レグルスメンバーがカレンチャンに接触したのと同日。
時間は遡って、学園が空腹の生徒で賑わう昼時。
授業で腹を空かせた生徒ほどではないが、芝崎走一にとっても昼時というのは気分が上がる。三大欲求を容易く満足させられて、詰まる仕事からは一時の解放となる。
それに春が落ち着いた時期の昼食というのは、一つ手を加えるだけで簡易的なピクニック気分も得られる。例えば、外に出ずとも葉桜を部屋から見れば、新鮮な緑を味わうには十分だ。太陽が柔らかい温かさで、風も緩やかに肌を撫でるのは心地よい。
昼食を楽しむ余裕──、それは数か月前の芝崎では考えられないことだ。
二か月前は、食事はエネルギー補給の手段に過ぎないと、
学園の片隅にある味気ない部屋で、パソコンを叩きながら栄養素を摂取する。人としての最低を遥かに下回る姿は、おおよそ食事と表現できるものではない。
そんな彼が近頃は時間をかけて食事を取っている。しかも、能動的に食事という行為を楽しんでいるのだ。誰もが認める社会復帰だろう。
授業中で準備中のカフェテリアに潜り込んでは、昼食を適当に見繕う。それをわざわざ弁当箱に包み、トレーナー室にテイクアウト。一人自由に弁当で味覚を、学園の景色で視覚を堪能させる。
余談だが、週に数度、昼休みには弁当を持ったチームメンバーがトレーナー室に集まっている。彼女たちとの生産性の欠片も無い、まさに学生らしい会話と共にする昼食。そんな効率から離れた行為も、楽しいものだと満足していた。
──なお、サイレンススズカに関しては、トレーナーが自身で昼食を用意できないタイミングを見計らい、トレーナー分の弁当を作ることでじわじわと胃袋を掴み始めている。このサイレンススズカでさえ無意識下で行っているアプローチが彼に届いているかはさておき、男の精神的に健康な食生活が送れているのは彼女の支えが大きい。
……しかし、そんな人間味を取り戻し始めた芝崎であるが、今日だけは楽しい昼食を遅らせている。
芝崎は
それなりに人気が上向いてきたレグルスだが、芝崎の黒い噂は未だ絶えず。面倒ながら視線を避けるためには必要だ。
「あぁ……、もう帰りたい」
芝崎が弱音を吐いてでもトレーナー室を出なければならない理由は一つ。目下の問題であるメンバー不足を補うためだ。
彼も可能であれば、自分がスカウト役というのは極力避けたい。しかし、メンバーに割り振ったスカウトは全て失敗した。残すは自分に割り振った生徒だけなのだから、こればかりは仕方ない。
『Q:そんなに嫌なら、残ったウマ娘のスカウトもメンバーに任せれば良いのでは?』
もしもそんな質問をされるならば、それを強く否定は出来ない。実際、メンバー三人に割り振った分だけで、スカウト対象にしたウマ娘の9割が占められている。
ただ、そこに載ったのは芝崎走一を怖がるだろう生徒たち。逆に彼が直接スカウトするのであれば、そのウマ娘は向こうから男を訪問したサイレンススズカ同様に、男の悪評に屈することのない精神を持っている。
──もしくは、元々彼を知っており、その悪評が捏造ばかりだと理解しているウマ娘だ。
この日、芝崎が探しているのは後者。これまでに芝崎と面識があるウマ娘だ。
加えて、芝崎でなければスカウトが困難な相手でもある。むしろ、芝崎でないと真面目に会話ができない恐れさえ抱えていた。
芝崎が敷地内を歩いて十数分が経過。そのウマ娘が居座る可能性が高い場所を順々に巡った。
まずは教室を訪れて、次は食堂を覗いた。……しかし、目当てのウマ娘はいない。
ならばと、人だかりを好まない彼女の性格を考慮して、校舎裏や倉庫なども確認する。──が、それでも彼女の痕跡さえ見つからない。
そうして学園内の敷地で最後まで残ったのは、生徒が侵入禁止の場所だけ。当然、目的の彼女も生徒なのだから、そんな場所に許可なく居座ることは出来ない。
──ただ、生徒会だけは別だ。一般的な学校で考えられないほどに権力のある学生組織。そこに所属している彼女であれば、それっぽい理由を揃えることで鍵など容易く拝借できる。
「ここ上るのも久しぶりだな」
芝崎が向かっているのは屋上。鍵はこの先いるウマ娘が持って行っているが問題ない。彼が以前レグルストレーナーだった際に、酒盛りのために勝手に屋上のスペアキーを作成している。彼女は一人になる為に屋上の鉄扉を選んだのだろうが、その程度の籠城策など芝崎には襖と同然。
屋上へと続く階段は薄暗く、生徒が寄り付かないから脇には埃が溜まっている。学園七不思議などの怪奇が生まれそうな独立空間。そこに、唯一の光源となる太陽光を差し込ませる曇りガラス付の扉がある。
芝崎が数年ぶりにその重い扉の鍵穴を回し開くと、強烈に注ぎ込む光と突風で目が塞がれた。一瞬たじろいでしまうが、これも屋上の醍醐味。芝崎は姿勢を戻して強く屋上に踏み込んだ。
──ああ、やはり、その先にはウマ娘がいた。
美容広告でも通用する黒髪を風に流して、敷物も用意せずに屋上に座っている。相も変わらず茎を咥えた姿に芝崎は懐かしさを覚え、口角を上げて彼女の隣に腰を据える。
「久しぶりだな、ブライアン」
「──帰れ」
芝崎の腰が据えられる前に退去が命じられる。
その戦績と性格から二つ名は数あるが、一匹狼とも称されるナリタブライアン。自身のパーソナル領域に侵入されるならば、それが知り合いであっても一瞬で戦闘態勢である。
……とは言え、実はこれでも彼女にとっては心を許した相手への対応。もしこれが見知らぬ相手であれば彼女の方が無言で立ち去っていた。
当然ながら、それは芝崎も感じ取っているので、冷たい言葉も無視して彼女の隣で胡坐をかく。
「あー……、ブライアン。今の君は無所属だったよな、次の予定はあるのか?」
「……回りくどい、ハッキリと言え」
これもまたツンツンしている言い方だが、裏を返して芝崎が訳せば『ハッキリ話せば、聞いてやらんこともない』だ。彼女もレグルスが復活したと小耳に挟んでおり、ここで芝崎が訪れた意味は推測できる。それなのに、こうして逃げずにいるのだから会話の意思はある。
「ナリタブライアン、君にレグルスへの再加入を申し込みたい」
チームの目標は数年前と変わらず最強を目指すこと。そのためには優秀な選手が必要不可欠である。
しかし、現在のレグルスで純粋な戦力として数えられるのはサイレンススズカのみだ。他の二人とも潜在能力はあるが、まだまだ選手としては技術不足。調子の良し悪しで記録が大きく変わり、これまでのレース経験が少なすぎる。
そのため5vs5のチーム戦では、マイル距離をサイレンススズカが勝つことを絶対にしても、その二人の適正である中・長距離の勝ち星は望みが薄い。三勝には不安要素が多いままだ。
そのため、ナリタブライアンに加入してもらい、中・長距離戦を有利にしたい。
ナリタブライアンには相手との相性から、中・長距離の好きな方に出場してもらう。そして、キタサンブラックとスペシャルウィークの調子が良い方を余った距離に出走させる。
これならば中・長距離で一勝は固い。サイレンススズカを含めれば、三戦二勝でおつりがくる。
それに、ナリタブライアンほどの選手なら、彼女たちへの手本としてもチームへの貢献度が高い。
「……分かった。それで、私には何があるんだ」
求められる理由に納得したナリタブライアンは、急かすように自身の利益について尋ねた。
芝崎がそれに対して用意していた回答は二つ。『優先的出走権と今年度の優勝』だ。
再スタートで低予算なチームでは、重賞を制するウマ娘を迎えられる好待遇は整えられない。そんなチームには彼女のような有名選手は加入しないし、スカウトすることさえもが可笑しなことだ。
「──気に入った」
しかし、そんな歴史に残る選手が望むのが『
ナリタブライアンの自分への厳しさは、チーム競技において不和を生じさせることもある。それは彼女が誰かに対して、練習の強要やフォームのダメ出しをせずとも自然発生する。
僅かなミスに苛立つ天才が怖い。あの走りで満足できない天才が怖い。そして何より、そんな彼女と同じチームで戦うのが怖い。……だって、私たちには彼女ほどに上を見る覚悟が無いから。
──そうしてチーム内で不和が生じ、チームとしての勝利が遠退く。
