ウマ娘に責任を取らされる成人男性   作:もちもち大根

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サイレンススズカ編

 

 暦は2月の上旬。痩せ細った木々が桜の芽吹きを待ち、乾いた寒風が地を這う。今年の寒さは例年よりも強く、その期間も長引くらしい。日中の気温が高い時間帯であっても、外に出るなら厚手の上着を重ねることだってある。屋内であれば幾分か過ごしやすくても、暖房器具のスイッチが切れている朝などは屋内も野外と大差ない。それこそ現在の職場などは毎朝冷凍庫のような寒さで俺を出迎えるのだ。

 

 校舎二階の最奥、たった一人に与えられた狭い一室の職場は隣接した部屋が無い。そのため、常に強い寒気が各方面から壁を伝わり、暖房が止まればすぐさま極寒に様変わりだ。部屋を暖め、温かい飲み物を淹れる、それが仕事前ルーティンとして身に染みついてしまった。これまで年齢の若さで耐えていた寒さも、20代中盤に入ったことで難敵へと姿を変え始めている。半袖でグラウンドを走っている生徒たちを羨ましく感じ、自分の加齢と不健康さに嫌気が差す。

 

 そんな気持ちと仕事の疲れを切り替える為、新たなカフェインを求めて席を立つ。部屋の端のミニキッチンに足を運び、天井につけられた戸棚からインスタントの珈琲缶を取り出す。カフェインの過剰摂取を心配した上司から一日の制限は三杯までと言われている。その制限を超えようとすると、その上司がどこからともなく跳んできて怒られるので、残念ながら今日はこれが最後の一杯だ。お湯が沸くまでの間にデスクワークで固まった背筋を伸ばすと、骨の関節部から不健康が音を鳴らす。成人病と適度な運動の必要性を頭の片隅に追いやりながら先ほどまで珈琲缶と同じものが入っていたカップを水で漱ぎ、再び珈琲粉を分量より少し多めに投入。沸騰したお湯を注ぎ、眼鏡を曇らせながらカップをかき混ぜる。部屋に充満する渋い香りが疲労感を忘れさせてくれる。安物であっても十分なリフレッシュ効果だ。

 

 気温に左右される部屋などと悪態をついたが、それを補う利点はいくつもある。部屋に一人だけというのは仕事に集中できるし、邪魔なものが無いから珈琲の匂いは長時間保たれる。それに、通常ではレース場のみでしか見られない生徒の走る姿が拝める。慣れてしまえば校舎端の立地も楽しめるのだ。転職して二回目の冬を迎え、居心地の悪かった狭い部屋は今や自分の城のような気持ちだ。

 

 それに仕事にも似たような感触を得ている。学内のレース結果の管理、トレーニング施設使用の申請管理、行事の予算・運営、その他もろもろ。最初は業務の種類と多さに慣れず残業が当たり前だった日々。それも見違えるように頻度が減り、時間に余裕が生まれ始めた。天職とはいかずとも自分に合っていると言える。

 

 ただ、どうしてもこの春先は仕事量が多くなり、少々タイトスケジュールに追われている。日常の業務に加えて、来年度の新入生のために教科書や制服等の発注、寮の部屋管理、入学式の計画書のチェックなど。これまた種類は多く、量もそれなり、そして期限が短いものばかり。学園職員としては嬉しい悲鳴を体現しているだろう。……しかし、嬉しい悲鳴と呼ぶ仕事があるのなら、悲しい悲鳴と呼ぶ仕事もあるのが現実の難点だ。

 

 辛い気持ちを珈琲で流し込み、デスク上の棚から一つのファイルを手にする。その中には針具で留められた紙が一束。表紙の右上には今日の日付が書類の最終更新日として印字され、その下には重々しいフォントで取り扱い厳重注意との赤文字がある。

 

『退学者一覧』

 

 それがこの書類の名称。内容は今年度末で退学をする生徒情報をまとめたものだ。

 

 

 *

 

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園・理事長秘書補佐。それが現在の職場と役職だ。

 

 ウマ娘、それはヒトに類似した見た目でありながら、ヒトより遥かに秀でた身体能力を持つ者たち。外見的な特徴は、頭部の大きな耳と腰に長い尻尾を持つこと。身体の形成期において凄まじい成長があり、それを補うために数人分の食事量を一人で平らげることもある。そして文字通りに、何故か生物学的にメスしかその特異性を持って生まれることが出来ず、オスでの例は観測されていない。そんな彼女たちの一番の特徴は時速60キロを超える速度で走ることが可能であること。そして、走ることでは何者にも負けたくないという、強烈な闘争本能を全員が等しく宿している。これにより、ウマ娘は走るための種族と呼ばれ、彼女たちのレースは全国人気を博したスポーツエンタメになった。

 

 この学園はそんなウマ娘たちの養成機関だ。生徒数は約二千人、この手の養成機関では国内最大規模である。グラウンドやトレーニング施設、寮制と無料のカフェテリアなど、レースで勝つための全てが揃っている。加えて、文武両道を掲げているため質の高い授業が行われており、学園としての偏差値は高い。ウマ娘にとってこれ以上は無い最高の環境だ。毎年全国から数多くの猛者が集まり、レースでの勝利を目指してしのぎを削っている。実際、全ウマ娘の憧れのレースである『トゥインクル・シリーズ』での学園別勝利数は、二位と桁違いの差をつけて我が校が一位だ。

 

 そして学園が強くなり、生徒が増えるほど挫折するウマ娘も増えるのが裏側にある事実だ。一年間で開かれる公式レースは、学園の二千人全員が勝者に成り得る数ではない。数少ないレースの中で一着になる持つ者は勝ち続け、負けるものは負け続ける世界。走るという単純な競技はウマ娘の持つ速さを鮮明に洗い出す。片方で足りていた才能と努力が同時に要求され、少しでも欠ければ簡単に淘汰される世界だ。

 

 そしてこの学園から去る理由は主に二つ。

 

 まずは怪我。彼女たちはヒトに等しい骨格で時速60キロを出す。それだけ体の負荷は大きい。壊れるときは一瞬で壊れるのだ。レース中に、練習中に、勝利後のライブ中に、いきなり壊れる。神様はそれまで楽しそうに走っていた彼女たちから一瞬でそれを奪っていく。そして、それまでの走りの代償と言わんばかりに重度の怪我を残す。たとえ、運良く怪我が治っても以前のような走りが出来ず、競技人生に終止符を打つウマ娘は珍しくない。

 

 二つ目は気持ちが負けること。全国から優秀だ、天才だと言われて集まったウマ娘たちが軒並み勝てないのが全国規模のレースの実態。本物の天才を相手にすると、自分の限界を否応なしに知らされる。勝てていたレースで勝てなくなり焦りが募る。そして焦りは不安に変わり、最後には絶望と嫌悪に変わる。走ることが大好きで入った学園が少しずつその走りを嫌いにさせる。ある者は削れるように、ある者は突然折れて心が終わる。退学者が多い学年では、卒業生が入学時の10%となっている記録すら残る程だ。

 

 これを象徴する話がある。以前、ある新入生のウマ娘がいたのだ。差しが強い優秀なウマ娘だ。地方レースでは二位と大きく差をつけて勝利する。何度もそんなレースをする子だ。きっと多くの人に期待されていたに違いない。しかし、そんな子だからだろうか、それが仇になった。入学した翌日に前年度の年間無敗の天才に挑んだのだ。ここまで前置きをすれば、この後の展開は誰でも分かる。その天才とのレースを終え、新入生はその週には地元へ帰って行った。学生証を返却しに来た時に、顔写真の希望に満ちた目とは真逆の顔だったのでよく覚えている。

 

 そして、そんな退学者が一気に増えるのが1~3月中旬。最もレベルの高いレースが軒並み終了し、自分の人生を見直すには丁度良い期間だ。走るのを諦めた生徒は別の生き方を探しだす。周りの生徒の説得も、自然と次のステージを選んだ者への応援に変わる。職員室には退学者が現れ、何度も書き直した書類と共に退学を願うのだ。このような経緯で、毎朝更新された退学者リストが俺の手元に届いている。

 

 この退学者についての作業は簡単だ。まずは更新されたリストに不備が無いかを確かめるだけ。機械的に作業を進められれば楽なのだが、退学理由も確かめなければならないのだから、共感とはいかずとも情は出る。

 

 そして、確認を終えればもう一つの作業に掛かる。教師でも、トレーナーでもない、学園秘書補佐の仕事の本命はこの書類の後半、別のリストを管理することにある。走ることが生きることであるウマ娘にとっては、この後半部分の作業は死刑宣告に近い。

 

 この書類の前半ページが退学の確定した生徒のリスト。真っ白な紙切れを一枚挟んで後半部分のリストの名前が現れる。

 

『退学勧告者一覧』

 

 書類後半リストの多くは、担当トレーナーから勝つ見込みが無いと判断されたウマ娘への退学勧告。走ることが生きることであるウマ娘にとって一番危険なのは、走ることが嫌いになることだ。それはレースで勝ちたいというウマ娘の持つ闘争心より守るべき優先度が高い。そのため、心が折れる前にレースから遠ざけることが重要視されている。他にも、怪我をしてもう走れないのに居座ってしまう者、心が壊れているのにそれを自身で理解していない者、こちらから退学を促さなければならないウマ娘が一定数在籍する。そんなウマ娘たちがここに並ぶのだ。

 

 この仕事も難しいことはない。リストを確認して、実際にその生徒の走りや生活を俺が直接確認する。そうして事実と勧告理由に齟齬が無ければ、形式に沿って勧告理由をまとめたプリントを一枚作る。そうしたら、この狭い部屋にウマ娘を呼び出して待つ。学園でこの部屋に呼び出される理由はこれだけ、それを知らない生徒などいない。彼女たちは今にも泣きそうな顔で、時には泣きながら俺の前に現れる。最後は、そんなレースで勝つためにこの学園に入学した生徒へ、紙切れ一枚渡して無慈悲に夢を奪うことで業務が完了。

 

 この学園ではチームに所属していないのであれば公式レースには出走できない。正式に、つまり俺から退学勧告された生徒はチームから契約を破棄される。すると再びトレーナー探しをしなければならない。トレーナーを探すだけなら簡単に見えるが、しかし、どんなに過去の功績があろうとも勧告されてしまえば最後だ。怪我、実績、どのような理由であっても、走りで勝てる見込みが無いとレッテルを貼られた生徒に救いの手を差し伸べるチームは余りにも少ない。さらには勧告を受けたチームへの復帰は禁止。情けも許されていない。つまり勧告とは名ばかり、学園からの強制排除宣告に等しい。

 

 結果、生徒は俺のことを死神だの殺し屋などと呼んでいるとか。……とりあえず廊下で会う生徒に怖がられることがあるので間違いないだろう。今となっては俺に積極的に喋りかける生徒など生徒会長と追い込み走法が得意な問題児などの極少数の生徒のみだ。奴らはここを喫茶店か何かと勘違いしている節がある。まあ、兎にも角にも数ある中の業務でも作業自体は楽な部類だが、最も精神がすり減る業務で生徒の評判は悪い。少なくとも、走ることが好きな上司にさせる訳にはいかない仕事だ。

 

「今日の更新は少ないといいが……」

 

 本日許された珈琲の最後の一口を胃に落とし、己の仕事と向き合う覚悟を決める。まずは書類を最後のページまで捲り、リストの一番下の枠内を見る。枠には+14と書かれているため、勧告の人数は前回更新よりも14人増えていることになる。週明けの今日は増加が強い。

 

