トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
パドックでのお披露目は終了した。
出場ウマ娘たちは、続々と場内に入っていく。
それに伴い、観客である俺たちも正面スタンド前に移動した。
ウマ娘たちそれぞれが、場内で
芝の様子は良好に見えるが、場内で風は強く吹き荒れ、にわかに雨も降り始めていた。
己の調子、そして芝の感触。それらを確かなものとするため、返しウマで走り続けるウマ娘もいれば、ゆったりと落ち着いて芝を歩く者もいる。
四千メートル級の超長距離戦だ。完全にスタミナを温存する作戦を取っている者もいるのだろう。
「……まどかさん。空気が、湿っていますね。風も強い」
「ああ。それに、雨も段々と強くなり始めている」
「出場するウマ娘達の体力の消耗が、少し心配です」
「……雨はバ場と飛越に影響する。これ以上、天候が悪化しないことを祈りたいものだな」
俺の隣りに佇むメビウスは、空を見上げると手のひらを胸の前に掲げ、降り始めた雨をその手に受けていた。
レース場で傘をさす事はウマ娘達の集中力を削ぐ行為につながるため、雨具はレインコートが好ましいとされている。
俺と彼女は持参していたレインコートを身に纏い、スタンド前に佇む。ウマ娘用のレインコートを身にまとい、ちょこんと頭に飛び出ているメビウスのウマ耳は、レースへの想いからか小刻みに揺れていた。
彼女の様子を眺めている内に、時は過ぎた。
間もなく、出走の時刻だ。
『――さあ、この中山レース場に集いし十二人の優駿達がゲートに揃いました。障害レース、J―GⅠ! 選ばれし彼女たちの晴れ舞台! 煌びやかな勝負服に包まれたウマ娘の勇姿とその展望は、ファンファーレと共にこの会場で高らかに包まれます!』
実況の声が会場に渡り、そして楽団の生演奏によるファンファーレが鳴り響く。
荘厳な曲調だ。会場は大観衆の中、拍手に包まれる。
『各ウマ娘、ゲートに揃いました。枠入りは順調です』
全てのウマ娘がゲート入りをこなしていく。
中山グランドジャンプは、シニア級以上限定のレースだ。
この舞台に立つほどの歴戦のウマ娘の中で、ゲート入りを躊躇うウマ娘は見受けられない。
『各バ枠入り完了。ゲートが開き――スタートしました!』
緊張の瞬間。
ガコン、とゲートが開く音が場内に鳴り響き、究極のレースが幕を開けた。
『出遅れなく、各バ揃ってゲートを飛び出しました。まずは第三、第四コーナー中間の障害へと向かいます。高さ一・四、幅二・五メートルの
飛越が上手いウマ娘は、大きく減速する事なく障害を乗り越える。それ故に、飛越の上手さは道中の位置取りにも直結していると言える。
『続きまして高さ一・二、幅三・七メートルの
息を吐く間も無く、新たに目の前に構える障害を、彼女達は次々と飛越していく。
もしも一瞬でもタイミングを間違えれば、時速五十km〜六十kmの速度で生身のまま転倒し地面に激突することになる。
その場合には後続には、ウマ娘達の
ジャンプしたその先で自らの脚が踏み締める可能性があるのは、
どのウマ娘達も華麗に障害を踏み越えていった。だが、これはまだまだ序盤。四千二百五十メートルの超長距離戦においては、始まりに過ぎない。
『連続して第一・第二コーナー中間、三号障害を、飛越! ダートコースを横切り通過していきます。その先、一号坂路へ突入。高低差三・五メートル、長さ七十八メートルの急坂を駆け降り、そして登っていきます!』
中山レース場名物の急坂。下った姿は後方からは一瞬見えなくなる程の勾配であり、スタミナとパワーを一気に消費することになる。もはや崖とも言えるほどの高低差だ。
そして、それで終わりではない。この後も更なる急坂の繰り返しが、何度も待ち構えているのだ。
『さあここからは中山レース場、名物の谷! 8の字をクロスし、二号坂路へ向かっていきます! 高低差は五・三メートル、長さは百十三メートル。国内最高峰の谷を、各バ走り抜けていきます! 試されるのはスタミナ、パワー。そして鋼の心臓と度胸に他なりません! 各バ、速度を落とす事なく駆け抜けていけるのでしょうか!』