そうして、ナリタブライアンはどこかのチームに加入しては、他でもっと活躍できると形だけのトレードでタライ回しにされてきた。
また彼女の負った怪我も、一つのチームに留まりきれない原因でもある。
レグルス解散後、彼女が移籍した先の練習時に発覚した右股関節炎症。それは数か月の治療で完治するはずだった。
しかし、彼女の深く踏み込む特徴的な走りは、医師の予想を超えて筋肉へ負荷をかけていた。完治予定を経過しても、関節の感覚は以前の感覚とは程遠いまま。数か月の休養とリハビリで筋力も落ちている。
そして、治療の際に生じたミリ単位の骨格のズレが、彼女の強く蹴りだす足を狂わせていた。
数々の栄光を勝ち取った走りをしても、過去のタイムを超えられない。様々な施術を試しても、足に力が入り切らない。
ナリタブライアンという名前に惹かれたチームも、そんな彼女の現状を肌で感じてトレード要員にしている。
治療方法、療養期間、リハビリ、──何をどうすれば良かったのか。もう、どうしようもない過去で、それは神のみぞ知ることだと誰もが諦めている。
──芝崎を除いて。
もし、あの時にレグルスを解散しなければ、彼女は怪我をせずに済んだのではないか。移籍したチームで走り方を調整させられなければ、怪我をしなかったのではないか。そんな有りえない可能性を追ってしまう。
「……すまない、ブライアン。勝手なことして、君にも迷惑をかけた」
全ての説明を終えた芝崎の口からは謝罪の言葉が零れた。
これまでも謝罪の機会は何度もあった。芝崎がトレーナーを辞してからも廊下で擦れ違い、生徒会の彼女とは仕事上であっても言葉を交わしていた。それなのに、責められることを恐れて何も言えずにいた。
しかし、立場が変わった。
彼女たちと夢を叶えるためならば、これまでのプライドなどは捨てて然るべきなのだ。
「……分かった。加入してやるが、条件がある」
ナリタブライアンは目線を合わせず、呟くように勧誘を承諾する。
だが、勘違いしてはならない。これは芝崎の謝罪に対しての回答ではない。謝罪の言葉一つだけでは、前のチームを捨てた償いには及ばない。
男に求められるのはケジメ。あの時とは違うと、ナリタブライアンを納得させることだ。
「試させてくれ。今のチームとアンタを──!!」
だから、加入の条件として自身とのレースを望む。レグルスと芝崎走一の現在地を確かめ、頂に登り詰める実力を秘めているのかを確かめる。
戦いは一週間後、舞台は芝の中距離。1対1のレースだ。現状のスペックならスペシャルウィークが選出となるだろう。
芝崎にとっては想定内の展開だが、最も避けたかった展開だ。全盛期ではなくとも相手はナリタブライアン、勝てる可能性は限りなく低い。胸やけが全身に回ったような気怠さがある。……加えて、立ち上がった彼女が発した言葉は、更に芝崎をひっ迫させた。
「──なぜ、
生徒会メンバーである以上、嫌でも校内の情報を耳にする。それがレグルス関連ならば、元所属選手としては詳しく調べて、騒動の内容や関係者を把握してしまうのが癖だ。
芝崎が本当に過去を払拭したのなら、迷うことなく空席の短距離へカレンチャンを加入させる。しかし、それを選ばなかった芝崎の行動には疑問が残る。
口を手で隠して理由を秘匿する芝崎に、彼女は付け加えて釘を刺した。
「それがアンタの弱さだ。その状態で本当に頂点に立てるのか?」
過去の関係者だからこそ知っている芝崎の唯一最大の弱点。トレーナーを辞めて、チームを解散へ追いやり、カレンチャンを加入させられない原因。サイレンススズカたちに出会って変化している彼が未だに抱える問題点。
「まあいい……。一週間後にアンタが今のままなら加入は白紙だ」
予鈴の音を耳にしてナリタブライアンが立ち去る。残されたのは苦い顔をした男だけだった。
*
いつかのレポート課題では『匂い』と『記憶』の結びつきを題材にした。振り返ってみると、課題の完成度としては稚拙ながらも、大きくは間違っていない内容だったと思う。
現在の職場もそうだ。学校という施設のおかげで、ふとした匂いが懐かしい記憶を蘇らせる。
忘れがたくも、薄れていく青春の残滓。教室の端で感じた孤独と、圧し掛かる将来への焦り。尊敬した先輩と過ごした余りにも僅かな時間。
……ああ、ほんとに。学校というのは思い出すだけで吐きそうだ。
──だけど、それ以上に雨の匂いが嫌いだ。
濁って、透き通った、汚れて、美しい雨が嫌いだ。
母なる水で生まれた命の雫が嫌いだ。
雨は妹を思い出す。
腕の中で冷たくなっていく妹を思い出す。
拭えない記憶を思い出す──。
*
あの頃は無敵だった。喝采の中でトロフィーと盾を掲げ、胸元にメダルを輝かせる。レグルスの無敗神話は数多の栄誉を形にして貫かれていた。
その分、練習は厳しくしていたけれど、誰一人として音を上げることは無かった。辛い練習は歯を食いしばって、終わったら皆で飯を食って、食後は自身の夢について語り合う。そんなアスリートとして健全すぎる生活。この好調が当たり前のように皆が笑顔で過ごしていた。
……しかし、妹だけはお世辞にも調子が良いとは言えない状態だった。今さら思い返せば、そうだったのだ。
新人であった彼女には、元から戦力として期待はしていない。彼女に才能があるのは、兄バカを除いても絶対であった。レグルスのメンバーに揉まれて、努力を怠らなければ、数年後にはスター選手になる予定。──そうなるように俺が育てる予定だった。
だから、彼女の調子について深く考えていなかった。慣れない生活に心身の疲労はあれども、そのうちに本来の調子が戻って来るだろうと、確証のない余裕を感じていた。
……加えて言い訳をするならば、チーム状態が良すぎて俺は人生最大に忙しかった。一人でチームを背負ったのは初のことで、それまで自分が担当していたサブトレーナーもいない。それなのに積みあがる勝利に比例して、仕事量は他チームの倍近くに増えていた。
そうして俺は効率を求めてチームを管理し始めてしまった。そうなれば自然とレギュラーメンバーが優先されて、サポートメンバーである妹を構う時間が次第に減る。
「……ねぇ、お兄ちゃん。最近大丈夫? 目の下、真っ黒だよ」
──ん、ちょっと辛いけど、みんなの為だからな。しゃーねぇ。
「もー……。ちゃんと休憩取らないと、体に悪いよ?」
──ああ、分かってるよ。お前こそ学校はどうなんだ。悩みとか無いか?
「……そうだね。──……そしたら今度、話聞いてよ。ちょっと相談あるんだ」
──今じゃなくて良いのか?
「うん、お兄ちゃん忙しいし。また今度ね──」
今にしてみれば、この会話が妹からのSOSだった。彼女が問題を抱えていたことを洩らしたのは後にも先にもこれだけ。
それなのに忙しさを理由に、次の日には彼女の相談を忘れていた。いつも通りに見える彼女に、問題なしとラベリングしていた。
……が、ただそのままでは問題は解決しない。放っておいた事態が深淵に転がり始めたのは、それから数日後であった。
──妹が足首を捻った。
連絡を受けて向かった先には、ベンチに座って該当部位を冷やす妹の姿。足首は内出血で肌が紫に腫れ、歩くことなど出来ない。
チーム内の練習ではなく、学校のカリキュラムとして行われている体育でのこと。本人曰く、うっかりして転んだのが原因らしい。
学園の保健室では診断も、治療にも限界がある。怪我をしたのが実の妹であることに緊張しつつ、その日の練習指導をシンボリルドルフに任せて二人で病院に向かった。
──しかし、気が動転していた阿呆は俺だけ。大人なのだから落ち着けと、医者に怒られるように言い渡された診断結果は、完治まで一ヶ月程度の後遺症も残らない捻挫。
処置を終えた妹は松葉杖を脇にしていて仰々しく見えるが、それも念のためと一週間の使用が義務付けられただけ。
控え選手であっても選手は選手だ。診断書に書かれた文字に安堵した。
……ただ、渡された診断書には奇妙なことが記されていたのだ。
一つ前提として知っていて欲しいのは、ウマ娘の怪我処置が行える病院は数少ないということ。
ウマ娘を診るには、病院側が彼女たちの生体としての特殊性を加味し、正確な診断と精密な処置技術が求められる。一つでも失敗しようものなら世間からは批判の業火、スポーツ業界からは経営を傾けるようなレッテルが張られる。
