トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
「メビウス! ペースを落とさずにもう一周だ!」
「――はい!」
平日の早朝、学園にて。
リングメビウスの金色の長い髪が、トレーニングコースの芝に揺れる。
登る朝の陽射しを背に追い、彼女は走り続けた。煌びやかな金の髪色が、朝焼けに染まる。
あの日、雨降る喫茶店で彼女の仮トレーナーとなってから、一週間が過ぎていた。
この時期となると、世間はあの日の翌日に行われた皐月賞の結果と、次走のGⅠレースの話題で持ちきりとなっていた。果たしてそれに対して、J―GⅠの中山グランドジャンプの話題はどれほど出ていただろうか。
クラシックレース。
皐月賞、日本ダービー。
そして、芝のGⅠレースが続くこの四月から六月までの期間は、レースファンの者達にとって心踊る期間である事は間違いない。
去年までの俺も、きっとそうだった。
誰が勝つのか。どんなレースが待っているのか。その想いが強かった。
だが、今年の俺の胸中は大きく違っている。
この心の湧き立つような想いは、一人のウマ娘に注がれているからだ。
「……トレーナーさん。今回のタイムは、どうでしたか?」
コースを走り終えたリングメビウスが、俺の元へと早足で駆け寄ってくる。
軽く息切れを起こしながらも、彼女の呼吸のリズム自体は乱れていない。
スタミナは元々あるが、この数日で教えた呼吸法が身に付いている証左だった。
それが如何に僅かな進歩であっても、自身の指導によるウマ娘の成長が垣間見れた事に、嬉しさを覚える。
「前周よりも〇・一秒遅くなっている」
「誤差とは、言えない差ですね」
「レースなら、一バ身以上の差が出てるからな」
「原因はどこでしょうか」
彼女の問いには淀みがない。答える側にも熱が入る。
「コーナリングでの身体の傾きがおざなりになっていたからだ。最終直線での膨らみが顕著すぎた」
「私の身体はどのくらい、外に出ていましたか?」
「第四コーナーを抜けた時点で、直線でのバ身差に換算するなら三分の一バ身ほどだ」
「外の綺麗なバ場を通るならば、多少の膨らみはどうでしょうか」
「加味してもロスだな」
「なるほど……」
メビウスは、口元に手を当てて考える。
彼女には後ろから追走できる程の上がりのトップスピードがない。前目で粘って逃げ馬を追走する、先行脚質としての走りを考えている以上は、道中のテクニックが大事になる。
「逃げウマ娘を躱わすために狙ってやるなら良いが、直線でスピードの出にくいメビウスは、コーナーで内ラチ沿いのバ場に乗って距離を稼げる技術を優先していった方が良いだろう」
「分かりました。他にはありますか?」
「後は第二、第三コーナーの曲がり方だな」
「どのように修正を心掛ければ良いでしょうか」
「僅かにスピードを落としても良いから、もっとコーナーに身体を合わせる感覚を身に付けてくれ」
道路での車の運転と同じだ。
コーナーカーブに入る手前で減速、抜けるタイミングに向かって徐々に加速していく技術が必要になる。
「入射角は、どれくらいを意識すれば」
「そうだな。前に他のウマ娘が一人入り込む状況を想定して、速度を下げつつ、先ほどの試走よりも一〜二度程は緩やかな状態をイメージしようか」
「減速、するのですか?」
「速いスピードを維持しようとすればその分、馬場の外を回ることになるだろう?」
「……そうですね」
「減速はロスなくコーナーを回るために必須の技術だ。息を入れるタイミングにもなるから、コーナーの入りは減速を意識するように」
試走し、修正点を確認する。
そこで彼女から投げかけられる問いに、答える。その応酬が俺たちの練習方法となっていた。