 何処からか込み上げる気持ちを抑え、次は生徒のチェックに入る。更新が新しければリストの下に追加されるため、逆順に追えば新規の勧告者がすぐに確認できる。一人目は怪我での復帰不可と判断、二人目はストレス障害の診断、3~6人目はレースでの勝利の可能性見込めず……と、見慣れた内容が並びそろっていた。さて、どの生徒から状態の確認をしていこうか。明日もリストの人数は増える。更新の多い今日は効率よく見ていかなければならない。

 

 頭を悩ませながらリストを確認していると、ある生徒の写真で手が止まった。そこに載る顔が、この職場の窓から眺めていたウマ娘と同じだったからだ。広い学園の二千人、その中でも注目していた生徒の一人。走りに将来性を感じ、成長を楽しみにしていた。

 

 強く印象に残るウマ娘だ。平日は授業が終われば誰よりも早くにグラウンドに出ていて、夜は寮の門限ギリギリまで走ってから帰っていく。休日であっても朝から走っていて、平日同様に夜遅くまでグラウンドにいた。休日出勤した俺も真っ青なハードワークだ。最初に目にした時は重要な大会が迫り、焦って練習をしているのかと思っていた。しかし、数か月と彼女を見ているとそれが普通の練習量であり、その量を平然と走っていることに気が付いた。数少ない表情を変えるタイミングは、満足気な顔で目を瞑って風を感じている時だけだ。

 

 ウマ娘の名は、サイレンススズカ。

 

 綺麗で真っすぐなフォーム、風を切る栗色のロングヘアーが緑の芝に映えていた。体格はスレンダーで折れそうなのに、模擬レースをすれば先頭を奪われることは少ない。まさにウマ娘の神秘と言われる所以、ヒト型が風になる姿を体現していた。ウマ娘きっての走るのが好きな生徒、それが彼女に抱いた印象であった。

 

 ──ただ、勧告者リストに載る理由も予想が付く。

 

 最初は綺麗で真っすぐなフォームであった彼女も、どこかのチームに加入し、学内の模擬レースを重ねる度にその姿を失っていた。最初こそ一着だったものの、それからは不振で着順を落としている。こちらに届くレース報告書でも数字が語っている。それに連れ、この部屋から眺める練習中の彼女の表情も日に日に影を増す。悩んだように走って、俯いたまま休憩を取る。遠くの俺でも分かるくらいにはスランプに陥っていた。

 

 救いがあるのならば、その不調の原因は治せることだろう。彼女のチームトレーナーよりも長く彼女の走りを観察していたからだろうか、スランプの原因と改善策を思いつくのに時間はかからなかった。だから、彼女のトレーナーもすぐに策を思いつくだろうと考えていたのだが、どうやら予想は外れたらしい。それに、最近は忙しくて彼女の走りを見られなかったのもあって、既に回復していると勝手に決めつけていた所もある。

 

 ただ、俺はトレーナーではない。どんなに不調の原因が分かっていても、チームの部外者が口出しをすることは学園規則に違反することになる。つまり、サイレンススズカを救える立場にあるのは担当トレーナーのみだ。基本は部外者が関われば即刻通報、そして罰則までがセットだ。ごく稀に担当トレーナーでない者がアドバイスをして、その手腕からチームを移籍することはある。だがそれは例外中の例外。さらに俺などはトレーナーでもない職員だ。もし関われば罰則は更に重くなる。

 

 減給も嫌だし、職を失いたくもない。規則を破ってまで彼女にアドバイスする義理は無いのだ。そう、俺はただあの時の彼女の走りが好きなだけ。今までと同じく退学勧告書を作成し、同情を捨てて勧告を行う。それで給料を貰って平和に過ごす。彼女を忘れて次のウマ娘の育成のため学園の補佐に専念するのが正解だ。それが俺に許された唯一にして最善の手だ。残念だがしかたない──

 

 

 

 *

 

 

 

「──ということで、栗毛の生徒が夜遅くまで練習していますので、早めに帰るように注意してくれませんか?」

 

「分かった。私から言っておくよ」

 

 現在、俺がいるのは学園の生徒会室。夕陽が落ちる寸前、特注の窓から橙色の光が差し込み、壁に飾られた校訓の額縁がその色を反射する。窓の前にはその大きさに見合う立派な木製の机が設置され、明るい雰囲気の教室とは真逆の重々しい雰囲気を醸している。これなら職員室の方が入りやすいとも思えるだろう。

 

 そして、その学園としての強さを誇示する豪華な部屋の使用者こそが、この学園の生徒会長である。生徒の名はシンボリルドルフ。猛者が集う学園の代表に相応しく、無敗での三冠達成を始めに、最高峰のレースで計七冠を達成、運営委員会から優秀者へと送られる年間タイトルを数多く受賞した。気が付けば『皇帝』の異名は一般化し、その存在は生徒を超えた地位まで昇っている。生徒としては憧れであり、ウマ娘としては畏怖の存在。現在はレースからは退き、この部屋でウマ娘のために学園運営へと力を注いでいる。

 

 ここに訪れる理由も学園運営を行うためだ。まずは、会長に本日更新された13人分(・・・・)の退学勧告が確定し、後日勧告を実行することを記した書類を渡す。珍しく眼鏡をかけている彼女は少し寂しそうに机の上でそれを確認する。彼女が書類に目を通すと、今度は彼女からの伝達事項を書類として受け取り、それに沿って生徒の様子について意見を交わす。勿論、俺のような成人男性職員よりも忙しい彼女と毎度こんなことは出来ないが、彼女曰く、余裕があるときは少しでも情報を共有するのが長としての役目らしい。──なので今回はその立派な意思に付け込んでみる。

 

「あと、その生徒ですが、走法適性が『逃げ』のはずなのに、何故だか『先行』の練習をしているんです。不思議ですよね」

 

 などと、わざとらしく、含みを持たせて疑問を投げる。そう、ただの疑問だ。サイレンススズカに俺が直接何か吹き込んだとかではない。なので、ここでこれを言ったところで学園規則に引っかかることもない、……多分。加えて、この生徒会長はウマ娘に関してはとことんお節介焼きである。今の言葉と実際のサイレンススズカの様子を見れば、不調をどうにかしようと働くのは確定的。そして、当たり前だが生徒会長は学生だ。学生が学生の手助けをすることが違反などの規則は無い。事実、俺の言葉に喰いついた会長は既に何やら考えている様子だ。ならば彼女の思考の邪魔にならないように部屋を退出し、通常業務に戻るだけ。足音が鳴らないように注意して、部屋の影を歩いて扉へと向かう。

 

「──待ってくれ、トレーナー君」

 

 部屋を後にしようと会長に背を向け、ドアノブを傾けると同時に呼び止められる。目線を辿ることは出来ないが、あの強い目力で俺の背中を捉えているのだろう。まあ、俺はトレーナー君とやらではないので立ち止まる必要は無い。だが、彼女がそれで呼び止めるときは、彼女が切羽詰まって助けが必要な時、もしくは俺にとって面倒な頼み事をする時だ。前者であれば職員として聞かねばならない。

 

「来月の頭にトレーナー資格復帰試験がある。私は、また君と──」

 

 残念ながら後者のようなので、言葉を全て聞くことなく部屋を後にする。相も変わらず飽きないものだ。どんなアプローチだとしても俺が断ることを知っているだろうに。ウマ娘が走ることを嫌いにならないようにレースから身を引かせるのであるなら、俺は俺がウマ娘を嫌いにならないようにトレーナーから身を引くのだ。傷つくのも、傷つけるのも散々だ。元教え子の願いであっても、それを受け入れることは出来ない……。

 

 

 

 *

 

 

 

 あれから数日が経過した。平穏なストレス胸焼け生活に変化はない。毎日更新する退学勧告者リストを見極め、勧告者リストから退学者リストへと生徒を移動させている。現状、今年もこの書類に名前を載せ、その後起死回生した者はいない。

 

 数年に一度だけ、この終盤時期の学内模擬レースで蘇るウマ娘がいる。背水の陣で挑み、大差をつけて一着を勝ち取る。最後の最後に結果を残し、自分がまだ走れることを証明するのだ。すると、担当トレーナーが勧告を取り消すことや、新たな担当トレーナーが就くことで退学から免れることもある。

 

 しかし、早くも今年度の学内主催の短距離模擬レースは終了。復活と言える活躍をしたスプリンターは生まれなかった。それこそ、来週には最後の中距離模擬レースが行われる。現状打破を図るウマ娘が最も多く出走するレースになるはずだ。ただ、現状のリストでそれが叶う生徒は……。

 

 ……サイレンススズカは未だリストに残ったままだ。勧告処理された生徒の中、一人だけ未処理の生徒として浮くように名前を連ねている。ただこうやって引き延ばすのも限界がある。もしこのまま手続きを遅らせても、再来週にはリストに並び直すだろう。今度は彼女の得意な中距離の模擬レース結果を勧告理由に付け加え、担当トレーナーから勧告要請の催促付きでだ。そうしたら俺がどんなに才能があると主張しても、実績の悪さで勧告処理をするしかない。どんなに低い可能性でも、会長が助言し、彼女が今度の模擬レースで復活することを願うばかりだ。

 

 

 

 ──などと、頭を整理していたのが今朝。心配事を頭の片隅に置き、午前中は忙しさに時間を忘れてパソコンを睨みつけていた。昼休みは生徒を幾人か呼び出して勧告書を渡し、脳にこびりつく生徒の泣き顔にメンタルを削られながら昼食を取る。午後はカフェインに浸りながら再びパソコンを睨んで仕事をしていた。マグカップが空になるのと同時に、午後一つ目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、廊下では生徒の出入りする声が響き始める。授業プログラムで差があるが、この時間帯から一気に生徒がグラウンドに流れ込む。……ならば少し休憩がてらに珈琲を飲みながら栗毛の彼女を探すのも一興。走りはどのようになっているのだろうと、グラウンドに窓から目線を配ろうとした。

 

 そのタイミングで俺の目線を遮るように、誰かが部屋の扉をノックした。さっきまで遠くから聞こえていた生徒の声や足音が嘘のように耳から離れ、やけにクリアに聞こえたノック音の余韻が部屋を支配する。突然の来客、急いで関係者のスケジュールを脳内で確認する。しかし、学園長と上司は学外の仕事中、生徒会長もそれに同行している。腹減りサイエンティストはノック無し、問題児は窓から入って来る。俺と関係が深いウマ娘の線は消えた。──ならばダレだと心がざわつく。この職に就く際に、勧告の恨みを買う可能性はあると上司に注意を受けていた。夢を奪われた生徒が半ば逆恨みで責任者を襲うことがあると。これまで私は大丈夫だったが、ヒトである貴方では勝てないことを忘れるなと。

 

 騒ぐ心臓を抑えて扉へ体を向ける。引き戸のガラス越しには寒色の制服が透けており、来客者が生徒であるのが分かった。最悪なケースが頭を過る。扉へ向かう足に重みが加わり、ドアノブに掛ける指の圧力で汗が滲んだ。板の向こうにいる生徒にバレないように、静かに空気を肺へと運び呼吸を整え、勢いをつけて指を横に移動させる。磨りガラスのぼやけた輪郭が鮮明な形を持ち、来客者が明らかになった。

 

 来客の生徒は二度目のノックのために手を伸ばしており、俺が勢いよく現れたことで目を丸くして驚いている。芝を映したような翠の瞳に、折れてしまいそうな細身の体付き。栗色の髪が腰まで真っすぐに伸びている。どこからどう見ても件の生徒だ。──ただ、以前よりも肌の血色が悪く、疲れが現れている。体調面への心配があるだろう。

