ウマ娘に責任を取らされる成人男性   作:もちもち大根

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※文字数・独自解釈注意


キタサンブラック編

 

 子どもの頃から桜が好きだった。そこに一本通る軸のような理由は無く、意識がはっきりした年齢から何となく好きになっていた。理論と情報を用いて物事を解決してきた俺にしては、ただ訳もなく花を愛でることは珍しい。まあ、春を体現した淡紅色が視界を覆うように咲き乱れるのは綺麗であり、見ていて飽きることは無い。それに、花見などは参加者が日常を忘れて飲み食いするのだから、そういう意味でも気持ちが良いものである。他には桜という字のバランスが好きだとか、なんとなく音の響きが可愛らしいとか。結局のところ細かい理由は有れども、やはり桜を好きになる根本的な理由は見つからずにいた。

 

 そしてそれはトレセン学園でトレーナー業に就いた後も迷宮入りのままだ。いつしか自分の心に問いかけるような子どもの俺は姿を消し、その当時はウマ娘を育成することだけに全力を注いでいた。学生時代に新しい出会いを感じていた桜もその楽しみ方を変え、父のように桜を酒のつまみに仕事の疲れを癒すための対象になる。特に好んでいたのは満開の夜桜が持つ哀愁と美しさであり、思い出されるのはトレセン学園に春が訪れると秘密裏に楽しんでいた季節行事のことだ。

 

 こっそりと夜の学園に酒とつまみを持ち込み、トレーナーの権力で手に入れた鍵を使って屋上へ忍び込む。そして学園を染める夜桜と遠くで輝く都会のネオンの景色を眺めて、桜の乗った春先の冷たい風に煽られながら食事を取る。少し焦げのある焼き鳥に、触感の強いタコと胡瓜の酢の物、そんな簡単な料理が外ご飯効果と景観の良さで何倍も美味く感じるのだ。

 

 そうして少し酔いが回ってきた時に担当ウマ娘が現れる。その日の練習を終えて、しっかり汗を流した後に学園の見回りと称して花見に参加する。しかし、その手にはしっかりとここで飲むためのソフトドリンクが握られ、遠慮がちに俺の隣に腰掛けるのだから可愛い奴である。話し相手が登場したことで俺は調子に乗り、酔った勢いで本人を横にそのウマ娘の武勇伝を語って、彼女は照れながらドリンクを飲む。数分経つと気分が良くなった彼女もダジャレを連発していて、俺も馬鹿みたいに笑い声をあげるのだ。

 

 そうすると副会長が怒り心頭でやって来る。貴方たちはトレーナーと生徒会長の自覚があるのかと、お決まりの台詞を添えて。どうせ反省しない俺たちは形だけの謝罪を入れ、宥めるように紙カップを渡して飲み物を注ぐ。小言を吐く彼女が腰を下ろせばお決まりの形の完成だ。俺が笑って、ルドルフも笑って、エアグルーヴは溜め息交じりに笑う。夜桜の中で立場を忘れて好き勝手に言葉を発し、ただ純粋にその空間を楽しんでいた。

 

 そして、最後に屋上に来ていたウマ娘も笑顔でその輪に混ざるのだ。先輩たちの話に耳を傾け、誰よりも楽しそうに反応を示す。それがレースの話でも、学校の出来事でも、遊園地に来た子供のように身を乗り出すのだ。彼女にとっては学園全てが新鮮で、全てがレースの糧、バカに真面目で明るかったのはハッキリと記憶にある。そして、いつか皆さんみたいになりますと、彼女が桜に誓って花見が締まるのだ。その瞳を輝かせながら、心の底から自分の未来に希望を抱いていた。──そんなウマ娘がいたのだ。

 

 

 

 *

 

 

 

 今年もトレセン学園に春が訪れた。全国から猛者と称えられたウマ娘たちが何百人も入学し、自分たちが目指す理想に向かって走り出している。とはいえ、入学から一週間が過ぎて今年も既に自主退学者が出たとか出ないとか。秘書補佐で無くなった俺に届く情報は不確かなものだが、火のない所に煙は立たぬと言うものだ。グラウンドから聞こえる生徒の活気が来年の春まで少しでも多く残ってくれることを祈るばかりである。

 

 しかし、今は他人のことより自分の心配だ。春だからとタンポポのように浮かれていて良い立場ではない。数か月前にサイレンススズカを救い、チームとして動き始めた矢先に早速問題が発生している。しかも、その問題は今後のトレーナー業に関わることであり、厄介なことに現状では解決策を導き出せていない。この数日間で色々と模索しているが、サイレンススズカの一件以上に手札が少ない状態で戦っていると言ってもいい。

 

「……チーム過疎!!」

 

 椅子に座ったまま上半身を投げ出す。ぶつけ所の無いストレスが疲労になり、相変わらずの肩こりの音が新品のトレーナー室に響き渡る。新年度が始まったばかりなのに、お先が真っ暗と来た。

 

 我がチームレグルスが抱えている問題は【人数不足】である。有望な新入生が続々と所属先を決める中で、未だに我がチームへの新規加入者は現れない。チームの加入ならまだしも、体験入部どころか見学を申し込む生徒すら訪れないのだ。

 

 勿論、行動は起こしている。校内の掲示板は余すところなくポスターを張って、毎朝チラシ配りを行う。それもチラシ配りに関してはスズカ一人に任せているのだ。俺が配っても生徒が怖がって受け取らないのは初日で判明済み。日々日々チラシの枚数は減っているので、生徒が受け取っているのも確かだ。それならば、宣伝自体が基本的な手法でも認知されていないとは考え難く、生徒が来ないならば認知度以外の原因が考えられる。

 

 ──それならサイレンススズカさん、もしくは芝崎走一(あなた)の評判が悪いのでは? 

 

 たづなさんに人数不足の相談をした際に言われた言葉が頭を過る。ただ、言わずもがな問題の原因は後者だ。絶対にサイレンススズカでは無い。マイル模擬レースでの復活から約一か月半、彼女は期待以上の成績を出し続けている。例えば、先週末に東京レース場で行われた特別競走などは素晴らしい走りであった。スタート直後から二位との距離を一気に引き離し、歓声を独り占めにする完璧な『大逃げ』を披露した。それはもう貫禄のある走りであり、一般観客の入ったレースが2度目だと言って誰が信じようか。

 

 さらに、これらのレースの結果に伴って名前が売れ始めている。模擬レースに尾ひれが付いて噂として広まり、それが下地となって彼女のレースがSNSで拡散されている。『大逃げ』の走りは特徴的で覚えやすく、実力も備わっているので着実にファンが増加している。加えて容姿端麗なことでレース以外の需要も生まれ、今週も取材の予定が二件あり、他にも依頼のメールが複数件届いているのだ。この少ない人数と短い期間でここまでの外部の評価を得られるのは嬉しい誤算と言うしかない。

 

 学内生活でもイメージを損なう行動はしていない。練習は朝から晩まで取り組み、それでもって勉学も問題なし。コミュニケーションも以前より円滑になり、ファンの生徒にだって丁寧に対応出来るようになった。

 

 ……つまり、彼女の成績と人気以上に俺の悪評の方が強いのだ。それを事実として突きつけられるのは流石に堪えるものがある。サイレンススズカのように良い評判であれば、相手も素直に心の内を話してくれるから何を考えているのかが分かる。しかし、悪評であれば発信者の名前は伏せられて、こちらが弁解したところで相手に届くかさえ微妙だ。過去の仕事に不満は無いが、マイナスの好感度を盛り返すことの大変さが今まで以上に身に染みている。

 

「──っと時間だ」

 

 午後の授業が終了したことを伝えるチャイムで意識が現実に引き戻される。急いでジャケットを羽織って、普段はポケットに入れているIDカードを首から下げる。姿見で問題が無いことを確かめてトレーナー室から廊下へ。グラウンドに向かう生徒の流れに逆らい、チラチラと冷ややかな視線を浴びながら目的地である中等部の教室へ向かう。こうして正装にしたのも一応のマナーというより、こういった生徒に怖がられないための偽装工作に近い。一部の生徒以外には、正規職員としての色を強めて会わなければ余計な噂を流されてしまうこともあるのだ。……つらい。

 

「あー……、転入生いる?」

 

 放課後の教室を覗きこむと十数名の生徒が残っており、一人の生徒を囲むように談笑していた。談笑するには人数が多すぎるが、それは転校生を囲んで質問するためであって、実際は喋らず見物人として参加している人数の方が多い。同学年のクラス数が多いトレセン学園では珍しい転入生だ、彼女が戸惑いながらも質問に答えるだけで教室内は随分盛り上がっていた。

 

 しかし、その楽しい学生イベントに俺が介入したことで教室内が静まり返り、廊下で受けたものを上回る冷遇な視線が集中する。若干名の顔見知りである生徒が手を振ってくれているが、それでも教室の空気は極寒状態だ。転入生が最後に俺を視認すると、スクールバッグを抱え、半分逃げるようにクラスメイトに挨拶を済ませる。彼女が廊下に出た瞬間に扉を閉めて冷たい視線を遮断、約一分間繰り広げられた無言の攻防に終止符を打つ。──さて、ここからは気持ちを入れ替えて仕事をしよう。

 

「今回学園案内を担当する芝崎です。よろしくね」

 

