トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。   作:カモねぎ屋

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第20話 うつけ者共が夢の跡

 

 

 二日後の、選抜レースの日を迎えた。

 俺たちは今、トレセン学園に居る。

 

 一昨日から連日と振り続けた雨は止む事なく、トレーニングトラックに道悪バ場(みちわるばば)を出現させていた。

 

 芝のコースは、(おも)バ場から不良バ場に成りかけている程の様子である。

 

「雨、ずっと降り続けてくれましたね」

「そうだな。このまま止まなければ、更に良いんだが」

 

 学園のトレーニングコースを俯瞰を出来る位置。

 スタンド側石段の座席に俺たちは立っている。そこで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、互いに雨が掛からないように気を使ってくれている。

 

 メビウスが傘を持つことで両の手が空いている俺は、コースの状態と睨めっこしながら、メモ帳に情報を書き込んでいた。

 

 俗にいう相合傘の状態。今日走るウマ娘に傘を持たせるのもどうかと思うが、勝つための情報収集なのだから、外面になどなりふり構ってなどいられない。

 

「まどかさん。少し雨が強くなってきたので、私の方に寄ってください。もっと、私の持つ傘の中へ」

「ああ。助かる」

「良ければ、飴もどうぞ」

「よし、貰おう」

 

 メビウスが俺の口元に、飴を一つ放り込む。歩み寄れば、肩と肩がぶつかる程に密着し、互いの距離感はゼロに近い。だが、お姫様抱っこと比べれば最早些事。これも信頼の証とみて吹っ切れるのみ。

 

 左腕に付けた時計を見やる。時刻は十四時丁度。選抜レースの実施に伴い、午後からの授業は行われていない。

 

 本日は八レース程実施される予定であり、現在は三レース目の発走を目前に控えていた。

 

「バ場の状態を、まどかさんはどうみていますか?」

「含水量を考量した全体的なクッション値は八・三程度と見込んでいる。硬いバ場になれているウマ娘は、かなり足を取られることになるだろうな」

「スピードよりも基本的にはパワーが重要なバ場、ということですね」

「ああ。だが、コースのどこを通るかで全く違う足取りにもなるから、通過するルート次第ではスピードの方が重要にもなる可能性がある」

 

 重バ場と一概には言っても、レースが行われる回数を経るごとにコース内には状態の良いバ場と悪いバ場が同時に顕在する事になる。これは、()()()()()()()()と呼ばれる現象だ。

 

 開催初回のレースでは、バ場の状態がフラットなために、必然的に内枠先行バが圧倒的に有利になる。だが開催が進めば、内側の芝をウマ娘が走ることで最内ラチ沿いのバ場が荒れる事になり、外側の芝の状態が保たれる事でやがては逆に外枠差しウマ娘の方が有利になる。

 

 その途中の段階では、また違う展開が生まれていく。レース回数を重ねる毎に多くのウマ娘が内側を避けて走るようになれば、外差しを狙うウマ娘は想定以上にコーナーの外側を回らされる事がある。

 

 そうなればバ場が多少荒れていてもロスなく内を回ったウマ娘の方が経済コース(より短い距離)を走る事になり、その差が決着に大きく作用する。

 

「私がコース上のどこを位置取るのか。それが重要なのですね」

「その通りだ。運も当然絡むが、狙って走る事が肝心になる」

 

 上り三ハロン(終盤六百メートル)勝負の速さは、今のリングメビウスにはない。だからレースの大勢は、道中のポジション取りで決まることになる。

 

「メビウスは最終レースでの発走だから、それまでにバ場状態は大きく変化するはずだ。注目していこう。……さて、そろそろ次のレースの枠入りだ」

 

 緊張感のある面持ちで、ウマ娘達がゲートに入り始める。

 

『各ウマ娘が、ゲートに収まりました。あいにくの大雨が降りしきるこのバ場で、一体どんなドラマが待っているのでしょうか。第三レース、発走です!』

 