そのためウマ娘の通院を許可するのは、そんなミスを起こさない一流の医者・機具・情報が揃った病院だけとなるのだ。
言うまでもなく、この病院も最新機具が並んでいる。なんと今回レントゲンを撮影した台座は、身長、体重、重心、骨盤の歪みなど、同時に計10項目を測定可能な優れ物だ。
──だが、俺はそんな台座が測定した項目の一つに違和感を抱いたのだ。
……妹の身長に対して体重が軽すぎる。適正な体格指数を保つなどと言える段階でない。健康面に問題を及ぼす範囲ではないが、アスリートとしては細すぎる。
自分が管理していながら、なんと不甲斐ないことだろうか。これでは満足な走りは難しいだろう。
妹の体重に変化が無いことは分かっていた。健康管理として毎日の体重計測と報告を行わせている。最近の体重に変化が無いのは、身長にも変化が無いからだと思っていた。
……ならば、俺の想定以上に身長の伸びが著しいのか。──それは否、記された身長の変化は許容範囲。学園と病院の機具の差を考慮しても、見過ごせる差ではない。
「あぁー……、ほら!! 最近練習ハードだったし、私も成長期でしょ? ──てか、太ってるよりマシ!!」
妹はそう言って笑い飛ばした。これもいつも通りの笑顔、──に見えていた。
彼女のことは生まれた時から知っている。その笑顔が作り物だってことも感じ取れていた。
……ただ、やはり、その時の俺は怠けていたのだ。彼女のことを理解することに意識を割けなかった。
この作り笑顔は、練習外の怪我でチームに参加できない心苦しさ。謝罪の念が彼女にそうさせているのだと思っていた。
「……じゃあ、この期間で飯を食え。怪我の治りにも関わるからな」
「らじゃー!! ──あ、ならさ!! 久しぶりにお兄ちゃんのオムライス食べたい!!」
「今日は白米です」
「む!? けちぃー!!」
献立に不満げな頬の膨らみをしている妹と学園に戻る。
その後、最初に手をつけたのは献立の見直し。太らせると言えば妹は嫌がるだろうけど、それを推し進めるように食事を変更した。もちろん、要望のあったオムライスやハンバーグをしっかり組み込んでだ。
そうして妹が好んだ食事を作ること一週間。見ている限りでは朝食・夕食共に残すことなく食べきっている。当たり前だが運動もしていないため、しっかりと体重が付いているはず──。
「──はずなのに、目標の半分にも届いてない?」
しかし、それでも妹の体重増加は予定の半分以下。何度計算を繰り返しても一致しない数字に頭を抱えるしかない。
摂取カロリー以上の運動など出来るはずがない。摂取したカロリーはどこへ消えたのか。まさか俺の学生時代のように、
「あれ? お兄ちゃん、行かないの?」
「──ああ、悪い。すぐ行くよ」
妹に急かされて、彼女の記録を隠して外出の準備をする。怪我から一週間、今日は予約していた足首の再検査がある。
妹の足には厚いサポーターが巻かれているが、歩くだけなら痛みは無いらしい。そんな状態を表すかのように、妹は病院に返却する松葉杖をクルクルと回している。きっと再検査でも順調に回復していると言われるだろう。
それに、今日は朝から雨が降っている。バス停までは歩くのだから、歩けるまでに回復しているのは良かった。
──転んで怪我でもされたら元も子もない。
*
その日、空は厚い雲に覆われ、殴りつけるような大粒の雨が降っていた。ここから数日は天候の回復は見込めず。テレビでは雨季の先取りとの予報が繰り返されている。やまない雨は無いなどと言うが、しばらくはコレと付き合うしかない。
雨雲で暗く、雨と傘で視認性が最悪な道を歩いてバス停に向かう。雨水を吸ったズボンの裾に明確な重みを感じる。平日の午後に、ここまでの悪天候となると自然と人通りが少なくなるものだ。
しかし、そんな誰もが家で大人しくしていたい状況でも、やはり小学生という生き物は強い。
走るのには不向きな長靴や、背中から動きを拘束するランドセルなど意にも介さず。笑顔で水溜りに飛び込み、ぐるぐると傘を回している。
目線の高さにかかる子供傘を避けては、その活気溢れた姿に感心するものだ。
ただ、その活気の良さを生み出すのは、あの年齢層特有の無知と無謀。理性は関与せず、己の欲求だけが一方的に体を動かすため、彼らは時として一般常識で予測できないような行動を起こしてしまう。
「……あの子供、どこ見てんだ?」
俺と妹の数十メートル先、歩道の端を一人の小学生が歩いている。背丈は低く、真新しいランドセルは背中より大きい。風を受ける傘に負け、歩き方もフラフラとしている。いかにも一年生といった風貌だ。
……加えて、その子の視線は定まらず、何かを探すように泳いでいるのが不穏さを感じさせた。
その子の視線が泳ぐ理由を読み解くのに、そこまでの時間は必要なかった。
入学したてだと言うのに、土砂降りの雨の中を一人で下校しているのだ。至極単純に心細いのだろう。そうなれば、どこかに友人や家族がいないものかと無意識に探してしまうものだ。
──だからこそ、その拠り所となる存在を見つけたとき、孤独からの解放という喜びは子供に爆発的な行動を起こしてしまう。
「あ──、あれ、駄目──」
妹がソレを察知して声を漏らした。
車道を挟んだ向かいの歩道。大声で何かを叫ぶ小学生たち。見た目から考えるに、──恐らく一年生。彼らが何を叫んでいるのか、これは考えるまでもなかった。
一人で不安そうにしていた小学生が、集団の声を聴いた途端に満面の笑みで手を振り返し始めた。
……話を戻そう。一般的な子供は無知で無謀なのだ。
例えば、雨の道路では車の停止距離が延びることを知らない。
例えば、人通りが少ないから、車も来ないだろうと決めつけてしまう。
例えば、左右の確認も行わず、反対の歩道にいる愛おしい友人たちの元へと、信号外を横断してしまう。
「嘘だろ!?」
子供が飛び出した歩道の反対車線からは、中型サイズのトラックが迫っている。突然トラックが現れた訳ではない。自分にはトラックが元から車線に沿って走行していたのが見えていた。
しかし、飛び出した子供の意識は視線の先にいる友人に集中している。自分のように当たり前のことが出来ない。加えて、傘をさしてるから左右の視界は狭く、トラックが近づくのに気が付いていない。
急いで声を張って静止を試みる、──が、その判断に体が追い付かない。叫ぶ、それだけの行為に数秒の時を要し、この一瞬が生死を分ける場面では余りにも長い数秒となった。
……衝突は免れない。手遅れだ。
「──ごめんね、お兄ちゃん」
最後に聞いた妹の声は、慰めるように優しい謝罪であった。直後に俺の横を駆ける影があり、その速度から発生した風が服を揺らす。
フィルム映画のように時が進んだ。自分の視点なのに、自分自身を後ろから観察しているような。作品を第三者として見ているかのような感覚。
雨の一粒ずつが目視で観察できそうで、肌に当たる感触さえも細かく鮮明に感じられる。
視界の端では、妹が投げ捨てられた傘が地面に落ちていく。疾風と化した妹とは真逆に、傘は綿毛のように地面を転がる。
けたたましいブレーキ音が響くと同時に、妹が子供の手を掴んで自分と位置を入れ替える。子供は飛び出した場所へと倒れ、ランドセルが万が一の役割であるクッションとして機能する。
確定してしまった未来に身動きは取れない。妹の速度には追い付けず、静止を促しても意味は無い。ゆっくりと動く時の中で縋り、祈る。
ああ、神様。どうか妹を助けてください──。
……しかし、車のライトに照らされ始めた妹はその場から動かない。動けない。
彼女の足が震え、口の端が痛みで歪んでいる。
──目が合った。振り落ちる雨が車のライトを乱反射させ、明輝とする妹がこちらを見ている。
彼女は笑みを浮かべていた。足の痛みに耐えながら、仕方なさそうに。申し訳なさそうに。
それは明るく、優しい、素直な性格のいつもの笑顔。彼女が生まれてから十数年の間、ずっと見守ってきた笑顔。そんな数え切れない瞬間が瞳の裏に流れ込んできた。
──分かってる。兄ちゃん、最後までお前のこと見てるからな。
──壊れる音がした。
ブレーキが道路を削る音の中で、叩かれ、折れる音がした。