 

「……──っと、ご用件は?」

 

 最悪の展開を免れたこと、そして意外な生徒の登場で呆けてしまっていた。不審に思われる前に頭のスイッチを入れ直す。準備せずに声をひねり出したからか、枯れた声が出たことに恥ずかしさを感じる。彼女はノックの為に上げた手を胸元に当て、その手を握り直すと、一歩前に出て俺との距離を詰める。そして綺麗な瞳を向けて真っすぐに言葉を放った。

 

「私のトレーナーになってください」

 

 ──さて、長くなりそうだが、来客用カップと珈琲シュガーの余りは有っただろうか。

 

 

 *

 

 

 サイレンススズカを部屋に入れる。端に片づけられたパイプ椅子をデスク前まで引っ張らせ、そこに座らせて待たせる。俺はその間にこれから起こることへの断り方を考えながら、時間をかけて二人分の珈琲を淹れる。遠慮する彼女に砂糖箱ごとカップを押し付け、デスクを挟んで向き合うような形を取って俺も着席。初対面の気まずさをカップの音で誤魔化しながら次の言葉を選ぶ。まずは何を問うべきだろうと。ここでの選択肢を間違えると彼女の競技人生がバッドエンドになりかねない。しかし、俺の人生もバッドエンドになりかねない。様子を伺うように彼女の顔色を覗くと、ゆっくりと口を開いてここに来た理由を話し始めた。

 

 その一。今週初めの夜練習に会長が訪れ、門限について注意を受けた。加えて、『逃げ』の走法の提案を受けた。

 その二。次の日にチーム練習で早速『逃げ』走法を実行。自分では最近になく速く走れた。しかし、担当トレーナーからは『先行』に戻すことを強要される。

 その三。さらに次の日、トレーナーの言葉を無視して練習を続行。その結果、命令無視と今までの成績を含めて契約破棄が告げられた。

 その四。どうしようかと困っていた所に会長が登場。アドバイスは俺の案だと言い、ついでに部屋まで教えてくれた、──ためにここに来たと。

 

 状況は予想外な方向に向かっていた。少なくとも好転と言えるものではない。なにせ来週の模擬レースまでは残り10日のみ。そのタイミングでトレーナーを失い、自分の走りは取り戻せていない。それにここでチームから抜けてしまうのは自殺行為と同義だ。チームという後ろ盾がない以上、実力がなければ退学真っ逆さまだ。ギリギリ助かっているのは模擬レースの出走条件だけだ。学内模擬ならば公式とは違ってチームへの所属が条件ではない。

 

 ホント、どこから突っ込めばいいのだろう。まずは会長がアドバイスしてくれたことには感謝を。しかし、俺のことを喋るとは予想していなかったし、一本取られたことに少しばかり青筋が立つ。口止めしなかったと返されたら何も言えないが、今度幼名で呼ぶことで不満は晴らす。それにこの娘もどうかしている。『逃げ』に光を見出したのなら、普通はそれが得意な指導者の下に駆け込むべきだ。何故わざわざ俺のような生徒の嫌われ者に頼るのか。

 

 あと一番問題なのが彼女の元トレーナーだ。この話が事実なら、元トレーナーは選手規定を無視して一方的にチーム契約を破棄した可能性がある。ウマ娘のために最後まで可能性を探って向き合うのがトレーナーの仕事だ。この頃増えつつあるブラックトレーナーなのだろうか。場合によってはトレーナー資格ごと絞り上げることも有り得る。あとで査定を見直し、勤務が正しいかを調査しなければ。

 

「悪いが無理だ。俺はトレーナー資格なぞ持ってない。それに誰かに教える程暇でもないんだ。生徒会長に良いトレーナーを探してもらってくれ」

 

 目を合わせないようにして、手であしらって退室を促す。シンプルな言葉で懐に潜り込ませる隙間は与えない。トレーナー業だけには何があっても戻る気はないのだ。それに、たった今トレーナーの素行と、チームに問題が無いかを確認する仕事も増えた。暇が無いのは事実だ。まして、この学園に彼女のためになるトレーナーがいないはずがない。今ならまだ手を差し伸べる優しいトレーナーもいるだろう。

 

「……私、このままじゃ退学ですよね」

 

 それは流石に察しているのか、それとも会長が余計なことまで吹き込んだのか。サイレンススズカは椅子に座ったまま、すっかり目線をパソコンに逃がした俺に向かって説得を続ける。それに対して俺は無言の抵抗を貫く。どうやらどちらか片方の気持ちが折れるまでは長期戦になりそうだ。ただ、こちらは一人の職場で何人もの生徒に勧告を出してきた身だ。この程度のことで折れるとは思わないで欲しい。

 

「──走ることが好きだったんです」

 

 無視。

 

「それなのに今は調子が悪くて。足に重りがついたみたいに走れなくなって」

 

 無視。

 

「あんなに好きだったのに、今は走ることが辛くて」

 

 無視。

 

「でも、『逃げ』の走りをして、もう一度先頭に立てるかもしれないと思ったんです」

 

 無視。

 

「それなのにチームも、トレーナーもいなくて」

 

 無視。

 

「時間も、あと10日しか」

 

 ………無視。

 

「──責任、取ってくれないんですか?」

 

 

 

 *

 

 

 

「まずはストレッチとアップ。それが終わったら2000Mを『逃げ』で一本。レース意識の走りな」

 

「はい、分かりました」

 

 今日もコースの芝状態は良好だ。俺はロングコートを羽織り、ストップウォッチとタブレットを持って計測の準備をする。サイレンススズカはジャージに着替え、指示に従って体を伸ばしている。俺が練習場に出ているせいで生徒たちの不安な視線が刺さるが、サイレンススズカはそれを気にも留めていない。俺を突然訪ねる度胸があるのだ、外部からのストレス耐性は強そうに思える。……だから根負けしたのが俺だったのだろう。

 

 結局彼女の説得に対して珈琲が冷める前には降参していた。取り敢えず、現在のところサイレンススズカには担当トレーナーがいない。だから俺が口出ししても規則には触れないはず。せいぜい怒られるくらいだろう、数日くらいなら大丈夫だろうと自己暗示をしてやっていくしかない。久しぶりの芝を踏むだけで昔の記憶が思い返されて吐きそうだが、決めた以上は最後まで手を貸すのが責任の取り方だ。

 

「準備出来ました。いつでも走れます」

 

 サイレンススズカの報告に頷いて返事をする。時間が惜しいため早速練習を開始。彼女の現状の走りを確認する。今日はコースにゲートが設置されていないのでスタートの状態の把握は難しいが、一歩目の踏み出しには問題さそうだ。ゲート難や出遅れについては深く考える必要が無いとして良いだろう。それに速度も一本目にしては上々、ムラは有るが中盤までは勧告リストに載るとは思えない速度を維持している。

 

 しかし、良い走りなのは中盤まで、後半に入るとブレーキを踏んだような失速が始まった。それからはスピードが上がる気配すらない。ほぼ同時に走り出した生徒に抜かされて、一気に引き離される。最後の直線でも彼女の末脚は発揮されず。上がり数ハロンの話をする以前の問題になっている。タイムは──、彼女のメンタルを考慮すれば教えられない。

 

「どうでしたか、私の走り。何か見つかりましたか」

 

 2000Mを走り終えた彼女が傍に駆け寄る。息を整えるのも最低限に、焦りを含んだ表情で助言を求めてくる。今の走りで言えるのは、やはり強制されていた『先行』でのレースが弊害になっていることだろう。『先行』で走るならば常に位置取り争いがあり、加えて抜け出しでは更に激しい削り合いが待っている。しかし、サイレンススズカは細身のウマ娘であり、さらにはそれまで『逃げ』で戦っていた。激しいぶつかり合いをしていたせいで重心にブレが出てしまっている。そこに骨格に合わない走り方が加わることで終盤まで体力を残せていない。ガス欠どころか、2000Mを走りきっていたことが異常だ。最後は根性で補っても難しかっただろう。

 

「まずは余計な力を抜いて、真っすぐな線を引くイメージで直線を走ってみよう」

 

 分かりましたと彼女は返事をしてコースの端へと小走りで向かう。放っておいたことで症状が悪化しているため、模擬レースまでに彼女の走りが元の状態に戻るとは断言できない。不安で染められたなかに僅かな復活の可能性を望む、それがサイレンススズカと俺の10日間の幕開けであった。

 

 

 

 *

 

 

 

 朝はどのチームよりも早い時間からコースで練習を開始した。元々朝から晩まで走っているウマ娘なだけあって、久しぶりの『逃げ』でも疲れを感じさせる走りはしていない。それこそ朝練が始まる僅かな時間だけは、眠さを引きずって瞼がしぱしぱと瞬きをする。残された日数が少ないとはいえ、集中力が切れて怪我をすることが最も避けねばならぬこと。練習中に彼女の集中力が切れるとは思えないが、一応練習量を減らすかを尋ねる。

 

「……えっと、それだと走る量も減っちゃいますよ?」

 

「──うん、そうだね。」

 

 以前この目で見ていた走りが言葉になったような返答だ。オーバーワークまでの限界許容量が多い彼女だから許されるのだろう。授業で寝落ちしたなどの問題はない。学生とアスリートの両立をしている。

 

 もし、生活面で問題を上げるなら食が細いことだろうか。数十キロの速度で走り続けるウマ娘はカロリー消費も破格だ。それなのにサイレンススズカというウマ娘は延々と走り続ける。リストアップさせた食事量ではエネルギーを補充出来ていたとは思えない。それこそ補給食だけを流し込んでやっとだろう。……現在の細すぎる体はカロリー不足、そしてそこを補うことをしなかった元トレーナーに問題がある。だが今の指導者は俺だ。食事だって指示を出すし、秘書補佐ともなればバランスの取れた献立の作成と調理も可能だ。

 

「よし、朝練はここまでだな。風邪ひかないように汗はしっかり拭くこと」

 

 始業時間を忘れて走る彼女を止める。ここから放課後までは学生と職員の関係に戻り、互いに仕事に掛かる。彼女は授業をこなして、細かい時間で『逃げ』のレース動画や教材で少しでも感覚を呼び戻す。そして俺は予測されるレース展開から、練習とレースプランを練り返すことだ。それに加えて、先の問題解決の用意をする。

 

「なあ、魚と肉ならどっちが好きだ?」

 

 謎の質問に首を傾げるサイレンススズカ。仕事は忙しいが、この顔の肉付きが良くなるように腕を振るってやろう……。

 

 

 *

 

 

 太陽が沈みグラウンドに残った僅かな生徒たちが寮へと帰っていく。今までのサイレンススズカであればその波に乗って練習から引き上げる、もしくは時間を忘れて練習を続けているのだろうが今日は違う。既に練習を終えてジャージ姿でアイシングをしている。

 

 カフェテリアは彼女と俺の貸し切り状態だ。夜の時間帯でも使用時間いっぱいまで勉強やお喋りをする場になっているが、今日は俺を怖がって寮の食堂に逃げてしまった。まあ、退学仕事をしている人間が、自分たちの憩いの場で調理器具を扱っているのは気持ちが悪いのだろう。昼間に冷ややかな目を浴びながら下処理をした自分を褒めたい。

 

「野菜から食っていけ」

 

 丸机にサラダが盛られた平皿を置く。彼女は氷嚢を空いている席に片付けると、丁寧に手を合わせて食事の挨拶をする。カトラリーボックスからフォークを取り出し、緑色のサラダソースを観察しながら恐る恐ると口に運ぶ。それを丁寧に咀嚼して飲み込むと、すぐさま二口目に手を伸ばす。すりおろし人参とアボカドをソースにした簡単なサラダだが気に入ったのなら有り難い。

