トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
「すまない、待たせた」
「いえ。丁度いま、柔軟が終わったところです」
マンハッタンカフェとの邂逅を終え、俺はトレーニング場に着いていた。
トレセン学園の赤いジャージ姿に着替えて既に準備を完了していたメビウスは、万端とばかりにその眼に火を灯している。
ウマ耳用のカバーも、眼鏡も今は付けていない。
出会った時のフラットな姿で、彼女はこの計測に望もうとしていた。
「……ところで、まどかさん」
「なんだ?」
「先程。私以外のウマ娘と、何かありましたか?」
「何か、と言われると。あったと言えばあったが……」
「まどかさんから、私以外のウマ娘の匂いがします」
ウマ娘の嗅覚は、人間のそれと比べると遥かに高い。
そう言うと、彼女は俺の手を取った。
「手からですね」
「そう、かも知れないな」
「……誰ですか?」
「え、いや」
「誰と、触れ合ったのですか?」
彼女の無表情で怠そうな瞳に、確かな圧を感じる。
意外と、匂いを気にするタイプなのか。それとも。
「マンハッタンカフェだ。彼女と話をしていた。その際に、少し手を貸してくれと言われてな」
「なるほど。マンハッタンカフェ、さん……。同じ高等部の、黒鹿毛のウマ娘だったはず……。分かりました。以後は警戒しておきます。私、まどかさんを誰かに取られたくはありません」
「いや。大袈裟な」
「そんなことはありません! …………いえ。これは、私情です。すみません、聞き流して下さい」
少し熱くなっていた自分に気付いたのか、ひとしきり深呼吸をすると、クールダウンの様態を彼女はみせた。
珍しく声をあげた姿に、少し俺も驚いた。そうまで言ってもらえるのは冥利に尽きるが、仕事柄ウマ娘と接触しないとは言い切れない。それでも、彼女と居る限りは、できる限りは気をつけた方が良いのかも知れない。
「さて。仕切り直しとしようか。ここにいる本来の目的を忘れてないよな?」
「はい。勿論です。寧ろ、今ので熱が入りました。何にも負けたくありません」
「それなら、よし。まずは、君の適性を確かめたい。俺が言った通りの距離とコースを、走ってみてくれ」
「分かりました。頑張ります」
気合は充分だった。
何か、凄いものを見られるのかも知れない。
そう思わせてくれる程に、今の彼女からは気合が迸っていた。
レースを想定し、ひたすら一人で規定距離を走る。
イメージトレーニングにもなりえるこのメニューで、一体彼女はどれ程の実力を見せてくれるのだろうか。
▽
――平凡だった。
それも、特に突出して光るものがない、と言った具合に。
気合いだけでは、本人の絶対的能力の上昇に大きな差は生まれない。
つまりは、それが彼女の最大限の能力であることに他ならない。
桐生院さんと、教官の評価に難はない。同意見だったからだ。
芝の短距離千二百メートル右回りを走らせた。
ある程度のスピードはあるが、彼女に爆発的な瞬発力はない。少しでも出遅れたら万に一つも勝ち目はないだろう。だが、完全に不得手とも言えない。脚質的には差しや追い込みは絶対的に合わない。逃げもしくは先行で前目の位置に着いて、それで前に順位を残せるかどうかという所か。そもそも短距離戦であえて後ろ目を選ぶウマ娘は非常に少ない。やはり先行争いが激化する事を考えると、厳しさがみえる距離だと言える。
芝のマイル千六百メートル右回りを走らせた。
短距離の才能が見えない以上、距離が伸びたところで非常に厳しいものがある。まず、最も適性がない距離だと感じた。距離が伸びる分、スタミナが残るのならばその分短距離よりは少しは好走出来そうな距離にも思える。通常はその通りなのだが、例外もあるらしい。しかしそれも適性といえばいいのか。どの距離よりも、スピードが乗らないようになってしまっている。本質的に、苦手なのだろう。
芝の中距離二千メートル左回りを走らせた。
短距離マイルを走らせた様子から、上がり三ハロン(終盤六百メートル)の瞬発力が無いようには見えていた。差しや追い込みで走らせる事はない。彼女には恐らく、スタミナはある。ならば逃げに近い先行策のペースの中距離ではどうかと、前目の形で走らせた。短距離やマイルよりは遥かに適性がある。ただ、走れそうな逃げ及び先行策を想定した際でも、最後に粘れるほどのパワーと速度がない。直線の長いコースでは、最終直線で先行かそれより後方のウマ娘に追い切られて沈む未来が見える。
芝の長距離三千二百メートル右回りを走らせた。
計測とはいえ、当然デビュー前のウマ娘に走らせるような距離ではない。そのため、かなりのスローペースで走る事を指示した。やはりスタミナはそれなりに豊富なのか、彼女の適正の中ではこれが最も良く見えた。だが、高速バ場化しがちな中央のレースでは、そのペースの中で埋没しそうに見える。差し追い込みで差し控えても上がりの速度は光るものがない。