 旗振りの合図と共に、ガコンとゲートが開く。

 ――発走。放送席の実況と共に、大地を蹴るウマ娘たちの刻む足音が場内に響き渡った。

 

 このレースは十人立ての芝千八百メートルのマイル戦。右回り。

 

 一周が千六百メートルの芝コースで、ゴールがスタンド前から中央からやや奥へズレている位置にある。スタート地点は、第四コーナーカーブを過ぎた場所から。序盤の直線が長いため、逃げ先行バの競り合う時間が長くなる先行激化のコース。レースに慣れていないウマ娘達が、この重バ場でペースを上手く保つことは難しい。

 

『どのウマ娘も負けじとポジション争いが続く中、第一コーナーへ突入! ペースはやや速いか!』

 

 実況の声が、雨音の中で響き渡る。

 

「まどかさん。このレースでは、どのウマ娘に有利になりますか?」

「展開からして、既に差し脚質のウマ娘が有利。元々焦ってポジションを取る必要がないから、現時点でもスタミナを温存できている後ろのウマ娘が差し切れるはずだ」

「トラックバイアスの観点からは、どうでしょうか」

「バ場もまだ荒れきっていないから、現状その差はほとんど無い」

 

 差がないのなら、基本的に内側が有利。前は逃げも先行も掛かり気味。スタミナが枯れる可能性が高い。

 

「では、後方のウマ娘はどこを走れば良いのでしょうか」

「最内だ。前が渋滞して後ろは位置取りが自由だ」

「最内ではコーナー前での減速もありますが……」

「後方脚質なら出たなりの速度で進むから減速の必要がない」

「……であれば、内枠発走の差し脚質ならロスがありませんね」

「その通りだ。この流れなら、今回恐らく勝つのは――」

 

 そう言いかけた所で、ずいっと。俺たちの隣りに立つウマ娘が現れ、言葉が紡がれた。

 

「二枠二番のウマ娘、という事じゃな!」

 

 気付けば直ぐ傍に、赤い大きな傘を持ち、堂々とした立ち居振る舞いで佇む者がいた。兜紋の赤い面懸を頭に巻き、濃い鹿毛の長髪を後ろで二対の輪っかに束ねている。金色の瞳が特徴的なウマ娘だ。確か名前は――。

 

「ノーリーズン、か」

「ほう! 未だデビューすらしていないワシの事を知っているとは。お主、中々の通じゃな!」

 

 ノーリーズン。……薄っすらとした記憶が、ある。現在はまだデビュー前だが、後に圧倒的な大穴を開けて()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事になるウマ娘だ。

 

「俺たちの会話を聞いていたのか?」

「にゃはは! その通り。お(ぬし)たちは今、色んな意味で注目の的ゆえな。昨日も丁度見ておったぞ! 古今稀(ここんまれ)にみる、うつけぶりであったなぁ!」

 

 うつけ、とは。まあ、うん。否定する要素がない。

 

「たづなさんからも大目玉をくらっておったらしいではないか。いやあ、愉快愉快!」

「トレーナーさん、レースに集中しましょう。いきなり私達をうつけ呼ばわりする人に付き合う必要はありません」

「辛辣じゃな! ……いや、確かに。これは、すまなんだ!」

「はい。私は許します。トレーナーさんは」

「あ、俺か。俺は気にしていないぞ」

「では、手打ちです。ノーリーズンさんも一緒にレースを見ましょう」

「……お、おお。そうじゃな」

 

 変わり身の早さにノーリーズンも俺も驚く間もなかったが、メビウスの言う通りだ。

 なお、他のウマ娘が近くにいるのでメビウスは俺の事をトレーナーと呼ぶ。切り替えも早い。

 

 レースは既に終盤に差し掛かっている。既に先頭のウマ娘が、残り六百メートル地点に到達した。先行し追従するウマ娘もここぞと仕掛け始める。力強く踏み抜かれたバ場の芝が、土と共に宙を舞う。