 

 アスリート食は久しぶりに作るが、存外体が覚えているものだ。彼女が一皿を食べきるのと同時に次の料理を完成させ提供が出来ている。それに、学園の食材は一級品が揃っていて料理のやり甲斐があっていい。さっきのサラダに使ったレタスは収穫してから直接納品されたもの、今和えている魚も釣れてから24時間以内のものだけ。学生がこれを無料で食べていることが羨ましい。

 

「……ソースついてるぞ」

 

 デザートまで乗せたトレーを運び、練習に近い集中力で食事を進めるサイレンススズカの口元に注意を促す。彼女は俊敏な動きでティッシュを取り出して汚れを拭う。

 

「その、えっと、おいしいですよ……」

 

 後半はもう殆ど聞こえなかったが、恥ずかし紛れの真っ赤な顔は珍しいものが見れたようで面白い。……ただ、これでもう今回の食事の説明が難しくなった。数万キロカロリー、ヒトの10倍とは口が裂けても言えない。この楽しそうな顔を崩すのは忍びない。女子のデリケートな話題に触れて、食欲が落ちられても困る。しかし、何を中心にメニュー選びをするかを知ってもらわないと今後の食生活と身体の成長に関わる。

 

 ベストな説明はどれかと悩みながら口を動かす。その間にも彼女は綺麗に料理を平らげていく。そうして人参入り杏仁豆腐が盛られていた器を寂しそうに眺め、上目遣いで小さく願いを漏らす。

 

「あの……、おかわりってありますか」

 

 ……レースまでの数日、好きなのいっぱい作ってやるからな。

 

 

 *

 

 

 そこからの数日は寝る時間を削ってサポートに徹した。5時に起床し、その日のトレーニングの準備をする。6時から8時まで朝練の指導、午前中は片手でパソコンを操作して基本業務に従事し、もう一つの手は包丁を握ってアスリート食の下処理を行う。昼間に休憩を挟むのが唯一肩の荷が下りる時間だ。午後は退学・勧告者の手続きを進め、放課後は19時までトレーニング指導を行い、彼女と夕食を取りつつレースについて授業して帰宅。家では『逃げ』のレースプランを中心に今後の計画を見直し、日中消化出来なかった仕事を片付けていく。日を跨いでいるのに気が付いて、気絶するように眠って仕事が完了。

 

 疲労の隠蔽には自信があったのだが、どうやら顔に出ているらしい。上司には業務報告の度に仕事を減らすことを提案され、生徒会長には体調を心配される。ただ、自分が勝手に増やした仕事だ。今までの仕事量は関係ない。

 

 だが、疲れ以上に日常への満足が増えてしまっている。ウマ娘が走る姿を間近で見るのは面白いし、その彼女を更に速くする練習プランを考えるのは時間を忘れさせる。体力がすり減っているのにメンタルは普段と変わりない。──嫌な思い出を振るい千切ることだけが悩みだ。それに疲れているのは俺だけじゃない。むしろメンタルを含めれば、壊れそうなのはサイレンススズカの方だ。

 

 本来の走りのために毎日新しいトレーニングに挑戦している。慣れないことに体力の減りだって膨大だろう、一部の大食漢には遠く及ばずとも食事の量は増加傾向にある。加えて、どんなに練習をしたところで、残り日数から計算すれば『逃げ』の走りを取り戻せる確率に不安がある。模擬レースの日が迫って来るストレスと合わせると、並みの学生なら心が折れていても不思議はない。本人に不安要素になる情報は与えていないが、それでも細心の注意は払わなければならない。

 

 午後練習を始める前に顔を叩いて活を入れ直す。表情に疲れが出ていては彼女に余計な気を遣わせてしまう。顔色を少しでも隠すためにマフラーを巻き、仕事場からトレーニングコースへと移動する。タブレットで練習メニューを確認しつつ廊下を歩いていると、教室から出て来るサイレンススズカを目にする。声を掛けようかと迷うが、その考えは他の生徒たちが彼女を呼び止めることで遮られる。声を掛けた二名の生徒と仲がいいわけでは無いのだろう、余所余所しく彼女の名前を呼んでいた。良くないことだと分かっているが、気配を消して近づき会話に聞き耳を立てる。彼女の学生生活からも走りに生かせるヒントがあるかもしない……。

 

「その……サイレンススズカさん、最近あの職員と練習してるよね」

 

「あんなのと一緒にいると危ないわよ。それなら私のチームに入ればいいじゃない」

 

 心配そうな面持ちの生徒が切り出した話題は俺たちの関係についてだ。気味の悪い存在が、サイレンススズカに指導をするためグラウンドに現れる頻度が突然増えている。経緯を知らない者からしたら、その理由を尋ねるのは俺より彼女の方が気楽だ。チームに誘ったのも彼女を心配する半面、俺を排斥させようとしている部分もあるだろう。彼女がチームに入るのならその意思を尊重する。正式な環境が手に入るのならそれでいい。それに、俺と一緒にいて彼女が敬遠されるのは気が引ける。

 

「ありがとう──」

 

 サイレンススズカは差し伸ばされた手に感謝を述べる。生徒二人はその言葉に笑みを浮かべ、勧誘を次の段階へ進めようとする。しかし、この後の会話で彼女たちの口が動くことはなかった。

 

「──でも、ごめんなさい。私はあの人と頑張ってみたいから」

 

 強い意志が込められた一言。サイレンススズカはもう一度だけ感謝を伝えてトレーニングコースへと向かい、残された二人は唖然とした顔で立ち尽くす。そんな二人を横切るのも癪なので、俺は廊下を引き返してサイレンススズカとは別ルートを選ぶ。盗み聞きのアリバイ工作のため時間潰しを含めての選択だ。コースに出るとジャージ姿になった彼女がストレッチをしていた。いつもの俺を装って声を掛けて練習を開始する。

 

 彼女にとって何が俺を信用させる要因なのか、計算に基づく理論でレースプランを立てる俺にとっては解明したい謎だ。過去の無神経さが残っていれば、ずかずかとプライベートな所にも踏み込んでいただろう。ただ、今の俺は芝を駆ける彼女にそれを問いかけることは出来ない。もし、俺を選び続ける理由を聞いて再び保護欲でも抱いてしまえば、一時だけの協同関係が崩れてしまうかもしれない。

 

 会長から伝えられた俺のアドバイスの責任を取る、それが俺たちの関係だ。あくまで職員が許される範囲での指導を偽装しなければならず、その偽装もいつまで効果があるかなど分からない。そして、サイレンススズカがどんな結果でも日曜日には契約が切れる。それなのに自分の立場を忘れてはならないのに彼女を鍛える日々に充実感を得ている。

 

 絶佳の走りへの情熱、それでもなお拭えない過去の悲傷。トレーナー復帰は最も忌避しているのに、彼女を助ける最適解はトレーナー業しかない。数日前にこの関係を生み出す原因を作った自分自身に怒りが湧く。こんなに惑乱するならば手を出すべきではなかった。

 

 連日の疲労と苦悩で熱くなる脳を霜風が冷やす。いつの間にか太陽の半分が地に沈み、走っていた生徒たちも殆ど帰ってしまった。……ああ、しまった、夕食までの時間がない。先にカフェテリアに行って調理を進めなければ。

 

 ここを離れるとジェスチャーを送る。走っている彼女は横目でそれに反応すると、ペースを上げてこちらに向かってくる。練習メニューは事前に伝えた、何か質問でもあるのだろうか。わざわざ練習を止めたのであれば意味があるはずだ。

 

「その、お願いしたいことがあって」

 

 肩で息をしながら躊躇いがちに前置きをする。これは何度か見た恥ずかしいことをお願いする態度だ。基本的は食事に関しての要望だ。食事量の増加に戸惑いつつ、それでも身体が要求する摂取カロリーは止められない。それでもまだ体は細いが、食欲が出てきただけで今は十分だ。あとは、練習メニューに疑問や不安があるときにも似た態度で発言を求めるが、練習が終わりかけているタイミングではそちらの可能性は低い。現在の状況から推測すると、やはり夕食のデザートのリクエストだろうか。

 

 ただ、俺の予想は外れる。目の前の彼女は、仕事場で初めて会った時同様の面持ちで自分の気持ちを晒す。

 

「模擬レースで勝てたら、一度だけトレーナーさんって呼んでいいですか……?」

 

 コーチングをすると決めた時に徹底させた唯一の約束、それは俺をトレーナーとは呼ばないこと。これまでそれを破る素振りはなかった。だとすれば発言のトリガーは生徒二人の勧誘を断ったことだろう。あれで全てを俺に懸ける覚悟が完了した。

 

 ……だとしたら彼女の願いは断れない。どんなウマ娘でもレース直前はどこかで緊張している。それも今回彼女が出走するのは在学を左右するものだ。チームに所属していない彼女が、俺との関係の明確化で安心するのならば望みを聞き入れよう。

 

「──分かった、一度だけならな」

 

 許可だけを出してその場を後にする。俺の一言で彼女がどのような表情をしたのかは確認していない、──確認する勇気がない。見てしまえば俺の信念が傾くような気がした。

 

 

 *

 

 

 幾つものジレンマを抱えてレースまでの数日を過ごした。自分で認めるのは悔しいが、数年ぶりのコーチングでは至らぬ点が多かった。指導者としては二流だっただろう。

 

 ただ、彼女は俺を信じて付いてきてくれた。難易度の高いトレーニングにも音を上げず、土と芝に汚れながらコースを何周もする。ミーティングではアドバイス一つ一つ耳を傾け、自分の認識に違いが無いかを確かめた。授業の休み時間もレース資料に目を通して知識を蓄え、食事もウマ娘として並みの量を取れるようになり肌の血色も改善した。短い期間でも着実に成果が出ており、今までの彼女から生まれ変わっているのは明らかだった。

 

 こうして練習に励んだ結果、サイレンススズカは『逃げ』の基礎を習得することが出来た。以前の走りが完全回復したとは言えずとも、最後の練習では育成目標に掲げていたタイムを記録している。これで自分の持つ能力をしっかりと発揮出来たのなら一着の可能性はある。レースに出走するのは同じような境遇の生徒だ。スペックで劣っている問題が解決されたのなら、元から特異な才能を持つ彼女に分がある。

 

 天気予報では日曜日は晴れ、風もレースに支障のない程度とのことだ。全力を尽くしたサイレンススズカへのご褒美だろう。

 

 俺が出来ることも、彼女が出来ることも全てやった。数年に一度だけある例のリストから復活するウマ娘、それがサイレンススズカなら誰も文句を付けない。彼女の指導者として胸を張って言えた。

 

 これで長年抱えていた葛藤に決着を付けられる。トレーナーという過去に別れを告げるなら、その最後は彼女の走りが望ましい。彼女が勝利し、その声でトレーナーと呼ぶのなら俺は満足して終われる。彼女が恵んでくれたトレーナーとしての最後の機会。サイレンススズカに勝って欲しい。笑顔でゴールして欲しい。彼女の勝利を望むことだけが、迷い続ける俺が今言える噓偽りのない本心だ。

 

 

 ──本当に勝って欲しかったんだ。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 4枠7番サイレンススズカ

 

 1/2差 四着

 

 

 

 *

 

 

 

 