逃げにすれば掛かり気味となって、いや、掛からずとも他の中央のウマ娘と比較して最終直線の速度は落ちていくだろう。しかし、全距離を走らせて最後に長距離を走らせてもそれなりに好走できる様子から、やはりスタミナと根性が彼女の武器だというのは認識できる。
ダートの千二百、千六百、二千メートル走らせた。
意外にも、好走する。芝を得意とするウマ娘としては、という評価だが。決して砂が得意という訳ではない。だが休憩を挟んだとはいえ、これらを素直に走り切る体力には感心する。ダートでは特にパワーと根性が要求される。芝と比べればパワーがないと最終直線でスピードを上げ辛い分、逃げ先行が比較的有利な展開が多いのがダートだ。距離も長くて二千メートル前後、基本は千二百〜千八百メートルが基本のコースが多い。
その中でも、相手の先行策についていける程のパワーとスピードが見えてこない。逃げようとすれば、今の彼女では掛かる。では後方からの差し味はと言えば、無い。そもそも、上がりの瞬発力が見えない時点で、後方の脚質が向いていなさそうだ。いずれにせよ、ダートで爆発的な活躍も見込めそうにない。
後方脚質は望めない。
逃げは掛かり気味な様子があるから評価を下げているが、今後は伸びる可能性もある。
先行は、逃げと比較すれば掛からずにスタミナを保てそうだという観点から逃げよりも評価をした。
逃げウマに近い位置でのビタ付けの先行。それが、最も現状の彼女に合った脚質だと感じる。中長距離を走ることが出来るものの、短距離よりもマイルが苦手という歪な能力もまた目立つ。通常はマイルの方がそれでもまだ得意になるはずなのだが、それが彼女の特徴でもあるか。
よってこれまでの内容から、リングメビウスの適性は以下の通りと推定する。
馬場適性
芝B、ダートD
距離適性
短距離D、マイルE、中距離C、長距離B
脚質適性
逃げC、先行B、差しE、追込G
総評は以上となる。
確かに、これである程度は計ることが出来た。
だが、あのノートに書かれた事を思い出すと、これでもまだ何か足りないような気がした。
全ての適性を確認しろとは、どこまでを指すのだろうか。
「……色々と走りましたが、どうでしょうか」
「そう、だな」
「その。正直に言って下さると、嬉しいです」
「分かった。何の
「はい」
「――平凡だ。走れない訳では無い。同世代のウマ娘の中ではもちろん優秀だ。だが、この中央においては、特筆して強みを感じない。今のままでは、未勝利戦で長く足踏みをしそうだ」
「そう、ですか……。やはり……私の実力では、難しいのですね」
厳しいが、新人トレーナーの俺からみてもそれが現状だった。
しかし本格化に入り、彼女の特徴を良く伸ばすことが出来れば、未勝利戦は上位も狙えることだろう。
逆に言えば、未勝利戦が最大の壁に成りかねない。
オープン戦の勝利を狙うには、余りにもその道は険しい。
そうは言えども、トレセン学園に在籍している時点で、地方でなら彼女にも活躍が出来る場が十分にある。
地方のレース場では、好位につけるレース展開もこなせることだろう。
だが、ここはトレセン学園。駆け抜けるのは、トゥインクルシリーズだ。
未勝利戦を突破できるかどうか。それが出来なければ、オープンウマ娘になる事が出来ずに、中央での成績は終わる未来が見える。
ある程度、では立ち行かない。必ず、勝ち抜けるだけの何かが無ければライバル達を出し抜くことは出来ない。
そういった意味では現状、優れた適性を感じることができない。
それが、リングメビウスというウマ娘だった。
今後についても、契約についても、どう踏み切れば良いものかと頭を悩ませ始めていた所、ふと目に入るものがあった。
まだ他のトレーナーが出してから片付けていない、ハードル。
足を大きく前後に開いて走るストライド走法などを鍛えるためにも使用されるが、中央のレースにおいてはもう一つ、大きな意味がある道具だ。
「メビウス。あれを、飛んで走ってみてくれないか」
「……ハードル、ですか。それは、願ったり叶ったりです」
芝コースの隅に直線上に敷かれたハードル。
その高さは、
ウマ娘の跳躍力に合わせて人間の陸上競技よりも上の高さに設定されている。
確認をする。高さ一メートル三十センチ。それが、間隔をあけてに二百メートル以内に四つ立ち並んでいる。
スタート位置に着くと、メビウスは俺の合図に合わせて疾走した。
踏み切る。見事に、
「――随分と。綺麗に、飛ぶじゃないか」
大きな無駄がない。
力みも少ない。まるで障害が目の前に立ちはだかっていないかのように、彼女は華麗にそのハードルを飛び越えていく。