 

 そして予想した通り、先団のウマ娘達はスタミナが切れ始める。逃げ先行勢の荒らしたバ場――その外を通った差し脚質のウマ娘が、最終コーナーを抜けた所で一気に加速した。

 

『先団のウマ娘は失速! ここで後方のウマ娘が仕掛けたが、果たして差し切れるか!』

 

 実況の声が、雨音をつんざいて場内に響き渡る。

 明らかに先団のウマ娘は苦しそうな表情を浮かべている。かといって後方のウマ娘もこの重バ場を駆けて楽な表情ではないが、脚はまだ残っている。

 

 結果は、後方のウマ娘が一バ身差の差し切り勝ちとなった。

 

「予想が当たりましたね、トレーナーさん」

「うむ。予想通り、二枠二番のウマ娘が勝ったようじゃな」

「予想したのは、私のトレーナーさんなのですが」

「ワシも先に答えておるぞ!」

「ならこの後のレース、俺と予想勝負でもするか?」

「それも面白そうじゃな」

「では、私も予想をします。負けません」

 

 学年が違う(相手が一つ上の先輩)にも関わらず一歩も引かない様子のメビウスが少し意外に感じるが、レースを控えて気が立っている可能性もある。はて、賑やかな様体となったが予想勝負も悪くない。各々が考える事で、多角的な展開予想が出来るようになるだろう。

 

 だが、その前に。

 

「ところでノーリーズン。なぜ君は、俺達に声を掛けてきた」

「にゃはは! 理由(ゆえ)などなし! ただ、面白いと思ったからじゃ」

「……ほう?」

「女神像に祈る有象無象はいくらでもいるが、巫女服でカモを捧げて長ネギを持ち、トレーナー共々振りたくって祝詞(のりと)をあげるなど前代未聞の奇行!」

「うっ」

「そしてウマ娘がトレーナーを抱えて学園内を飛び跳ねる。まさに、うつけ者! これは声を掛けない訳にはいかんじゃろう」

 

 寧ろ声を掛けたくないと思うんだが。改めて何をしてるんだ俺たちは。ドトウの反応が正しく、声を掛けてきたフクキタルの反応の方がネジが飛んでいるように思えてしまう。なお、一番飛んでるのは俺たちだった。

 

「む、ノーリーズンさん。また私たちをうつけと――」

「まあ、ちと聞いてくれ。群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代。かの織田信長公(おだのぶながこう)は奇行が多く、うつけ者呼ばわりされておった。普段から身なりも気にせぬ装い。じゃが、美濃の斎藤道三との聖徳寺の会見では、急に身なりを整え相手の虚をついておる」

 

 虚をつく。これは、有効な手だ。他者にどう見られているかは、考えようによっては武器になる。

 

「中でも有名なのは桶狭間(おけはざま)の戦いじゃな。誰もが今川義元公の勝利を疑わぬ中、信長公は熱田神宮にて戦勝を祈り、大雨の中を駆け抜け――ついに下剋上の一歩目を果たした!」

 

 信長の勝利は当時のまさに大金星。超ド級の大穴を開けたのは間違いない。

 

 下剋上ウマ娘、ノーリーズン。

 

 彼女もまた、十五番人気という評価の中GⅠの皐月賞をレコードタイムで勝利する。織田信長の勝利は、彼女の思考に一つ根付いているのだろうか。

 

「お主らもまた雨乞いをし、女神像に祈っておった。これはもしや、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』とワシが思ったのも無理なかろう。きっとお主らには、何かがある」

 

 彼女の声色が、俄かに変わった気がした。傾奇者を演じているような物言いとは違う雰囲気がある。その視線は俺を品定めするかのように貫き、嘘を許さない迫力があった。

 