谷と称される程の急坂を、降って、登る。
この急坂の想定こそ、リングメビウスがあのアパートに引っ越してきた理由なのだろう。
「メビウス。君はこの急坂を想定して、これを超える実力を身に付けるために、学園寮を出たのか?」
「……その通りです。まどかさんには、お見通しなのですね。ですが……やはり実際のレースは、想像とは違いますね」
電光掲示板に映るウマ娘たちの姿を一心に眺めながら、メビウスはそう答える。
俺も同じ気持ちだった。熱量、速度、迫力。何もかもが、違う。これが、J―GⅠレースなのか。
『全バ、高低差五・三メートルの谷を勢いよく降っていきます! 更にその直後に迫る坂を全力で駆け上がる!』
人間の出せる速度であっても絶対的に恐怖を覚える程の坂を、ウマ娘達は速度そのままに勢い良く降り、登っていく。
決意のその先に脚を踏み入れていく、まさに決死の直滑降。究極の心臓破りの坂だ。
『各ウマ娘、勢いそのままに駆け抜けた! ダートコースを再び駆け抜け、そして芝のコースへ戻っていきます。さて、その先に待ち受けるのは、高さ一・六メートル、幅約二メートルの竹柵障害。まさに大障害、最初の難関になります! さあ、先頭駆け抜けて――ジャンプ! 後続も引き連れて、おっと、二番がつまづいたように見えましたが、体制立て直し走り抜けます! 各ウマ娘、無事に飛越しました!』
瞬間、場内に大きな拍手が巻き起こる。
大障害を飛ぶ直前に、彼女たちは国内最大級の谷でスタミナとパワーを消費している。その先で息を整える間も無く待ち受ける一・六メートルのその竹柵障害を飛び越えるには、尋常でない程の集中力が要求される。
故に事故率も非常に高く、難関なポイントだ。
会場内に響き渡るその拍手には、命懸けの障害を飛越した者たちへの賞賛が込められる。
無事に駆け抜けてくれた事への、安堵の意も含まれていることだろう。
名誉の前に、互いの生と死が常に隣り合わせにある。このレースはそういう類のものなのだから。
『全ウマ娘、無事に飛越を終え、ここ中山レース場に大きな拍手が湧き起こります! さあ、右回りから左回りへと切り替わり、進路を第二コーナーに変えていきました。平地を駆け抜け、ここで中団から後方に少し差が開いたか。待ち受ける次なる五号障害の生垣を、先頭から踏み切って――ジャンプ!』
通常のコースと違い、∞状にクロスする中山レース場のこのコースは、右回りから、左回りへと道中でスイッチする。障害レース特有の構成だ。
『五号障害も越えていきました。勢い落ちる事なく、全バ飛び越えていきます。そして向こう正面、コースを再び8の字型にクロスし、再び待ち構えるのは、二号坂路のバンケット。もう一度高低差五・三メートルの坂を降り――そして、登っていきました!』
電光掲示板に映るウマ娘たちの表情は、既に険しい。谷とも呼べる急坂の連続により、心身共に消耗を強いられる。
芝の四千二百五十メートルという超長距離を駆ける必要がありながら、ここで幾度となく掛かる負担は平地レースのそれとは最早別次元だ。尋常ではない。
『ウマ娘達に求められるのは、莫大な量のスタミナ、谷を駆け降りる勇気、そして登りきる根性です! 全バ、谷を突破しました! そしてもう一度ダートコースを走り抜け、戦場は芝へ戻ります。さあ、ここにきて、待ち受けるのは最難関。通称、赤レンガの大障害!』
迫るのはこのレース最大の障害。
これ程の凄まじいスタミナ消費を終えた後に待ち構えるのは、赤レンガの上に積み立てられた高さ一・六メートルの生垣。
ここで彼女達が超えなければならないのは、大障害を前にした己自身の限界なのかも知れない。
『各バ、踏み切って――ジャンプ!』
飛越する。
転倒は、ない。全員が無事にその最大の障害を越えた。
『無事! 転倒はありません! 各ウマ娘、全員無事に大障害の飛越を終えました!』
