控室でパーカーを脱ぎ捨て、タオルで身体中の汗を拭う。
その汗は、妙に気持ち悪くて、ひんやりしていた。
「オレットさん。お疲れ様です。本日、チャレンジャーは来られませんので、ゆっくりお休みください」
「えぇ……ありがとう」
ジムトレーナーが控室の扉を閉めると、スミレは大きな溜息をつく。
毎回、毎回、チャレンジャーに勝利すると異様に疲れる。
ポケモンバトルは、ポケモンだけを戦わせるものと思われる事も多いが、負担はポケモンもトレーナーも大差ない。トレーナーは次から次に移り変わる盤面を一瞬のうちに理解し、勝利の為の一手をその場その場で考えなければならない。
ポケモンは身体の、トレーナーは脳の負担が大きい。互いに足りない部分を補い合い、フィールドで共に戦っているのだ。
汗で下着までぐっしょりだった。ジムリーダーは公の場で注目を浴びる存在でもあるため、美容とか健康とかには、人一倍気を遣わないといけない。
「ぬめぬめ」
ヌメルゴンの進化前、ヌメイルがロッカーの中から姿を現す。その後ろには、さらに進化前であるヌメラが列を成していた。
「あぁ……邪魔だった?」
「ぬめぇ」
ヌメイル達は、その小さな身体を使って、オレンジジュースの瓶を持ってきてくれていた。
彼女がそれを手に取ると、にぱ、と笑ってそれぞれに飛び跳ねた。
「ありがとう。君たちは優しいね」
「ぬめぇる」
彼らの頭を撫でてやる。彼らは戦わないが、マスコット的存在としていつも何処かに潜んでいる。
頭から手を離すと、ぬめぇっとした液体が思い切り糸を引いた。
「……」
苦笑を浮かべるスミレを見て、ヌメイル達は同じ方向、角度に首を傾げた。
◇
郊外にある自宅へ帰還したスミレは、シャワーを浴びて寝間着に着替えると、ソファへスマホを持ったまま倒れた。
何連勤くらいか分からない程に、ここには帰ってきていない。久々の自宅の匂いに、妙な安心感を覚えていた。
趣味に勤しもうとしても、疲れて身体が動かない。けれどスマホを気力はあるというのが、何とも憎たらしい。
SNSを開き、記事が目に止まる。
『シュートシティのジムリーダー。ヒイロ・スカーレの仕事の流儀』
見慣れた顔だった。スーツで着飾った、朱色の髪と瞳を持つ世間一般で言う男前な奴。
ヒイロ・スカーレ。最近設置されたばかりのシュートジムのジムリーダーを務める男だ。
「胡散臭い記事にも載るのね……」
嘆息しながらスマホの電源を切り、腹の上に置く。
自分なりに、恥の無い生涯を送ってきたつもりだが、どうも報われる気がしない。このまま生きていて、許されないような気がしてならないのだ。
何か、取り返しの付かないことを、数多も犯してしまっているような。そんな意識が、来る日も来る日も己の脳内を酷く蝕んでくる。
眠る事だけが、唯一の至福の時。眠っている間は、こちらの世界に意識は無い。意識が無ければ何も感じる事もないし、苦しむ事だってない。
ウトウトしていると、右頬に小さな痛みを感じて意識が一気に現実へ引き戻された。
「バァン」
ボールから出していたオンバーンが、頬を甘噛みしたらしい。触ってみると、歯型も僅かに残っている。
「オンバーン。噛まないでって、子供の時から言ってるでしょ」
「バァン……」
少し強めに躾けると、耳をしょぼんとさせて小さく鳴くのも、子供の時から何も変わっていない。
多分、構ってほしいから、仕方なくやっているのだろう。
「……はいはい。ごめんね。先に寝室行ってて」
「バン?」
「わかった。一緒に寝るから、待っててね」
そう言ってやると、オンバーンは嬉しそうに寝室へ歩いていった。
しばらくしてから寝室に行ってやると、オンバーンは翼を広げ、大喜びしている様子だった。
翼を用いて、スミレの華奢な身体を覆い被した。首元にある白い毛は、見た目以上にふさふさで、こうされるといつも顔に当たって心地がいい。
「もう……どうしたのかしら」