「……ならばノーリーズン。君はリングメビウスが出走する選抜レースについてどう考える?」

「普通に考えるならば、ハッピーミークが勝つであろうの」

「率直な評価で良い。リングメビウスはどうだろうか」

「うむ。八人立ての七、八番人気。結果は掲示板にギリギリ届くかどうかとみておるぞ」

 

 それが世間の評価だ。

 

 次いでマンハッタンカフェか。リングメビウスなどという、影に埋もれたウマ娘の勝利などを考えている者は、数人と居るはずもない。

 

「これはワシ以外にも誰もがそう思うているはず。それほどに習熟度と実力に差があるのは明白」

「言ってくれるじゃないか。まあ、そうも見えるか」

「じゃが、ここで武将の含蓄ある言葉を思い起こそう」

「……なんだ?」

「信長公(いは)く、『臆病者(おくびょうもの)の目には、敵は常に大軍にみえる』と。他のウマ娘も見て回ったが、その中には諦めているのか気楽な様子さえある者もおった」

 

 注目されているウマ娘以外にも、彼女は様子を見て回ったらしい。貴重な情報だ。

 

「しかし見るに、どうもお主らは、そうは考えてはおらん! 今の言葉を聞いても目を剃らすことなく、恐れを知らぬ。それどころか二人で共に、闘志を燃やしているかのようにさえ見える」

「当然です。走るからには、勝ちに行くのがウマ娘です」

「しかし、お主のその言葉。このトレーナーが居なかったとしても、果たして言えたかの?」

「――。それは……」 

「充分だ、ノーリーズン。俺たちの評価は良く分かった」

 

 奇行により妙な注目はされているが、勝つ事など誰も想起する事もない対象。未勝利戦を超えるかどうかが関の山の、大穴狙いのモブウマ娘。これが客観的な評価という事だろう。それに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ふむ。ところでお主らは、武田信玄公(たけだしんげんこう)が旗に掲げた、風林火山を知っておるか?」

「大陸から伝わった、兵法書『孫子(そんし)』からの引用ですね。原文では、風林火山陰雷。これを省略したものです」

「良く知っているな、メビウス」

「はい。図書館で毎日、色んな本を読んでいますので」

「やりおるのう。漢文と日本史のテストで満点の、ワシの知識に及ぶとは!」

「ノーリーズン。君は、代わりに他の教科で赤点を取ってるらしいな」

「ぐぬ、痛いところを……得意なところくらい威張(いば)らせてくれぬか……」

 

 リングメビウスは、学科の成績優秀者。

 

 よく図書館で見かけるウマ娘だと桐生院さんも言っていた。なるほど、色々と自分で学んでいるらしい。

 

「その武田信玄公も愛した孫子は、勝利をその手に手繰り寄せるための必携書。その一節を、お主らに今伝えておこうぞ」

「孫子の一節、ですか」

「うむ。『彼を知り己を知れば、勝ち(すなわ)(あや)うからず。天を知り地を知れば、勝ち(すなわ)(きわ)まらず』とな」

 

 含蓄がある言葉だ。

 

「これは、私にも理解できます。人と己を十分に理解し、天候と地形をよく理解すれば勝利を掴める、という事ですね」

「その通りじゃ。今のお主たちにピッタリな状況だと思うてな」

「なるほどな。相手の強さ、自己の強み。そして天候とバ場を知れば勝利に手が届く」

 

 掴むべき情報は多いが、生かすことが出来ればそれら全てが役に立つ。問題は、それを実力に落とし込めるかどうかということ。

 

「そういう事じゃ。そしてもう一つ」

「……なんでしょうか」

「お主らは平民から成り上がり、漢という国を建てた、劉邦(りゅうほう)の名を知っておるか」

「漢文の授業にも、出てくる人物ですね」

「うむ。劉邦(りゅうほう)は大敵である項羽(こうう)を相手に、約七十戦に上る程に負け続けておった。それでも諦めず、彼の者は何度も挑み続けた」

 