妹の身体が大きく吹き飛ばされて、無抵抗のままアスファルトに倒れる。しかし、それだけでは勢いは止まらない。彼女は何度も跳ね転がり、最後は地面に擦り付けられながら、ようやく落ち着いた。
手から滑るように傘を落とし、彼女の傍へ向かう。
彼女の身体は動かない。うつ伏せのまま雨に打たれて、重力に引かれるだけ。その空間で動くのは、側頭部から滲み出ている赤黒い液体。流れる雨を伝って、地面に広がっている。
数十キロの速度で正面衝突したのだから、こうなって然るべきだ。
膝を地面につけて、彼女を抱きかかえる。
瞳に精気は宿っていない。瞳孔は虚ろに空を見上げて、体を支える筋肉の硬直が始まっている。
──それなのに、口元だけが笑顔を残していた。
勇敢だったと、手で覆うようにして彼女の瞼を閉じる。
……ああ、そうだ。俺の妹は最高の妹だ。
聴覚は人間が最後まで感覚を残す器官。冷たい彼女に届かずとも、出来ることはこれだけだ。
「──ずっと愛してる、********」
力いっぱい彼女を抱きしめた。雨に奪われる彼女の体温を最後まで確かめた。
雨と鉄の臭い。
温かく、冷たく、硬く、やわらかい感触。
無音を奏でる水とアスファルトのぶつかる音。
命が輝き、消える感覚。
──ああ、こんな簡単に終わるのか。
*
事故後、俺には一週間の休暇が与えられた。忌引きの三日に加えて、精神的な療養のために二日の特別休暇。週末の休みを挟めば合計七日の暇である。
ただ、レグルスのトレーナーは俺のみだ。あまり長期間は離れられないし、離れたくもない。そのため葬式を行うための忌引だけで充分だと申し出たが、学園側に短いくらいだと断固拒否の姿勢を取られた。
これには学園の判断は善意も含まれているが、恐らくはメディアが落ち着くまでの時間稼ぎの部分が大きい。
華やかな学園で起きた悲劇に世間の注目が集まるのは当然だ。今まではレース直前にスポーツ班の記者たちが校門前で輪を作っていたが、今は他の取材班も張り込んで、血眼になって使えるネタを探している。
不幸中の幸いは、学園側が根回しをしたことで、俺たちの兄妹関係は伏せられたことだ。ただ、それでも
そのため学園に従って暫しの休養を受け入れることにした。
ただその期間も休んだ気にはなれない。
俺も大概だが、それ以上に両親の精神が枯れ細っている。どうしたって葬式の喪主ができる状態じゃない。
感傷に浸る時間は無い。妹の人生を綺麗に畳むのは俺しかいないのだ。
連絡しなければならない親戚は数多く、葬儀屋との段取りは勝手が分からず。葬式中も挨拶回りに、香典やらの確認作業が付きまとった。
こうなると普段の仕事量と変わらず。むしろ慣れないことに肩が凝る。休みなんて形だけのものだ。
──ただ、やることが多い方が気持ちは紛れた。
あの日に壊れた心は壊れたまま。葬式を無事に終わらせるという使命、その一本だけ残った細い柱が俺を支えている。乾き、欠け、罅割れた支柱。風が吹けば、誰かが指を這わせれば折れる支柱だ。その柱を仕事で塗装して、辛いことを考えないようにできた。理屈で無理やり柱を補強して心を支えた。
「皆さん、ありがとうございました。帰りもお気を付けください」
全てを終えて列席いただいた方々を見送る時には、俺の見た目は古びた案山子のようになっていた。
視界には冬の冷たさに似た灰色の靄がかかる。四肢が借り物みたいで、機械的に動かされている。妹を形成していたリン酸カルシウムと炭素。それを拾い上げる時であっても心が動かなかった。
そう言えば、ここ数日の食事もほとんどが喉を通っていない。固形物なら粘土、飲み物は絵具に近い。臭いも嗅ぎ分けられないのに、線香だけが鼻の裏に延々と張り付いている。音も四角い情報体で、周りからの呼びかけも聞き逃してばかり。何とも情けないことだ。
「でも、これで終わりだよな……」
滞りなく妹を送り出せた。葬式も問題なく終えられた。兄として妹の面目は守れたはずだ。
深閑とした会場で一人安堵していると、張り詰めていた神経が緩む。喪服を椅子の背に掛けて、ネクタイを外す。──すると途端に連日の疲れが溢れ、椅子に座ったまま意識がぷっつりと切れた。
ただ、意識の閉幕には満足していて、良く持ち切ったと自身を褒めて深い眠りにつけた。
──その後、目覚めた俺の身体が正常に動くことはなかった。限界を超えていた身心は、ベッドから動くことも許さない。
結局、学園が当初提案した二週間の休暇を使うことになってしまった。
*
学園に戻った俺への態度は二極化されていた。それも比率が大きく偏った二極だ。
大多数の者たちが選んだのは敬遠だ。約二週間で汚く痩せこけた俺に、関係の薄い者が話しかける勇気は湧かない。加えて、そんな身なりでも仕事は以前同様に行っている。壊れたロボットのようで、周りからしたら気味が悪かっただろう。
……ああ、そうだ。この辺りから何年後も響く悪評が始まったのだった。
対にいるのが、以前から常に俺の傍にいた極少数の者たち。シンボリルドルフやトウカイテイオー、彼女たちは子供の世話を焼くように生活の手助けをしてくれた。ナリタブライアンは何か手助けをしてくることは無いが、俺の傍に誰もいなければ視界に入るようにいてくれた。俺を独りにしないように気を使ってくれていたのだろう。
──やはり、
亡くなった妹は戻らずとも、欠けてしまった心でも、耐えられたのは彼女たちがいたからだ。そう遠くない未来、俺は元には戻らないほどの崩壊を迎える。それを直感で理解していても、担当している彼女たちが立派に巣立つまでは耐えねばならない。
『──いつか、私のトレーナーになってね』
幼い妹に言われた大切な言葉。あの言葉でトレーナーを目指し、トレーナーになった以上は、彼女がいなくとも最期までトレーナーを貫きたい。
限界の身体を信念で維持すると、特攻に近い精神で戦うつもりであった。
……あの記事を読むまでは。
『事故死の影に隠れたトレセンの闇!? 事故少女にいじめ被害発覚!!』
電車のつり革広告に大きく載せられた文字に意識を殺される。文字が認識できているのに、書いてある意味に理解が追い付かない。
トレセン学園に在籍する千単位のウマ娘。そこにある文字が当て嵌まる生徒は一人だけだ。
……知らない。俺はそんなこと知らない、聞いてない。
妹はそんなこと一言たりとも言って──、……いや、あった。知らせは有ったのか──?
次の駅、途中下車であっても足が動いた。書店に飛び込んで陳列された雑誌を手に取る。
本文は読者を煽るため、これでもかと脚色が盛り込まれた悲劇的な文章が書かれていた。創作物でも通用する雑誌など、普段なら鼻で笑って閉じるところだ。
──しかし、その文章の中には学園関係者しか知り得ない、授業カリキュラムやチーム情報が載せられている。振るわれた暴力や浴びせられた罵倒も、どれもが詳細に記されていて、その虐めが行われていたとされる場所や日時に違和感がない。
学園に勤めているから見抜ける。この雑誌にフィクションが足されていても、根本に虐めが起きていたことは確かだ。
それに、複数出版社が同時に同内容を含んだ雑誌を発行しているのも、事実があるとの裏付けになっている。
──怒りで体が千切れそうだった。
掲載された内容の後半、亡くなった生徒が受けた最後の虐めが暴力行為だと書かれている。それは体育の授業でのことで、加害者の生徒が故意に起こしたのは──、
『捻挫』だ。
これからするのは勝手な想像だ。
もし、彼女が捻挫をしていなかったら、そもそも治療のために病院に通う必要はない。そうすれば、あの雨の日に外出することもなく、事故に遭うこともなかった。
もし、何かの用事で外出していても、彼女が持つ本来の身体能力であれば子供を助けて、自身も車と衝突する前に車道から逃げきれていた。
……そうだ、そうなのだ。最期に彼女が車に無抵抗で引かれたのは、足が痛みで動かなかったからだ。俺と目が合う一瞬前に、自分の足を見て逃げることを諦めていた。
なら足が動けば彼女は生きていたのか。
もし、虐めを知り得ていたなら今とは違ったのではないか。
そう考えて行きついたのは黒く濁った感情。行き場もなく、抑えていた悲しみが憎悪になって吹き出す。
──イモウトハ、コロサレタノカ?
