十年ぶりに訪れたエルフの里は、低く静かに壊れていた。
いくつかあるエルフヘイムのうち、もっとも地上寄りであるここシャンバレレスは、人間さえもときどき受け入れていた。このご時勢、聖杯が血を受け、神々が彼方へと去ったこの時代で唯一、人間のいる仙郷といってよかった。だからこそ、とリードマイヤーは考えた。こんなにも荒廃してしまったのかもしれない。時の流れのないエルフの宮では、どんな形であれ、このように変化することなど、ありえないはずなのだ。
王宮へと続く石段を、リードマイヤーは登っていた。かつては輝く御影石で作られ、宙に浮いていたこの石段も、歯の抜けた鍵盤のようにあちこちが崩れ、それらが地面へと落下していた。リードマイヤーが足裏に感じる感触そのものも、どこか頼りなく、腐りかけの吊り橋を渡るような、薄ら寒い不安定さと戦わなくてはならなかった。
リードマイヤーの後ろにはベイルンがついてきてはいたが、いかにもエルフらしく、銀章のブーツを中空にかけて音もなく登ってきていた。それを見ながらリードマイヤーは否応なしにかつてのエルフヘイムを思い出さざるを得なかった。中空に咲く大輪の華のような、明るくも華々しいあの都のことを。
目の前にあるのは、しおれた花束のような覇気のない宮殿の姿だった。かつてと同じく宙に浮いてはいるが、ふとい木のつるで周囲の木々に巻きついている、それは老いさらばえた惨めな姿にすぎなかった。しかも木々は、この重苦しい責務に対し、今にも根を上げそうだった。
「もはや、誰も住んでいないのか?」
誰に聞くとも無しに、リードマイヤーは小声でつぶやいていた。
エルフの地獄耳は、それでもちゃんと捕らえていた。リードマイヤーの頭の後ろに浮かぶベイルンは、重々しく言葉を返してきた。
「この"花"が萎れ、枯れ行くのはもはや定めだ。だが王は、最後までここに留まり続けるおつもりだ」
「王なんてもういないだろ」
あえて相手に聞かせようともせず、リードマイヤーはつぶやいていた。
「俺が殺したんだから。残っているのは領士だけだ」
床はゆっくりと傾いて、しかもゆれていた。
まともな人間なら、半刻とて居たい場所ではない。リードマイヤーにとってもそうだった。エルフたちも同じ気持ちなのだろう。宮殿に、ひとりのエルフの姿も見えなかった。壁の漆喰ははがれ、床にたまっていた。柱は傾き、鴨居は外れ、屋根は落ちて、見るも無残な姿を晒していた。生きた者の住めるところではなかった。
だがフェイ=リンは、十年前と同じくそこに居た。彼もまた変わってしまっていた。長身の威丈夫だった彼は、見る影もなく痩せ細り、玉座に弱弱しく腰を下ろしていた。螺鈿と七宝で飾られた金色の玉座だけが、辛うじてかつての輝きをいまだ残していた。
「リードマイヤー」
かすれた声で、エルフ総領代行たるフェイ=リン・アルカドは言った。その顔からも肉が落ちて、頬骨の形がはっきり見えた。
「わざわざすまない。こんなところまで足を運んでもらって」
「こんなにひどくなっているとは思わなかった」
リードマイヤーは言った。その声もまたかすれていた。
かつてこの玉座の間は、かれることのない花で飾られていた。壁にも床にも色鮮やかな花が咲き誇り、天井に開いた天窓から、やわらかい絹のような日差しが差し込んでいたものだ。それらは、いま、すっかり消えうせていた。かつての栄華はどこにも残っていなかった。床には、乾いた蚯蚓のような枯れ枝がちぎれて転がっているだけだ。中央に置かれた玉座だけが、昔と変わらぬ力を残す唯一のものだった。
「全ては予言の通りとなろうとしている」
フェイ=リンは言った。
「貴様が我が父を殺し、母を殺し、姉を殺してから、仙郷はゆっくりと崩壊へと向かった。北の境は、既に時の向こう側へと消えた。残っているのはここと、東のエーヴァーレンだけだ」
「エーヴァーレンはもうない」
そうリードマイヤーは言った。
「行ってみたが、誰も居なかった。向こう側へ渡ったのだと思う。あるいは、里を捨てたのかもしれない。こちら側に残ることを選んだのかも。森か、山の中で暮らすことを」
「そして人か、あるいはオークや、トロールや、オグレーと交わるのか?」
フェイ=リンは呻いた。
「ばかな」
その声にはまさしく、最後のエルフの長として持たねばならない矜持が間違いなく残っていた。
「もうエルフがエルフとして大地に残る時代は過ぎた。彼方へと去るときが来たのだ──しかし、我々は」
「こちらに残りすぎた。だから、困っているのだろう?」
リードマイヤーは言って、フェイ=リンに歩み寄った。
「人として、形として、この大地に生き過ぎた。生を謳歌してしまった。誰がそれを責められる? お前たちエルフは、まだ人が毛むくじゃらの猿と親子だったころからこの大地にいるのだ。いまさら何で、この土地を人の子に明け渡さねばならない?」
「言うな、リードマイヤーよ。それを言うな」
うめき声を上げて、フェイ=リンは首を振った。
「我らは去り行く民なのだ。それを今更、この地に残って、いったい何ができようか。人の子を見守って老残を晒すか? いや、いや、リードマイヤーよ。やはり我らは、ここから去らねばならない」
「それに、俺に手を貸せとおっしゃる?」
リードマイヤーの言葉に、フェイ=リンは低く笑った。
「いやだというのか? 貴様がいままでしてきたことだろうに」
「望んでしたことではない。それだけは言わせてもらう。断じて違う」
「何が違うというのだ」
フェイ=リンがしわがれた声で言った。「貴様が我が父を殺し、母を殺したのだ。その結果がこれだ。見よ、貴様のなしたことを見るがいい」
「俺は案内人だったのだ。それは認めよう。だが結局は──みな、向こう側にとどまることを選んだのだ」
「ならば俺に対してもそうするがいい」
痩せさらばえた体を震わせ、ついにフェイ=リンが立ち上がった。言葉のひとつひとつが紡がれるたび、彼の皮膚は乾き、ひび割れていった。顔色は日にさらした白墨のようだった。
「さあ、俺を殺せ。殺して涅槃へと連れていくがいい」