大きな拍手が上がる。歓声が巻き起こる。
レース場は大きな熱狂に包まれた。
『本日一番の、大きな、大きな拍手が巻き起こっています! 歓声も上がりました! しかし、まだレースは続く!』
どのウマ娘達も、鬼気迫る表情をみせていた。大障害を終えて、にわかに安堵したウマ娘もいるかも知れない。
それでも体力が限界に近い者もいるだろう。
レースは続く。芝を駆け、飛越する。
『残り八百メートルの位置を通過しました。――おおっと、ここで中団を走っていた四番エンジェルシロップが大きく失速! スタミナを消耗し過ぎたのか、はたまたこれは作戦か! 最後まで持つのでしょうか!』
メビウスが応援したいと言っていたウマ娘、エンジェルシロップが、ここで急な失速をみせていた。
先行の位置から徐々に後方に垂れていく。適正距離の限界が来ているのかも知れない。
そしてウマ娘達は、外回りのコースへ突入した。生垣を更に二つ乗り越える。
ここですでに三千六百メートル以上を走っている。それでもまだレースは終わらない。これが超長距離戦、中山グランドジャンプ。
スタミナと根性、精神力。ここから要求されるものは、勝利への執念なのか、それとも。
『残るは最後、スタンド正面の障害のみ。最終コーナーを抜けて、残すところ四百メートルを切りました!』
死力を尽くす。その気迫が、スタンド前の観客達にも伝わるような勢いだった。
数多の夢を打ち砕かれ、それでも走ることを諦めなかったウマ娘たち。
今日ここで走る者の中には、平地で未勝利戦を超えられずにオープン戦に出ることが叶わなかったウマ娘もいる。
何年走り続けてきたかも分からない程の年数を経て、挑み続けた者もいる。
障害レースの大舞台で輝き続ける、優駿達がいる。
困難を踏み越えて、走る事を絶対に諦めなかった者達が、ここにいる。
この世代の頂点を決める、最終直線。レースを走る十二人のウマ娘たちは、誰一人欠けることなく、そこに到達した。
『さあ、最後の障害を超えます! 踏み切って、ジャンプゥ!』
飛び越えていく。己の限界を、彼女達は乗り越えていくのだ。
『各バ最後の障害を踏み越えて――……いや、転倒! 最終障害で、転倒が起きました!』
「――っ!」
それは、突然の出来事だった。
『四番、転倒! エンジェルシロップが、最後方で転倒しました!』
実況の驚く声が場内に響く。
観客席から、悲鳴も上がる。
転倒は、重大な事故をもたらす可能性があった。
心肺が止まる可能性すらある。だが、転倒直後にも関わらず彼女は歯を食いしばり、立ち上がった。
何とか受身を取れたのか。それとも本当は身体のどこかを故障をしているのか。それはもう、今は誰にも分からない。
『四番エンジェルシロップ。転倒しましたが、すかさず立ち上がりました! まだ勝負を諦めておりません! レースを続行しています!』
しかし、もう既に
雨に濡れた芝に倒れたことで、勝負服は泥を被り、彼女の息も完全にあがっている。
片腕をもう、振り切れていない。彼女の脚も、明らかに重さをみせている。
その姿を前にして、もう観ていられないと顔を覆う観客もいる。
そう感じてしまったのは、俺も同じだった。
俺も思わず、一瞬目を背けそうになる。
「――まどかさん。大丈夫です」
ふいに、俺の隣りから声が聞こえた。
それから、手に暖かな感触が続いた。
彼女の小さな右手は、俺の左手を取り、気付けば俺のその手を繋いでいた。
「メビウス……」
「走ります。エンジェルシロップさんは、最後まで」
その手は、微かに震えていた。
いや、俺の手が先に震えていたのだろうか。
それでも、今俺たちが何をすべきなのか。それを良くわかっているのは、彼女の方だった。
「……そうだな。すまない。ありがとう、メビウス」
「はい。……見届けましょう、まどかさん。このレースを。彼女たちの走りを」
俺は彼女のその手を、強く握り返した。――これがウマ娘の覚悟なのだ。
トレーナーである俺が、目を背ける訳にはいかない。
