子先輩。是非とも私の耳もふさいでほしかったな、とそれを見ながら思う。とはいえ、これも私の自業自得か。

 先輩たちに口を押さえられてようやく黙った灰原に、生きてるよ、と苦笑して言う。黒曜石から、透明な雫が一筋つたった。まったく、ひとの生存を喜んで泣けるような奴が、まさか呪術師の中にいるなんて。

 どこまでも善良なまともな同期に、ただ私は笑った。

 

 ちなみにこの後すぐに七海が目を覚まし、灰原はもう一度わめき騒ぐことになる。ごめん灰原、やっぱ耳が痛いのでもう少し静かにしてほしい。

 

 

 ***

 

 

「七海はさ、どういう物語が好き?」

 

 数日の療養を経て、私の体調は完全に戻った。もともと怪我は硝子先輩が完璧に治してくれたし、呪力は休めば体力とともに回復するものだ。身体に残った堅さはこれから数日かけてほぐすとして、もう身体に問題はない。

 それなら快気祝いと反省会しよ、と言ってきかない灰原に折れて、仕方がないので今晩は焼肉だ。帰り際に先生に呼ばれた灰原が戻るのを、私たちは校門でぼんやりと待っていた。

 そこでぼそりと七海に礼を言われ、口をついて出たのがその言葉だった。

 

「は? ……どういう物語、というと?」

「いろいろあるでしょ、悲劇も喜劇も。重苦しい物語とか、逆にライトで気楽なやつとか。ハッピーエンド、バッドエンド、メリーバッドエンドもあるよね」

 

 私はどれも好きだけど、と言いながら、校門の影に隠れたまま空を見上げる。盆も過ぎて秋が近づいてきたとは言え、夏の西日はまだ強かった。

 

「悲劇も好きだよ、徹底したバッドエンドにはそれにしかない美しさがある。けどさ、それはやっぱ、ただの読み手の立場だから言えることなんだよね」

 

 物語の中のキャラクターからしてみればたまったものじゃない、不幸の連続。ようやく掴めたと思ったら奪われる幸せ。美しい物語をつくるために、理不尽という理不尽を叩きつけられるキャラクターたち。

 所詮はただの紙の上の虚像なのだから、そんなことを考えても仕方がないのはわかっている。わかっているが、ふと不幸に沈む彼らに感情移入してしまったとき、私は思った。

 私はそんなの、絶対に嫌だ、と。

 

「人生は物語、なんてクサい言い方だと思うけどさ。私は私の物語を、精一杯幸せなものにしたいって思った。解釈次第では淀みが見えちゃうようなものじゃなくて、誰の目から見ても幸せだって言えるような、最高に楽しいやつ」

 

 七海は、突然始まった私の自分語りを、ただ黙って聞いていた。

 別に、理解をしてほしいというわけではない。傲慢が過ぎるのも自覚している。けれど七海は、こういう話を茶化すようなやつではないと知っているから。

 

「生涯通して幸せに生きて、最期には何ひとつの妥協もない完全無欠のハッピーエンドを迎えたいわけ。そのために、二人には生きててもらわないと困るの」

 

 同期の悲惨な死なんてエピソードは、物語のスパイスにしても重すぎる。私だけでなく、私の周囲の全ても幸せでいてもらわなければ「完全無欠のハッピーエンド」は成立しない。

 別に、ずっと私の傍にいろという話ではない。ずっと笑っていろという話でもない。ただ、私の目の届くところでは、苦しまないでほしい。嘆かないでほしい。死なないでほしい。そのためになら私は、何だってしてみせる。

 どこまでも自分勝手? 上等だ。私は私のハッピーエンドのために生きている。

 

「だから、足止め買って出たのは私のため。あれが助けたって言えるのかもわかんないけど、少なくとも礼を言う必要はないよ。私が私のためにやった勝手だから」

「……それでも、貴方のおかげで生き残ったことには変わりありませんよ」

「七海ってその辺真面目だよね。言ってなんだけどその性格、この世界だと早死にするよ?」

「死にませんよ。少なくとも私は、貴方の目の届く範囲では死ねないようですし」

 

 そうでしょう、と僅かに優しい視線を向けられる。確かに言い返す言葉がなくて、そりゃそうだ、と笑うしかなかった。

 死なせはしない。私の目の届く範囲では、絶対に。

 

「とりあえず同期やってるうちは守ってあげるよ、七海」

「言っておきますが、そう何度も貴方に守られるつもりはありませんよ。私も、灰原もです」

「うっわ心強い。私も五条先輩には大口叩いちゃったし、早く強くなんないとね」

 

 そしてそのとき、噂をすれば影というか。

 二人とも~、と手を振りながらこちらに向かってくる太陽の後ろに、いつも通りのお三方。小さく手を振ってくれる硝子先輩に、楽しそうに笑っている夏油先輩、めんどくさそうに頭をかいている五条先輩。

 正直、何かそんな予感はしていた。

 

「今日の焼肉、五条さんが奢ってくれるって!」

「言ってねえぞ灰原ァ!!」

「ケチケチすんなよ五条、安いもんだろ」

「そうだよ悟、せっかくの快気祝いなんだから。こういうときは年長者が奢ってあげるものだよ」

 

 じゃあお前らも払えよ、と言い返す五条先輩に、都合の悪い言葉は聞こえないらしいお二方は知らんぷり。それを見てさらに喚く先輩に、思わず噴き出した。

 とりあえず、と隣に立つ七海に笑ったまま声をかける。 

 

「じゃあ今日は食べ放題いらないね」

「ええ、高い肉は食べ放題コースに含まれませんからね」

「やったー高い肉!」

「マジで可愛くねえ後輩だなお前らも!!」

 

 ごちそうさまです、という三人分の声が、細長く伸びた影に吸い込まれる。

 夕暮れの道を歩きながら、ふとある小説のタイトルが頭をよぎった。つい癖でその文章を頭の中でなぞろうとして、やめる。それは所詮、私ではない誰かの物語。私が紡ぐそれは、もっともっと、どんな名作よりも、幸福な。

 

「今日めちゃくちゃお腹すいてるからどれだけでも食べられそうなんだけど、どうしよう、ちょっとは遠慮すべき?」

「何を言っているんですか灰原、預金ごと五条さんを身軽にしてあげましょう」

「それでも足りなかったら夏油先輩の預金があるよ、遠慮せずにいこう」

 

 こんなどうでもいい会話をひたすら詰め込んだような、愉快で痛快な物語だ。

 

 




参考文献・引用元

梶井基次郎『桜の樹の下には』(青空文庫)
谷崎潤一郎『刺青』(青空文庫)
夏目漱石『吾輩は猫である』(青空文庫)
梶井基次郎『檸檬』(角川文庫)
井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)
夏目漱石『夢十夜』(青空文庫)

文豪の皆様のお力をお借りいたしました。
ありがとうございます。
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