トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
「……
「はい。それが、私が目指しているレースです」
あまりの衝撃に、俺は言葉を失っていた。
これまでの言動から、薄々と予想はしていた。
だが、それでもいざそれを彼女から口にされると、戸惑いの方が先に立つ思いだった。
「平地ではなく、障害レースのGⅠを目指すのだな」
「やはり、無理だとお思いになりますか?」
「無理かどうかなんて、それは分からないさ。分からないが……」
――
それが、正直な答えだった。
俺のその返答を聞いた彼女は、ウマ耳を後ろに、悲しげに伏せた。
「そう、ですか」
「すまない。これは、俺の実力不足だ」
「そんなことは……」
「そこで、メビウス。君に一つ提案が……いや、お願いがある」
正直なところ、経験も知識も足りない新人トレーナーの俺にとって
トレセン学園では平地を主戦場とするトレーナーの方が多く、障害レースの開催頻度もまた、日本では少ない。そのことから、障害レースを主戦場とするトレーナーはその方向に特化する傾向にある。
これは最初の担当ウマ娘だけではなく、俺のトレーナー人生としての方向性を決める重要な決断とも言えるのだ。
だからこそ、この目で確かめたい。
そのレースが、どういう存在なのかを。
それを俺が、どう受け止めるべきなのかを。
「私に……お願い、ですか?」
「俺と一緒に、中山レース場に行ってはくれないか」
「中山レース場に……」
「明日は、そこで重賞レースがある。この目で見て確かめたいと思っている。君と、一緒に」
俺自身の決意と知識、そして彼女の考えと熱意。
それらを見定めるために、きっとこれは必要なことだ。
「明日は、四月中旬の土曜日ですね。つまり、そこで行われる重賞レースは――」
「ああ。中山芝四千二百五十メートル。中山大障害と同じくJ―GⅠレースの、中山グランドジャンプだ」
それは、日本の障害レースウマ娘の頂点を決める、もう一つのJ―GⅠレース。
その歴史は新しいが、中山大障害と比べて距離が更には百五十メートル程度伸び、最終直線上に障害が追加されている事以外はそれとほぼ同等の、まさに国内最高難度のレースと言える。
そして同時にこれらのJ―GⅠレースの危険度は、世界で最も危険なレースに部類されるほどの事故率も内包している。
走る側にも、そして観る側にも覚悟が求められる。URA史上もっとも命知らずなレースの一つだと俺は認識している。
「そのお誘い、お受けします。私を中山に連れて行って下さい」
「そう言ってくれるか」
「勿論です。J―GⅠレースの中山グランドジャンプは、私のもう一つの目標でもあります。それに、何よりも――」
「……何よりも?」
「まどかさんからの、お誘いですから」
――明日は、よろしくお願い致します。
そう申し添えて。
沈みかけた夕陽を背に、彼女は小さく微笑んでいた。
▼
千葉県、中山レース場。
俺とメビウスは二人横に並び、パドックの様子を眺めていた。
出場ウマ娘達が入場するまでまだ少し間、時間がある。
メインレース直前の第十レースが終わった直後にも関わらず、中山レース場のパドックには多くの観衆が押し寄せていた。
ついと、横にいるメビウスに視線を俺は向ける。
彼女は公私の区別を徹底しているらしい。
メビウスは学園の制服姿であり、俺もトレセン学園での仕事着でこの中山レース場に来ていた。私服姿を褒める、などというシチュエーションもない。
移動手段は、俺の自家用車。
午前中にトレセン学園で業務を終わらせた後、昼過ぎに隣室の彼女を訪ねた。それから助手席に彼女を乗せて、この会場までドライブをしてきた。
年頃の女の子を車に乗せて走る事に多少なりとも緊張感はあったものの、トレーナーになった以上、今後は日常茶飯事になる。
それに慣れることも兼ねて、彼女と談笑しながらレース場まで着く道中は楽しいものであった。
――そんな感覚も、このレース場に来れば大きく変わる。
第十一レース。重賞メインレース――障害レース故に特殊性はあるものの、GⅠレース前の雰囲気は、やはり一味違うものがある。
『さぁ、皆様お待ちかねでしょう! 本日のメインレース、J―GⅠ! 狭き門をくぐり抜け、本日その大舞台へ挑む優駿達の――パドック入場です!』
パドック解説実況者の声が、会場内に響き渡る。
中央に設けられた舞台と、その赤いカーテンヴェールの向こうから一人ずつ、ウマ娘が現れていた。
『まずは入場、一枠一番! ムンレインドーク! 幾度とこのJ―GⅠに挑んできた歴戦のウマ娘。本日は七番人気に推されています!』