これは殺意だ。これまで愛してきた存在たちへ、自分を支えてくれていた存在たちへ。初めて抱いた黒色のナニかは、そんな存在へ向けられた。
事実を確かめるために学園へと向かう足に今までにない力が入る。握った拳から体液が流れ、噛み締めた唇から鉄の味がする。
殺気で周りの人間に道を開けさせ、走って荒れた呼吸を整えることをせず、重厚な木製の扉を叩き開ける。視線の先にいるのは学園の最高責任者。しまったと俺の訪問に顔を歪める彼女に詰め寄った。
「俺に隠したんですか」
「……否定。我々も記事発行と同時に得た事実だ」
学園に非は無い、……らしい。
嘘ではないだろう。在籍数が四桁にもなる学園の生徒すべてを、取りこぼすことなく管理しろと言う方が無茶だ。
実際、数年に一度、学園側が監督しきれずに事件を起こす生徒がいる。
勝ちたいがあまりに行われるドーピング。禁止されたシューズの着用、相手チーム情報の不正入手。悪意を持って行動してしまえば、それなりに抜け道は見つかる。
「今後、
「……情報を記者に流した生徒については、厳重注意と数日の謹慎です」
この事態に対応しているであろう、理事長の隣に立つ秘書が回答する。──だが、違う、そうじゃない。そっちじゃない。濁した答えで満足は出来ない。
……分かるさ。俺だって分かる。
問題を起こしたとしても、加害者だとしても、理事長たちから見れば大切な生徒だ。彼女たちを守りたい気持ちは痛いほど理解できる。それなのに殺気立った俺に、その生徒たちの情報を与えることなんて出来ないだろう。
だから、その意思を捻り壊す。
親族として、トレーナーとして。それらしい御託を並べ立てて、理論武装を眼前に突き付ける。
「だとしても、俺に連絡一つ無いのは間違っているのでは? まさか俺が介入する前に、都合よく片付けるつもりだったのでは──!?」
「──い、いえ!! そんなことは!!」
一度でも口にしてしまえば、もう止まれなかった。
こんなことのために蓄えた知識でないと、十数年間の努力を否定することになっても止まれない。尊敬していた人たちに対して、ウマ娘の存在を否定する発言を暴力のようにふるった。
暫くの間、二人は俺の言葉を一方的に受けるが、虐めに対して法的処置に出るとの脅しが理事長秘書の口を無理やり開かせた。
「──虐めの加害者となる生徒は、退学処分になります」
手に入ったのは俺にとって極上の餌。
「その役目は……、退学を突き付ける役目は俺がやる」
ならば俺にとっての復讐は、そいつらから生きる意味を奪ってやること。
「──ッ、否定!! トレーナーにはそこまでの権利は与えられていない!!」
「そ、そうです!! 生徒の在籍管理が行えるのは一部の職員だけです!! まさか貴方はトレーナーを辞めるとでも──……」
必死に説得する女性から少しずつ声が失われる。交渉の余地はないと彼女たちも理解している。
本来であれば、俺程度の脅しなどで役職を変えることなど有り得ない。だが、俺の要求を呑まなければ、その後にどんな行動をとるのかは定かでない。
俺が学園を訴え、更に収拾のつかない事態にする可能性がある。もしくは、俺が独自に虐め犯を調べ上げ、復讐に走るかもしれない。どちらにせよ、学園としては不利を被るだけだ。
「ならトレーナーなんて辞めてやる。いいから、さっさとその権利を寄越せよ──!!」
その俺が、退学を突き付けることで満足すると言ってしまえば、彼女たちはそれを飲み込むしかない。
彼女たちは学園を守るために判断を下した。
新しい役職を作り、俺に担わせ、学園の端に置く。そうして学園を守ったのだ。
*
あれから数日後、新たな役職を得た俺は薄暗い部屋にいた。学園の隅に位置する小さな部屋だ。光の入りは悪く、長らく未使用で埃が溜まり、カビが這っている。まるで廃墟のようだ。
そんな部屋での最初の仕事は例の宣告。
最低限の電気で室内を照らし、埃の被った机に書類を置く。掃除もせず、缶コーヒーを啜って時を待った。
……しかし、直ぐにその時が訪れるだろうと思っていたが、思いのほか時間が経つのが遅い。
待ち始めた最初の方こそ、この退屈の理由はただ手持無沙汰だからだと思っていた。だが、時間が経つにつれて、徐々にその本当の理由に気が付いていく。
それはアトラクションを待つのと同じ。人として終わっているがワクワクしていたのだ。年端もいかないウマ娘から、その夢を奪うという腐った行為に愉楽を求めていた。
だから、ドアをノックする音に笑みを浮かべた。妹の残した気持ちを踏みにじるような、汚らしい感情で口が緩んだ。
「良く来てくれたね。こんにちは、──芝崎です」
訪れたのは三人の生徒。愛すべきウマ娘で、憎き生徒たち。
彼女たちは俺の顔を見るなりに表情が青ざめ、その手が震えだした。──ああ、何といい気味だろうか。このまま放っておいて、勝手に崩れる様を眺めるのも良いだろう。……だが、もう一段突き落とす楽しみには勝てない。
「突然ですが、貴方たちは退学となりました」
あくまでも穏やかに、薄く笑みを浮かべて、嘲笑うかのように退学を突き付ける。
数秒間の静寂の後、一人の生徒が膝をついて涙を流し始めた。それは伝播し、他の二人も感情が溢れ出す。
これは望んでいた光景だ。望んでいた復讐だ。正統な復讐だ。……それなのに、期待していた悦楽を感じることはない。
羨ましいことだ。お前らのせいで、もう妹は涙を流すこともできないというのに。
唾を吐き捨てるように退学通知書を押し付けて、部屋から退出させる。書類に記された退学理由を口頭で述べて、その罪の重さを自覚させる予定だったが気分が乗らない。書類に目を通さなければ、退寮や転校手続きも出来ないのだ。勝手に読んで、勝手に落ち込んでくれ。
ふぅ──、と大きく息をして扉の鍵を閉める。そのまま窓際に移り、カーテンをずらして窓を開け、枠に体重を預けて空を見上げる。復讐が終わった今、思うことは一つだ。
「……あんま変わんねぇな」
気分は晴れない。むしろ一つの区切りがつき、理性的になったことで虚しさは膨れ上がった。しかも、収縮するはずの怒りと悲しみも変化する気配がない。
求めていた満足感とは言い難い気持ちだ。
──分かっている。この気持ちの原因は、己の選んだ行動が間違いだと気が付いているからだ。怒りを上司にぶつけて、私怨でチームを解散させた。妹の願いでもあり、努力して手に入れたトレーナー職も捨てた。
それでも、どうしようもなかったんだ。
この行動の結果として何も得られず、行動の過程で抱えていたものを捨てても。
「糞野郎だな、俺は……」
黒い液体を流し込んで、カーテンを閉めた。
これで話は終わり。それからは誰もが知るままだ。シンボリルドルフは選手を引退。ナリタブライアン、トウカイテイオーたちは別のチームに移籍。
腐った俺は自分で始めた仕事を惰性的に続ける。食事は適当に取り、半カフェイン中毒者状態。パソコンで目を悪くして眼鏡をかけて、運動の頻度も激減。生きても、死んでもいない日々を繰り返した。
「──責任、取ってくれないんですか?」
数年後、一人のウマ娘が訪ねて来る、その時まで。
*
長らくナリタブライアンが芝崎に苛立つ理由、それは芝崎走一が『妹』の存在に未練を残していることにある。より正確に表すならば、未練に対して平常心を装い、そんな状態をダラダラと引き延ばしていたことに苛立っていた。
未練そのものを責めることはしない。過去を想い大人気なく泣こうが、落ち込もうが、どうでもいいのだ。
しかし、己の意志で再び立ち上がったのなら、チームを背負うものとして踏ん切りをつけるべきだ。
それなのに、芝崎はカレンチャンに『兄』と呼ばれることが辛い。チームに『妹』と被る存在がいることなど考えられない。カレンチャンがチームに加わってしまえば、芝崎走一から『妹』の存在が消えそうでならない。
そんな自分本位の理由で、レグルスを最強にすると宣いながら、優秀なウマ娘の加入を拒んでいる。自身で掲げた理念に背く行為をしている。
厳しいようだが、今回はたまたまチーム内部で収まっている事態であるだけ。今後この歪みが他の問題を引き起こすかもしれない。
例えば、妹そっくりのウマ娘が相手チームに所属していたとき、芝崎が無意識に手を抜くかもしれない。もしくは体調を崩して指揮が執れないなどの状況に陥ることも考えられる。
彼のどっちつかずの覚悟と行動は、再びチームが崩壊するかもしれないのだ。芝崎走一の身勝手さに振り回されたナリタブライアンは、そんな危険性を孕んだチームへの所属など御免被る。
勿論、芝崎走一もナリタブライアンの警告を受け止めてはいた。
彼がこの数日感じるのは、日に日に浮かび上がる己の矛盾ばかりだ。レグルスで戦うための強い精神などと宣いながら、
そしてその問題へ意識が沈むたび、その体からは傀儡のように力が抜け、本来の働きを行うことが儘ならない。
ナリタブライアンとの勝負も明日に控えているのに、未だ中距離適性の高いキタサンブラックとスペシャルウィーク、どちらを選出するのかも決まっていない。
全くもってナリタブライアンの予想通り。精神的な弱点が敗北への道を歩ませている。
「……最後はメンタル勝負か」
芝崎が口にしたそれは、選出に関する言葉でもあり、自己嫌悪を存分に内包していた。
──勝負も半ば諦めている。
相手は怪我を負ってもなお一流の選手。鈍った芝崎の思考であっても、トレーナーとして判断するなら、現状では万が一の勝利も無いと断言できる。
中距離・芝のレース、何度シミュレーションしても勝ち筋が思いつかない。