「はい、スペシャルウィークです!! よろしくお願いします!!」

 

 元気よく頭を下げるのが今年度の中等部3年で数少ない転入生である。髪型は黒のボブカットをベースに、白い前髪と三つ編みのハーフアップ。身長はスズカより数センチ低いが、ウマ娘としては年齢以上に体が出来上がっている。実際その体の強さは編入試験の実技科目で発揮されており、全体タイムこそ抜きん出た結果では無いものの、彼女の太いトモから生まれる末脚は目を見張るものがあった。しかし、年齢以上に成長した体とは裏腹に思考は素直で幼く、思ったことを素直に喋ってしまう。面接でも理事長を見て「小学生の子がいる」と口を滑らせていたのは実に面白かった。──総評、才能の原石で田舎出身の人懐っこいウマ娘というところである。

 

「んじゃ、まずは体育館からな」

 

 そんな彼女を連れて学園案内を開始、まず見て回るのは競技者向け施設である。体育館からグラウンドまでを巡って、各トレーニング施設の効果的な用途と予約などの使用方法を教える。故郷の田舎町で唯一のウマ娘であった彼女にとっては多くのウマ娘が走っているのは新鮮なのだろう、一つ一つの練習風景に声を上げては紫の瞳を輝かせている。

 

 その次は学習のために利用する施設の案内だ。音楽室や家庭科室などの専門教室、理科室は面倒なヤツがいるから地図で位置だけ教える。これらの教室はトレセン学園であっても普通の学校と特段の違いはない。まあ、各専門教室が第三室まではあって、大学レベルの機材が揃っているくらいだ。少なくともカフェテリアと食堂が無料なことに今日一番のはしゃぎようを見せている彼女には無関係なのだろう。

 

「やっぱりトレセン学園って凄いです!! こんな所に転入出来ただなんて、芝崎さんになんてお礼をしたらいいのか……!!」

 

 スペシャルウィークは学内地図を握りしめて感動を噛みしめる。彼女が言ったお礼というのは編入試験の面接官兼、諸々の手続きの担当が俺だったからだろう。去年秋に彼女の母親からの転入について質問されたことで始まった関係だったが、気が付けば正式に転入するまで手続きを担当していた。

 

 それに彼女は知らないが、実技試験のレースが及第点、筆記がボロボロの落第点数であった彼女を転入最後の一枠に押し込んだのは俺だ。彼女というウマ娘が掲げる目標は他の受験生よりも意志が固く、この学園で戦い抜ける強さがあると評価した。しかし、俺は戦うために必要な要素を評価しただけであり、与えたのは機会だけだ。今後レースで勝てるかは分からないし、学園に残れるかも彼女次第である。──まあ、それは理事長秘書補佐としての考えであり、それを辞めた今は一人のトレーナーとして喉から手が出る程スカウトしたいわけだ。

 

「礼なら要らないよ。学園を楽しんでくれたらそれで十分」

 

 嘘で固められた職員用の台本を読む。普段の俺ならこんなことは言わず、学園の厳しい現実について意識付けるだろう。しかし、新しい生活に心を躍らせる生徒の前では流石に優しさが勝る。それにこの学校案内はクラスメイトとの顔合わせが上手くいっているのか、新しい生活に馴染むことが出来るかの再確認が含まれている。コミュニケーション力とメンタルの強さは面接試験で測っているが、それとは別に新しい環境に馴染めないなどの問題は現実に起こる。

 

 ただ彼女の話を聞いていると、既にエルコンドルパサーとグラスワンダーを中心として関係が作られているらしい。新生活に戸惑うことはあるが、これなら順調に学園生活に馴染めるとのことだ。この様子なら親しい友人になれる日も近いだろうし、あの辺りの生徒なら互いに刺激し合えるだろう。転入に関わった人間としては喜ばしいことだ。

 

 そして、喜ばしいことがもう一つ。どうやら人生で初めて憧れのウマ娘ができたらしく、学園生活に俄然やる気が出ているらしい。しかも、そのウマ娘は入寮日に見たレースで一目惚れしたウマ娘であり、なんと我が校の生徒だと言う。

 

「サイレンススズカさんが綺麗でカッコよくて!! 私の憧れなんです!!」

 

 その一言を皮切りに、強い圧で我がチーム唯一の選手について語り始めた。レースとウイニングライブは夢見る少女のような詩的な表現で纏められ、容姿の美しさは前提条件として、性格までもが完璧だと褒めたたえる。さらには運命的にも寮が同室であり、転入後の短い期間で色々とお世話してもらっているらしい。彼女曰く、自分がイメージしていた完璧な都会のウマ娘さんらしい。

 

 担当トレーナーの俺が嬉しさよりも、若干引いてしまう熱量である。面白いからと彼女たちを相部屋にしなければ良かったのではと、過去の自分の仕事に不安が芽生えた。……ちょっとだけ、ほんの少し、数ミクロンだけサイレンススズカが襲われないか心配になる。

 

「だから、私もサイレンススズカさんがいるチームに入りたいんですけど……」

 

 しかし、彼女の所属チームの話になると笑顔が一転する。しょぼしょぼと落ち込んだ生徒会長のような表情で口から漏らすのはレグルスのトレーナーの噂、──俺の噂についてだ。余計なことを吹き込んだのはクラスメイトや体験入部先の生徒たちで、冷徹無慈悲な悪魔のトレーナーに死ぬほど走らされるだの、囚人のような管理をされるだの言われたらしい。それが母親から言われていた『都会の人間に気を付けろ』という注意と被り、踏み出せないとのことだ。おいおい、死なせる訳がないだろう。……命を懸ける覚悟が必要なくらいである。

 

「……なら、俺のチームに少し寄っていかないか? チーム探しのヒントが有るかもしれない」

 

「ほ、ホントですか!! 何から何まで、本当にありがとうございます!!」

 

 この反応、噂のトレーナーが俺とは知らずに喋っている。元々体験入部の誘いをするつもりで案内係を申し出たが、それなら正体は秘密にしたままトレーナー室まで連れて行こう。放課後になってサイレンススズカも部屋に居るはずだ、彼女も自分の状況に気が付くに違いない。──リアクションが楽しみだなあ!! 

 

 

 *

 

 

 トレーナー室の扉を開く、部屋の中ではサイレンススズカがいつも通り(・・・・・)に自分の疲労回復ドリンクと俺の珈琲を淹れていた。それまで笑顔であったスペシャルウィークは固まるように廊下で立ち止まり、その表情のままで部屋の中を見つめる。数秒して状況を理解し、何度も瞬きをした後に、カタカタと錆びたロボットのように俺の方に顔を向ける。それに対して俺は悪役のように口角を上げ、歓迎の意味を込めて肩を掴んで逃げ場を塞ぐ。後悔の絶叫が学園に響いたのは数秒後のことであった。

 

「す、すみませんでした!! 私、とんでもなく失礼なことを……!!」

 

 期待通りの反応を笑い飛ばして、廊下で頭を下げ続ける彼女を部屋に押し込む。反応で遊んではいるが我がチーム初の来客である、勧誘と活動内容は丁寧にしなければならない。サイレンススズカに飲み物を一つ追加で注文し、それを飲ませて落ち着かせる。

 

 彼女が冷静になったところで勧誘を開始、チームの今後の目標と現段階でのスペシャルウィークの育成プランを提示する。しかし、最近までレース経験すら無かった彼女は説明の多くに疑問符を浮かべ、最後には分かってますと見栄を張る。……まあ、この辺は追々知識が付けば良い。それに授業のような堅苦しい話よりも、目の前の憧れのウマ娘と話す方がチームに興味を持ってもらえるだろう。

 

「じゃあ、サイレンススズカに質問とかあるか? 選手目線での意見が聞けるはずだ」

 

「いいんですか!! えっと、その、ならサイレンススズカさんは何でこのチームに入ったんですか……?」

 

 真っすぐ飛んできた質問にサイレンススズカは口に手を当てて沈黙を生む。初っ端からチームが抱えている問題の核心を突いてきた。この質問は他のチームでなら至極当然であり、質問の意味も発言そのままの内容になる。しかし、我がチームの場合ではこの質問に二つの意味を持つのだ。まずは何故俺と関わろうと思ったのか、そして現在進行形で関わっていて大丈夫なのかについてだ。スペシャルウィークは大分不安ながらに質問したのだろう、表情に出やすい性格、むしろ今は目線が俺に僅かながら向いているので分かる。ただ、この程度で怒ることなど無い、それよりもサイレンススズカがどのように答えるのかが気になる。回答によってはスペシャルウィークの勧誘に失敗するし、勧誘とは無関係で彼女が持つ俺への評価は聞いてみたい。

 

 ──そうね、とサイレンススズカが沈黙を破る。一体どんなことを語るのだろうと二人して生唾を飲む。しかし、最初に発せられたのは俺たちの気持ちをヒラリと躱すような一言であった。

 

「……トレーナーさん、少し廊下で待っていてくれませんか?」

 

 突然の依頼に驚きで目が開く。その問いの真意を聞き出したいところだが、彼女の瞳が覚悟の決まっている時と同じなので諦めるしかない。こうなると説得しても時間の無駄だ、はぐらかされて結局廊下に出されるのであろう。仕方が無いので、話が終わったら声を掛けるように残して離席するしかない。