 漢の高祖、劉邦。

 人は百回負けてもいい。だが最後の一回は勝たねばならぬと言い残したとされている、歴史上の傑物(レジェンドチェンジャー)だ。

 

「そして劉邦は負ける度に強くなり、最後の一戦で勝利して大金星を掴んだのじゃ!」

 

 一度の勝利が、全てを変えた。

 漢という国が興り、漢字という名でその時代の文字が、今もこの日本にも伝わる程の歴史の転換点だ。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 腕を前にかざし、口角をニヤリと上げてノーリーズンはそう言った。

 この思考こそが、大穴を開けるウマ娘の感覚――。

 

「己たちの持つ強さ。存分に発揮し、お主らが奮闘することを祈っておるぞ!」

 

 そう言い残すと、快活に笑ってノーリーズンは去っていく。

 赤い傘を爛々(らんらん)と頭上に掲げて行く姿は、(さま)になっていた。

 

 トラックコースの階段を上りきったところで、ピンと足を止めて彼女はゆっくりと振り返る。

 そうしておずおずと再びこちらに歩み寄る。

 

「……にゃはは。カッコよく決めようと去ったは良いものの、予想勝負するのを忘れておった……」

 

 どこかで何かウッカリとやらかす。

 ノーリーズンとはそんなウマ娘なのらしい。

 

 俺とメビウスは顔を見合わせてから、笑って彼女を今一度受け入れるのであった。

 

 

 ▽

 

 

 バ場と展開を読み、予想を繰り返し行う。

 そうして時を過ごせば、既に最終レースの手前となっていた。

 

 予想勝負は俺とメビウス、ノーリーズンとで拮抗し、引き分け。

 互いに意見を述べ合った事で、これまでにない角度で読みが深まっている。

 

 俺とメビウスはノーリーズンとスタンドで別れてから更衣室へと移動し、既にメビウスは学園指定の体操服に着替えを終えている。俺もまた、レインコートを着用した。スタンド側の前面に出るならば、傘はさせない。

 

 再びトラックコースへ戻ると、また一つ会場は様相を変えていた。最終レースという事もあり、この雨の中でもウマ娘たちやトレーナーを含む観客が増えている。

 

 やはり注目は、今世代のホープであるハッピーミーク。そしてマンハッタンカフェ。後は、距離適性は未だ不明扱いだが、既に知名度は最も高いカレンチャンだろう。ついでに、学園内で俺と色々堂々とやりこなして、若干注目されているかも知れないリングメビウスか。

 

 そして、様相の変わった事がもう一つ。

 

「雨、強くなってきたな」

「そうですね。絶好の不良バ場です」

 

 雨は降り止むことなく、寧ろその勢いを増していた。

 道悪の状態は既に、不良バ場となっているが、更にぬかるむ事が予想される。

 

 なお、選抜レースではパドックでのお披露目はない。

 一度集合してからゼッケンを身に着け、返しウマの後に発走となる。

 

「作戦は、しっかり覚えたか?」

「大丈夫です。どの状況でも、今なら対応できると思います」

「シミュレーションと実践は、違う。思った通りにならない事もある」

「……そうですね」

「だが、焦る事はない。己の勝利を信じて走るんだ」

「はい。私の脚と、まどかさんを信じます」

「それと、大事なことがある」

「なんでしょう」

「――無事是名(ぶじこれめい)バ、だ。怪我なく、無事に俺の元へ戻って来てくれ」

 

 俺のその言葉を聞くと、メビウスはウマ耳をピンと立てた。

 そして、静かに微笑む。

 

「勿論です。無事に帰らないと、貴方はきっと泣いてしまいますから」

「そうだ。わんわん泣くぞ」

「ふふ。では、行って参ります」

「行ってこい、リングメビウス」

 

 去っていくメビウスの後ろ姿に、手を振る。愛バを送り出した以上、やれる事は観戦と応援のみだ。

 