納得がいけば素直に従うが、得心がいかない場合は、彼女はウマ耳をにわかに後ろに引いて抗議する。
意外に頑固な面がある彼女の、可愛らしい抵抗だと俺は思っている。
ウマ娘はレースに関われば、その気性がどこかで表面に出る。
それでもメビウスもはその俺の指示に従い、状況を試していく。
この繰り返しが、俺と彼女の成長においてよく当てはまっていた。
トレセン学園において、反骨心のあるジャジャウマと相性が良いトレーナーもいれば、トレーナーの指示に疑問も挟まず従うウマ娘と合う者もいる。
そのどれに当てはまるのか分からないが、一言でいえば俺とメビウスは、現段階においてトレーニング方針での相性も良いと言えた。
「トレーナーさん。傾斜角の修正を、試しました。タイムはどうでしょうか」
「前前走と同タイムだ。良い感じだ。あともう一周、いこう」
「承知しました」
「まだスタミナは大丈夫か?」
「はい。体力は、私の取り柄です。寧ろ、同タイム以上を狙ってみせます」
「いや、それは許可できない。もう一度同タイムを狙ってくれ。確実な体内時計を持つのも――」
言い掛けて、彼女のウマ耳が後ろに下がっているのが目に入った。
指示ばかり聞かせるのが、良い指導とは限らない、か。
走りに熱が入っているのは悪いことではない。
ウマなりで、彼女の走りたい気持ちに応えるのも必要なことだと考え直す。
「……いや、そうだな。思うように走ってみてくれ。自力だけで無茶はせず、習得した技術を組み合わせて前前走のタイムを超えるんだ」
「――っ、はい。やってみせます」
耳がピンと立ち、嬉しげに尻尾が揺れている。
応えて、彼女は走り出す。
彼女の汗と金色の髪が、トラックコースに煌めいた。
俺もメビウスも、意固地ならない程度の線引きと塩梅がある。
これが相性だと思う。
これは本当に嬉しいことで、心底安堵している。
それは運命的な出会いを果たしても、目的、相性、方針のすれ違いが顕著であれば――早い段階でトレーナーを変えるウマ娘も数知れず存在するからだ。
トレーナー視点で逆もまた然りだが、ウマ娘からすれば一生に一度しか機会のないレース人生を、共に歩む相手となる。その相手に抱く感じ方もその重みも、今後何度も何人も担当を持つことになるトレーナーとは違う。
例えば、歴史に名を刻む名バの中にも勿論、担当トレーナーが変更になったウマ娘もいる。
例をあげるならば、ミホノブルボンだ。
トレーナーと意見が幾度も対立し、その指示を聞かなかったミホノブルボン。
彼女は己の主張を決して曲げなかった。
隠れて自主練を行い続け、その時に自らを支えた別のトレーナーと組む事となり、その人をマスターと呼ぶようになった。
ウマ娘もまたトレーナーを変える権利がある。
現状の評価は平凡とはいえ、リングメビウスもまた決して実力のないウマ娘ではない。
特に、重馬場への適性は目を見張るものがある。
彼女と共に歩み続けるには、相性。考え方の擦り合わせ方。
そして、『今』の積み重ねが大事なのだろう。
彼女は俺の指導に良く付いてきてくれている。
――ならばこそ、俺自身が見限られないようにしないとな。
そう思い、より一層トレーニング指導に身を引き締めるのだった。
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時間の流れが、速く感じる。
そう思う程に充実の日々の中に在る。
リングメビウスと早朝のトレーニングを終えた後は、それから日常の業務をこなす。
事務作業、校内のトラックコース整備の打ち合わせ、各レース場の芝管理についての状況確認。
その合間に、今朝のリングメビウスの走りを参照としたトレーニングメニューの修正を行っていく。