 

 廊下に出て扉を閉める、残念ながら二人の声は漏れ聞こえてこない。時折スペシャルウィークの悲鳴なのか歓声なのか分からない叫びだけが届くだけ。サイレンススズカは何を語っているのだろうか。チームに所属する理由を語って映画を見ているような声が出るとは思えない。……俺、無意識でセクハラとかしてないよね、それでスペシャルウィークが悲鳴を上げているとかじゃないよね。サイレンススズカからの好感度が低いとは考えたことは無かったが、それでも感情は理論のように固定化しきれるものではない。悪いイメージはしたくないが、もしかしたらは有り得るのだ。不安で部屋を覗きたい気持ちに駆られるが、それこそ行動一つで好感度など一気に右肩下がりになる。……うん、これからの身の振り方にもう少し注意しよう。

 

 己の行動が不快にならないよう肝に銘じていると、話を終えたサイレンススズカが扉を開いて俺を部屋に戻してくれる。──サイレンススズカの態度に変化は無いが、スペシャルウィークは背中を反らしながら手で顔を覆っていた。手の隙間から覗く肌と耳が紅く染まり、謎の身悶えまで起こしている。

 

「お母ちゃん、やっぱり都会は進んでるよぉ……」

 

「……なあ、何喋ったんだ? 部活トークでこんなに真っ赤になることある?」

 

「ふふっ、内緒です」

 

 不思議な行動を起こすスペシャルウィークを置き去りに、上機嫌なサイレンススズカは何事も無かったように自分の席に戻る。ぱたぱたと熱を仰ぐスペシャルウィークの回復を待ち、体験入部でもしてみないかと誘うタイミングを計るのだが、彼女は飲み物を一気に流し込んで喉を潤すと俺の予想を超えた提案を口にした。

 

「芝崎さん、私感動しました!! このチームに入ります、入らせて下さい!!」

 

「……じゃあ、明日入部テストするから。ジャージ持って来て」

 

 そんな突然入部を決めるなど、サイレンススズカが語った内容が一層気になってきた。俺も交渉術には自信が有る、だからって数分でここまで他人を熱くさせる話は持っていない。なんとも年下に話術で負けた感覚が否めないが、トレーナーとしては先にチームメンバーが増えることを祝わなければ。入部テストなどと言ったが現時点でのタイム計測をするだけだ、そこで彼女を落とす気はない。編入試験で実力は確かめているし、レグルスで戦い抜ける才能もある。

 

「これでボーダーまで残り三人か……、今のペースだと期限ギリギリだな」

 

「そうですね、チラシ増やしますか?」

 

 緊張が緩まり俺とサイレンススズカの意識は次なる勧誘に流れる。今回はスペシャルウィークの学園案内をした延長でスカウトに成功したものの、その機会が無ければ彼女が加入することは無かっただろう。この加入から再び学園の噂になることを利用したいが、どうせ誘拐されたとかの方で盛り上がるだけだ。申し訳ないがスペシャルウィークにもチラシ配りに参加してもらうのが良いだろう。加入早々に地味な作業になるが現状は他に手がない。

 

「あの、それなら一つ思いついたのがあるんですけど」

 

 おずおずとスペシャルウィークが挙手する。加入(仮)して直ぐに意見が言えるのは偉いな。どうだ、チラシの人参君と蹄鉄ちゃんは可愛いだろう、原案は俺なんだ「いえ、そこまで可愛くは無いかなと」……嘘だろ、あんなにサイレンススズカも理事長も褒めてくれたのに。たづなさんに至っては時代を超えた芸術作品だって言っていたんだ、確かに聞いた。……え、目逸らした? サイレンススズカが申し訳なさそうに目を逸らした!? ──まさか、俺って絵が下手だったのか? 

 

「えっと、話を進めて良いですか?」

 

 ……はい。

 

「その、私みたいに一人に対して話をするのはどうですか? きっと同じように感動してくれますよ!!」

 

 スペシャルウィークはキラキラした瞳で新たなスカウト方法を提案してくれる。なるほど、大勢に対して広告を出すのではなく、サイレンススズカの話術を利用して集中的に説得を行う作戦だ。彼女の言葉に動かされたスペシャルウィークならではの発想で、現状打破の可能性もある。しかし、それは過去に俺も考えている。一対一で話すことは効果的な交渉方法にはなるが、それは話の席に着く人がいることが大前提だ。レグルスに生徒が来ないのだからその条件が揃わない。まさか頭陀袋と荒縄で縛り付けろと? どっかの問題児みたいな作戦はダメだぞ。

 

「……えっと、そこは一年生を。何と言うかアレ(・・)が無い人たちをこう何とか連れてきて……、どうにか!!」

 

 なんとも根性的な作戦ではあるが、先入観があまりない新入生にターゲットを絞ると言うことだろう。去年から居る在校生よりは、新入生の方が勧誘の席に座らせられるかもしれない。少なくとも説得時間は稼げるだろうし、それを二人に任せれば可能性は更に高くなる。どうせ打つ手はない、彼女を信じて一対一での勧誘を考え直してみよう。

 

 唯一の壁は入部前に一度は俺に会う必要があること。契約するのであればトレーナーによる育成プランの説明が条件であるし、怪我の保険や勝負服などの手続きもある。加入してくれれば実績を上げさせて信頼を勝ち取ることも出来るが、やはりファーストコンタクトは課題のままだ。

 

 ──学園の新入生の情報を脳内で検索する。条件としてはスペシャルウィークのように感情の変化が大きいこと。サイレンススズカの話で俺への先入観が変わらなくてはならない。次に誰にでも優しく、寛容さのあること。噂は噂であり、その噂が全てでは無いと割り切れる生徒の方が説得も容易になる。そして最後、言い方は悪いが入学前の実績が無い生徒が良い。過去それなりに勝っているウマ娘なら既に他チームからスカウトを受けているだろう。そんな生徒が時間を割いて悪評チームに付き合う必要は無い。しかも、実績の無い生徒でも現在体験入部などをしていれば似たような理由で拒否される。だが、この学園に入る生徒であれば直ぐにでもチームに所属して公式レースに出たいのが普通だ、これらの条件全てをクリアする新入生が運よく転がっていることなど……。

 

「──……あ、居た」

 

 一人だけではあるが、確かに脳内検索にヒットした。条件を全てクリアし、尚且つ俺との面識さえ有る生徒。俺への先入観だけなら好意的な方であるかもしれない。サイレンススズカに出会う前には彼女の入学を楽しみにしていたのだった。忙しかったとしても何故今まで忘れていたのだろう、自分の記憶力が情けない。

 

「すまん、スペシャルウィーク。明日の入部テストに参加者が増えるかもしれない」

 

 スペシャルウィークから笑顔の承諾と頑張って下さいとの応援を受ける。サイレンススズカに残りのチーム説明を任せて俺は行動を開始、トレーナー室を出て廊下を走る。彼女の居場所が分からないので今回目指すのは放送室だ。スペシャルウィークをトレーナー室に連れてきた時以上に強引な手段だが、トレーナーとして合法の範囲での行いであるから許して欲しい。

 

「中等部のキタサンブラック、今すぐ教室に戻って下さい。繰り返します──」

 

 ──いや、本当にごめんね!! 

 

 

 *

 

 

「もう、先生に怒られると思ったんですよ!!」

 

「ごめんね、カフェテリアで奢るから許して」

 

「え、ホントですか!! ……って、それ無料じゃないですか!!」

 

 そう言って俺が呼び出した少女、キタサンブラックは収まりかけた怒りを再加熱させて頬を膨らませる。放送を聞いて教師に怒られると勘違いした彼女は、緊張で耳を垂らして教室に戻ってきたのだが、俺を見た途端に顎が外れんばかりに口を広げて罠に掛かったことを理解した。その後はこの通りに御立腹であり、誰もいない教室で怒りをぶつけている。数年ぶりの会話はもっと窮屈になると思っていたのだが、以前のように近い距離で接してくれるのは有難い。このまま昔のように気兼ねなく話していたいが、怒らせたままでも勧誘に悪影響を及ぼしてしまう。

 

「でも、成長したね。美人さんになったから最初は気が付かなかったよ」

 

「──あ、え、そうですか。えへへ……」

 

 露骨な持ち上げだが彼女には効いたようだ。艶のある黒髪を指で梳かし、恥ずかしがって頬を染める。はい、可愛い、……間違えた、軌道修正完了である。

 

 だが、言ったことは事実だ。本当に成長していて一瞬だけキタちゃん本人か疑ってしまった。喋っている感覚では子どもの頃と同じく周りを盛り上げる活発さと、騙されても頬を膨らますくらいで終わらせてくれる寛大な性格のままである。髪型も長めのショートヘアのままで、右耳に着けている桜の飾りも変わらずと、以前の面影は残ったままだ。しかし、体の成長はウマ娘の特異性が色濃く表れており、中等部三年のスペシャルウィークと身長は同程度、加えて下半身はかなり大きい。……セクハラではないぞ、走る競技者として重要な才能が有ることが明らかになっているのだ。これに期待しないならばトレーナー失格だろう。

 

「キタちゃん、突然だけど聞いてほしい話があるんだ」

 