 レース会場で歓声は上がらない。今年も目を見張る走りをする者は誕生しなかった。生徒たちは電光掲示板で自分のタイムを一瞥すると、空っぽの瞳でチームの下へ帰ってゆく。走者に送られる疎らな拍手が収まり静寂を保つこと数秒、誰かの嗚咽を皮切りに会場が悲しみの感情で支配される。ある生徒はトレーナーの胸で涙を流し、ある生徒は友人に抱きしめられながら蹲る。これまでの努力が実力の壁に跳ね返され、それまで他人事であった現実が突如牙を剥き出して襲い掛かる。夢を絶たれた彼女たちに今残るのは過去への後悔、もしくは未来への不安だけ。快晴で遮るものが無い空の下、冷たい風がそれを引き立たせる。

 

 そんな涙の集団を避けるように、サイレンススズカがゆっくりと帰って来た。他の生徒同様に顔は俯いたまま、今にでも倒れそうな足取で歩いている。芝と土が体育着に付着し、いつもの綺麗な髪は乱れたまま。しかし、それを整える気配もなければ、俯いた顔をこちらに向けることもない。

 

「ごめんなさい。私……」

 

 彼女が静かに言葉を発した。胸の前で両手を握りしめて、溢れる感情をどうにか抑えている。消えそうな声が涙で途切れないように懸命に気持ちを辿り、そうして並べるのは結果を出せなかったことへの謝罪。俺よりも何倍も辛いはずの彼女が、まるで逆の立場で、まるで俺を慰めるように繰り返す。最初から何度も何度も、最後まで言い切ろうとする。

 

「ごめんなさい。貴方に……手伝って貰ったのに……っ──」

 

 どうにか繋げ通した一言、その後の言葉を発することはない。口にしてしまえば周りの生徒のように崩れ落ちてしまう。代弁者は俯いた彼女の足元に落ちた一粒の涙。あまりにも重い一滴に奥歯に力が入る。順風満帆などではない学園生活、それを変えるための最後のレースに賭けた。その気持ちの結果が(コレ)なのか。今まで多くの生徒に引導を渡してきた。それと変わらない状況なのに喉を掴まれたように言葉が出ない。あれだけ暗記していた生徒を送り出す台本が真っ白になっている。彼女にたった一つでも、何か、何かを──!!

 

 

 「──ありがとうございました、トレーナーさん(・・・・・・・)

 

 

 精一杯の笑顔。彼女が俺に送ってくれた感謝。目は涙を溜めて真っ赤に染まり、無理やり上げた口角が震えている。誰が見たってそれが作られただと分かり、表情を保てたのも一瞬だけ。すぐに笑顔は崩れ、それを丁寧なお辞儀をして誤魔化す。もう彼女が顔をこちらに向けることは無い。顔を伏せたまま俺の横を通って更衣室に向かう。彼女からした芝の匂いが離れていくことが別れを告げていた。

 

 共に練習したのは10日間、レース本番を入れても二週間に満たない関係。トレーナーとウマ娘の関係ではない。職員と生徒の一時的な協力関係。確かに彼女の走りを知っていた期間はもっと長いけれど、それでも他の生徒の情報だって知っている。接点が出来ようが今まで通りの仕事に戻り、生徒の一人として退学処理をするだけ。それに彼女は優秀だ。成績は上位だし、生活態度に曇りもなかった。この学園にいることが全てじゃない。きっと他の道でも生きていける。彼女が退学になって罪悪感が残っても、きっと数か月後には傷も塞がるはずだ。今までだってそうだったのだから。むしろここで彼女を追いかけでもして、特定の生徒に踏み込んでしまえば理事長秘書補佐として罰則を受けるだろう。そちらの方が後の仕事に悪響がある。

 

「……解雇なら次は飲食店でもやってみるかな」

 

 だから俺の行動は愚かだ。ここまで頭で理屈を並べておいて逆を突いている。更衣室に向かう生徒の間を走っている。こんなの職員でなければ変質者だ。それに後ろからいきなり手を掴まれたから彼女も驚いているし、周りの視線も集まっている。立場を無視して昔の真似事をして、残されたもう一つ(・・・・)の可能性に賭けてしまっている。勝ち目も不確かな提案をして負けようものならここでの職は確実に終わるというのに。まさに今リターン度外視のリスクを背負うとしている。きっと君は焦りながら構わないでくれと言うのだろう。

 

 でもさ、ほら、やっぱり君が泣いているから。

 たった一度でも俺をトレーナーだと言うから。

 

 

 

 ──それならこんな所で君を諦めない。

 

 

 

 

 *

 

 

 火曜日、午前6時、栗東寮前。学園から借りた自動車の中でサイレンススズカを待つ。昨日練り直した練習メニューを確認していると、早朝トレーニングに向かうジャージ姿の生徒の中から同じ服装の彼女がやってきた。窓から手を振って存在をアピールすると小走りでこちらにやって来る。練習に必要なものが入ったスポーツバッグを後部座席に置かせ、彼女自身は助手席に腰を据える。軽く挨拶を済ませ、エンジンでタイヤを転がしながら今週の目的について発表する。

 

 まず、今年度の中距離模擬レースは終了した。そしてその結果では現状打破は不可能である。相も変わらず退学コースに乗ったままだ。だが今週末にはマイル距離での模擬レースが催される。こちらの距離も今年度の最終模擬レースだ。これならサイレンススズカの適性距離、正真正銘のラストチャンスになる。そのために月曜日はレースの疲れを取るために休み。水曜日から金曜日までをレースの為の練習に当て、土曜はとある走りの技法についての調整を予定している。

 

 では、今日は何をするのか。高速に入ったことで目的地に若干の不安を覚えたサイレンススズカが質問をする。今日行うトレーニングはリハビリに近い。そのウマ娘が持つ能力を存分に発揮できるように走りを見直すこと。そして一部の才あるウマ娘だけが持つ必勝術を手に入れること。それは、固有スキル、あるいは領域(ゾーン)と呼ばれる。才ある極少数のウマ娘だけが使用できるオリジナルの走法である。深層意識や信念が形となり、ウマ娘の走りを限界の先へと引き上げる。計算が間違っていなければサイレンススズカにもその素質がある。この数日でそれを引き出せるかが勝負だ。

 

「なるほど……。本来の走りを思い出し、私だけの走りを目指す、ということですね」

 

 その後は俺の回答に満足した彼女とドライブが始まった。お互いに次のレースについてはあまり触れず、日常生活の他愛ない話に花を咲かせた。途中で今日の学校の欠席について聞かれたので、職員パワーで彼女は公欠に、俺は有休という形を取っていると話す。彼女はウソでしょ、と初めて敬語を砕いたセリフを漏らした。それを弄ると顔を真っ赤にして口癖だと慌てて説明してくれる。運転中でその様子を横目でしか見られなかったのが残念だ。

 

 

 *

 

 

 車で走ること約2時間。高速を降りて田舎町を真っすぐ進む。枝木が散らばり幅の狭まった山道を入り、山の裏側に回る。町の風景が視界から消えると、山をくり抜いたようにぽっかりと空いた高原が姿を現す。高原は淡い緑色の絨毯で覆われ、周りを囲む深い緑と太陽の光が自然の美しさを体現している。

 

 そんな高原にある施設が今回の目的地だ。建物入口の看板に書かれた『シバサキ練習場』が施設の名前だ。ここはウマ娘専用の練習施設、特に怪我のリハビリや、レースにPTSDを持つ者を積極的に招き入れている。施設内はレース場そっくりの造りになっており、スタンドを思わせる建造物と芝コースを外周に設置した野外運動場が目玉の二つだ。

 

 正門を潜り、駐車場に車を停める。ドアを開けると深緑の匂いが肺を満たし、山の肌寒さを服越に感じる。聞こえる音もクーラーボックスの氷と鳥の鳴き声、あとは葉の擦れる音などの自然由来のものばかり。人の活動する音は一切聞こえない。立地の悪さで基本的に使用者が少ない施設であるが、現在時期は閑散期であるため休業中だ。先週こそ使用許可を取れなかったものの、今日は少し無茶をして許可を取った。

 

 当然だが建物内に足を踏み入れてもウマ娘はおろか人の気配もない。受付にはこの建物にいるのであろう管理者を呼び出す用のベルが置かれているだけ。一般常識ならばベルを鳴らして入館を伝えるべきだろう。だが、俺としては勝手知ったる建物に迷うことも、連絡する必要もない。その辺の手順は省略してエントランスを横切る。後ろで不法侵入かと心配そうにする彼女に付いて来るように声を掛ける。しかし、そんな彼女の心配も廊下一本を歩き、大きなガラス戸を開くまでの一分に満たない時間で吹き飛ばされる。

 

 ガラス戸を開けるとそこは一面の芝原。山風で波打ち、太陽光で輝く葉がそれぞれ自由に空へと伸びている。学園の管理された均等な長さを保つものとは違う。踏み折れた芝も無ければ、掘り返った土もない。加えて邪魔な人工物も廃されている。練習レース用に内外周の白い柵が設置されているだけ。それを超えてしまえば、遠くに見える山まで全てが手付かずの大地で広がっている。肉眼で捉えた翠色は車から見た景色の何倍も美しい。きっと何処までも走っていけるのだろう──と、隣で呆気に取られている彼女の背中を軽く叩く。

 

「ほら、トレーニングするぞ」

 

「──はい!」

 

 建物の影に簡易椅子を広げ、クーラーボックスを隣に置く。サイレンススズカに蹄鉄靴を履かせながら中距離模擬レースの反省を行う。主題は敗因の解明、本来の実力が発揮出来なかった理由についてだ。レース映像を見返していて明らかになったのはシンプルな原因。それは俺の彼女への理解力が低かったことで生まれた指示ミスだ。

 

 具体的には『逃げ』で走れと指示したこと。彼女が不調になる以前、チーム加入以前はその走りで模擬レースを勝てていた。彼女自身も先週の練習では久しぶりの『逃げ』に満足していて、その走りが好きだと言っていた。だから、それ彼女を一番活かす走りだと安直に考えて誤解していた。

 

 しかし、彼女の入学時のレースを見直して分かったのは『逃げ』が彼女の走りなのではなく、彼女の走りが『逃げ』であったこと。『逃げ』で走るのと、走った結果が『逃げ』だったのでは過程と結果が真逆になる。つまり俺が目にしていたあの走りは、決して『逃げ』を目指していたものではない。好きに走っていたらそれが『逃げ』に近い何かであったということだ。さらに、これまで強要されていた『先行』で隠れていた才能は俺の想像よりも成長していた。成長した現在の彼女にとっては最早『逃げ』であっても自由な走りを縛る枷でしかない。日曜日の走りもサイレンススズカにとってスローペースであり、それが調子を崩させた原因であり敗因だ。

 

 だからここで行うのは好きな走りを取り戻す練習。俺が用意可能な彼女の目標に最も類似した場所。この大草原を貸切って自由に走るだけの練習だ。それが彼女の本当の走りを蘇らせ、さらなる高みを目指す武器が生まれる。寮の門限を考えれば、ここを使えるのは17時まで。飲み物はクーラーボックスに入っているから、昼食は取りたいときに声を──

 

「……分かったよ。行ってきな」

 

「──あ、ありがとうございます。えっと……、行ってきます!」

 

 走りたい本能でそわそわしている彼女に許可を与える。気持ちが態度に出ていたことに恥ずかしがりながら、それでも嬉しそうに足元の芝を巻き上げてコースに跳び出す。柵を潜り、靴を慣らすような足踏みから緩いペースでのランニングが始まった。空の雲の動きを追い、芝の音を聞きながら環境を楽しんでいる。その表情は好調時の走りを想起させ、これからの数日を奮起させるものだ。

 