そのように忙殺されて過ごせば、あっという間に放課後となっていた。
――すでに、夕刻だ。
学園のチャイムが鳴り響く。
生徒たちの授業はこれでどの学年も終業したようだった。
それから十五分程が経過した所で、一度を背を伸ばしてから職員室を後にする。
向かう先は、トレーニング用のトラックコース。
夕陽が差し掛かる時刻に足を運べば、多くのウマ娘がそこに集まり、互いに研鑽を積んでいる。
メビウスと合流するために、俺もまたいつものコース付近の階段に歩みを進める。
視線の先に、メビウスの姿はない。
ポケットからウマホを手に取ると、彼女からのメッセージが届いていた。
『トレーナーさん、お疲れ様です。本日はクラスの日直となっていまして、先生から課題とアンケートの取りまとめの提出を頼まれました。そのため、十五分ほどコースへ向かうのが遅れますので、ご承知おきください』
彼女らしい生真面目な文章だ。連絡をマメにくれるのは非常に有難い。
承知した旨の連絡を行った後、俺は一足先にトラックコースの観客席に向かう事にした。
その先で、一人の制服姿のウマ娘が階段で立ち竦む姿が目に止まった。
肩程までの、芦毛の髪。
左耳に赤いリボンを付けたウマ娘だった。
「……あのウマ娘は――『カレンチャン』、か」
先日転入したばかりで、学園の入り口で俺に声を掛けた少女。
彼女の視線の先を、ふと目で追う。
カレンチャンが、その視界に映しているのは、芝のコースを周回するダイワスカーレットだった。
「スカーレット! さっきよりもタイムが落ちてるぞ! 中盤に脚を使い過ぎだ!」
「ああ、もう! 分かってるわよ!」
「分かってるなら次に修正を掛けろ! ハロンラップを意識してもう一度だ!」
「――……フフっ、いいじゃない。望む、ところよ!」
そしてそれをサポートする先輩トレーナーの姿があった。
彼の姿もまた、カレンチャンはその瞳に捉えていた。
いや、寧ろ。彼の姿こそを、なのかも知れない。
先輩は先日、カレンチャンにトレーナーになって欲しいと言われ、それを断ったと自ら言っていた。であれば、カレンチャンが彼に想いを馳せていることは想像に難くない。
しかし相変わらず、あの二人の相性は抜群に見える。互いの引き出しに遠慮がなく、そこに信頼が垣間見える。
あの二人の間に、誰かが入る隙間など無い。一瞥して、そう思ってしまう程に。
ダイワスカーレットと、そのトレーナー。
そして二人を眺めるカレンチャン。
彼女たちの存在が、俺の視界に不思議と目に映り続けてしまう。
しばらくその二人の様子を眺めていると――俺のその視線に気付いたのだろうか。
カレンチャンが、俺の方へ視線を向けていた。
彼女は「あっ」と、わざとらしい声を出す。
それから俺を視界に捉えると、ゆっくりと歩み出し、俺の目の前に到達する。
そうしてピタリと立ち止まると、彼女は柔和な表情を浮かべて俺の顔を覗き込んだ。
「また、会いましたね。トレーナーさん」
「俺の事、覚えているのか」
「勿論です。だって、カレン、あなたと会って、凄く不思議な体験をしましたから」
「不思議な体験?」
「少し前、学園の入り口で貴方と出会って、手を繋いだ時のことです」
「――あの時の、ことか」
明確に覚えている。
あのノートにも一言一句違わずに書かれていたことだ。
カレンチャンに、『カレンとどこかで出会ったこと、ありましたか?』と聞かれた時のことだ。
「初めて出会った人と、会っていた事があるような心地がするなんて。すっごく不思議じゃないですか?」
「……それは、そうだな」
「トレーナーさんも、そう思いませんでしたか?」
――カレンとどこかで、会ったような。そんな気がしませんでしたか?