 照れているキタちゃんに勧誘を試みる。勧誘と言っても話のほとんどが人手不足によるチームの危機であり、急な勧誘のために彼女専用の育成プランも提示出来ていない。今提示できる競技者にとってのメリットは、人数の少なさによってチーム競技に出場しやすいことだ。しかしそこは俺とキタちゃんの仲であり、放課後に困っている人を助け続けて体験入部が出来ていない彼女の立場と嚙み合った。

 

「だから明日にでも入部テストを受けて欲しいんだ。我が儘だけど頼めないかな」

 

「何を言ってるんですか!! 私、走一さんのチームなら喜んでチャレンジします!!」

 

 ガッツポーズを作って意気込むキタちゃんを見て安堵する、どうやら狙い通りに彼女のスカウトには成功したようだ。スペシャルウィークだけの加入にキタちゃんも加わるのなら棚から牡丹餅である。今晩は彼女の育成プランを制作し、それを明日の入部テストの結果に合わせて改変する。忙しくはあるが辛い事ではない。後は彼女のお父様に連絡を入れるべきか、あの人は俺の過去を知りつつも、それでもトレーナー復帰を望んでくれていた人だった。感謝と報告を含めて久しぶりに食事にでも誘おう。

 

「じゃあ、明日は教室で待ってて、迎えに行くから」

 

 トレーナー室に戻って作業に取り掛かろうとキタちゃんに別れを告げるが、その彼女にスーツの端を握られて俺の足は止められる。振り返ると先程までのやる気満々の様子が無くなっていて、何かを噛みしめるような表情のキタちゃんが立っていた。

 

「私をスカウトしてくれた理由って、……何ですか」

 

 夕焼けに照らされた彼女の声はウマ娘がトレーナーに対して質問すると言うより、まるで告白をするかのような緊張に近い。きっと彼女が突然しおらしくなって、逆光のせいで顔色が分からないからそう見えてしまったのだろう。──ただ情けないのは、今まで聞いたことのない彼女の真剣な声色に俺の思考が完全停止したことだ。彼女の質問から逃げようにも桜を模した髪飾りへと視線が移り、回答が上の空で考えたような当たり障りのないものになってしまう。

 

「……ああ、才能があると思ったからね。期待してるよ」

 

「──はい。ありがとうございます」

 

 感謝を述べる彼女がやけに小さく見え、自分の選択肢の成否に疑問を持ったまま教室を後にした。

 

 

 *

 

 

 翌日の放課後、予定通りにジャージ姿の二人がグラウンドの一画で準備体操を始めた。かなり気合の入った表情であり、周りで練習をしている新入生歓迎ムードのチームとは空気感が異なっている。正直そこまで緊張しなくてもとトレーナーである俺自身が思う。我がチームの入部テストに基準タイムは無い。酷すぎれば断りもするが、基本的に求められるのは自分の走りが出来るのか、群雄割拠のレースで輝けるだけの何かを有しているかだ。簡単に言えば信念と個性が有れば万々歳、喜んで歓迎するということ。人数不足であることから贅沢など言えないが、スペシャルウィークがそれを両方備えたウマ娘であることは理解している。それにキタちゃんも走る才能が有ったはずだ、こちらとしては多くを心配していない。

 

 では、ここで入部テストの流れについて説明をしよう。レースは芝の中距離設定、ざっくりと2000M。今回のコースは入部テスト用の簡易コースなので正確さに欠けている、そのためタイム誤差を0.5秒で計測して考えることにしている。コースの問題点は、他に練習している生徒がいるために集中が難しいことだ。特にスタートの出遅れが注意点であり、レース全体を通しても周りの景色に左右されないコンセントレーション状態の維持が必須だ。因みにスタートの合図はサイレンススズカが握っている旗で代用する。俺はゴール地点のライン上、遠く離れた席でタイムを計測し、その後に彼女たちへテスト結果を発表する予定だ。

 

 そうこうしているうちにスタート姿勢を取り始めたので、電子時計を片手に双眼鏡を覗いて姿を拡大する。体が静止すると直ぐに赤い旗が上がり、二人が芝を巻き上げて飛び出した。──出遅れてはいないのだろうが、やはりサイレンススズカに比べると加速力に欠ける。お世辞にもスタートの技術に褒められる点は無く、良くも悪くも真っ白な新人の走り出しでレースが始まった。キタちゃんが逃げ、スペシャルウィークは先行と情報通りの脚質による展開だ。

 

 最初の1・2コーナーを無難に終えると、向直線に入って二人が再び加速を試みる。技術が劣ってカーブでの失速を免れぬなら、その分は直線で取り戻すという作戦なのだろう。短い猶予で作戦を練ってくれたのはトレーナーなら評価を高くするポイントだ。それにキタちゃんの走法が誰を手本にしているのかは分からないが、スペシャルウィークはサイレンススズカに助言を求めたのだろう、直線のアプローチ方法が彼女のそれに近い。ただ、約一日だけでその技術を模倣して、尚且つ実践可能なレベルに仕上げる才能は恐ろしくある。きっとこの広いグラウンドでそれを感じ取っているのは俺とサイレンススズカ、そして逃げているのにバ身差が離れないことに驚くキタちゃんだけだ。

 

 キタちゃんにとっては予定していたレース展開がいきなり崩れて、レースの三分の二以上の距離を残して先行同士の対決のようになっている。加えて、序盤に逃げる為に使ったスタミナの分だけ残りのスタミナに差があり、スペシャルウィークはキタちゃんの背後に張り付いているために空気抵抗で余裕を保てる。キタちゃんがこのまま引き離せなければ最後の直線まで二人の消費スタミナには大きな違いが生まれ続け、最終直線でガス欠になったところを抜かされて決着だ。だからキタちゃんは焦る、焦って計算していないレース展開に切り替える。

 

 しかし、焦りは雑念だ、そこで舵を切ったとしても良い影響はない。事前に幾つもの計画を練り、それを取捨選択して戦うのであれば理解しよう。しかし、急場で選んだ作戦に体は追いつかない。彼女に心技体が備わっていたなら、サイレンススズカが模擬レースで披露した回転受けのような咄嗟の閃きにも対応できるが、残念ながら現段階で技術面が圧倒的に不足しているキタちゃんでは届かないレベルの話だ。実際、引き離そうとペースを上げたのに、スペシャルウィークに対応されて一定の距離は保たれたままである。更には無理な加速を試みたことでフォームも崩れ、徐々に減速が始まっている。至極シンプルなガス欠だ。

 

 その後は想像に沿うようにレースが展開した。最終コーナーで余裕を持ったスペシャルウィークが外に膨らみ、大きく踏み出してキタちゃんを追い越す。そして勢いそのまま、直線でも自慢の末脚を披露してゴールラインを通過した。その後約1.5バ身差を離されてキタちゃんがゴール、ヨレヨレの走りでどうにか完走と言ったところだ。

 

「……よし、じゃあスペシャルウィークからな」

 

 額の汗をタオルで拭う彼女を呼ぶ。講評の時間に表情が強張っているが彼女を悪く言うつもりはない。今回のタイムは学年平均程度、転入して早々にトレセン学園の基準に達しているなら完璧だ。それに転入前に練習を積んだのか末脚やコース取りの技術が向上している。不安点は勉強面だけであり、レースに支障が出ないように赤点は回避してくれれば良い。文句なしに正式加入のオファーをしよう。

 

 しかし、その前に一つだけ答えて欲しい質問がある。この質問で確かめたいのは実力とは別の側面、ウマ娘として最も必要な要素である本能、そしてレグルスのメンバーとして戦える精神を持つのかだ。

 

「スペシャルウィーク、君の目標は?」

 

 俺の質問に彼女の表情が変わる。評価を聞いていた時の不安さは一瞬で消え、少女には似合わない剛毅な顔つきになる。これは最初に彼女と会った時、そして編入試験の面接時、彼女の覚悟が問われる時に何度か見てきた。今日は芝と土に汚れた体操服が風になびく姿が相まって、その姿は少年漫画の主人公な凛々しさがある。

 

「日本一のウマ娘になって、お母ちゃんたちに喜んで貰うことです」

 

 ──そして即答、一秒にも満たない時間で回答を弾き出す。これは簡単なようで難易度が最も高い質問、アスリートとして自分が目指すものがどれだけ具体的に見えているのかを明らかにする。そして答えを出すのが早ければ早いほど、それを常に心に秘め、揺るがない目標として掲げられている証拠にもなるのだ。そこに関して彼女は一流、この手の質問にだけは誰よりも早く答えていた。それが非現実的だと笑われていても賛同はせず、転入に関わる面接官相手でも折れなかった。だから彼女の気高い精神に惚れて、周りの意見を押しのけて推薦した。コイツは折れない、折れても絶対に帰って来る、だから強くなる。

 

「よし、じゃあ明日から朝練あるから、説明はサイレンススズカに聞いてくれ」

 

 ジャケットから二つ折りの紙を取り出して渡す。彼女はプレゼントを扱うように丁寧に紙を開き、ページ最上部に記された入部届の字を読んで喜びの声を上げる。何度も本物であることを確認してから大切そうに胸に抱え、深くお辞儀をして頑張りますと宣言する。そして意気揚々とスキップをしながらサイレンススズカに正式加入の報告をして、今後の練習について聞き始めた。

 