 そのためにも今後のトレーニングプランを細部まで詰め直そうと、バッグからタブレットを取り出そうとすると、彼女がペースを緩めて止まるのが見えた。彼女は何かを思い出したように急いでこちらまで駆け寄ってくる。走る前の給水を忘れたのだろうと予想したが、足はクーラーボックスではなく俺の方へ。そして感動的になった時の癖なのだろう、胸に手を当てて笑顔を向けた。

 

「トレーナーさん、私、凄く楽しいです──!」

 

 では、走って来ますね、と残して再び芝の海へ飛びこむ。……今度は敗北で作ったものではない、本心から生まれた完全純度の笑顔だ。美人しかいないウマ娘の中でも、サイレンススズカは佳人薄命な淑やかさと危うさがある。そんな彼女の年相応な満面の笑みは成人男性にはちょっと眩すぎるかな。

 

 

 *

 

 

 その日、サイレンススズカは本当に一日中走り続けた。柵にそってレースのような走りをすれば、姿が点になるまで柵外の芝を掻き分けて走る。椅子に腰を据えたのは一度の食事休憩と、給水を挟む時だけ。速度を緩めても芝の上を離れることはなかった。少なくとも俺がタブレットを叩いている時間よりは長く足を動かしていた。

 

 太陽の光が橙色に変わり、帰寮を促してもその足の動きは途切れない。あと一本を片手が埋まる数くり返してようやく芝を離れる。ただ、それでも満足しないのが彼女の特徴。ここまで走っておいて残念そうな顔をするので、またここに連れて来ることを約束する。

 

 帰りの車では興奮気味に今日の景色や風の感触を語ってくれた。ただ、疲労は本人が捉えている以上に蓄積されていたのだろう。言葉が段々と途切れ途切れになり、気付くとすやすやと眠りに落ちていた。栗東寮の寮長に案内されて寝落ちした彼女を背負って運び入れる。寮は相部屋が基本であるが、彼女の同室者は既に今年度の夏に退学済み。今日を楽しんでくれていた彼女を一人にする若干の罪悪感は、起こさないようにベッドに寝かせることで補う。彼女から離れようとすると一瞬袖を引かれる感覚がしたので、就寝の言葉で区切りをつける。あとは階段で彼女の寝顔を見て「尊い……!!」と失神したウマ娘をついでに運んで寮を離れた。

 

 

 *

 

 

「さて、シバサキ練習場の芝はどうだった?」

 

 日が変わり、昨日同様に朝も早くからジャージ姿のサイレンススズカと顔を合わせる。よほど心地よく寝られたのか足取りに疲労はない。顔つきは以前より余裕がある優しいものになったが、瞳に強い信念を感じる。練習場選びが正解だったことに安堵し、帰りの車で話しそびれたシバサキ練習場と今後の練習の紐づけを行う。そのためにまず確かめたいのは、あの練習の芝をどのように感じたのかを言語化することからだ。

 

「とても気持ちよく走れました」

 

 あ、うん。そうではなく。

 

「走っている時、足の感触はどうだった?」

 

「柔らかくて、つるつるしていて、学園のより長くて、……あれ、これって走るのには──」

 

 流石、走りに関しての感性は抜群だ。──そう、彼女の考えは正しい。あの練習場の芝はレース競技としては欠点が多い。学園の芝は短く揃えられたものが踏まれ、土は毎日埋め直されている。ヒトの陸上競技で良いタイムが生まれるように細工されたトラックフィールドのウマ娘版だと思えばいい。しかし、先の練習場はその逆。芝は殆ど放置され、土の隆起も走ることに問題がなければ触ることは無い。

 

 では、何故そのような芝が練習場にあるのか。先に結論を示せば、それはフォームのリセットにある。骨格、適性、性格、一つ一つが誰かに似た要素が有れども、ウマ娘を構成した時に他の誰かと全く等しいことなど有り得ない。ウマ娘の数だけ自分にだけの正しい走りがあり、それを追い続けて練習を行うのだ。つまり、全員に共通した走り方の模範解答なんて存在しないのだ。

 

 しかし、全員に共通する間違えた走り方はある。膝を捻っていたり、利き足に体重が乗りすぎていたり、それらは怪我の原因と速度の低下を招く。だから、正しい走りは作れなくても、間違った走りは脱却しなければならない。そしてそれを行わせるのがシバサキの芝だ。

 

 芝が長いのならば、引っ掛からないように腿から足を上げる。

 芝が滑るのならば、地面に対し真上から力を加えて蹴り出す。

 土が隆起するなら、体幹でバランスを取って地形に対応する。

 

 癖のない綺麗な走りを作り、そこからまた自分の走りを探す。それがあの芝の役目だった。そして、ここからの学園練習はその経験をベースに自分だけの新たなフォームを作ること。答えの無い暗闇を行く根気勝負が始まるのだ。

 

 

 *

 

 

「楽をするな!! 次の勝負はマイルだぞ、周りと合わせる必要は無い!!」

「自由に走るのと何も考えずに走るのは別物だ。シバサキでの走りを忘れるな!!」

「そんな腕の振りで前に進めるのか……? 楽をするなと言ったぞ」

 

 久しぶりにシバサキに行ったせいか、それまで封じられていた記憶が甦る。先週まで微かに残っていた第三者の立場は消失した。一層指導者の色が強まり、それにつられて次第と口調までもが昔に戻った。決して無駄な距離を走らせたりはしないが、トレーニングも先週より峻厳になっている。走るときは冷徹な指摘が跳び、休憩中も粛々と改善作業を行う。体力よりも精神を擦り減らすトレーニングだ。俺の周りで怖がって萎縮している生徒たちでは耐えられないだろう。

 

「──もう一本、お願いします!」

 

 だが彼女だけは違う。俺の指導で周りが静かになるにつれ、サイレンススズカだけはその逆を行くのだ。走りは熱を持ち、指摘への返事は心が折れるどころか声量は上がっていく。少しずつ彼女の速度に体幹が順応し、全身から足裏に伝達する力からムラだけが減っていく。地面と直角だった上体は角度を減らすことでトップスピードの更新をくり返す。

 

 俺のトレーニングに付いて行く精神力、そして急激に成長する走り。それは他の生徒には畏怖するべき才能。午前練習と午後練習の三時間、それを証明した彼女はこの練習場で頂点に君臨する存在になった。汗を拭い、息を整えて給水にベンチに戻る彼女に生徒たちが道を開ける。トレーニング開始時に彼女を凡愚に見るような態度だった生徒など、今や逃げるように距離を取っていた。本人は意図していないだろうが独りでにオーラが溢れている。引退を勧告される生徒の宿す迫力ではない。何が暗闇を行く根気勝負だ。彼女は暗闇を独走して、自分のテリトリーに変えてしまった。

 

 

 *

 

 

 模擬レース前日、土曜日、曇り、降水確率20%

 

 暫定的だがサイレンススズカのフォームは完成した。『逃げ』を進化させた『大逃げ』もG2で戦えるタイムを記録している。領域や固有などの必殺技は生まれず、将来性を含めると6割程の走りではあるが、それでも十分な結果だ。シミュレーションでも、明日の模擬レースなら5バ身差つけて勝てる計算になっている。ドラマみたいに靴が脱げるような超イレギュラー(・・・・・・・)さえなければ今度こそ勝てるだろう。それに、今日の練習で必殺技を補うための代用技を覚えれば、さらに後続とのタイムを離せる。

 

「二次加速、ですか?」

 

 サイレンススズカが代替必殺技の名前を唱える。二次加速、意味はそのまま二段階目の加速だ。大雑把ならイメージは簡単、100M走を思い浮かべればいい。クラウチングスタートで踏み出し、体勢が斜めのままの数秒間、0から10にスピードを上げるのが一次加速だ。そこから体勢が整いトップスピードへと至る、10から100を上げる加速が二次加速になる。あとは100のスピードを出来るだけ保つのがヒトの短距離走だ。

 

 だが、ウマ娘が走る距離は1000M以上だ。それにゲートスタートでは一次二次の加速概念は余りない。使いどころが無さそうだから彼女も首を傾げた。しかし、ウマ娘には一つの単語で示せばこれまた簡単に捉えられる。二次加速は末脚加速の効率化であると。

 

 スタミナが減るにつれて落ちていくスピード、それを最後の直線で再び加速させる。並大抵の事じゃない。だからこそ末脚が強いウマ娘は才能有りと持て囃されるのだから。しかし、サイレンススズカなら可能だ。限界を感じないスタミナとトップレベルの速度は、末脚の加速手順を最短で踏んで一着を奪える。それに、末脚がゴールまで伸びずともそれでいい。相手の心を圧し折るための加速になれば儲けものだ。『大逃げ』で何バ身も離れている後方は、サイレンススズカが加速するだけで衝撃を受ける。もうゴールに着くのか、まだスピードが上がるのかと。追いつけないと思わせるだけで勝手に降参してくれる。

 

 では、ここからは二次加速の具体的な使用法について。ここ数日で調子を取り戻しているサイレンススズカには難しいプロセスはない。ウマ娘特有の前傾姿勢の走りのまま、一歩目でバランスを取って、二歩目の歩幅を体を沈ませるようにして大きく踏み込む。時速数十キロで走るウマ娘に速度を加えることは危険を伴うが、それを起こさないためバランス感覚と対応力を鍛えてきた。──こう思うと、あの黒い怪物三冠ウマ娘は最後の直線でこの危険を伴う二次加速を発揮し、そのままゴールまでそれを持続させるのだから恐ろしい。ただ、今回そんな無茶はしなくて良い。何度も言うが今は失敗しても相手の心が折れれば効果は有る。残すは二次加速を使用するタイミングだが、これの説明が難しい。一言ならばどうしても表現が雑になる。

 

「何となくここだなってタイミングで踏み込む」

 

「……な、何となくここだなってタイミングで踏み込む?」

 

 ウソでしょ、と喉まで出かかっただろう彼女を宥めて説明を進める。ヒトの短距離走では何歩で加速し、何歩でゴールに到着するなどと、レースに細かい歩数設定がされている。しかし、ウマ娘のレースは数千Mが当たり前、選手間の接触だってある。計画を完璧に遂行できることは偶然に近い。だからこそ、二次加速の使用タイミングはレースの流れを読んで選手が臨機応変に決定するしかない。少なくとも領域・固有を開拓したウマ娘は衝動が体を動かしたと言っている。必殺技など不確かな要素が多いのだ。だが、もし、使用を後押しする理由があるのとすれば──

 

「勝ちたい、前に出たい。その意思が一番の使い時だよ」

 

 恥ずかしい台詞で体温が上昇する。これまでの理論から一転して感情論だ。彼女も鳩が豆鉄砲を食っている。その顔を見ると更に背中が痒くなって、時間が固まったような感覚になる。苦笑いで滑ったことをごまかすと、彼女もこの空気に耐えられなくなって、ふふっ──、と優しく笑う。

 

「ええ、私もそんな気がします」

 

 

 

 *

 

 

 

 再び迎えた日曜日は、先週以上の快晴だった。風が強く吹き学園のチラシを飛ばしている。追い風、向かい風は有ってもレース開催に影響を及ぼすレベルではない。芝面も確認したが小石や土荒れも見当たらない。レース場は言い訳を許さない構えだ。

 

 マイル模擬レース、1600M・右周り・芝・16人出走

 

 模擬レースなのでスタートは1・2コースの外を代用して行われる。カーブ気味のスタートなので内不利だ。スタートの位置争いの後は直線が伸びる。ここが今回の癖が少ない場面。速度を出しやすく、それだけペースに遅れて脱落する生徒も出る。3・4コーナーの角度が急で減速を強いられ、ラストの直線は緩い上り坂になっている。最後を勢いで押し切るウマ娘には苦手にしている者も多いコースだ。