ならば、負けが確定しているならコインを投げて運に賭ける。……というよりも、何とも情けないことに最後は他力本願。もうコインを投げることさえも他人に任せてしまう。
「……なあ、スズカ。キタちゃんとスぺなら、どっちが相手になると思う?」
「そうですね……。私は──」
芝崎が頼る先は一つしかない。ヨタヨタとグランド脇のベンチに向かい、スポーツドリンクを飲んで練習の小休憩を取っているサイレンススズカへと問いかけた。
──だが芝崎走一という男は、運命に身を委ねて安寧に過ごせた試しがない。コインを弾こうものなら鳥が加えて去っていく。天命を求めれば神様がスカイダイブしてくる。
サイレンススズカへの問いも同様。彼女が放つ答えは、良い意味で諦めのつく大胆なものであった。
「──私は、彼女を推薦します」
サイレンスズカが勧めたのは、隣のレーンでトレーニングを行うウマ娘だ。ジャージの裾は土で真っ黒に染まり、顔には粒玉の汗を纏った白髪が張り付いている。これはレグルスの練習メニューを真似て自作したものを、今日も一人で黙々と完遂させた確固たる証拠だ。
芝崎は言葉を飲んだ。ここまでぶっ飛んだ提案であると、否定の言葉も、肯定の言葉も適していない。
その生徒の努力は認めるが、どんなに努力を重ねていても、事実としてその生徒はレグルスのメンバーではない。加えて、彼女が有するのは短距離適性のみ。今回のレースは適性外だ。
前提を無視するなどサイレンススズカらしくもない。完全にロジックの破綻した提案である。
──だからって、スズカが可笑しなことを言ったとは思わない。
そうなのだ。どんなに可笑しな提案だとしても、あのサイレンススズカが言い切ったのだ。
メンバー不足の解決とチーム強化を狙ったレースだと分かっていて、相手とシチュエーションを理解していて、それでも硬骨な意思でサイレンススズカが言い切っている。
「私もスズカさんに同じです!!」
「同じく、です!!」
いつの間にかスペシャルウィークとキタサンブラックまでもが揃って推薦を口にし始めた。口を挟む余地なしの満場一致。この狂気染みた案がチームメンバーの総意だ。
──が、だからこそ、ならばあと一歩。芝崎は背を押してくれる要素が欲しい。
必勝法を示せなど無茶は言わない。芝崎が決断するために何でも良い。彼女たちの気持ちが決まったように、優柔不断な彼を動かす確定的な要素が必要なのだ。
「──なら、
最後のピースは、芝崎の背を押したのは推薦を受けた張本人。拳を強く握り、まっすぐに芝崎の瞳を見つめる。
念願であったレグルスへの加入を諦める。それを敬愛する芝崎に対して宣言した。勝てる自信か、それともチャンスを逃すまいとの決心か。
どちらにせよ気骨のある心意気だが、それでは彼女の損得計算が成り立たない。
「……なら、勝ったら? それだけだと君に利が無いだろう」
今までのことの運びから予想するならば、カレンチャンが提示するのは『勝ったら加入させてほしい』だと誰もが結論付けるだろう。
「無いよ、カレンは勝つだけ。走って勝つだけ」
だがカレンチャンは違う。
これまで打開策の無かった彼女へと垂らされた蜘蛛の糸。それを十分に理解していても、それには縋らない。
だからこそ、その意思は芝崎の覚悟にも変わる。ウマ娘の本質を帯びたカレンチャンの意志は尊重するべきだ。
「……分かった。カレンチャン、君に賭けよう」
その言葉に強く頷いたのはカレンチャンを含めたウマ娘四人全員であった。
数日前、彼女たちはナリタブライアンから芝崎走一の過去を知らされた。自分たちの知らない彼を知ることで、芝崎走一がどのような存在なのかを見つめ直した。今、そんな彼女たちを動かすのは彼に対しての憧れではない。
もし、その気持ちに名前を付けるなら──
*
翌日、午後18時、天候・芝ともに良。夕日が影を大きく映し出し、決戦の舞台を染める。
すでに他のチームは練習を終えた。秘匿のために立入禁止の立札を設置せずとも、練習場にいるのはレグルスの関係者のみ。
ジャージを着たレグルスメンバーと芝崎は、柵の外に設置されたベンチに腰を並べる。彼女たちの視線の先には、体育着で入念にストレッチをする走者が二人。どちらも一定の距離を取って集中力を高めている。
「……き、緊張しますね!! 私、1対1のレースって、ダイヤちゃんと練習で走るくらいしか経験ないです!!」
「私なんてウマ娘さんと走ったことすら数回しか……。もう緊張でお腹が……、減ってますよぉ」
「スぺちゃん……」
私的なレースに大掛かりな設備の使用許可は下りない。スタートの合図を発する電子機具などもっての外。スタートとゴールラインは等間隔に置かれたポールが目印。応援の声掛けも、勝利予想の会話も波立たない。そんな記録に残らない簡素なレース。
それなのにレグルスメンバーの言葉通り、レース場には異様な緊張感が張り詰めていた。重賞の緊迫感とも、チーム戦の最終レースとも異なる。動的なスポーツとは遠い、凍り付くような重みだ。
その中心である走者たちは互いの様子を横目で捉え、合わせたようにスタートラインに足を運ぶ。
スタートがあるのは向正面から手前、カーブを抜けてストレートに入った所だ。そこから一周走り、今度は向こう正面を抜けて、逆側のカーブ手前でゴールとなる。
先に体勢を整えたのは漆黒のウマ娘。身体を深く沈み込みませて、夕日で伸びる影と一体化し、脱力したまま息をひそめた。この勝負への殺気と勝利への渇望を纏う姿は、正しく獅子搏兎。
勝負前、芝崎からレグルスの代表者がカレンチャンで良いかと尋ねられた時に、彼女は少しばかり驚いた表情を覗かせて、直後に僅かながら口角を上げた。あの表情は心からの驚きなのか、それとも勝敗の決まったレースへの落胆した嘲笑なのかは分からない。
いずれにせよ疾走に備えた彼女の姿からは、そんな子供だましの作戦で虚を衝くなど不可能だと言われているようであった。
──ふぅ。
カレンチャンの溜息のような深呼吸。これから相手をするのは正真正銘の王者だと、畏怖する気持ちを吐き出した音だ。その音は離れた見届け人たちには聞こえないが、彼女の動作が彼らにも伝わっている。
本番のレースならご法度であるが、集中を繋ぎ合わせるために整えかけた構えを解く。リラックスの為に軽く跳ねて身体の緊張を和らげ、もう一度大きく深呼吸を行った。
──あ、そうだ……。
脳に酸素が送られたことで、少女は緊張のあまりに忘れていた一つのルーティンを思い出した。それはこのレース前に行うと決めた行動で、このレースに乗せる彼女の精一杯の想いの形だ。
夕陽に照らされて赤色を帯びた白髪を揺らし、自分を見てくれる友人たちへ、そしてレグルスのトレーナーへと顔を向けた。自分が立っている位置は、橙色の夕日に黄金色が反射して逆光になっている。影になった自分の表情は薄ぼんやりとしか見えないと理解している。
それでも彼女は微笑を浮かべて誓いを立てる。
「……待っててね、カレンが届けるから」
その微笑みに気が付いたのは、少女が気持ちを伝えたい芝崎のみであった。
瞬間に男の脳裏によぎるのは、雨に塗れた妹が浮かべた最期の笑顔。迫る人工のライトに照らされながら見せた、謝罪を込めた兄への感謝。色褪せることを許さない絶望の刹那。
『兄妹』の立場と、照らされたシチュエーションが同じだからか、またしても忘れたい記憶が蘇る。
また心臓を掴まれるような、唇を噛み締めるような気分になる。──なるはずだった。
ただ、今日だけは違った。『妹』の笑顔に目を奪われ、過去のことが消え去っていた。
それだけではない。積み重なった後悔も、このレースへの緊張も、トレーナーとしての職務も忘れた。ただ無心で『カレンチャン』の笑顔という温かさを受け取っていた。
そんな男の感情を読み取ったかのように、カレンチャンは眠るように目を閉じ、自然な脱力と共にスタート体勢を取る。
──これで二人の戦いへ挑む準備が整った。
先にも説明したように、私的なレースに十分な用意はされていない。勿論、スタートを促す機械も設置されていない。
そのため、このレースの始まりは誰もが知る国技、相撲と同様に行われる。
相撲というスポーツにおける最大の特徴は、その始まりに信号による合図が無いこと。プロとされる彼らは、見合う両者が土俵に手をつき、互いの呼吸を合わせることでスタートの合図と成す。
つまり、逆説的には呼吸を合わせるなど、そんな離れ業が出来るのはプロだけだ。アマチュアには合図が用意されている。
しかし、体勢を整えている彼女たちもアスリートとしては既に一流。すでにそれ……が出来る領域にいる。
共に体勢を整えて静止して数秒。息の止まる一時を永遠にまで伸ばし、息を飲み込んでスタートの合図を放つ。
──二人の足先が地面を擦り上げ、身体が前進した。
スタートに成功したのはナリタブライアン。低めの姿勢で体を斜めに傾けて、妨害ギリギリとも思われる巧みな位置取りを行ってカレンチャンの前に入った。
しかし、間違えてはならない。カレンチャンは『出遅れ』などは犯していない。先頭を取られたことで失敗したと思われる最初の攻防も計画通り。限界まで位置取りを争い、わざと先を譲っていた。
最初の直線はそのまま。カーブに入った時点でナリタブライアンが先行、そのすぐ後ろにカレンチャンが位置。本来の多人数でのレースであれば、どちらも『先行』のペースで走っている。
……ただ、その本来の話をするのであれば、カレンチャンは『逃げ/先行』の走りでなければならない。
勝率が高いと言われる先行は、その分だけ集団が生まれやすい。カレンチャンは『逃げ』の脚質を有するため、あくまで戦略として『先行』で走る際にも集団の先頭に位置する。