 さて、次はキタサンブラックの番だ。彼女は悔しさを全身に滲ませて自分が走ってきたコースを見つめていた。名前を呼んでも反応が無いので、俺から彼女へと向かって肩を叩く。すみませんと色々な意味が込められた言葉が小さく零れた。しかし、俺が頼んで走って貰ったのだから謝る必要は無いし、それに彼女にも酷評などしない。途中までは年上のウマ娘に喰らいついたのだから褒めなければいけないだろう。それに最後まで諦めない意思や、負けて悔しがれることは成長に不可欠な要素だ。

 

「じゃあ、キタちゃんの目標を聞かせて欲しいな」

 

 先天的な要因のある体も年齢的には完璧だし、今後の発達も見込める。技術は追い追いで身に付けていくもので今は足りなくとも良い。スペシャルウィークが迫った時も、もう無理だと飲まれずに抗う姿勢も良かった。結果的には技術不足で自滅したことになったが、それ自体はアスリートとしては間違っていない。一年生でこれだけの実力なら、トレセン学園現最強チームであるリギル以外は何処にだって加入の許可が下りるだろう。──だからこそ、高評価を受けて喜ぶキタちゃんにもスペシャルウィークと同じ質問を尋ねる。彼女もレグルスで戦える精神を有しているのかと、それを彼女の目標に問う。

 

「私は、父さんみたいに誰かに勇気や元気を与えて、憧れのテイオーさんみたいな強くて速いウマ娘に──!!」

 

 ……やはり彼女も成功するだろう。スペシャルウィークのような回答速度と強度とは言わないが、確かな思いが込められた言葉が返ってきた。彼女が幼い頃に何度も語ってくれた夢は変わらず、その過去を思い出して頬が緩む。それでいて意志が固くなっているのだから、真っすぐ成長してくれたことに嬉しさも感じる。彼女も同じように過去を思い出したのか、それとも俺の表情を読んだのか、笑みを浮かべて恥ずかしそうにする。

 

 だから本当に残念に思うし、こちらから誘ったことに罪悪感が芽生える。彼女の掲げた目標は俺が求めたレグルスで戦える精神を内包していない。ここに入っても活躍は出来ずに終わってしまうだろう。──だから、俺は君を合格にはさせられない。

 

「すまない、不合格だ。必要であれば他のチームに推薦を書こう」

 

 

 *

 

 

 夜のカフェテリア、そこに漂うのは食事処に似つかわしくない陰々とした雰囲気であった。広いスペースの静寂を誤魔化すように料理音が響き、トレーナーとウマ娘が各々の作業を無言で進める。週に数度行われるチーム全員での食事はレグルスにとっての基本習慣だ。過去にもチームメンバーがコミュニケーションを取り、各員の身体作りに必要とされる食事への理解を深めることを目的に行われていた。現在こそメンバー不足で、トレーナーである芝崎走一が唯一のメンバーであるサイレンススズカ専用に料理を振舞うだけになっているが、それでも昔から目的は変わらずにいる。

 

 ただこの食事も今回は特別、新加入ウマ娘であるスペシャルウィークの歓迎を含めた食事会になる。しかし、席に座って料理の完成を待つ彼女は、憧れのウマ娘が所属するチームに加入出来た喜びに浸っているとは言えず、むしろ窮屈そうに体を縮めている。

 

「……良かったんですか?」

 

 サイレンススズカはサラダ用のレタスを千切りながら、キタサンブラックへの不合格について再確認を取る。単にトレーナーが求めていた要素が欠けていた、だから不合格と括ってしまえば終わる話ではある。しかし、芝崎走一とキタサンブラックが旧知の仲だと知ってしまえば、後に引くものが無いのかを確認するのは相方の彼女なら当然のことだ。それに、不合格を言い渡されたキタサンブラックの様子は今後の選手生命を危惧するほどに愁然としていた。彼女は息を飲み事実を受け止めると、強く拳を握り締め、溢れんばかりの涙を堪えながらグラウンドを後にした。

 

 それは芝崎走一に救われたサイレンススズカにとっても衝撃的な結果だ。指導は冷徹であっても根本がウマ娘に対して優しく、終止符を打つ一歩手前まであった自分を救ってくれた彼ならば、最後には何らかの理由を付けて加入をさせると思い込んでいた。しかし、彼はキタサンブラックの態度を見ても顔色一つ変えず、数秒後には何事もなかったように歓迎会へと話題を変えていた。だから時間を掛けて、タイミングを計って、一番近い距離で彼の心を確かめた。

 

「……あれだと強くなっても、最強にはなれないからな」

 

 男は調理の手は止めず、レグルスのトレーナーとしての合否の基準を説明し始めた。

 

 前提として、レグルスというチームはトレセン学園最強であった過去、つまりは全国で最も勝ちを重ねていたチームであった過去を持つ。特に、芝崎走一がトレーナーを務め、シンボリルドルフが現役であった時代は非常に高い勝率を誇っている。当時のレグルスは個人・チームのレースを問わず勝利を掴み、模擬レースや特別競走などの祭り競技でも連勝を記録していた。シンボリルドルフに関しては強すぎる余りにレースが詰まらないと批判を浴び、ドーピングと買収を何度も疑われている。勿論それは目に見える形で払拭したのだが、彼女の強さを語る上で欠かせないエピソードとして有名だ。それこそレグルスに加入して入賞出来なかったウマ娘がいれば、世紀の一大事件のように学園中に記事が張られることもあったのだ。

 

 そして、数年ぶりに復活したところでレグルスが最強を目指すチームであることに変わりなく、以前と同じところに辿り着くにはレースに全てを捧げる覚悟が必要になる。練習は数センチ単位での調整が入り、睡眠や食事でさえも体作りの一環として意識づけされる。生活が常時トレーニングとなり、結果を出し続けていかなければならない立場に置かれる。どのスポーツ世界でもトップに立つなら必要なことばかりだ。しかし、アスリートとして極限まで突き詰めていくと、生半可な心が折れるのも時間の問題である。

 

 それにウマ娘というのはヒトのアスリート以上に『心』の重要度が高い。固有・領域(ゾーン)は自身の信念や夢が反映される能力であり、長く研究しても発動方法は不確かなままで。日々の練習でも習得は不可能とされているものだ。加えて、ウマ娘というのは、運命的な相手とは自然と熱戦を繰り広げるようになっている。まるで神様が事前に決めていた(・・・・・・・・・・・)、そう思わせるレースが大一番で生まれるのだ。だからその運命的なレースでコンマ一秒を勝ち切り、ウマ娘の頂に上るには強靭な精神力が求められる。つまり、アスリートに必要な心技体で最も解明されていない『心』が、ウマ娘にとっては最も勝負を左右するのだ。

 

「──最強を目指す覚悟が見えないなら、レグルスには入れられない」

 

 サイレンススズカは記憶を読み返す。スペシャルウィークは母の為に日本一のウマ娘になると宣言した。言わずもがなウマ娘にとっての日本一は『トゥインクル・シリーズ』で勝つことであり、それはレグルスの目指す場所とも同じだ。キタサンブラックは父のように、トウカイテイオーのようにと言った、確かにこれは最強でなくとも叶えることが出来る目標だ。レースに負けても人々に勇気や元気を与え、強く生き抜くウマ娘はいる。ならばキタサンブラックは最強を目指すレグルスで戦う必要が無く、覚悟としても弱いのだろう。

 

「分かりました、ありがとうございます」

 

 トレーナー自身が選択に迷っていなければ、サイレンススズカもそれを受け入れるだけだ。第三者の自分が考え込む必要は無く、普段通りに接するのが吉であろう。彼女はその場の雰囲気を和らげるように微笑んで、出来上がった料理を並べ始める。その様子を見ていたスペシャルウィークも大丈夫そうだと少しずつ不安の色が薄れて、腹の虫を抑えながら並べられた料理に気持ちを向けた。こうして気分を切り替えて歓迎会を楽しもうと三人が席に着くのだが、緊張が解けて余計なことを口にしたスペシャルウィークによって雰囲気は再び変化することになる。

 

「そういえばトレーナーさんって、キタサンブラックちゃんはキタちゃんって呼ぶのに、サイレンススズカさんは縮めて呼びませんよね?」

 

 理由はあるんですか? と他意なく無邪気に疑問をぶつけて、彼女自身の集中と目線は皿の方へと戻っていく。これは本当に意味の無い質問で、スペシャルウィークにとっては答えが返ってこなくとも次の話題の種になれば満足であった。初対面の人たちが趣味は何ですか、出身地はどこですかと、他愛もない質問で互いを知り合うことが往々にしてある。彼女はそれと同じことをしたのだ。

 

 まず、この男がキタちゃんをニックネームで呼ぶのは昔のなごりであり、他に理由は無い。次にサイレンススズカをそのまま呼ぶ理由であるが、実はこちらも特筆するものは無いのだ。初めて会ったあの日から何となくの流れで継続していただけである。しかし、忘れてはならない。彼はシンボリルドルフのことをルドルフと呼び、たづなさんに至っては名前で呼び合っている。基本的にこの男は年齢性別を問わずに気軽に接するのがデフォルトなのだ。──つまり本人が自覚していないだけであり、彼がサイレンススズカを気軽に呼ばない理由は明確にある。

 

 サイレンススズカは嫁ムーブが強いのだ。

 