 彼女を返しウマのトラックへと見送ると、俺は第四コーナーの、観客席の最前列に移動した。直線よりも、仕掛けのタイミングに注目したいところだ。

 

 選抜レースに参加する他のウマ娘たちも一度集結し、ゼッケンをその身に付けていく。

 リングメビウスのゼッケン番号は二番。内枠だ。

 

 大雨が降りしきる中、ウマ娘達は各々の感覚で返しウマ(ウォーミングアップ)を始める。

 体力を温存するためか、一切走らずにストレッチのみを行うウマ娘もいれば、ハッピーミークのように五割程度の力で向こう正面の芝コースを走る者もいる。

 

 カレンチャンはファンサをしている。

 

 メビウスには、返しウマでは無理をせず、心が落ち着ける方法を取るようにと指示をしてあるが。果たして彼女はどんな返しウマ(ウォーミングアップ)をするのか――。

 

『さあ。迫る本日の最終レース。各バ、気合を入れて返しウマをしていますが……おおっと? 二枠二番のリングメビウスは、なんと()()()()()()()()()()()()()()()! 一体、これはどういう事でしょうか』

 

 ――飛んでいた。

 

 走る事。そして飛ぶことは何よりも楽しいと。以前彼女は言っていた。

 これが彼女なりの心身を落ち着けるルーチンという事らしい。

 

 いや、本当に。

 

「面白いな、メビウスは」

 

 ふと、笑みが浮かぶ。根性トレーニングがよほど効いていたのか、他のウマ娘が絶対に思い付きもしない返しウマ(ハードル跳び)を、我関せずといった様子で淡々とこなしている。遠目ながら、心なしか楽しそうにも見える。

 

 この不良バ場にあっても、彼女の飛越には淀みがない。

 人を知り、己を知る。

 

 彼女なりに、自身の在り方を考えているのが垣間みれた。

 気配は好調。良い雰囲気で臨めそうだ。

 

 ――集合の、笛が鳴る。

 

 本日の最終レースを走る、八人のウマ娘がゲート前へ集結した。

 

 枠入りは順調と見られたところで、カレンチャンがゲートの前で一度立ち止まる。

 彼女が振り返ると、その視線の先には、リングメビウスがいた。

 

 そしてカレンチャンが、何かメビウスに話しかけているようにも見えるが……大雨降る中でここからではその会話は聞き取れない。

 

 俄かに、メビウスが驚いているようにも思えたが、一体何が話されたのだろうか。

 

『枠入りは順調に進んでいます。このレースの注目は、やはりハッピーミークでしょうか』

 

 実況もまた、彼女の名をあげる。やはり、堂々の一番人気は彼女だろう。

 

『有望な大型新人、桐生院トレーナーと契約を交わしたとの事です。ハッピーミーク、今回のレースは必勝の構えか。それとも、彼女を打ち破るウマ娘が現れるのか!』

 

 選抜レースは、ウマ娘とトレーナーがその才覚を見極めるためにも行われるが、既にトレーナーと契約を結び掛けているウマ娘は、その才覚に見合っているかを量られる舞台でもある。

 

 ハッピーミークは今回の選抜レースで実力を見せつけることになれば、二度と選抜レースに出る事はないだろう。

 

 リングメビウスが彼女を打ち破るチャンスも、今後のレースが被らないとすれば実質的に今この瞬間しかない。

 握る手のひらに、力が入る。

 気付けば、枠入りの時間も終わろうとしていた。

 

 

『各ウマ娘、ゲートに収まりました』

 

 

 スターティングゲートで、八人のウマ娘たちが発走の体勢を取る。

 

 緊張の一瞬。

 握る手に、汗がにじむ。

 

 旗が、振られた。

 ゲートのランプが、色を変える。

 

 

『最終レース、発走です!』

 

 

 ガコン、と大きな音を立て――ゲートが開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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