普段は、こんなに甘える性格ではない。もっとひかえめで、どちらかと言えばクールなポケモンだ。
そんな彼が主人を抱きしめて甘えてくるなど、病気にでもなったのかと心配してしまう。
オンバーンを引きずりながら、ベッドに座る。膝上に顎を乗せて、喉をくるくる鳴らしている。都合の良い時だけ甘えてくるレパルダスみたいだ。
ぐるぐる、ぐるぐる。しきりに音を立ててアピールしてくる。
疲れているというのに、中々寝れなくて、だんだん何かが募ってくる。
「そろそろ、寝るからね」
彼を引き剥がし、両頬を目一杯揉んでやってから、スミレはベッドへ寝転がった。
「いい。起こしたりしたら駄目よ。大人しく寝ててね」
「クゥン……」
オンバーンは翼で自身を覆い、悲しそうな目だけを覗かせた。
一際悲しそうな声で鳴いたが、スミレは構わず照明を落とし、ベッドへ倒れ込んだ。
シーツを口元まで被り、そっ、と瞳を閉じる。
意識がだんだんと夢の世界へ引っ張られていくのだが、何かが邪魔をしてそれを拒んでくる。
何度も何度も、瞼を開いては閉じを繰り返し、中々眠れなかった。
身体は疲弊しきっているのに、眠れないとなれば、今後の仕事に影響が出てしまう。
けれど、眠れないものは眠れない。
理由は分からないが、とにかく意識を落とすことができないのだ。
スミレは、ふーっと、深呼吸を始める。
息を吐き出すと同時に、何かが込み上げてきて、吸って吐くだけの行為なのになぜだか辛かった。
◇
翌朝。ジムでの業務も昼休憩の時間に入る頃。
スミレはデスクの上で死にかけていた。
「ス、スミレ様。大丈夫ですか?」
そんなトレーナー達の気遣いの言葉も、彼女の耳には入らなかった。
一睡もできた気がしない。身体が鉛みたいに重く、頭が全く回らない。視界が常にぐらついている。
「スミレ様。お疲れのようですから、もう、お休みになられてください」
「……え。でも」
「そのようなお体で無理をなされてはいけませんよ。皆には伝えておきますから」
「ぁ……あぁ。ありがとう」
彼の掌は肩に乗り、ぽんぽん、と優しく叩いてきた。
◇
「あら、スミレじゃない」
行く宛も無く、コーヒーを啜りながらカフェでぼーっとしていると、聞き覚えのある声がして視線を寄せる。
そこにいたのは、バウタウンのジムリーダー、ルリナだった。露出度の高い服は流石に着ておらず、赤いハイネックニットに細い脚によく似合うジーンズを着ていた。
彼女は許可も取らずスミレの席に座り、カフェラテを飲み始める。
「どうしたの、疲れているようだけど」
「……別に」
ルリナとは、ジムリーダーになった時から一緒に遊びに行くくらいの仲だ。いわば友達。彼女は女優とジムリーダーを両立しているからか、近頃忙しくて中々会えていなかったが。
「“アレ”の事。考えてたの」
「……」
『いよいよ間近に迫って参りました。ヒイロ・スカーレ主催の大会。彼の手により集められた腕よりのトレーナー達の、熱い戦いが見逃せません!』
テレビのアナウンサーが、興奮気味に語っている。ガラルの人々は戦闘狂だからか、こういう話題には目が無いのだろう。
確かにスミレは、この大会に呼ばれた。しかも一回戦から主催者とのバトル。一番盛り上がるやられ役を演じねばならない。
「スミレならヒイロくんにだって勝てるでしょ」
「いや……勝てるか勝てないかの問題じゃなくてさ」
ヒイロ・スカーレは、最近完成したばかりのシュートジムのジムリーダー。チャンピオンを目指すトレーナーにとって、最後の最後の関門。実力は凄まじいものだ。
そんな彼だが、スミレにだけは何度か負けている。公の場じゃないにしても。だから勝てないわけではない。
でも、ヒイロの人気は絶大だ。しかも女性人気が。
女性ファンからしたら、ヒイロを負かせる女ジムリーダーなんて、憎たらしくて仕方ないだろう。
「なぁに、反感気にしてるの?」
「だって……」
「ガツンとやればいいじゃない。せっかくの晴れ舞台なんだからさ、楽しまなくちゃ」