 最初は慣れない成人男性相手におどおどしていたものの、今となっては彼の隣に居ることが当たり前になっている。スペシャルウィークがトレーナー室に訪れた際も彼女は慣れた手つきで二人分の飲み物を淹れていたし、今回の調理も言葉を交わさずに役割を分担して、その工程を滞りなく進めていた。今もそうだ、四人席であるのに何故この二人は横並びで座っているのか。サイレンススズカとスペシャルウィークが生徒として横並びで座るのなら分かるが、これでは夫婦とその友達のような構図である。

 

「それじゃあ……、トレーナーさん、試しにスズカって呼んでくれませんか」

 

「え、恥ずかしくない?」

 

 更に怖いのは二人とも自覚が無いと言うことだ。周りの生徒は数か月だけで熟年夫婦に近い連携を取っている彼らを不思議に思っているのだが、当の本人たちはそれが変だとは微塵も思っていない。トレーナー側は時たま距離が近いなと違和感が有るが、それは彼女が誰にでも優しく、唯一のチームメンバーとして甲斐甲斐しく世話をしてくれるからだと勝手に解決した。ウマ娘側も自分の行動が普通だと思っており、なんならトレーナーよりも今の生活に慣れてしまっている。──それもそのはず、それまで異性関係に乏しい生活を送った彼女がトレーナーとの関係を築くためにと、無意識に選んだ手本は自身の両親であった。だから自然と言動が母親に似てきて、トレーナーにも似た何かを重ねている。しかし、そうなるともう色々と近い、匂いや呼吸を感じるのは日常茶飯事になり、広いトレーナー室が無駄になっている。健全な男子高校生ならば、この子は俺のこと好きなんじゃないかと勘違いするだろう。まあ、ほとんどが思わせぶりな態度とか、別にその気は無いとか、友達だからとか言われて終わることになる。

 

「ならトレーナーさん!! 私はスぺって呼んでください、お母ちゃんはそう呼んでましたから!!」

 

「うん、スぺちゃんは呼びやすいな」

 

「ウソでしょ……」

 

 ──ただ、サイレンススズカは普通にトレーナーのことが好きである。先頭どころかトレーナーの隣すら渡す気が無い。本人は自分の心に気が付いていないが、それが無意識のうちに今までの行動のトリガーを握っている。しかし、これも仕方ない。人生を救われるだけでも好感度が高いのに、なし崩しとはいえ担当トレーナーにもなって、彼女と共に最速の景色に必要な速さを求めてくれている。意中の相手が平均点の顔でも乙女フィルターなどは女子高生なら基本装備だ、走り出したら止まらない。

 

「じゃあ、私のこともスズカって……」

 

「サイレンススズカね」

 

 では結論である。芝崎走一の学生時代はトレーナーになるため勉強に浸かっていて、そのせいでクソ雑魚恋愛経験ゼロのまま成人になった残念な男である。そのためピュア色の強いキタサンブラックやスペシャルウィークには妹感覚で接することが出来るのだが、逆に年頃の女性が向こうからグイグイ来ると対応の仕方が分からなくなる。シンボリルドルフは自分の気持ちを理解していて、感情コントロールが上手いので恋愛雑魚トレーナーも気兼ねなく接していられるに過ぎない。つまり、この独身ヘタレ野郎は無意識に猛アタックしてくるサイレンススズカのようなタイプに一番戸惑いを覚えるのだ。

 

「……ん、トレーナーさん」

 

 サイレンススズカが席から腰を浮かしてトレーナーの耳元に顔を近づける。そしてスペシャルウィークの活気のある声とは真逆、静かな淡雪のような声で囁いて勝負を決めに入るのだ。

 

「──スズカ、って呼んで?」

 

 結果は不明であるが、スペシャルウィークが色々な意味でサイレンススズカを尊敬する出来事の一つになったことは確かである。

 

 

 

 *

 *

 

 

 

 学園の近くには長い河川敷がある。都内周辺にしては珍しい直線的で大きな川であり、洪水防止の斜面を挟んで長い砂利の道が川に沿うように続いている。休日の外出時などには街に出かけるため多くの生徒が利用し、平日でも斜面を使ったアップダウントレーニングや、広さを利用したハンマートレーニングなどを行っている。

 

 そんな河川敷も春になって桜が川路を色づけており、心地の良い風が吹き抜けている。運動に適した気温に今日も生徒が集まってトレーニングをしている。しかし、その生徒の中にトレーニングを早々に切り上げて、川原の端で蹲るように顔を膝に当てて黙り込むウマ娘がいた。目線だけ動かして川を眺め、たまに体を動かしても溜め息を吐いて再度小さくなってしまう。練習メニューを終えて学園に戻る生徒も大丈夫なのかと横目で覗いて行く。熾烈極まる学園で一々誰かを心配していてはキリがないが、それでも少女の落ち込み方は特に暗いものに見えた。

 

「今日も失敗しちゃったなぁ……」

 

 あの入部テストから数日、キタサンブラックの調子は最悪であった。更新を続けていたレースタイムが軒並み落ち込んでいて、これまでのトレーニングと変わらないはずなのに予定より早い段階でスタミナが切れる。元々不得意であった座学は更に集中が出来ず、一回の授業だけで何度も名前を呼ばれて教師に叱られる。今日に至っては怒っていた教師もその怒りが心配に変わっていた。休み時間や寮のプライベートな時間でも気分は晴れることはない。友達と喋っていても、好きな曲を聴いていても、いつの間にかスペシャルウィークとのレースが頭で再生されて気分が落ちるのだ。今日のトレーニングも気分を変えるために一人で河川敷を走ってみたのだが、残念ながら作戦は失敗。キタサンブラックを元気づけるために集まってくれていた友人がいないことで孤独感は増幅し、どうしてもレースで犯したミスへと意識が向かう。こうしてただ眺めている川も、太陽が落ちるにつれて水面に反射する自分が光を失っていく、それが入学時から今までを表しているようで後悔は止まらない。

 

「走一さん、約束忘れちゃったのかな……」

 

 右耳に着けられている紅と淡紅の桜を模した髪留めに手を当てる。彼女が最も大切にしている記憶は彼女がまだ小学校低学年の頃、小規模ながら初めてレースで勝った年のことである。ただひたすらに走るのが楽しくて、もっと走りたくて出場したミニレース。初めてのレースで奇跡的にも一着でゴールし、それまで感じたことのない満足感が得られた。それに、勝った時の両親の喜ぶ顔で勝利の嬉しさが増して、その年の彼女の誕生日にも父親の仕事仲間の人が将来有望だと褒めてくれた。

 

 そして、その誕生日に彼もいたのだ。父親と彼が仕事関係であり、父親が彼に歌の練習方法を教えていたのを知っていた。時々家に来ていたし、父親の関係者では一番若くて優しく、歌手の娘ではなく彼女自身を見てくれていたから少し憧れもあった。しかし、その彼の仕事がトレーナーだと知るのは、彼がプレゼントしてくれた髪飾りと共に一つの約束をしてくれた時だった。

 

 いつか俺が担当トレーナーになって、キタちゃんを一番のウマ娘にするよ!! 

 

 それがキタサンブラックにとって初めてのスカウトであり、その髪飾りが宝物になった瞬間だった。幼いながらに憧れていた男性がトレーナーで、自分がウマ娘として走る。シンデレラストーリーにだって負けないくらいの夢を見た。その夢を追っていたから辛い事があっても耐えられ、トレセン学園の受験も乗り越えられた。途中でトレーナーを辞めたと聞いたときは動揺もしたが、それでも憧れた人には自分の頑張る姿を見せたかった。それに入学してみれば彼はトレーナーに復職しており、加えて自分をチームへ勧誘してくれている。ついに夢の第一歩だと心が躍って、それまでのことが報われたように感じたのだ。

 

 しかし、憧れの彼は約束を忘れたのか、自分を担当ウマ娘として認めてくれなかった。でも、自分の実力不足が原因なのだとは分かっている、でも何が足りなかったのか分からない。父のように歌を、トウカイテイオーのように走りを、あの日から練習は一生懸命に取り組んできたつもりだ。──だからこれ以上は何をすれば良いのか想像もつかない。

 

 ならば自分は彼の担当ウマ娘には成れず、ここで夢も終わるのか。

 

 片隅に追いやった事実が心臓を握るようで吐き気がする。レグルスは最強のチーム、彼と共に理想のウマ娘になるはずだったのに。彼の隣には既に自分の知らないウマ娘がいて、更には自分を追い抜いて新しいウマ娘がチームに加入した。それを思い出すだけで体が熱くなって、ぶつけようのない苦しさが暴れる。──嫉妬という感情、それはキタサンブラックにとって初めての経験。

 

 ──焦る。

 

 置いて行かれる、貴方が遠くに行ってしまう。

 

 ──足掻く。

 

 でも、泥沼に足を取られて貴方を見ることしか出来ない。

 それなのに貴方は手を伸ばしてくれない。

 

 ──なら、最後は? 

 

 そんなの分からない。

 だって私が走る意味はずっと──!! 

