楽しみに待っていてくれた方々、大変申し訳ありません。
仄かにいい匂いを漂わせる湯気が、ほかほか次々に上がっていく。
その発生源は、特製のビーフカレー。ヤドンの尻尾を乗せて、ボリュームたっぷりであった。
カンムリ雪原に到着した二人は、宿に泊まり、夕食を摂っていた。
思った以上に自分は料理ができなくて、彼は料理が大の得意でという事だけは、ここに到着してから今に至るまでの僅かな時間でも完全に理解できた。
スミレが無駄にしてきた食材は、異様な色に変色している。形容し難いが、彼のハッサムがそれを見ただけで切り刻むくらいには酷い色である。
「スミレちゃん。もう気にしないでさ。早く食べて、感想を聞かせてくれないかな? 初めて作ったから、少し自信がないんだ」
唇を尖らせるスミレは、目の前に置かれたビーフカレーをスプーンで掬い、口の中へ入れた。
数回咀嚼すると、濃厚な味が口いっぱいに広がり、米や具材の良さが最大限に引き立った。食べる手が止まらなくなり、彼の視線などお構いなしにどんどん食べた。
「はは、素直なんだなぁ。スミレちゃん」
「すごく美味しい……どうやったらこんなに上手く作れるの?」
「これでも沢山練習したんだよ? ビーフシチューから始まり、カレーにも挑戦してみたんだ。こいつらには、何度美味しくないシチューを食べさせたことか」
ヒイロは笑いながら、ハッサムの胸元をコツコツと拳で叩く。じとっ、とした目でこちらを見つめている事に、彼は気づいていなかった。
彼はきっと、料理の才能が、少しながらあるのだろう。反対に自分にはそう言った類の物は一切無いのだろう、とスミレは思う。
幼い頃から、良い学校へ通うため、大して得意でもない勉強を嫌でもさせられてきたせいか、そのような才能を潰してきてしまった。いや、それよりも、元からそんなもの持ってはいないのか。
この空っぽな人間に、一体何があるというのか。
◇
「オンクルル……!」
鳥のさえずりの代わりに、オンバーンが耳元
耳元で囁いた声が、寝起きの鼓膜をゾクゾクと刺激した。
「ちょっと……驚かさないで」
「クルル!」
「起こしてくれたのね。ありがとう」
寝坊してしまうのが悪い癖だ。こうやって起こして貰わなければ、ろくに早起きする事すらままならない。
彼の額を、優しく撫でてやった。寒いこの地域では、彼の暖かみは貴重な熱源であった。
「さぁ、ボールに入ってね」
「クルル!」
モンスターボールを近づけると、おでこを引っ付けて、必死にそれを拒んできた。近頃は毎朝これである。幼体の時からきちんと躾けてきた筈なのに、大人になった今でも我儘を言いたい放題だ。
自分は子供の頃、どうやって躾けられてきたかと言えば、記憶がない。忘れたとかではなく、躾けられた記憶がない。
ひたすら勉強、勉強の毎日で。
我儘を言う暇すらも、躾けられる暇すらも無かった。
「いい加減にして!!」
響く怒声は、彼の大きな耳の中で渦を巻きながら吸い込まれていく。オンバーンの首がみるみるうちに下がり、電池切れした玩具のように動かなくなってしまった。
そのうちに彼をボールに納めて、身支度を始めた。
今日は雪原を実際に歩く為、生半可な学校では命に支障が出る。
赤いぶ厚めの布で作られた専用の探検服。たかが旅行でこれはやりすぎだとも思うかもしれないが、もし猛吹雪に見舞われた時、昨晩までのような服だったらあっという間に体温が奪われて凍死してしまう。
この服でさえ長居は危険だと言うのに、セーターとコートで出歩くなど自殺行為である。
「スミレちゃん?」
「……ん? どうしたの」
「いや、なんか大きな声出してたからさ」
「あぁ……恥ずかしいんだけど、躾よ」
「オンバーンの?」
ヒイロに聞かれて、彼女は俯きながら首を縦に振った。
