トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
その日の帰り路。
コンビニの駐車場に赤い自家用車を停めた俺は、一人で雑誌を立ち読みしていた。
最近のURAに所属するウマ娘の戦績や、インタビューが記載されている雑誌だ。
いつもの習慣であるし、軽く読んでから買って帰るのが基本なのだが、どうにも心定まらず、俺の視点は紙面をただ滑っていた。
その理由は明白。
選抜レースの事が、頭から離れなかったからだ。
輝かしい戦績を放つウマ娘たちの情報が載る紙面よりも、今自分が担当するウマ娘のレースの方が遥かに気になってしまう。憧れていた煌びやかな、レースの世界。
その内側に入った時、今まで観ていた景色とは違うモノが観えるのだろうか。
皐月賞の勝者を讃える記事が紙面に堂々と載っている。
それと比べれば随分と差はあるが、クラシックGⅠ皐月賞の前日にJ―GⅠレースの中山グランドジャンプを制したミズイロチョウテンの事も記事になっていた。
平地のレースは、花形だ。
皐月賞の勝者は、一躍その世代のスターとなる。
日本ダービー、菊花賞。クラシックの夢は、熱狂の渦の中にある。
障害のレースは、比較すればどうにも地味だ。
その勝者は勝ち続けなければ、やがて瞬きの夢に掻き消える。むしろ夢破れ去った後の道筋は、静かなる不屈の闘志の中にある。
それは花形とは言えないが、数多のウマ娘たちが紡ぐ、希望の道でもある。
リングメビウスをその障害レースへと導く道中においては、平地のレースでの経験も当然培う必要がある。
俺と彼女が組んで走る、初戦となる選抜レース。
これが、最初の一歩とも言える。
とはいえ、いざあの出走表を前にすると――。
頭を軽く振りかぶり、俺はその雑誌とOYABUNの微糖コーヒー缶を買ってコンビニを出る。
外の喫煙コーナー付近の店の壁に背中を付け、俺はコーヒー缶を開けた。
「……相手は、強い。が、どうしたもんかね」
一人つぶやき、冷たいコーヒーを半分程まで飲み干す。
冷静に考えたいが、冷静に考えたとしても今から何が出来るのかと言えば、さほど思いつかないのが現実だった。
そうしてほうっとため息を付いていたところで、見慣れた姿の一人のウマ娘が道路沿いで視界に入った。
金色の髪が、夜の風になびく。
トレセン学園の赤いジャージに身を包んで鞄を背負い、走るそのウマ娘は――。
他の誰でもない、リングメビウスだった。
彼女の住所と俺の住所は全く同じのアパートで隣室同士のため、寄り道さえしなければお互いがこのコンビニの前を通ることになる。
つまりはお互い、真っ直ぐに帰路を進んでいたということだ。
こちらに気付くだろうか、とメビウスに手を振ると、「あっ」とこちらを振り返っていた。彼女はどうやら直ぐに気付いてくれたようだ。
通り過ぎてから減速をし、俺がいる所まで早足で歩いて来る。
「まどかさん、お疲れ様です」
「ああ。お疲れ様、メビウス」
「お会いできて、嬉しいです。コンビニで一休みですか」
「そんな所だ。ゆっくり走れてるか?」
「はい。いつもの通りのペースで帰路を走っています」
「それなら良かった」
「日々のルーチンですので」
「レースが近いからと、気合いを入れ過ぎないようにな」
「そうですね。気を付けようと思います」
様子を見るに、メビウスはほとんど息を切らしてはない。
本当に力まずにいつも通り、学園からアパートまでの帰路を走れているようだった。
「ところで、まどかさん」
「なんだ?」
「今日は、ブラックではなく微糖の缶なのですね」
「え。ああ、そうだな」
手に握る缶を見ると、言われてみれば確かに。
普段から家で飲んでいるのもブラックで、コンビニでもそれを手に取るものだが、珍しく俺は微糖のコーヒーを買って飲んでいた。
意識すると、じんわりと糖分の甘みが冷たく舌に広がっている。
「まあ、なんとなくと言うか。気分だろうな」
「となると、
「そうだけど……何か気になるのか?」
「いえ。ですが、そうですね。私としては、小躍りしたい気分です」
会話のやり取りの最中。耳をピンと立て、彼女は長い尻尾を喜ばしげに揺らし始めていた。
怠そうな彼女の瞳は相変わらずだが、その奥で星が芽生えたような輝きすらある。
何がそんなに彼女の琴線に触れたのかは良くわからないが、喜んでいるなら良いとしよう。うん。
「まどかさん。走り疲れましたので、少しそれを頂いても?」
「このコーヒーをか? いいけど、飲めるのか」
「以前、貴方と一緒に寄った喫茶店でコーヒーも飲めるようになりましたので。大丈夫です」
「それなら良いが……どうぞ」
一歩、あゆみ寄ってきたメビウスに、冷たい微糖のコーヒー缶を手渡す。
微糖と銘打っているが、実際には相当量の砂糖が入っているので、喫茶店で角砂糖をドボドボと入れていたメビウスでも何とか飲める範囲なのかも知れない。
長い金色の髪を一度後ろにかいてから、メビウスはコーヒーを口にする。
一口、二口程度を含んで飲んだ後に、ほうっと一息ついて、メビウスはそれを俺に手渡した。
「私にも、飲めました。美味しかったです」
「苦手なモノを克服出来たようで、何よりだ」
「はい。糖分さえあれば、飲めるみたいです。カフェインの摂取方法が、一つ増えました」