 

 

 

 

 

 ……私が走る意味ってあるんだっけ。

 

 

 

 

 

「──ッ!!」

 

 涙が零れるのと同時に耳飾りに当てていた手が動いた。大切にしていた宝物を強く握り、手の中から割れる音と痛みが走る。それでも構わず腕を大きく振るう。ウマ娘の力で握られた髪飾りがどうなるのか、その力で振るわれた髪飾りはどこまで飛んでいくのか。きっと宝物は割れて折られて、目の前に広がる川に届いて沈んでいく、そんなことはキタサンブラックだって考えずとも分かる。しかし、それでも止められない。

 

 だって諦めてしまえば楽だから。

 

 頑張って、否定されて、足掻いて、それでも答えは出ない。それなら思い出ごと捨ててしまってスッキリしよう。それが自暴自棄であって、全部ドブに捨てても楽な人生を歩もう。

 

 だって辛いのは誰だって嫌なのだから。

 

 独りで河川敷に来た時点で死神が勝ったのだ。広い自然と静けさが心を衰弱させ、一瞬で才能あるウマ娘の選手生命を刈り取る。たまたまそれが怪我や病気ではなく、一つの夢が潰えることで起こった。長年の思いは届かず、父にも、憧れのウマ娘にもなれない。どこにでも蔓延る挫折という終幕が今日はこのウマ娘に降りかかっただけなのだ。

 

 

「──あれ、キタちゃん?」

 

 

 でも、それを防ぐのがヒーローの役目だ。背後からキタサンブラックの名前を呼び、彼女の動きを止めて死の淵から引き寄せる。突然のことにキタサンブラックは驚いて力が抜け、投げようとしていた髪飾りが重力に従って地面に落ちる。土に倒れた約束は割れてしまったけれど、それでもまだ失われていない。彼女の夢は首の皮一枚で繋がった。

 

「テイオーさん……?」

 

 ヒーローの名はトウカイテイオー、元レグルスのメンバーであり、トレセン学園の現最強チームに所属するキタサンブラックの憧れのウマ娘であった。

 

 

 *

 

 

 トウカイテイオーはキタサンブラックと並ぶように座り、落ちた髪飾りを拾って渡す。彼女は制服で肩にスクールバックを掛け、片手にはプラスチックのカップを持っていていた。飲んでいるのは彼女の好物である蜂蜜ドリンクのハチミーだ、街で購入した帰りなのだろう。腰を下ろした彼女は何も言わず、ハチミーを飲みながらキタサンブラックが自分に話してくれるのを待つ。自分を憧れのウマ娘と慕ってくれているのはトウカイテイオーも理解している、だから荒れている理由を話すのは躊躇うだろう。しかし、キタサンブラックは自分を怪我から復活に導いてくれたヒーローだ、辛いなら傍にいてあげたかった。

 

「テイオーさん──」

 

 キタサンブラックからポロポロと涙が零れ、荒い呼吸が徐々に嗚咽になる。それでもトウカイテイオーは傍に居るだけ、でもそれが最善手である。キタサンブラックは最初から泣くべきだったのだ。頑張ったことが報われなかったのなら泣いても良いのだ。人前だからとか、実力不足だとか、涙を我慢していた理由は幾つも有った。でも、それ以上に彼女は今年から中等部に入ったばかり、精神的にも未発達な部分が多い子どもなのだ。涙を流して、辛いと口にして、感情をぶつけなければ心が耐えられる訳がない。

 

 ──たった数分、されど数分、久しぶりに気持ちが落ち着くには十分だ。泣き終えて目を赤く腫らしたキタサンブラックはその涙の意味を独り言のように語り始めた。自分の夢と努力の日々、遂に訪れたチャンスを超えられなかった実力不足、そして自分の力では変えられそうにない現状。見栄も恥ずかしさも無く、包み隠さずに思っていることを吐き出した。トウカイテイオーは口を挟まず全てを聞き、たまに頷いて彼女の頭を撫でた。そうしてキタサンブラックが話を終えると時間を掛けて自分の感想を述べる。

 

「キタちゃん、芝崎トレーナーが好きなんだね」

 

「ひぁ……!?」

 

 目元以外の肌も赤く染まる。自分で晒しておけば誰もが分かる事実でも、相手から指摘されてしまえば照れてしまうのが年頃の女子だ。恥ずかしそうに手で顔を隠すキタサンブラックを微笑し、トウカイテイオーは続きを語る。

 

「でも、ボクは誰かを思って走ることが一番だと思うよ」

 

 トウカイテイオーは夕焼けの空を見上げ、自分が最も強かったレースについて語った。──知っている、キタサンブラックはそれを知っている。トウカイテイオーの最も強かったレース、それは彼女が怪我をした後、それも何度も怪我を繰り返して復活不可能だと言われた中で臨んだ復帰レースだ。当時最強であったビワハヤヒデから勝利を掴み、多くの人が感動し、そこに希望を見た。

 

 そして、それは復帰困難な怪我をしていたメジロマックイーンの為にトウカイテイオーが走ったレースである。怪我を負った自分が最強に勝って奇跡を見せる、だから君にも奇跡が起きるのだと証明する。それがトウカイテイオーの走る原動力になった。

 

 それまでは憧れのシンボリルドルフの後を追っていた。それで勝てていたし、満足もしていた。だから怪我をして復帰が出来ないと診断されても諦めもついた。でも、多くの人たちが諦めるなと支えて応援してくれて、自分は一人で走っているのではないと知った。そしてメジロマックイーンが怪我を負い、今度は自分が誰かを支える番なのだと決心したのだ。

 

「……ねえ、キタちゃんは誰かの為に走ろうと思ったことある?」

 

 それは学校の先生や、習い事の指導者に感じた受動的で義務的な思いとは違う。きっとそれは無償になっても自分から誰かの為にと、走りたいと、そう思うことなのだ。

 

 キタサンブラックは夕陽と夜の境目を指で撫でて、これまでの人生を振り返る。スペシャルウィークとのレース、学園入学試験のレース、記憶が鮮やかなものは全て自分の為のレースだ。ならば過去の強く記憶に残るレースはどうか。初めて幼馴染と走ったレース、人生で初めて勝ったレース、結果的に誰かの笑顔に変わったけれど誰かの為と走ってはいない。目標もそうだ。父も、トウカイテイオーも、あの人も、全て自分が中心の夢だ。

 

 長く振り返った到着点は人生で初めてレースを見に行った時のこと。もうここまで来れば自分のレースですらないが、それでも自分の原点になったレースだ。三歳であった彼女にとって別世界であったレースの世界、それが生まれ変わったように彼女の夢になった。レースは激しく、ライブは美しい。強い熱気に圧倒されて、呆然と口を開いて衝撃を受けるしかなかった。それでも自分の走りたい本能と、父のように歌も歌える夢が両方叶えられると信じられただけで良かった。それから公園でトレーニングを始め、家では平仮名で書かれたウマ娘についての本を読んだ。

 

 ──思い出す。

 

 父は忙しかった。レースがある休日なんて休めなかったし、そもそも一日休めることなど殆ど無かった。それなら誰がレース場に連れて行ってくれたのだろう。

 

 母も家事に追われていた。優しかったけど、幼い私にトレーニングを教えてくれる程の余裕は無かったはずだ。ならば公園で私に走りを教えてくれたのは誰だったのだろう。誰が手書きで本を作って私にくれたのだろう。

 

 ──もう一度、思い出す。

 

 あの人が家に来なくなっていた時期があった。これから大変だけど父に教わった歌の技術を活かすためにも絶対合格するって言っていた。会えなくなることを私にも謝っていて、誕生日には全部終わらせて来てくれるって約束してくれた。……そうだ、その時期くらいに私は子供用のトレーニングコースに通い始めたんだ。でも、教えてくれるのが知らない人(・・・・・)だったからそれが嫌で──。

 

 ──こうして、私は思い出す。

 

 欠けた髪飾りをこれ以上は割れないように握り、私は原点を思い出す。白く輝く記憶に消されていた全てのことが、混ざって、繋がって、私の色になる。

 

「テイオーさん!! 私、行ってきます!!」

 

 キタサンブラックが涙を拭って勢いよく立ち上がる。トウカイテイオーは一瞬驚くものの、直ぐに微笑んで妹分の出発を後押しする。相談に乗ってくれた先輩へ深くお辞儀をした後、レース本番に近い速さで学園へと駆け出した。

 

 

 *

 

 

 苦しい──、全身に響く心臓の鼓動が五月蠅くて、意識しないと呼吸でさえ止まってしまいそうだ。これほど走ることは難しかっただろうかと記憶を疑い、同時に自分の調子が悪かったことを再確認する。きっと今も醜い走り方になっていて、タイムを計測したら酷い結果になるんだろう。そんな状態で暗い道を全力疾走するのは危険だし、準備運動もせずに走り出したから怪我をするかもしれない。いつもなら先生に怒られる要素ばかりだ。

 

 それでも、数日振りに『走る』感覚が戻ってきたのだ、嬉しさが込み上げて頬を緩ませる。地面を母指球で捉えて蹴り、腕を大きく振って、一秒でも速く進めと顎を引いて前を睨む。視界を滲ませる汗を拭い、街灯が照らす道を突き進む。寮の門限とトレーナーさんの就業時間を考えれば猶予は残されていない。間に合え、間に合わせろ──!! 