デビュー前に、これ程ハードルを綺麗に飛び越えるウマ娘も珍しい。
何故ならば、中央に来るレベルのウマ娘が、敢えてハードルの練習を積み上げてくることがあまり無いからだ。
だが、これは今日確認したどの内容より、彼女にとって突出した良さに見えた。
「……障害レース、か」
浮かぶ単語があった。
芝を障害なく駆け抜けるのが、平地競争。
対して、芝上に竹柵などの障害を配置するレースを障害競争と呼ぶ。
どちらも中央の同レース場で開催日に実施される欠かせないレースだが、日本のURAにおいては平地競争がやはり主流と言えるだろう。
海外においては、障害競争は非常にメジャーではあるのだが。
メジロパーマー、というウマ娘がいる。
メジロ家という事で何かしら注目を受けていた彼女は近頃、平地のレースで成績が振るってはいなかった。
そこで、郊外のフリースタイルレースに参加した事を切っ掛けに、障害競争――すなわち、レース場に設置された竹柵や水濠障害を飛び越え、駆け抜けていくレースを選び出場していた。彼女は持ち前の平地力で速度をキープし、芝を好走する。しかし道中を障害として設置されているハードルを超えていくことが、幾分か苦手に見えていた。
そんな障害競争で現役として活躍をし始めている彼女の走りと比較しても、メビウスの飛び方は非常に洗練されているように感じられた。
走り、障害を飛び、芝を駆け終えたメビウスが、俺の元へ戻ってくる。
軽く息を切らしてはいるが、その表情は穏やかにみえた。
「どうでしたか?」
「綺麗だった。随分と、無駄なく飛んでいた。ハードル……障害は、得意なのか?」
「比較をした事がないので得手不得手は分かりません。ただ走ること。そして飛ぶ事は、何よりも楽しいです」
「そうか……」
考える。
ストライド走法により、中距離から超長距離のステイヤーとして目指せそうな雰囲気は充分にある。
だが、これ程までに綺麗に飛ぶ彼女には、いずれもう一つの道もあるのかも知れない。
いや、寧ろ彼女の思い入れや反応から、そもそも俺とは別の考えがあるように思えた。
「メビウス。聞かせてくれ。君が本当に目指しているレースは、何だ?」
「私が目指しているレース、ですか……」
言い淀む。彼女は目を瞑り、息を整えるようにして、それから意を決したように目を開いた。
真っ直ぐに、その緑色の瞳で俺を見つめ、そして告げる。
「私が目指してるのは、年末に中山で行われるレースです」
「年末といえば、中山十一レース。有馬記念……と言いたいところだが……いや、その様子だと、どうにも違うみたいだな」
得心がいく様な反応は、得られない。彼女は、小さく首を振って、頷く。
理由は色々と考えられるが、何よりも、有馬記念が目標であるならば、だ。
中山で行われる平地の重賞レースにおいて、それ程の谷を感じる坂を要求するレースはないからだ。
だとすれば、年末の中山で思い当たるレースは、もうたったの一つしかない。
「はい。私が挑みたいレースは、有馬記念ではありません。その前日に行われる、中山十レース。芝四千百メートルのコースです」
春の天皇賞三千二百、ダイヤモンドステークス三千四百、ステイヤーズステークス三千六百メートル。
それは、それらを遥かに超過する距離を誇る、国内最長レースの一つだ。
中央のレースで、それに該当するレースは確かに存在する。
中山レース場を囲う楕円。その中に8の字を横倒しにした、歪な∞に近い形状で座す、国内最高峰の高低差を連続する究極のレース。
国内で唯一楕円と∞形をクロスしながら走破していく、中山レース場で行われる超長距離戦。
それは数多の障害を踏み越え、駆け抜け、国内最大級の急勾配が続く谷を登りっては降り、長い芝を走り。
更には、ダートをも道中に駆けていく――間違いなく国内で最も過酷な、命懸けのコース。
「リングメビウス、君の目標レースは……」
聞くまでもなく、新人トレーナーとしては、正直耳を覆ってしまいたい。
そう思う程に、彼女が目標として掲げようとしているのは、余りにも命知らずな究極のレースだった。
それは、時に知られざる――もう一つのGⅠ。
「私の目標は、
その勝者になること。それが、私の望みです。
ハッキリとそう告げた彼女に――俺は息を呑んだ。
ウマ娘のアプリでも、レース場では障害レース用の竹柵などが常に描写されています。アニメではハードルを超える練習の描写があったことから、ウマ娘の世界でも平地と並行して、レース場の開催日には障害レースは行われていると考えられます。
年に一度だけの宝塚記念。
年に二度のJ―GⅠ。中山グランドジャンプ。そして中山大障害。
鳴り響くファンファーレがあまりにも特別で、素晴らしい調だと思います。