そんな彼女がこのレースで行っている走りは、先行集団後方に位置する『先行/差し』展開だ。ナリタブライアンのペースが速い可能性もあるが、それでも最初の直線で得意位置を譲る程度の選手ではない。
「……隠し玉があるのか」
ここで芝崎が確信をもって口を開いた。
どうして、何があって、カレンチャンとメンバーが結託していたのか。それは芝崎には未だ不明で、親交を深めたから機会を与えたのかとも考えていた。しかし、この今までの彼女には有り得ないレース展開を目撃すれば、彼女たちがカレンチャンを推薦したのには明確な理由があると判断した。
そうなれば、ここからの巻き返し方は、隣に並んでいるメンバーが知っているだろう。勿論、レースが進めば自ずと目の前で起こることだ。このまま待っていても確かめることは出来る。だが、自身では思いもつかなかったナリタブライアン対策には研究意欲が勝った。
「それで、どんな作戦なんだ? コンセプトはST‐C? それともSSA?」
自分では練られなかった作戦への悔しさが半分。教え子たちが自分の思いつかなかったことをしてくれたことへの喜びが半分。カーブを終えて少し距離を離されたカレンチャンを見守りながら回答を待つ。
……しかし、その回答は満足どころか、受け入れがたい言葉で返ってきた。
「あー……、戦術は無いです」
「──はぁ?」
テヘヘと笑うキタサンブラックに、芝崎自身も驚くような呆けた声が漏れた。
まさかノープランなのかと頭を抱えたくなるが、回答したキタサンブラックがまだ何かを言いたげなので、芝崎はそれを話すように手で促す。
「対策とか、戦術とか、難しいのは思いつかなくて。結局、見よう見まねでやってみよう! ──ってなりまして」
キタサンブラックの言う見様見真似。それはどこかの選手を参考にして、カレンチャンが走っていることを示している。
参考となる候補は、ナリタブライアンに対して拮抗したウマ娘か、短距離適性のカレンチャンが中距離でスタミナを保たせられるような走りをしているウマ娘だ。
そうなると浮かび上がる次なる問いは、誰のレースを見ていたのかということだ。
「昔のレグルスのレースを見ていたんです」
サイレンススズカの補足するような答えに芝崎の心拍数が上がった。レグルスに在籍していたウマ娘で、『差し』のレースを行う者は数えられる程度だ。
絞られた選択肢であれば推測は容易い。その参考とされたウマ娘の正体は、正面の直線から最後のカーブへ入ろうとして、内側を削るように走るカレンチャンの姿で分かった。
──あれは、妹の走りだ。
リスクが大きいからと何度も注意していた体を寝かせたコーナリング。振っている腕は斜めに角度があり、蹴り足はホップ気味。リズムを作って、溜めて弾けさせる、自慢の末脚を活かした『差し』での走り。
もう、一生見ることの叶わないと思っていた、明るく前向き、それでもって怖いもの知らずの性格が表れた走りだ。
「……な、んで妹のこと」
あの走りを何故知っているのか、どうして真似しているのか。そもそも誰が妹の存在を教え、処分したはずの資料はどこから引っ張ってきたのか。引っ切り無しに流れる疑問が制御できず言葉が詰まる。
サイレンススズカは、そんな困惑する芝崎を諭すように優しく口を開いた。
「見ていてください。
コーナーを抜けて最後の直線。目測での差は4バ身。
勝利確定とも頷ける一人旅であってもナリタブライアンは足を緩めない。ただでさえ低い姿勢を更に深め、天性のバランス感覚を存分に使ってラストスパートに入る。その末脚は全盛期でなくとも頂点に立つ者として申し分ない。
カレンチャンも仕掛けられたことを認識すると、すぐにギアを上げて追走する。最終局面に出遅れた形になったが、有利点が多いのはカレンチャンの方だ。
スランプのナリタブライアンは、最後の攻めでの空回りが大きい。無駄なスタミナ消費に加え、イメージしている過去の走りとの違いから精神へ強烈な負荷がかかる。
その点、芝崎妹の走りは相手にレース展開・ペースコントロールを任せる分、目立たない立場で体力・精神的に余力を溜められる。
──そして、それが芝崎妹にとっては、領域(ゾーン)に入るための必要条件でもある。
芝状態は良好。当然ながら1対1の状況では、道を塞ぐ集団も存在しない。霞む夕日が集中力を高め、熱い身体と思考が溶けていく。関節が液体的に稼働し、全身の筋肉が思うままに動かせる。
次第に自分と世界が一体になった感覚を得る。曰く、
──だが、そんな奇跡の力だからこそ、それを起こせるのは稀有だと誰もが理解している。そのためには才能と研鑽が必要で。全てが噛み合う必要があるとも理解している。決して借り物の走りでは至ることの出来ない高みなのだ。
「……私の勝ちだな」
足を止めたナリタブライアンは、後ろを振り返って対戦相手へと結果を確認する。丁度ゴールラインを切ったカレンチャンは、膝をつき肩で息をしながら頷いた。
カレンチャンの走りは悪いものでは無かった。むしろ数日で仕上げた模倣としては高い完成度であった。臆せずにフォームを変えられることは、状況によっては今後の彼女にとって良い結果を生むだろう。
だが、芝崎妹の走りとカレンチャンの身体が合致するかと言えば別。加えて、分かり切っているが、中距離適性の無い彼女に中距離を走らせることが前提的に間違っている。
「お疲れさん、頑張ったな」
「カレンさぁぁん!! かっこよかったですよぉ!!」
「ほんどに!! がっごよがっだです!!」
「二人ともまた泣いてる」
結果としては6バ身の差。それでも、疲労困憊で倒れこみそうなカレンチャンの傍に芝崎たちが駆け寄ってきて、最後まで懸命であった彼女へと称賛を送る。
「……でも、負けちゃった」
顔を上げることは出来ない。大見得を切って勝負に出て負けてしまった。情けなさと謝罪の念で揉みくちゃになる。
「いや、勝ちだよ。──君の勝ちだ」
──それでも届く。想いは届く。
ただ思うのではない。どうするべきかを考え、実行し、そうして願うのだ。
だから想いが届いた。カレンチャンの願いは叶った。
「ありがとう、カレンチャン。君のおかげでもう一度だけ
責任、約束、義務。今のレースを観戦していた芝崎は、その数分の間だけ背負っていたものを手放していた。トレーナーではない、ただの芝崎走一としてレースを観戦したのだ。
それは四捨五入して約20年の間、妹との約束以後なかったこと。
「悪いな、今はこれしか無いんだ」
渡されたのはガムテープが張られたプラスチック製の水筒。新規の貧乏チーム(廃部寸前)には、チームジャージなどの帰属意識を高められる統一デザインの品は無い。
それらしいものと言えば、10本にも満たないスポーツ飲料のロゴが付いた水筒に、チーム名と選手名の書かれたガムテープが貼ってあるくらいだ。
カレンチャンに渡されたのはソレだ。安っぽいが、チームに所属しなければ取ることは許されないものだ。
芝崎はこれしか無いと言ったが、彼女にとってそれで充分。
「……ううん、カレンこれがいい。──これがいいの」
「そうか……、それなら俺もうれしいよ」
ナリタブライアンとの試合には負けたが、カレンチャンは勝負に勝った。──などと思っている者はいない。
栄えて4人となったレグルスメンバーにとっては、このレースは最初からナリタブライアンに勝つために走ってはいない。勝てれば万歳だが、最も成し遂げたかったのは別だ。
ナリタブライアンに勝てず、彼女がチームへ加入しないとしても、彼にもう一度だけでも妹の走りを見せてあげたかった。
貴方の妹は確かにいたのだと、私たちがそれを知っていると。妹の願いは芝崎走一が独りで背負うのではない、同じレグルスである私たちも共に背負うと伝えたかった。
そのために彼女たちは協力したのだ。
あの日、カレンチャンを訪ねて、芝崎の過去を知ったその時に誓い合い、過去の動画を参考にして、走者の役目を担ったカレンチャンの走りに手を加えた。芝崎のために彼に教わった技術を用いて、一週間の短い期間で『妹の走り』を仕上げた。その過程で何度倒れ、痛みを味わおうとも、1ミリもブレることなく特訓を行った。──だから、想いが届いたのだ。
「本当にありがとう、カレン」
カレンチャンがゴールした時、芝崎の頬に一滴だけ雨が降った。オレンジ色の光が空を染める晴れの日だ。雨など降るはずがない。
ただ、これまで随分と長い期間、妹と会えなくなってから雨が降り続けていた気がする。
その最後の一滴が、頬を伝った不思議と塩気のある一滴が、この心を晴らすなら満足だ。
この夕日が輝く日、芝崎走一は過去に
芝崎も完璧な人間ではない。それでも過去への後悔と憤怒は拭えず、これからの不安も尽きない。
だがその気持ちと共に歩む覚悟を決めた。彼女たちと歩むと真の覚悟が決まった。ここからがチームレグルス、本当の再出発である。
──と、なれば芝崎には早速仕事があるわけで。
「……だからってな、カレン。自分に合わない走りしてんじゃないよ」
「──へ?」
にこやかだった芝崎の額に徐々に怒りの青筋が浮かび上がる。
自分の身体に合わない走りなど、タイムが落ちるどころか、本来なら怪我をしても文句は言えない。レース中こそ何事もなかったが、明日起きたら足が痛いなんてことも有り得る。
「え!? 走一さん、怒ってるんですか!? 雰囲気台無しですよ!?」
「はいー!? コイツはもうレグルスだからね!! もう俺の管理下だから関係ないです!!」
「いやいや!! いきなり強気ですって!!」
この数日の体調不良が嘘のように芝崎の声量が上がり、それに連れて他のメンバーも賑やかさに拍車がかかる。