 

 校舎が見えると一段と気持ちが前向きになって、末脚みたいに速度が上がった。失礼しますと限界の肺から無理やり声を出し、寮に戻る先輩に道を譲ってもらう。校舎には点々と明かりがついている、それならトレーナー室にあの人も居るはずだ、そう信じて進むしかない。投げ捨てるみたいに上履きに履き替えて、『廊下は静かに走る』なんて校則を無視して階段を駆ける。暗い廊下で目を凝らし、見落とさないように、間違えないように部屋を確認して、ゴールに飛び込む。

 

「走一さん!! もう一度、私の目標を聞いて下さい!!」

 

 いきなり扉を開けて大声を出したから彼は凄く驚いた顔で私を見返している。膝に手を付いて息を整えて、どうにか話を続けようとするのだけど、ノックとか、挨拶とか、礼儀作法を忘れていたことを思い出す。彼がそこに厳しいのも知っていたのに勢いだけで押し入ってしまった。また間違えてしまったと頭が白くなるが、彼は何も言わずに作業の手を止めて体をこちらに向けると、私に話の続きをするように手で促してくれる。

 

「あれから何で不合格になったのか考えました。……でも、いっぱい考えたのに答えは分からないままです」

 

 あの入部テストで私が犯したミスは幾つもある。自分で長所を無くすようなレース展開をして、普段のレースと同じ距離なのにスタミナ切れで終わってしまった。その後も負けたことを引きずって中途半端な頭で質問に答えた。講評の時は褒められて浮かれたけど、冷静に考えれば減点対象の方が多いはずだ。それなら今の実力はそうなのだと受け入れて、地道に改善していくしかない。少なくとも今もう一度チャンスを貰っても、全てを改善して走ることは不可能だ。

 

「ただ、色々考えて一つだけ思い出して、それが私の目標だって思ったんです──」

 

 それでも、この思いは伝えるのは今じゃないと駄目だ。入部の合否とか、お父さんとか、テイオーさんとかは関係ない。これは私が彼に言わなければならない目標で、きっと何年も前に伝えるべきだったこと。私に初めてレースとライブを教えてくれて、公園で一緒に走ってくれた貴方に。私をずっと支えてくれていたトレーナーさん(・・・・・・・)に宣言すべき目標だ。

 

「──いつか私が担当ウマ娘になって、貴方を一番のトレーナーにします!!」

 

 レグルスでもない生徒がこんな目標を掲げるなど可笑しいことは理解している。他の人からしたら何を言ってるんだってなるし、逆の立場でもそう思うかもしれない。……でも、この気持ちだけは譲れない。テイオーさんがマックイーンさんの為に走ったのなら、私は貴方の為に走ろう。私に輝く世界を教えてくれたことへの感謝は私自身が輝くことで伝えたい。それはどれだけ時間が掛かっても、私というウマ娘が達成しなければならない使命だ。

 

 たった一言、時間にして10秒にも満たない時間、たったそれだけの時間が緊張のせいで途轍もなく長く感じられた。私の目標を聞いた彼が何も言わないから、無言の余韻がどんどん積み重なってその時間が更に伸びていく。

 

「……っはは!! やっぱり、キタちゃんは凄いよ」

 

 彼の堅い表情が崩れて私を褒めながら笑い始めた。何が彼のツボに入ったのかは不明だが、その笑顔が私の知っている昔のままであったことが嬉しい。彼は楽しそうにデスクから紙束を取り出すと、それを手渡しで持って来てくれる。汗の匂いとかが少しだけ気になったけど、紙に書かれた『入部届』の文字を見て乙女心は全部吹き飛んで行った。

 

「──じゃあ、お互いに一番になろう」

 

 癖で抱き着きそうになった衝動を抑えて、精一杯の気持ちで感謝を伝える。門限のせいでチーム説明は明日になって、私が思っていたことも全部は伝えられなかった。それでも別の日に時間を取ってくれるって約束してくれて、壊してしまった髪飾りも今度一緒に直しに行こうって──、デートかな? デートってことで良いよね!! それに、寮に帰って渡された書類を読んだら、後半のページが私の育成計画書になっていた。レグルスに入れたことでさえ踊っちゃうくらい嬉しいのに、あの人が私のことを考えてくれていた事実に感情が爆発する。……でもちょっとだけ騒ぎすぎた。濃厚な一日の締めは寮長さんに怒られて、元気が有り余っていると廊下掃除をさせられることになる。──ごめんなさい、走一さんには言わないで下さい!! 

 

 

 *

 

 

 静けさを取り戻したトレーナー室には一人の生徒が訪れていた。キタサンブラックが寮に戻ったタイミングを見計らったように扉を開け、自分の存在を伝えるためだけの軽い挨拶をする。慣れた足取りでソファに腰を掛け、スクールバックを床に下ろしてからは雑誌を読んで寛いでいる。トレーナーもその生徒が部屋を使うことを気に留めず、仕事を進めながら対応をする。

 

「……色々と手間かけさせた、すまない」

 

「ん~、全然いいよ? 可愛い後輩だし、それにハチミー代も貰ってるからね」

 

 そう言ってウマ娘が右手に持ったカップを掲げる。今回彼女に与えられた報酬は期間限定の超高級ハチミー、売れっ子ウマ娘である彼女でさえも購入に躊躇っていた逸品だ。そして依頼内容はウマ娘一人の相談役になること。正確には悩むキタサンブラックの話し相手になって欲しいというものだ。

 

「それよりも、キタちゃんを助けたいだなんて、随分と気にしてるんだね」

 

 今回の一件、相談役の彼女にとって疑問点がある。まず、彼女にとってはキタサンブラックの相談に乗ることなど無償で引き受ける依頼であった。トレーナーだって自分を担当していたのだ、その辺の事情は重々承知のはず。それなのに今回、なんと態々本人が頭を下げに来て、あまつさえ報酬だって渡してきた。尊敬する会長ほど彼にどうこう気持ちを持ち合わせてはいないが、元担当ウマとしては彼がそこまでする理由を探っておきたいのだ。

 

「まあ、俺が誘った業界だし、昔は色々と教えてたんだ」

 

 キタサンブラックが小学生以前のことだから覚えてないだろうけど、などと自嘲して理由を語る。ただ、彼の性格ではキタサンブラックのことを捨ておけないし、そもそも彼女も過去を思い出している。全て知っているトウカイテイオーにとってなるべくしてなった展開であるのだが、大人になった彼女は茶々を挟まない。

 

 それに、キタサンブラックは彼が一度トレーナーを辞める前、旧レグルス最後のウマ娘に似ている。喋り方や性格、彼を尊敬する姿勢までもがそっくりで、キタサンブラックが成長した今では生き写しのように思える。

 

「だから、──俺が責任を取る」

 

「……そっか、そうだね」

 

 彼の責任、その相手がキタサンブラックなのか、それとも他のウマ娘なのか。全てを知る(・・・・・)トウカイテイオーは思う、もし芝崎走一がキタサンブラックと共に頂点に辿り着けたなら彼が過去に残した約束を果たすことになる。そうすれば彼は責任から解放されて自由になるのかもしれない。──ならば自分は最大の壁になる。

 

『チームリギル・キャプテン、芝中距離選手』

 

 リギルはレグルスと入れ替わるように学園最強チームに登り詰めたチーム。そこから現在まで全国最強チームで在り続け、ボクはそのキャプテンでエース。つまりは全国で最も強いウマ娘がボクだ。トレーナーの夢は応援するけれど、……帝王として負ける気はないよ。

 

 

 

 *

 

 

 

 数日後、レグルスのトレーナー室では三人のウマ娘が雑談をしていた。学年がバラバラで未だ互いに堅苦しさが残るものの、自分の趣味やその日の出来事などを話せるくらいには距離が近くなっている。今日もレグルスの今後の活動についてミーティングが予定されているのだが、トレーナーが来るまでの時間をこうして潰している。

 

「……じゃあ、私が合格したのって、走一さんを『一番にする』って言ったことがポイントなんですか?」

 

「そうだと思う、担当トレーナーを一番にするのなら、担当ウマ娘が一番になることになるから。一周してトレーナーさんが求めた『最強』になる覚悟の一種なんだと思う」

 

「……なるほど、流石スズカさん。──私は分かってませんけど!!」

 

 今回の雑談はキタサンブラック合格の要因についてらしい。結局、トレーナー本人から合格についての詳細は語られず、十分に気合が入っているからと一言だけで説明は終わってしまった。キタサンブラック本人もそれに疑問を持たずにいたのだが、たまたま今回雑談のネタとして落としたところ具体的な考察が出てきた。一人考察に追い付けていないウマ娘がいるが、今後も難しい話には太刀打ちできないので気にしなくて良いのだ。

 

「……お、全員集まってんな」

 

 スペシャルウィークがオチを付けていると用事を終えたトレーナーが帰還。三人の囲む長机にトレーナーが加わってミーティングが開始される。主題は残りの必要適性である『短距離』と『ダート』の選手勧誘についてだ。スペシャルウィークの案が採用され、今後は無所属生徒に対して各員が個別に勧誘を行う予定だ。そのために今回は誰がどの生徒に接触をするのかを決めるはずだったのだが──、強烈な勢いで開かれる扉の音と、部屋を壊さんばかりの怒号によって会議が中断される。

 

 

「お兄ちゃん!! カレンがいるのに浮気したでしょ!!」

 

 

 ──うん、学園中に響いていないことを願おう。

 

 

 

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