トレセン学園の赤いジャージを見にまとい、彼女は舞台の中央に立つ。
GⅠレースにおいて、これは特別なお披露目の時間だ。
パドックの中央に佇み、彼女はそのジャージを威風堂々と脱ぎ捨て、舞台に放る。
その下には、緑と黄色を基調にした煌びやかな勝負服が輝いていた。
歓声が上がる。
会場内に、大きな拍手が巻き起こる。
ビリビリと響くこの会場の振動が、熱いレースへの予感を感じさせてくれていた。
解説と実況の声に、続々と出場ウマ娘がその姿を披露する。
「……凄いですね、J―GⅠレースのウマ娘達。それに……この熱狂も」
「そうだな。始まるレースに向けてワクワクとするこの感覚は、今日この場に来ないと味わえない」
隣りでパドックをじっと眺めているメビウスの言葉に、俺も賛同する。
――だが、それでも、と。ふと思ってしまう。
J―GⅠレースの盛り上がりは、それでも平地のGⅠレースと比較すれば、やはりそこに差があるように感じる。
明日、同じく中山で行われる、クラシックGⅠ皐月賞。
その注目度と比較して、知名度は幾許か。全てのテレビ局で中継される皐月賞と違い、障害レースは必ずしも放送されない事も多い。
現地で観戦する者でなければ、その存在を知らない者が居てもおかしくはない。
芝のレースは、花形だ。ダートのレースは、泥臭さの中に光る輝き。そしてこのレースは――。
ウマ娘が話題の中心に上がるこの日本において、それでも尚その立ち位置にあるのが、障害レース。というのが、今の現実なのだろうか。
「……まどかさん。どうか、しましたか?」
「いや、なんでもない。少し、この雰囲気にのまれてたみたいだ」
思案に耽っていると、メビウスが少し心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
こんな所にまで来て、変に思われてはトレーナーとしてどうしようもない。それとも、土曜日にも関わらず午前中に出勤していたことで、疲れていると心配されてもいるのだろうか。
「……そう、ですか。それなら、良いです。でも、お疲れでしたら」
「大丈夫だ、気にしないでくれ。それよりも……そうだ。メビウスが憧れたりしているウマ娘は、いたりしないのか?」
誤魔化すようにして、話題を変える。言葉にしてから、それはそれで気になる事だと気付いた。
憧れの存在や、応援したいウマ娘。
障害レースの重賞を目標としているくらいだ。彼女にとってのそういう存在が、ここに居てもおかしくはない。
「私が憧れているウマ娘、ですか。……いえ、私はJ―GⅠレースを目標としてはいますが、そういう存在は……」
「特に居ないのか?」
「そういう訳ではないのですが……なんと言えば良いのでしょう。私の中でもまだ、
「いや、謝ることじゃないさ。興味本位で聞いただけだ」
「はい。でも……ただ、強いて言うのなら、次にパドックに現れるウマ娘。彼女を個人的には、応援したいと。そう思う心があります」
彼女の言葉に少し遅れて、パドック解説者の実況が会場内にこだまする。
『四枠四番。あらゆるレースを踏み越え、ついに念願のGⅠレースの出走権を掴んだウマ娘! エンジェルシロップの入場です!』
長い芦毛の白髪をポニーテールに結い上げたウマ娘が、パドックに入場する。堂々とした足取りだ。
その歩みをパドックの中央で止めると、彼女は大きく深呼吸をした。
『エンジェルシロップは、ダートの重賞GⅢで二度の勝利を掲げているウマ娘。長くダートで戦線を張り続け、今年から障害レースへ転向した経歴を持っています!』
転向。それが障害レースにおける道筋でもある。
芝、ダート、そしてその先の選択肢であることも間違いない。
『そして障害未勝利戦を乗り越え、前走の障害オープン戦で見事勝利! その彼女が初めて、このジャンプGⅠの大舞台で勝負服を披露します!』
実況の声を受けた後、意を決したようにそのウマ娘――エンジェルシロップはトレセン学園のジャージを脱ぎ捨てた。
その下から現れたのは、真っ赤な軍服に緑の意匠が凝らされた眩い勝負服。飾りのない純白のスラックスと、彼女の長い白髪が美しく映えていた。
その見事な姿に見惚れた観客達は、ほうっと溜息を漏らした後、気付いたように続いて大きな拍手を送る。バ体も良好。文句なしの仕上がりだ。
メビウスも、そして俺も、このレースに挑まんと勝負服に身を包んだ彼女へ大きな拍手を送った。
その拍手に包まれたエンジェルシロップは、満面の笑みを浮かべる。
彼女の様子は誰よりも嬉しそうで、観客や俺たちも思わずつられて笑みを浮かべてしまう程だった。
「エンジェルシロップさん……本当に嬉しそうですね」
「ああ。こっちまで嬉しくなりそうなくらいだ」