出たくも無いのに呼ばれ、何の楽しみもないと思っていた。
けれど、そこに楽しさを見出すのが、彼女のやり方らしい。
「あの子、久々に見たいな」
「……あぁ」
スミレはそう言われると、カップを皿に置いて、しばらくの間目を伏せた。
◇
「きゃーっ、君やっぱり凄く可愛いー!」
「バァン!」
近場にあったトレーナー用のバトルフィールドにて、ルリナがオンバーンにじゃれついている。バツグンだから止めて欲しいのだが。
オンバーンは人懐っこいからか、他人によく好かれる。特にルリナには、随分に気に入られているようだった。
「ねぇ、もらっていい?」
「駄目」
当たり前だ。自分の所から離れれば、その子はきっと寂しくて死んでしまうだろう。
「久々に戦わない? 一対一でさ」
「……こんな町中で?」
「いいじゃない。ほら、早く準備して」
渋々、スミレは承諾する。
オンバーンをフィールドの端に移動させる。
僕を使って、と言わんばかりに見つめてきたが、今回は審判役に回ってもらう。(役に立たないだろうが)
オンバーンの耳から、高音が発されると、二人は構えたボールを一斉に投げる。
「行くわよ、グソクムシャ」
「頑張ろう、サザンドラ」
ルリナが独特な投球で繰り出したのは、強固な甲殻を持つグソクムシャ。
対するスミレは、三つの首を持つポケモンのサザンドラだ。
互いに悍ましい気迫を放ちながら、鋭い目つきで睨み合っている。
「グソクムシャ! であいがしら!」
「っ……避けて、サザンドラ」
グソクムシャのであいがしらは、場に出てからすぐ放つと強力になる技。しかも、サザンドラには抜群だ。
振るわれた強靭なる鉤爪を避けて、サザンドラは反撃の悪の波動をお見舞する。
空気を押し上げながら直進していく悍ましい波動。グソクムシャは当たる寸前で爪を振るい、それを打ち消した。
ジムチャレンジャー用に調整しているからか、サザンドラ本来のパワーが発揮されていない。
「まだまだ、アクアブレイク!」
「躱しながら あくのはどう よ」
グソクムシャは全身に水を纏わせ、物凄い勢いで突進してくる。
サザンドラは身体を翻らせながら回避し、悪の波動で牽制。グソクムシャはその攻撃で怯み、体勢を崩した。
「サザンドラ、りゅうのはどう」
三つの首から放たれる波動が、龍のようにうねりつつグソクムシャを捉える。
初動の波動は地面を貫き、グソクムシャは飛び上がって攻撃を仕掛けようとしてくるも、地面から奇襲を仕掛ける龍の波動に脚を穿たれ撃墜させられる。
未だうねりを見せる波動は、物凄い勢いでグソクムシャへと直進していく。
攻撃は命中。装甲を突き破り、大ダメージを与えた。
そろそろトドメを刺そうかと思い、サザンドラは奴に近づく。
すると、よろめいていたグソクムシャが不穏な動きを見せてくる。
「グソクムシャ、シザークロス!」
まだ体力が残っていたらしく、いきなり立ち上がったグソクムシャは、地面を削り取りながら強烈な斬撃をサザンドラの身体へ叩き入れる。
大きくふっ飛ばされたサザンドラだが、空中で立て直し、再び攻撃体勢を取る。
「サザンドラ、もう一度 りゅうのはどう よ」
彼の口から放たれる、蒼きエネルギーの集合体がグソクムシャに迫る。
素早い身のこなしで、次々に降り掛かってくる波動を回避しながら地面を蹴り上げ、上空のサザンドラに向かってタックルを仕掛けた。
凄まじい勢いのタックルは、見事サザンドラに命中し、天空にいた彼を地面まで叩き落とす。
仰向けになった彼は、もう動ける状態では無くなり、バトルの行方は、ルリナの勝利という形で終わった。
「……」
サザンドラをボールに戻し、丸い球体越しに優しく撫でてやる。
ふぅ、と一息つきながら清らかな汗を拭い、艷やかな黒髪を靡かせるルリナ。
また、変な冷や汗が吹き出て服を内側から湿らせてくる。
彼の入ったボールをぎゅ、と握りしめる。
寝不足のせいか、思わず倒れそうになってしまった。