暗にそう言っているのだと、分かった。
他人のような気がしない、と。そう思ったのは俺も同じだったからだ。
それを正直に答えるべきか、それとも濁すべきか。
「……と、言っても、だな。俺は数日前に、君と校門で一度会っただけなんだが」
「そうかも知れません。でも、カレン。あなたの手を取った時に……何だか、それだけじゃない気がしたの」
曖昧な返答に対し、彼女は俺の目をじっと見つめてくる。
それから、うん、と一度頷くと。
意を決したような表情をみせて、カレンチャンは口を開いた。
「あのね。突然でビックリしちゃうかもだけど……カレン、一つだけあなたに、お願いがあるの。……それをあなたに、聞いてもいい?」
芦毛の髪が、風に揺れる。
赤いリボンの黒いカチューシャに、桃色のつぶらな瞳が潤めいている。
少しでも気を抜いたら引き込まれそうな雰囲気が、彼女はあった。
「あなたに、カレンのトレーナーさんになって欲しいの」
俺が頷くまでもなく、彼女は『それ』を俺に提案してきた。
それは数日前にリングメビウスという少女に出会うまで、俺が心底渇望していた言葉だった。
そして同時にそれは、『カレンチャン』というウマ娘から、俺が今最も受けたくない言葉でもあった。
なんせによ、俺が返すべき言葉は決まっている。
「悪いが、俺にはもう――」
口をつこうとしたその瞬間――脳裏に過ぎる光景があった。
頭が、痛い。
奥歯を噛み締める。
これは、なんだ。いつの、出来事なんだろうか。
いつ、の? いや、これは、未来なのか、それとも過去の光景なのか?
『……突然でビックリしてるかもだけど、もう一つだけあなたに、お願いしてもいい? カレンのミストレ、応援しにきてほしいの。……あなたがいればがんばれる気がするから』
四月、ファン感謝祭。
その単語が浮かぶ。
カレンチャンが誰かに放ったその台詞は、儚さと諦めのような声色を帯びていた。
それを俺は、遠巻きに眺めていた。
ただ、一人遠く。離れた所で。
彼女の視線の先に居たのは――ああ、そうか。
先輩トレーナー。
ダイワスカーレットの、トレーナーだ。
彼女の心にある存在は、その姿は。
俺じゃない。
何度繰り返したって、永遠にそれは訪れないのだろう。
たとえ何千何万回と生まれ変わっても、彼女の運命の人は――俺じゃない。
目を開くと、意識が今に戻る。
言いかけて口を閉ざした俺の側へと、一歩彼女が歩み寄る。
同時に俺は一歩後ろに後ずさる。
自然に生じたこの距離が、俺と彼女の縮まらない一ハロンなのだと、直感的に思わされた。
「その申し出は有難いが、俺にはもう担当してるウマ娘がいる」
毅然として返した言葉に、彼女の声色は暗さを帯びたように思えた。
「……そう、なんですね。それは……マンハッタンカフェさんですか?」
「いや、違う」
「それなら、スマートファルコンさん?」
「その子でもない」
「アグネスタキオンさん?」
「……キテレツなウマ娘で有名だが……相当強いウマ娘だな。俺に縁はなかったようだ」
「じゃあ、マーベラスサンデーさんとか」
「すごい存在感のあるウマ娘だが……それも違う」
「それなら、一体誰なんですか?」
「俺が契約したウマ娘は――リングメビウスだ」
正しくは仮契約という形ではあるが、現状においては同じようなものだ。
メビウス以外のウマ娘を担当するつもりは、今の俺にはもうないのだから。
彼女の口から次々に出てきたウマ娘の名前の由来は、なんなのだろうか。
対して俺が答えたウマ娘の名前がよほど意外だったのか、彼女は口元に手をやり首を傾げる様子をみせた。
「リングメビウス……さん?」
「そうだ。俺とトゥインクルシリーズを駆けるウマ娘は、リングメビウスだ」
それを言葉にして、自分の中でも心が落ち着くような感覚があった。
カレンチャン。彼女ではない。
どんなに強くても、どんなに凄い少女であっても、どんなに才能が溢れているウマ娘であっても。
俺の相棒は、リングメビウスなのだと。自分の想いに得心がいく心地があった。
「そう……なんだ」
伏し目に視線を流して、彼女は上目遣いに俺の顔を覗き直す。
憂いを込めた瞳だった。
「それが、今のあなたの答えなんだね」
「ああ。悪いが、この選択を覆すつもりはない」
「……そっか。今のカレンは、あなたにとってカワイくないんだ……」
「うっ……。いや、そういう訳では、ないんだが……」
悲しげな瞳を浮かべる彼女に、心が揺れる想いがある。
思わず歩み寄りたくなる衝動さえ生まれそうになる。
だが、決定的な言葉は出てこない。
ここで彼女を冷たく突き放す事が、寧ろ必要な事だと言わんばかりに。俺の心と身体が、自身の足を止めている。
一度目を閉じてから、彼女の瞳をもう一度捉える。
潤ませている瞳の奥に、決してブレない本当の彼女の強さがみえた気がした。
「トレーナーさん」
「なんだ?」
「カレンは、どういう子なのか覚えてる?」
「君は、究極の負けず嫌いで、ストイックで。誰よりも努力家なウマ娘だ」
「――ふふっ。ほら、やっぱり」
すかさず答えて、俺は自身の口に手を当てて固まる。
覚えているのかと、カレンチャンは俺に聞いた。
そして、当然のように出てきた彼女の評価は、あまりにも自然に馴染む。
マンハッタンカフェと話をした時の比ではない。
何度、彼女との三年間を俺は過ごして居たのだろうか。
一回?