以前──、数年前のレグルスと変わらない光景。笑って、泣いて、喧嘩もした最強のチーム。ナリタブライアンはそんな新しいレグルスに過去を重ねて満足そうにすると、その足を寮へと向けた。
*
4月下旬。すっかりと春の色は消え去り、新緑が思うままに葉を伸ばしている。
テレビやネット記事で取り扱われる情報は、大型連休にオススメの旅行先が多くなってきた。世間は次の週末を今か今かと待ち望んでいるようだ。
ただ、残念なことにトレセン学園には大型連休は有って無いようなもの。授業は休みでも各チームで練習はある。生徒によっては帰省する者もいるが、周りに差をつけられたくないと、長くとも一泊二日で戻ってくるのだ。
そんなトレセン学園では貴重な休みを先取りし、芝崎は実家近くの霊園に訪れていた。
新品の雑巾がかかった手桶に水を汲み、仏花と供物、細い花束が入ったビニール袋を手にしている。
苔で滑る石畳を歩いて着いた場所は2㎡未満・8寸角の墓石の前だ。地面はカビと雑草がまとわりつき、白桃色の残花と枝が張り付いている。
芝崎はスマホで手順を確認しつつ掃除を始める。葉が揺れる音だけを聞きながら、無駄な傷はつけないように丁寧に進める。
掃除の準備は完璧、その上で効率良く進めても、やはり葬式のように慣れないことには時間がかかる。加えて、ある程度サイズもあるのだから体力も奪われる作業だ。
ただ、ここに来るのは数ヶ月──、なんなら一年振りのことだ。色々と報告したいことはあるが、それが直近の一ヶ月で山のように増えている。そのためには疲れはするが、掃除は必要なことだ。
……が、報告をしたいのは芝崎一人ではない。
誰かの石畳を踏む音に芝崎が反応する。覗くように顔を動かすと、視線の先には一人のウマ娘がいた。ウマ娘は芝崎と同じく掃除用具を手にしており、格好も汚れと動きやすさを重視している。
芝崎は目の前の事実を疑うようにウマ娘の名前を呼んだ。
「ブライアン?」
「……手伝う」
ナリタブライアンは呟くように返すと、袖を捲って芝崎の横で同じ墓石の掃除を始めた。
鉢合わせたことに驚く芝崎だが、ナリタブライアンは妹を可愛がっていた一人だ。その対応にはクーデレのクールの比率が高かったが、それでも妹は非常に彼女を尊敬していた。
お客様に掃除をさせるのは抵抗があるが、彼女がしたいと思うのであれば、それを止めるような関係ではない。無言が辛いという関係でもなく、むしろ二人でなら無言の方が多いくらいである。
二人での掃除となったからか、それともウマ娘が手伝ってくれたおかげか。それまでのペースとは打って変わって、あっという間に掃除が完了した。
その後、それぞれが持ってきた供え物と線香を立てる。ようやくここへ来た目的を果たせると芝崎が合掌をしようとしたが、その手はナリタブライアンに止められた。
彼女は芝崎を遮るように前に出ると、目を閉じて手を合わせる。掃除中はいつも通りの硬い表情をしていたが、この一分ほどの時間だけは優しい顔を見せた。
そうして合掌を終えて、再び硬い調子に戻ると芝崎の肩を突いて帰路に就いた。
親族である芝崎走一の方が伝えたいことが多く、時間がかかるとナリタブライアンも理解している。そのため自分が先に報告を終わらせて、彼らの邪魔をしないように気を回した。
再び一人になった芝崎。手を合わせて話すのは、妹の期待に背くような情けない行動を取っていたことへの謝罪。そして、この一ヶ月で得た新たな仲間と、ウマ娘が見せてくれた奇跡のような体験について。
カレンチャンから『お兄ちゃん』と呼ばれると、まだほんの少しだけ索漠とする。ただそれでも、それで『妹』の存在が上書きされるなどとはもう思わない。別に、自分が二人の『お兄ちゃん』でも良いのだから。
「──また来るよ。次はこんなに期間は空けないからさ」
灰になった線香を集めて、枝葉と一緒にゴミにまとめる。これで無事に久しぶりの墓参りを終えた。
ようやく一つの節目となり、心機一転してトレーナー業に専念できる。
「……あれ? またブライアンがいる」
「──遅い」
芝崎が気分よく来た道を戻ると、霊園の入り口にナリタブライアンが立っていた。
霊園は学園とは車で1時間以上離れた位置にある。彼女がここまで来られる交通ルートは幾つかあるが、帰りはお前の車に乗せていけということだ。
墓参りをしてくれたことに感謝しているし、久しぶりに前レグルスのメンバーとドライブと言うのは面白い。ナリタブライアンを助手席に乗せ、当たり障りのないラジオを車内に流しながら車を発進させた。
ただ、密室空間で無言に耐えられる二人でも、今日は互いにノスタルジーになっている。同じ過去を読み返せるのだから、何か話さないといられない。
「……アイツ、許してくれるかな?」
話題にしてしまうのは妹のことだ。
メンバーのおかげで吹っ切れてはいるが、学園に着く前に最後に言葉として締めておきたいと思ってしまう。
──結局、全ての原因は芝崎走一である。
彼の人生に道を示したのは妹だった。血の繋がった家族であり、誰よりも大切な存在であった。
しかし、あの雨の日が来た時点で、既に彼が守るべき『妹』は一人ではなくなっている。それを冷静に捉えられず、妹との約束を呪縛に変えたのは芝崎本人だ。
芝崎も自分が振り回してしまった者たちへの責任は取る。だが、どうしても妹との約束を捻じ曲げてしまったことを、その本人に償えないことが悔やまれるのだ。
──しかし、メンバーが芝崎を救ったように、そんな彼に最後に残った懺悔はナリタブライアンが吹き飛ばした。
「許す」
芝崎が問うて一秒にも満たない間に回答は行われた。そしてそれは疑いようもないほどに、まるで本人に聞いてきたかのように断言する。
これには芝崎も嬉しさ半分、驚き半分を滲ませて受け取る。
「……お、おう。……有難いけど、言い切ったな」
それに対して、ナリタブライアンは何も言わない。それまで助手席で真っすぐ前方を見ていた視線を外に移し、いつもと同じように頬杖をついて黙ってしまった。
これも彼女の気遣いの一つであり、彼女なりにフォローしてくれた。──ように見えたが、聞き間違いに思える小さな声で、ナリタブライアンが言葉を付け足した。
「私も『妹』だからな」
彼女の許しは、同じ『妹』として代弁しただけ。気を使ったわけではない。
正真正銘、芝崎走一を『妹』として許したのだ。
結局、『妹』という存在の一人である彼女も、彼から謝罪が欲しいのではない。
新人のころから優秀な成績を修めた彼女にとって、レグルスでいられた日々は楽しい思い出ばかりだ。その頃に無茶をしたせいで今の怪我を引き起こしたとしても、微塵の後悔もない。そう思える宝物のような日々だったのだ。
……だから、独りを感じていた。
可愛がっていた友が亡くなり、
ナリタブライアンは一匹狼だが、生粋のお姉ちゃんっ子だ。誰よりもレグルスの解散が寂しかったのだ。
「──そうだな。そうだった」
芝崎が大型犬を扱うように、ナリタブライアンの頭を撫でる。乱雑なようなそれは、ナリタブライアンがレースで勝つたびに行われたものだ。
彼女も当初は撫でられるのを嫌がっていたが、それをメンバーで押さえつけて、それぞれが彼女を撫でた。そのため今でも彼女を撫でるのは癖で荒くなり、彼女がそれを許すのは一部の者だけとなっている。
「撫ですぎだ」
「お、悪い。久しぶりでテンション上がってさ」
「……良い。お前は私の──」
──トレーナーだからな。
*
「よし、とりあえず5人だ」
芝崎はトレーナー室で一枚の紙にハンコを押し、満足そうにそれを眺める。
紙に書かれているのは、これまでにレグルスに加入した三人のウマ娘の名前。そしてこの度、新たに加わったカレンチャンとナリタブライアンの名だ。これでチームとして最低限の人数である5人を確保した証明となる。
後は書類を駿川たづなに提出することで、正式にチームとして認められるのだ。
「──と、言っても人数が揃っただけなんだよなぁ……」
そう人数の問題は解決したが。それでチーム戦に勝てるのかは別だ。
短距離がカレンチャン。マイル距離がサイレンススズカ。中・長距離がナリタブライアン、スペシャルウィーク、キタサンブラック。
つまり、新たな問題はダート選手が在籍していないこと。
これに関しては人数の問題は解決したのだから、これから再度探せば良いのではと芝崎も考えてはみた。……だが、このトレセン学園で無所属の才あるウマ娘など5月には残っていない。
──そう、もういないのだ。
「……しゃーない。やってみるか、ウルトラCってやつ」
芝崎は机に置かれていたスマホを取り、電話アプリの連絡帳を捲る。
指が何度か画面を滑り、止まったのは『カ行』の欄。
「あ、もしもし、芝崎です。お久しぶりです。実は気になっているウマ娘がいまして、そのウマ娘が過去そちらでレースをしていて、可能であれば連絡先を……」
電話の先にいるのは、とある地方レース場の管理者。そのレース場はローカルシリーズと呼ばれる、『トゥインクルシリーズ』を除いたレースが開かれている。
会場の名前は『カサマツレース場』。
誰もが知る最強のウマ娘である、あのオグリキャップが初の公式戦を行った場所としても有名だろう。今回、芝崎が興味を持ったウマ娘も、その会場で出走しているため、どうにか接触しようと連絡を取っている。
「あ、名前ですね。えっと……」
5月の終わりには第一回目のチーム戦がある。
ついに始まる一年に跨る長い戦い、そこに当てはまる最後のウマ娘の名は──。
次回 フジマサマーチ編
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