 

 サイレンススズカのは6枠12番。くじ運が光って不利は避けられた。スタート直後、内枠が寄ってくる前に『大逃げ』に入れるだろう。

 

 だが、どんなに状況が良い方向に傾いても緊張をする。メンタルが強い彼女でも朝食の量は少なかった。深呼吸をして心を落ち着かせる回数が多く、ストレッチ中も集中力が欠けている。これがダメなら今度こそ退学確定なのだ。緊張しない方が難しい。……そして、これで学園をクビになるだろう俺も胃が痛い。成功しようが失敗しようが彼女の練習に付き合ったのは学園に広まった。特定の一人に深入りして、尚且つ練習風景が鬼のようなのだから悪い噂も山のように増えている。

 

「緊張するよな、……その、大丈夫か?」

 

 体育座りでコースを眺めるサイレンススズカに掛けた言葉は、俺自身に投げかけた質問でもある。

 

「……そうですね。まだ少し、ほんの少し怖いです」

 

 膝を抱えている手が僅かに震えている。少しと言いながら余裕など全くないのだ。アスリートでも良いイメージを浮かべるより、悪いイメージの排除に集中してしまう人がいる。今の彼女はそちら側、このままだと折角アップで温めた筋肉が緊張で固まってしまう。着ていたコートを雑に被せ、そのまま俺も隣に座る。

 

「だよな、俺も吐きそう。それに指も緊張で冷えてる」

 

 彼女の視界に入るように指を振る。すると彼女は手を膝から離して、俺の人差し指の先をゆっくりと抓む。そのまま俺の指先を揉むと、──本当ですね、と言って僅かに口角を上げる。彼女の指から伝わる体温も低い。

 

「だからこそ、ここで勝てたら楽しいだろうし、それにもっと走るのが好きになる」

 

 彼女の資料の一つ、入学理由に記された彼女の強い思い。子どもの頃に経験したレース、そこで得た景色。誰もいない空間を独走していくことが彼女の原点。風を感じ、芝を感じ、何者にも汚されていない景色に到る。それを重ねて、それを追いかけて、また走ることが好きになる。走ることだけはプライドを持っていた。

 

「不安があって、後悔があって、それでも君は譲れない一つのために走ってきた」

 

 だから、ここの生活は辛い経験ばかりだ。誰かから求められた走りでは、追いかけてきた景色に届くことはない。期待は重圧に、走ることが義務に変わってしまった。それでも諦めなかった。残った希望を信じて学生の嫌われ者にも臆せず向かってきた。

 

『10分前になりました。移動を開始してください』

 

 スピーカーから選手の集合を呼びかける放送が流れた。サイレンススズカはゲートへ、俺は見物席へ移動だ。張り付いた葉を落としながら腰を上げる。そして、横で立ち上がろうとしている彼女へ手を差し伸べる。彼女の目線が手から腕を巡って俺の目と交差する。伸びる細い手を掴んで引き上げる。

 

「ゴールで待ってる」

 

 手を握ったまま伝える。君を信じている、君は勝てる、全部を含めた一言。もしかするとプレッシャーになるのかもしれない。ただ、だとしても──

 

「──はい、先頭で帰ってきます」

 

 握られた手から震えは無くなっていた。

 

 

 *

 

 

 今回のレースで授けた戦術は二つ。『大逃げ』で走る。そして二次加速で後続を突き放してゴールする。他は本人の判断に任せている。……まあ、『大逃げ』は本人のペースで走ることなので、本質的には戦術は一つだけ。それで勝てると計算して作ったプランなのに、ゲートインする姿を見ていると何度も間違いがないか確かめてしまう。

 

 模擬レースに公式のような管楽器のファンファーレはない。静寂の空間でゲートシリンダーの軋む金属音がするだけ。生唾を飲むことさえ憚られる緊張感は、出走者がゲートインする時間を何倍も長く感じさせる。

 

 その空気を破るのは音を出していたゲートだ。全出走者がゲートに入ったことを確認し、係員が仮設テントへとサインを出す。それを受け取った本部が手元のスイッチを傾ける。鉄を叩いた音と共にゲートからウマ娘が跳び出した。

 

 よしッ、スタートは成功した。

 

 やはりサイレンススズカは別格だ。内側が膨らむ前に集団から抜け出すどころか、最初の加速だけでバ身差を離した。緩やかとはいえカーブだ。スピードに乗ることは容易ではないが、それでも彼女は先に抜け出したことで余裕を持って場所を使えている。邪魔が無ければ腕を斜めに振ってバランスを取っても失格を受けない。上手くスピードに乗った。そして予想通り『差し』位置では激しい位置取りが発生している。『追込』まで後ろに下がれば体力も削られないだろうが、あれでは後半の伸びに悪影響が出る。

 

 向直線に入る。サイレンススズカは暴走に思われているだろう速度を維持し、彼女と二番手の距離は更に引き離される。強い追い風と共に走る彼女に追い付けるウマ娘はいない。観戦席のあちこちでその速さに驚きの声が上がり、出走者名簿を捲って詳細を探っている。ここにいる出走者の担当トレーナー、チームメイトのウマ娘、学園関係者、その視線を一気に奪って勝利に突き進んでいる。不安は一気に反転し、興奮が心臓のリズムを速める。許されるなら立ち上がって大手を振って高笑いし、あれが復活したサイレンススズカだと自慢したい。

 

 向直線を終え、3コーナー突入時で5バ身差だ。ここからは更に『二次加速』がある。大差も射程圏内に入った。勝利を確信した……。

 

「後続で転倒だ!!」観戦席から声が上がった。見ると無理に抜け出そうとしたウマ娘が転倒し、その場で膝をついていた。だが、問題なしと考えた。サイレンススズカは二番手を引き離して先頭だ。走りの邪魔にもならなければ、審議対象者にもならない。このまま3・4コーナーを駆けてゴールと考えるのが当然。しかし、勝利の女神は彼女に絶望的な試練を与える。

 

 

 ──何故、ゼッケンがあんな所にあるんだッ!? 

 

 

 3から4コーナーに移り変わった地点、芝の上に白色のゼッケンが横たわっていた。急いで倒れたウマ娘に視線を寄越す。──やはりだ、彼女の体操服からゼッケンが消えている。他のウマ娘との接触で布が切れたのか。だがどうしてそれが4コーナーまで……、クソッ、今日の強風があそこまで飛ばしたというのか!? 転倒者に係員が集中して、観客席しかゼッケンに気が付いておらずレース停止の呼びかけがない。彼女は既に3コーナーに入っている、猶予は無い!! 

 

「速度を落とせ!! スリップするぞ!!」

 

 声を荒げても距離が遠くて届いておらず、彼女もゼッケンに気が付いていない。まさか、カーブのせいで彼女とゼッケンの間に柵が挟まって見えていないのか? 

 

 そう推理した瞬間には間に合わない。3コーナーを終えた彼女が姿を現した。そしてすぐ彼女の足が白い布を踏みつける。スロー映像のように膝から力が抜け、上半身が沈んでいく。周りの生徒が悲鳴をあげて手で目を隠す。転倒すればレースに戻ることは出来ない。それどころか彼女の速度での転倒は重大な怪我を負ってしまうに違いない。嘘だろ。ここまでやって、こんな幕切れなんて……。

 

 

「───スズカ!!」

 

 

 

 *

 

 

 

 第3コーナーを曲がってすぐに視界がガクッと落ちた。遠くから悲鳴が聞こえ、落ちていく視界の端に白い布が見えて事態を理解した。私は転倒しているのだと。でも、もう遅い。バランスを持ち直す前に右頬に柵が擦れる感触がして、擦れた熱さが事態を夢ではないと語っている。地面に視界面積をどんどん奪われ、それまで感じていた風が止まってしまう。

 

 ここまで完璧に走れていたのに。もう少しでゴールなのに。トレーナーさんといっぱい練習したのに。また、あの景色が見られるかもしれないのに。流れるように悔しさが滲む。それなのに体は動かなくて、地面の衝撃に耐えようと脳が意識を切ろうとしている。

 

 そんな、また、私──……

 

 

 

 

 

 

 

 ───スズカ!! 

 

 

 トレーナーさんの声が聞こえた。初めて私の名前を呼ぶ声が聞こえた。閉じかけた目が開いて、諦めるなと視界がクリアになっていく。蘇った脳が見せるのはトレーナーさんが必殺技の代わりに提案してくれた技術。

 

『二次加速のタイミングは勝ちたい、前に出たい。その意思が一番の使い時だよ』

 

 ──それなら今だ。転倒は免れないが速度は落ちていない。滑って足が使えなくても、まだ手はいつものように動く。諦めることなんて何もない。受け身を取って回転で衝撃をいなし、その回転を利用して立ち上がることが出来れば。無謀でも、無茶でも、トレーナーさんが私をゴールで待っているなら──、やってみせる……!! 

 

 衝撃を左腕で構えて待ち受ける。手の平が土の柔らかさを感じたタイミングを逃さず、一気に体を丸めて限界まで地面を蹴り上げる。打ち付ける感触が腕から肩、背中から腰と巡っていく。衝撃が腰から抜けていくのと同時に体幹に力を入れる。右手の肘から甲を芝に擦って回転を止め、左足の裏で土を掴む。上半身は再び空に伸び、視界はゴールを捉えた。シバサキの芝で必要だと分かったバランス感覚を鍛え直した成果が発揮された。

 

 走っていた力は、回転で流した慣性をそのままゴールに向けている。この勢いを逃してはいけない。右手で芝を掴んで、左足で地面を蹴り込む。奥歯を噛みしめて、立ち上がる。まだ私は走れているのだ。転倒開始時のようなスローな感覚は、足に伝わる全身の熱はそれを鮮明にする。

 

 体が痛いことも、頬から血も出ていることも関係ない。トレーナーさんと手に入れた『大逃げ』と、この『二次加速』で最後の直線を全力で走り切る。

 

 

「───先頭の景色は譲らない……!!」

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 3月に入り暖房の温度を徐々に下げる日々になった。先月の寒さは姿を消し、木々が春の温かさを示す。窓から見える桜のつぼみが緑色に変わり始め、そのサイズがまた一つ大きくなってきた。来月の入学式には満開の花を咲かせるだろう。

 

 だが、この学園端の狭い部屋で珈琲を啜り、液晶画面を睨む作業に変化はない。画面に映るのは学園のチーム状況や備品の管理などなど。詰まるところ面白くない業務を作業的に処理する日々は継続状態だ。しかし、春先の急ぎの仕事は殆ど片付いて、時間的な余裕が帰って来たのは大きい。久々に実家に電話が出来て、練習場のお礼が言えた。それに個人的な勉強に使える時間が増えたことは嬉しい。

 

 そして特段嬉しいのが、悩みの種であった退学者リストの更新が終了したことだ。先週の週末に最後の退学勧告が終わり、その生徒から泣きながら退学届けを受け取った。それで勧告リストは空になり、正式に全退学者が決定。週明け、つまり今日、最終版とされた退学者だけのリストが上がって、内容を確認することなくデスクに置かれている。規則で保管しなければならないが、今後開くこともないだろう。読んで嬉しい書類でもない。

 

 もし、俺が今後読み返すことがあるのならば、それは最終版の一つ前の勧告者リストだろう。勧告者リストの最後に載ったマイナス1の数字は、彼女の成功を称えるものだ。

 

「あの、……トレーナーさん? どうかしましたか?」

 