十回?
百回以上さえも、あり得るのか?
――言葉に上手くできないグラつきが、身体に走る。
強烈な、既視感。
何度俺は彼女と顔を合わせたのだろう。
……もしかすると過去の俺は、あのリングメビウスよりも、遥かに永い年月を彼女と過ごしているのではないか?
どれほどの、時間を?
それは仮に繰り返した回数を合算するのならば。
まさか、何十年どころか、何百年とでも――。
「トレーナーさん。カレンに少し、手を貸して欲しいな」
「手を?」
不意な提言を、受ける。
言われるがままに俺が彼女に左手を差し出すと、カレンチャンは俺の手を包むように、両の手で握り返した。
芝の匂いに重なるように、彼女の香りが届く距離に、少しドキマギしてしまう。
「……出会ったあの日よりも、冷たい手だね」
「君の手が、俺より温かいだけだろう。ウマ娘の体温は、人より高いからな」
「そういう事じゃ、ないんだけどね。ううん、でも。そうなのかも」
「……?」
気づけば、カレンチャンの口調は少し砕けていた。他人行儀とは違う。
握った手を、反芻するかのように。ひとしきり眺めて目を瞑ると、彼女は俺の顔を見上げる。
「不思議だよね。幼い頃に遊園地で出会った運命の人。スカーレットちゃんのトレーナーさん。あの人を想った年月よりも――カレンはね。あなたと過ごした時間の方が、永いような気さえしてしまっているの」
俺も恐らく、同じように感じている。
これは不可思議な関係性だ。
それと同時に、彼女と俺は一度も同じ時間を過ごしてはいない、とも感じる。
どういう原理でどういう仕組みの中にいるのかも分からないが、どちらも真なのだ。
「今の俺は、君と日々を過ごしてなんか、いない」
「うん。カレンは、今のあなたと同じ時間を過ごしていないよ。でも――」
手を離して、彼女はクルリと身体を反転すると俺に背を向けた。
その視線は夕陽にあり、陽の光を浴びたカレンチャンの影が、俺に重なる。
「確かめたいの。そうでないと、カレンもあなたも。前に進めない気がするから」
「……カレンチャン。俺は――」
「いいの。何も言わなくても。……でも、覚悟しててね。カレンがどういう性格なのか、あなたは知っているでしょ?」
銀の芦毛の髪を揺らし、彼女は横顔だけで一瞥する。
それから、大きく腕を振ってカレンチャンは歩き出した。
歩き出すその向こうから、俺の顔を見付けて朗らかな笑みを浮かべる一人の少女の姿が映る。
――リングメビウスだ。
カレンチャンとリングメビウス。
歩き出した先で、彼女達はトラックコースの外ですれ違う。
視線すら、互いに向ける事はなく。
「お待たせしました。まどかさん――いえ、トレーナーさん」
「いいや。日直のお仕事だったんだろう? お疲れ様、メビウス」
目の前に来た、リングメビウス。
頬の横で一部を結っている、尾花栗毛の長い髪。
夕陽に照らされた金色の髪が、赤いトレセンジャージによく似合う。
そして、いつもの少し怠げな彼女の翡翠色の瞳が、真っ直ぐに俺の瞳を捉える。
「はい。ありがとうございます。……時に、トレーナーさん」
「なんだ?」
「……私は、負けたくありません。私は、貴方に相応しいウマ娘に、なってみせます」
「あ、ああ。そう言ってくれるのは良いが……どうした、急に」
「私以外のウマ娘の事を、考えるのは仕事ですから構いません」
「それは、勿論。俺はトレーナーだからな」
「でも――誰よりも意識するのは、私であって欲しいのです」