「彼女のこれまでの経歴。まどかさんはご存じですか?」
「いや。先程解説の人が言っていたように、ダートのGⅢレースで勝利を掲げた事がある、優秀なウマ娘だというくらいの認識だ。メビウスは知っているのか?」
「……はい。彼女の戦績は、このレースで五十戦目になります」
累計戦績五十戦。それは中央のウマ娘としては、非常に長期なレース生活を送っている事になる。
「重賞のGⅢレース。……そのレースに出場する事さえも狭き門のトゥインクルシリーズで、エンジェルシロップさんは二度も勝ち鞍を掲げています。それは、私を含む多くのウマ娘にとって、憧れの領域です」
重賞レースへの出場権を掴むこと。それがどんなに難しい事なのか。そしてその重賞レースで勝利を掴むことのその困難さは、俺よりも長く学園に所属しているリングメビウスは身に染みる程知っているのだろう。
重賞レースで担当ウマ娘を勝利させる。それはトレーナーに取っても、強い憧れであり、大きな夢だ。
「それでも彼女はそこで終わる事なく、レースへ挑み続けました。人の機微に今より無知だった私は、学園に所属したばかりの頃に、その理由を彼女に尋ねた事があるのです。
「……彼女は、なんと答えたんだ?」
「『――
息を呑んだ。
勝負服。それは、GⅠレースに出場する者だけが身に纏う事ができる最高の栄誉。
走るウマ娘の姿を観て育つ彼女たちにとって、最高の憧れだ。
「エンジェルシロップさんは、幾度もダートレースで挑み続けました。……ですが、GⅠレースの出場条件をかけた重賞レースに勝つのは容易ではありません。それでも何十と戦績を重ねていく内に、全盛期もきっと過ぎていました」
「……それでも、彼女は挑み続けたんだな」
「はい。エンジェルシロップさんの願いを叶える道は、そこではきっと、もう閉ざされかけていたのだと思います。でも、まだ残る道がありました」
「……それが、この障害レース」
「そうです。それが楽な道でもなく、さらに困難だと知りながらも、決して諦めずに彼女は挑みました。そしてその結果が――」
「今日、この日の晴れ舞台。J―GⅠレース、中山グランドジャンプか……」
たった一つの憧れ。
一人のウマ娘が願った、勝負服への想い。
それを支え続けたトレーナー。
彼女たちがたどり着いたのが、この舞台。
強いウマ娘は、強い。
だが、強いウマ娘とはなにか?
当たり前のように幾度とGⅠに出場するウマ娘は、その全てが最初から恵まれている。
圧倒的な才能、努力、運とタイミング。それらを兼ね備えていなければ、あまりにも困難な道だ。そのどれかが欠けたとして、それを認めた上で挑み続けることは、どれ程の難しさを伴うのだろう。それもまた、ウマ娘の強さとは呼べないだろうか。
「私は、今日の彼女を応援したいと思います。勝負服の夢を叶えた彼女の走る姿を、私は見たい。そう思うのです」
「……俺も、そう思うよ。あんなに嬉しそうにパドックに立つ姿。ウマ娘でなくても、憧れる」
拍手に包まれながら、にこやかにパドックに立つエンジェルシロップは、一度静かに目を閉じる。
そしてその両手を、祈りを捧げるように重ねると、ジャージを拾い上げてパドックを悠然と去っていく。
誰に見えたのかも分からないが、俺にはその手が、微かに震えているようにも見えた。
溢れる歓喜か、このレースに懸ける想いによる武者震いか。それとも――。
願い、憧れ、目標。
多くのウマ娘やトレーナー、ファン達の想いが詰まるレースだ。
だがその実態として、このレースの性質の違いもまた忘れてはならない。
平地のレースと同様に中央で開催されるが、その認知度も含まれる意味合いも大きく違う。
J―GⅠ。障害レースにおける頂点のウマ娘を決める戦い。
そのあまりの難度により、
「どのウマ娘も、無事に帰って来て欲しいよな」
「どうか、無事に走り終えられますように……」
「命懸けのレースなんだ。彼女達だって、覚悟しているとは思うけどさ。それでも――」
近くの観客たちがこぼした声が、俺の耳に入る。祈るような声色を感じた。
俺は、隣りにいるメビウスの横顔を見つめた。
そんなレースに、大切な愛バを送り出すということ。
――俺に、その決断が出来るのだろうか。
このレースで、見定めよう。自分自身の心を。
華やかな舞台の先と、その裏表。
命懸けのレースに挑む、彼女たちの姿を目に焼き付けながら、俺はそう思うのだった。
ウマ娘の世界では、勝負服を着れるのはGⅠレースのみです。
それ故に、ウマ娘たちにとって夢や憧れのような存在になるのだと思っています。
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