きっと正面を見据えた、その刹那。
俺のすぐ側から、唸るような声が耳に飛び込んできた。
「……走れ! 走るんだ、エンジェルシロップ!」
その声の主は、トレーナーバッジを付けていた。彼女の勝負服と同じカラーの、赤い帽子を被っている。彼は、エンジェルシロップのトレーナーなのだろう。見れば、分かる。彼はトレーナーの眼をしている。
「これは僕たちが望んだ、夢の舞台だ! 走りたいなら……走れるのなら、最後まで全身全霊で駆け抜けろ! 走れ――エンジェルシロップ!」
自身のトレーナーが後押しする声が聞こえたのか、苦悶の表情の中にもわずかな笑みを浮かべて、彼女は再び加速した。
互いの想いを感じた。
トレーナーとウマ娘。二人の覚悟だ。
彼女の競走を中止しても、構わないはずだ。故障の危険を考えればもう止めるべきだ。それでも、二人三脚の関係でこの場に立つ彼らの中に、それを止める
『四番エンジェルシロップ! 転倒後もここから更に追い上げる! しかし、ここからはもう無理か!』
最終直線の距離は長くない。先団に食らいつこうと足掻くが、追い付けるとは思えないほどの差が開いていた。この場に来て差し脚が残っているウマ娘は少ない。
だが、ここから先団で一気に脚を伸ばすウマ娘がいた。
『六番ミズイロチョウテン! ここで抜け出し、先頭で駆け抜けていく! 二番手とのその差はもう三馬身、四馬身と開いている! 後続も追いすがるが、最後のその差が埋まらない!』
他のウマ娘を圧倒する程の速度での追い込み。
ミズイロチョウテン。
ここに来て、唯一無二の走りだった。残り百メートルを過ぎても、彼女の脚はとどまる事を知らない。
『ミズイロチョウテン先頭! 先頭のままゴールイン! 一番人気、六番ミズイロチョウテン! 圧倒的実力でJ―GⅠ、中山グランドジャンプを制覇しました!』
万雷の拍手が会場内に響き渡る。
二秒以上遅れて、二番手以降の後続が次々とゴール板を駆け抜けていった。
走り抜けたウマ娘たちには、惜しみない賞賛が送られていく。
先頭がゴールしてから何秒も過ぎた頃に、最後方のウマ娘達もゴール板を駆け抜けた。
そして、最後の一人が最終直線上を走り抜けていく。
誰がみても、その姿はボロボロだ。それでも、彼女は――エンジェルシロップは走るのをやめなかった。
『各バ遅れて続々とゴール板を駆け抜け、そして最後に今――四番エンジェルシロップがゴールしました! 全バ、踏破達成! 一人も欠ける事なく、中山グランドジャンプを全ウマ娘が駆け抜けました!』
今日一番の大きな拍手が、会場に巻き起こる。
俺もメビウスも、めいいっぱいの拍手を送り続けた。
ゴール板を超えると同時に、ゆっくりと倒れたエンジェルシロップはそこで前に突っ伏した。
横顔を雨と泥に塗れた中山の芝に埋めながら、彼女は一度だけ観客席にニコリと笑顔を見せると、その瞳を閉じた。
大粒の涙が雨と共に流れて、彼女のまぶたから零れ落ちる。
きっとそれは、この難関レースを走り切れたことへの安堵ではない。その痛みへの辛さでもない。
これは、悔しさの涙だ。
本気で彼女は、勝ちたかったのだ。
彼女の長い白髪とこのレースのために彩られた勝負服は、全身が泥に汚れきっていた。
遥か先では、一番にゴールを駆けたウマ娘――ミズイロチョウテンが、その拳を突き上げていた。
『王者、ミズイロチョウテン! 彼女が今、この中山で大きな飛翔を掲げました!』
実況の声に、さらなる歓声に包まれる中山レース場。
圧倒的な強さは、人を惹きつける。過酷なレースを走り切り、その頂点に立ったJ-G1ウマ娘の眩しさは、見る者に感動を与える。
その輝きの中にあって俺の視線は、最降着のエンジェルシロップにも向けられていた。
誰よりもボロボロになって中山の芝に打ちひしがれて。雨に打たれて泥にまみれた彼女の勝負服と、その姿もまた――。
気高く、美しく見えたのだった。
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