そう言って、彼女は俺のスーツの裾を、微かに掴んでいた。
戸惑いながらも彼女の面立ちを俄かに覗いてみると、頬をほのかに赤らめながら、口をへの字に曲げている。
これは、要は。嫉妬しているのか。
カレンチャンとの会話の中身を分かっているかは分からないが、遠目に俺がカレンチャンと話しているのが見えていたのかもしれない。
なんだろう。毎度、可愛いが過ぎるのでは無いだろうか。俺の担当する愛バは。
「メビウス」
「はい」
「……走ろう。走る君の姿を、今は見たい」
「――承知しました」
思う所はあるが、無粋なことも、余計な言葉も。今はやめておこう。
俺の意図を察したように、彼女は俺から手を離し一歩引く。
これで良い。
信頼も関係も不安も、これから俺たちは互いで互いを証明していくのだから。
言うが早いか、彼女は小さく微笑むと、トラックコースを流すように走り出した。
▼
「駿川たづなです。トレーナーさん、いらっしゃいますか?」
その翌日の、放課後。
協働用のトレーナー室に、ノックの音が響き渡った。
今日の練習を終えていたリングメビウスと俺は、その声に扉へと振り返る。
「あ、はい。居ます。どうぞ」
「では、失礼しますね」
緑色の事務服に身を包んだ、理事長秘書のたづなさんが、扉を開き入室する。
新人の俺にとっては、彼女は非常に立場が上の存在であり、俄かに緊張をしてしまう。
自然とピッと身体を整えた俺に、たづなさんは苦笑しつつも話を始めた。
「そんなに畏まる必要はありませんよ、トレーナーさん。それに、メビウスさんも居たのですね。丁度良かったです」
「メビウスにも、用が?」
「はい。次の選抜レースのご案内です。それを、お持ちしましたので」
選抜レース。
開催日に併せて、一週間ほど前に申し込んでおいたものだ。どうやら、そのレースの出走メンバーの対戦表が確定したらしい。
まさか、たづなさんが手ずから持ってきてくれるとは。
「お忙しい中、ありがとうございます」
「いえ。トレーナーさん。そしてリングメビウスさん。頑張ってくださいね。それでは、失礼します」
そう言って出走メンバーの入った封筒を俺に手渡すと、矢継ぎ早に彼女は退室していった。本当に忙しいにも関わらず、律儀な仕事をされる人だとつくづく思う。
そんな些細な心遣いに感謝しながら、封筒を開き紙を取り出す。メビウスも俺の近くに歩み寄り、息を飲む様にしてそれを見る。
選抜レースの出走日は、三日後の予定だ。
さて、どんなウマ娘と走る事になるのか――。
【トレーニングトラックコース芝二千メートル】
一枠一番『カレンチャン』
二枠二番『リングメビウス』
三枠三番 ドカドカ
四枠四番『ハッピーミーク』
五枠五番『マンハッタンカフェ』
六枠六番 イズカリ
七枠七番 バイトアルヒクマ
八枠八番 エキサイトスタッフ
正直、目を疑った。
「……トレーナーさん。これは……」
「ああ。中々の粒揃い、だな」
互いに顔を見合わせる。
冷や汗が、メビウスと俺との双方に浮かぶような心地だった。ハッピーミーク。それにマンハッタンカフェ。強い相手がいる。
その上で気になるのは、俺からすれば適性外と思えるウマ娘――カレンチャンがその中にいるという事。
『覚悟しててね。カレンがどういう性格か、あなたは知っているでしょ?』
去り際の彼女の言葉が思い出される。
それを想うと、どうにも乾いた笑いが漏れるのだった。