彼とハッサムは、いざこざはあれど互いに硬い絆で結ばれているように見える。でなければ、最後のジムリーダーなんて務まらないだろう。
「躾かぁ。うちも、ストライクの頃はいたずら好きだったから、往生したよ」
「……あなたのハッサムは、大人ね」
「そういうのは性格だよ、性格。大人っぽいとか子供っぽいとかじゃなくてさ。それぞれで決まってる、簡単には変えられないものさ」
ジャケットを羽織った彼は、やれやれと言った感じでハッサムの入ったボールをバックへ押し込んだ。
彼女からすれば、ヒイロも大人っぽかった。外面だけ大人ぶって、中身はまだまだ子供である自分に比べれば、よっぽど。
それが性格で、簡単に変えられないものだと言うのならば、何故大人たちは皆、大人になれ大人になれと言うのだろうか。
――分からなかった。言われたこともない。ある事といえば、勉強しろ、いい学校に行け、だった。
自分は誰かを育む役に向いていないのではないかと、扉を開け身体が芯まで凍りつくほどの冷気に触れた瞬間、僅かながらにそう思った。
◇
「ここが鋼鉄の神殿だよ」
「ふぅん……」
ヒイロに連れられるがまま、カンムリ雪原のおすすめスポットとやらを巡っていた。
灰に塗りたくられたレンガ造りの神殿。冷たく、仄かに血管が痺れるような空気が中から流れ込んでくる。
中に入るか聞かれたが、不気味だった為やめておいた。なにより多分、何もないだろうから。
しばらく歩いていると、しんしんと降ってくる雪が多くなってきた。時折頬に降ってきて、自分の体温で無慈悲に、儚い結晶を液体へと逆戻りさせてしまう。
「吹雪が強まるようだったら、暖を取る方法を考えないとね」
「バクガメスなら温かいわ。心配いらない」
「心強いなぁ。ふふ、やっぱり旅行は下手に多人数で行くよりも、二人で行ったほうが楽しいや」
ふと呟いたであろうと彼のその言葉には、確かな“黒”が見えた。
彼にも彼なりの、苦労や悩みがあるのかと思うと、心がすっと軽くなった気がするが、気のせいだろう。
彼の悩みと自分の悩みは、恐らくベクトルが全く違う。でなければ、こんなに日常生活の態度に差が出る筈がない。きっと、彼の悩みなんてかわいいものだ。
「おっ。見てスミレちゃん。向こうには居ないニドクインとニドキングだよ」
「ほんとだ」
茂みの中に向き合って立つ二体のポケモン。紫の方はオスのニドキングで、水色の方はメスのニドクイン。どちらも凶暴な性格のため、近づくのは危険だ。
雄雌同士でじゃれ合っているのだろうか。時折口先をくっつけたり、身体を擦り付けたりと濃密なボディタッチをしているように見える。
野生のポケモンもこうして観察してみれば、意外な一面が垣間見える事も少なくない。
かくいう彼女らも雌雄同士。別にそういう気は一切ないが、もし、もしもそういう関係になったとしたら、どんな道を歩むのだろうか。
両親は仲が悪く、まともに会話している様子を見たことがない。要するに、彼女には雌雄同士の付き合いに良いイメージが微塵も存在していなかった。
雌雄同士でしかできない事だって、彼女は体験したことはない。勉強はろくにできないくせに、そういう知識は豊富だ。
「……スミレちゃん?」
「あっ……ごめんなさい」
自然と彼の方を凝視してしまっていた。
何故だろうか。無意識に彼の方へ視線が向いてしまった。
「さぁ。ここから少ししんどいかもだけど、頂上はきっと絶景だよ」
これからしんどくなるのに、凄く元気だ。
ステージでも、本来、こんなに穏やかな性格なのにも関わらず、スタジアムに来る大勢の観客の為だけに偽りの自分を被る。
それなのに、彼は輝いている。嫌いな自分を隠す為に、沢山の皮を被り、我慢している自分に比べて。遥かに。
彼はどうしてこんなにも、輝けるのだろう。