 先月の学内MVPらしい彼女は、人参ティーなる茶を飲みながら宿題を解いている。なんでもない、と返して目線を液晶に戻す。仕事部屋に彼女がいるのは未だに違和感がある。それに、彼女を見ると模擬レースの活躍が甦って、仕事中だというのにレースの録画に手が伸びてしまう。それほどに凄いことをしたのだ。

 

 

 マイル模擬レース、サイレンススズカは大差で一着を取った。

 

 

 転倒を回転受身でカバーし、最小限のタイムロスでレースに戻った。そこから二次加速に入ると『固有』を発動し、後続を更に引き離しての勝利だ。本人は無我夢中で、『固有』を発動したことはレースを終えて話をするまで気が付いていなかった。恐らく例外的な事態に集中力が限界に到達して、二次加速が身体と走りに直結化したのが理由だ。練習が生んだ必然であり偶然の賜物だ。その後、意識的な『固有』の使用は出来ていないが、それが出来たという事実は今後の成長材料になる。

 

 それに、その事実が学園に広まったことも良い影響になった。模擬レースの結果は一着。そしてそれは学内同一距離レースの直近三か月レコードでもある。学内レースの数、そしてそれに出走する生徒の人数が少ない時期ではあるがレコードだ。退学間際の生徒がレースで転倒し、『固有』を発動、そしてレコードを記録。学内が盛り上がる要素だらけだ。

 

 結果、サイレンススズカは学園の時の人になった。急増したファンが写真やサインをお願いするため教室が集まり、ライバル視した生徒からはレースの誘いがある。つまり、勧告を打ち消したのは模擬レースの結果であるが、同様に生徒からの存続の要望が大きかったのだ。順番的には努力、勝利、友情、である。感動的なフィナーレだ。

 

 ──で、俺はクビですよ。正式に決まりました。

 

 理由は今回の件で職務範囲外の行動を取ったこと、サイレンススズカに関わりすぎたことだ。いきなりクビはどうなのかと思うかもしれない、でも今回の処分に言い返せない理由がある。──理科室で発光してみたり、委員長とバクシンしてみたり、名家のお嬢様とラーメン屋に行ってみたり。今回の件が引き金であっても蓄積していた罪が多いのだ。……素直に受けるしかあるまい。

 

 それこそ今日の午前中に判も押して、今年度、つまり残り数日で辞することを選んだ。学園長と上司も俺が全く抵抗しないことに驚いて、「あの、本当に良いのですか?」とまで言い出した。次の仕事でも紹介してくれる用意があったのだろう。学園長の扇子に紙が挟まっているのが見えた。

 

 だが、サイレンススズカが自分の手で未来を掴んだなら、俺もそうする必要がある。そのために既に手は打ってあるのだから。

 

「──よし、これで条件はクリアだ」

 

 15時と同時にとあるサイトに入る。空欄に数字を打ち込み、マウスを数回クリックして目標のページに到着。カーソルで数字をなぞって手元の紙と照合する。間違いがないか3回見直した後、タブレットとキーボードを解除、タブレットとデスク上の書類を持って席を立つ。すぐ戻る、とサイレンススズカに伝え部屋を離れた。さあ、目的地は生徒会室だ。

 

 

 

 *

 

 

 

「ああ、君か。……理事長から聞いたよ、学園から離れると」

 

 生徒会室ではルドルフ生徒会長が机で仕事をしていた。部屋に入ったのが俺だと分かると、辛気臭い顔で俺の退職トークを始めようとする。ただ俺はそんな話をするために来たのではない。手に持った書類を机に叩きつけて会長の話を中断させる。

 

「サイレンススズカが所属していたチームトレーナーの報告書です。理事長にも渡しましたが会長も確認してください」

 

 サイレンススズカがチームから契約を破棄されて俺の下へ来た時に違和感は有った。そのままなら数日で退学になる生徒を何故捨てたのだろうと。チームメンバーが一人でも多い方が次年度支給される部費は多くなる。自分の指示を聞かなかったからだとしても、放っておいて残す方が利益になるのだ。

 

 だから模擬レースが終わり、余った時間で違和感を叩いた。そして叩けば埃が出た。交通費の虚偽報告、名前が消された領収書、パワハラのもみ消し。これまでチーム外に漏らさず俺や上司の目を誤魔化していた手腕は見事だが、サイレンススズカのおかげで捕まえられた。そう遠くないうちに学園から姿を消す、……消されるだろう。

 

「そうか、やはりか。──残念だよ」

 

 やはりか、と言うなら会長も薄々察していたのだろう。ただ、生徒会長では素行調査できるのは生徒に関してまで、職員レベル以上に捜査の手を入れることは許されていない。俺の退職とトレーナーの不正、生徒会長はダブルショックを受けてさらに気分を落とす。……ああ、偶にしかお目にかかれない『しょんぼりルドルフ会長』だ。

 

「ふッ──、では次はこれをご覧ください」

 

 笑うのを堪えて今度はタブレットを渡す。会長は落ち込み顔に疑問符を浮かべ画面をのぞき込む。画面には小さなサイズで6桁の数字が一つだけ映っている。会長は俺の意図が分からず疑問符を増やして首を傾げる。いつもあれだけ察しが良いのに、しょんぼりすると頭まで止まってしまう。仕方がないのでハガキサイズの紙を一枚渡し、そこに書かれた文字を読ませる。

 

「……トレーナー資格再取得試験、──ほ、本当かい!?」

 

 寝ていた生徒が怒られるように席から立ち上がる会長。急いでタブレットに映る合格者ページと手に持った受験票の番号を比べる。何度比べたって同じ数字が並んでいるだけだ。落ちていれば見せないだろうに。あと、喜んでくれるのは嬉しいけど受験票がぐちゃっとなってる。それにあまりの喜び様に、別の机で仕事している副会長が見て見ぬふりしてるから。

 

「今丁度、学園のトレーナー枠が一つ空いたので応募しようかと」

 

「そ、そうか。そうだな、それが良い!! 応援するとも」

 

 サイレンススズカの元トレーナーがどうせ居なくなるのだ。マッチポンプ感は否めないが、チャンスがあるなら縋るしかない。

 

 会長からタブレットと、折れた受験票を返してもらって生徒会室を後にしようとする。すると、いつかのように背中に会長が呼び止める声が届く。足を止めて振り返ると、責任を感じた顔の会長が見つめていた。

 

「本当に良いのか。だって君は──!!」

 

 君はウマ娘が嫌いだ、だろうか。ウマ娘が好きな生徒会長が言いよどむなら大体予想がつく。それに自分がしつこく迫ったせいで俺が無理をしている可能性を考えたのだろう。だが別にそんなことはない。トレーナーを辞めたのも、また始めるのも自分で決めたことだ。

 

「しつこいぞ、ルドルフ(・・・・)。今度はお前との約束も叶えてやるから、信じて待ってろ」

 

 ルドルフに背中を向けて手を振る。少し冷たい対応になったが、悠長に話せる時間は取れない。これから理事長にも同じ話をしなければならないし、それに学園トレーナーに戻ったわけでもない。履歴書に埋めなければいけない欄が残っている。正式にトレーナー業に就くまでは忙しい。

 

 だが、一番大事なことは伝えたつもりだ。トレーナーに戻る意思、そして途中だった約束を叶える決意があると。……だから、もう少し待っていてくれ。

 

 

 

 *

 

 

 

 平静を取り戻した生徒会室では、二人のウマ娘が今起こった出来事について顔を見合わせていた。一人は金魚のように口を開閉し、もう一人はそれを呆れと好事を織り交ぜた顔をする。

 

「聞いたか、エアグルーヴ。私の名前を……」

 

「ええ、言いましたね。久しぶりに聞きました」

 

 空耳でないことを確かめると、ふむふむと満足げに頷く。再びトレーナーとして帰ってきたことは喜ばしく、生徒の長として振舞ってきた彼女には珍しく乙女のように心躍る気分だろう。本人はその感情を隠しているつもりだが、同室者が指摘していないだけで満面の笑みである。

 

「おっと、こうしてはいられないね」

 

 ふと我に返ると、慌ててパソコンに何かを書き込む。画面の文書アプリから新規の紙を用意し、ぐるぐると指を回して次に叩くキーを選ぶ。悩むこと数十秒、書き込むことが決まりキーボードを叩き始める。白紙に並べた言葉に再び満足気な表情を見せると、席を離れて上機嫌で副会長を連れてカフェテリアへと向かうのだった。

 

『現役復帰計画』

 

 皇帝が帰る日は遠くない。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 学園の至る所で新入生をチームに勧誘する活発な声がする。その生徒の声を聞きながら段ボール開けて引っ越し作業を進めるのが俺の最初の業務だ。新しく与えられた部屋は以前の3倍あり、これで気温に困らないであろう巨大なエアコンが設置されている。染みついた珈琲の匂いはせず、今鼻を通るのは段ボールと窓から風に流される桜の香りだ。

 

 今朝、元上司、たづなさんから受け取った小包から学園のIDカードを取り出す。硬いカードには俺の名前と真顔の写真が確かにある。同封されていた紐付きの透明なホルダーにカードを入れる。スーツ姿に首から下げられたIDと胸元のトレーナーバッジ、似合わないのでカードは胸ポケットに突っ込むことにしよう。堅苦しいのは苦手だ。

 

「トレーナーさん、お待たせしました」

 

 現在、我がチームのたった一人のメンバーであるサイレンススズカがやって来た。二人で試行錯誤して作ったチラシをコピーして抱えている。

 

 早速だが俺たちの立場は再び危ない。チーム人数が圧倒的に足りていないのだ。チームの最低人数は生徒五人。数年前に導入されたチーム競技のせいで、短距離、マイル、中距離、長距離、ダートの五つの全てにチームとして出走しないといけない。それも同一選手は一つの距離までの制限もある。一つをサイレンススズカが走るとしても、残り四つはがら空き状態だ。新規チームなので少し猶予が長いが、稼いだ時間は入学日から一か月だけ。つまり、今日から一か月だ。

 

 彼女が印刷してきたチラシにエラーが無いかを確かめる。引っ越し作業は中途半端だが善は急げ。早速ビラ配りに出向こうとサイレンススズカを誘おうとする。だが、肝心の彼女は恥ずかしそうに耳を伏せている。チラシのデザインに自信が無くなったのだろうか。俺はこの人参君も蹄鉄ちゃんも個性があって好き「あの──!!」……なんでしょうか。

 

「まだちゃんとした自己紹介をしていないなって……」

 

 思い返せば最初に俺に訪ねてきた時は現状の問題を聞くことに集中していた。その後も模擬レースが終わるまではトレーニングで忙しく、模擬レースが終わっても俺はトレーナー資格の再取得のための試験勉強に追われていた。一方的に知っているから忘れていたが、彼女は俺のことなど殆ど知らなかったはずだ。……門出には丁度いい、しっかりと挨拶をしてこのチームを開始しよう。

 

 

「芝崎走一、トレーナーと呼んでくれ」

 

「サイレンススズカです。よろしくお願いします」

 

 

 風の中で握手が交わされる。ヒト一人とウマ娘一人。この一室から『トゥインクル・シリーズ』を引っくり返すチームが現れる。

 

 レグルス、それは最も小さく、最も強かったチーム。皇帝と共に消えた星が再び煌めき始めた。

 

 

 

 北海道からの転入生

 地方ダートのエース

 怪我に苦しむ怪物

 お祭りと演歌の新入生

 

 

 

 ──星は輝いている。

 

 

 

 

 

 完

 




完走した感想(今回の読み切りについての活動報告)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=280844&uid=15254
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