「そうか。出来ることが増えるに越した事はない。うん。良いことだ」
ウマ娘の成長を感じることは、自身の喜びでもある。
コーヒーを自分も口に含み、片腕を組んでうんうんと頷く。トレーナーとして、妙なところで実感を得る心地になってしまった。
「それと、話は変わりますが」
「どうした。何でも言ってくれ」
「選抜レースの事ですが……一度、作戦会議をしませんか?」
「作戦会議、か。そうだな」
正直なところ、まだ情報は整理出来ていない。だが、数日後には選抜レースが待ち受けている。
俺にとってもそうだが、メビウスにとっても選抜レースは初の経験であり、不安もある事だろう。事前確認も兼ねて、情報共有する機会を早めに設けても良いかも知れない。
「……いかがでしょうか」
「よし、一度二人で話し合ってみようか。善は急げ、と言うやつだな」
「ありがとうございます。それでしたら、一つ提案があります」
「ほう?」
「本日。この後に、まどかさんのお部屋で作戦会議を行うのは――どうでしょうか」
「え、今日。アパートの、俺の部屋で?」
アパート住まいの俺たちは、部屋が隣り同士だ。
行き来しようと思えば、それは至極簡単な状況なのは当然ではあるが、今までお互いの部屋に上がった事は一度もない。
なんというか、学園ウマ娘と成人しているトレーナーとしては必要な一線のような気がして、そこに関しては線引きしていたのだが。
「駄目、でしょうか?」
「いや、何というか。それは……」
「ちなみに、実は秘策もあります」
「秘策?」
「選抜レースで好走するための、とっておきです」
「そんなのが、あるのか」
大分気になってしまう。
トレーナーである俺ではなく、メビウスの方からの秘策とは。一体なんだろうか。
いや、だがしかし。とはいえ、うら若い学園ウマ娘をトレーナーがおいそれと自室にあげるのは……。
俺の躊躇う様子が僅かな時間ながらも伝わったのか、メビウスはズイと身体を一歩乗り出してくる。
「まどかさん。私たちの関係は、なんでしょうか?」
「担当ウマ娘と、仮トレーナーだな」
「そうなる前に、私たちは知り合ったはずです」
「そうだな」
「お付き合いを、しています」
「――ああ。そうだ」
「もう一度、お尋ねしましょうか?」
「……いや、その必要はない」
「では」
「俺たちは、交際をしている恋人同士だ」
観念したように俺がそう答えると、メビウスは俺の横に立ち、肩を寄せてくる。
赤いトレセン学園のジャージを見に纏う彼女の姿が、自身の額二つ分下の位置にあって、俺を横目で見上げてくる。
「はい。ですから、大丈夫です」
「そう、だな。今更だった」
「今更な話です。でも……とても大事なことですよ」
「……なあ、メビウス」
「何でしょう、まどかさん」
「先に言わせて、悪かった。こう言うことは、いずれにしても俺から言うべきだった」
今回は急な流れではあったが、元々思っていた事でもあったのかも知れない。
あのノートを読んで決めた上で、それは覚悟していた事のはずだった。
恥も外聞も殴り捨てて、俺は彼女のパートナーになると決めたのだ。
そして勘違いから始まった関係と言えども、俺がすでに、リングメビウスをただ一人のウマ娘という存在以上に好意を抱いているのは、己自身を誤魔化せなくなる程の事実だった。
お互いの部屋を訪れて一つ関係を深めることなんて、世間体という垣根さえ無ければたった数メートルの障壁でしかない。
世間体などという垣根で、彼女の提案を跳ね除けるのは、余りにも他人事すぎた。
誰に何を言われても、たとえ社会的には狂っている事でさえも、リングメビウスとの在り方以上に優先する事など無いはずなのに。
「今日は、俺の部屋に来てくれ。そこで、今後の事について話そう」
「――はい。承知しました」
俺の言葉に、隣りに立つ彼女は、いつもの怠げな瞳に歓喜を携えてふっと微笑む。
綺麗だ、と思うし、可愛い、とも思う。
そんな彼女が俺の仮担当で、恋人でもあるという。
それを改めて自覚すると、どうにも不思議な感覚だった。
ほんの少し、緊張してしまう。
見慣れたはずの彼女の立ち姿をみて、頬が紅潮する心地がある。
「では、二十時頃にお伺いしてよろしいでしょうか?」
「了解した。その時までに部屋は、まあ、ある程度綺麗にしておくよ」
「分かりました。それでは、後で作戦会議ですね。どうぞ、よしなに」
そう言って、彼女は振り返る。
どうやら、帰路へとまた脚を進めるようだ。
ああ、とだけ答えて、喉の渇きを覚えた俺は、微糖のコーヒー缶に再び口を付けて一気に飲み干した。
冷えていた筈のコーヒーは、わずかな時間でほんの少しの温かみを帯びていた。
じんわりと広がる微糖の味を感じていると、不意に。
メビウスがこちらに振り返っており、ふわりと柔和な表情を浮かべているのだった。
「――まどかさん。それ、間接キスですよ」
唐突に、コーヒーの味がしなくなった。
言い残して振り返ると、メビウスは再び手を軽く振って走り出した。
不意打ちだった。
喫茶店でのやり取りの、意趣返しのような反撃。
レース外でのメビウスの成長に、俺はどのようにして追い付いていけば良いのだろうか。
トレーナーとしてどうかという事は完全に棚上げするにしても。
こと二人の関係という点においては――随分と彼女に導かれているような、そんな気さえしてしまうのだった。