トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
『第二コーナーをカーブし、直線に入ります。隊列はやや縦長か。逃げる四番ハッピーミーク。しかしここで落ち着いたか、ハッピーミークは最内へ。続いて一番カレンチャンはその直後をピッタリと追走。そこからやや離れて二番リングメビウス、一馬身離れて左後方に三番ドカドカ、そこに続いて、やや位置を上げてきたか七番バイトアルヒクマ。その内に五番マンハッタンフェ。その後ろに八番エキサイトスタッフ。大きく離れて六番イズカリとなっています』
向こう正面の直線へウマ娘たちは突入した。
いまは中盤戦の真っ只中にある。
現状は、望ましい形の隊列だ。
コース内に水溜まりすら出現しているこの不良バ場。
団子状態で抜け出せない密集状態となれば、前が壁になった時に内沿いのウマ娘は泥を被り続けることになる。
抜け出せない苦痛の中で精神力とスタミナを余計に削られるくらいなら、縦長の方が動きやすい。
『先頭のウマ娘が、千メートルを通過。タイムは一分一秒丁度です! この不良バ場では、やや速い展開か!』
デビュー前のウマ娘が走る不良バ場のレースとしては、ハイペースに近い。先頭を走るハッピーミークには苦しい展開と言えた。その真後ろに位置するカレンチャンには、舞い散る芝と土と泥水が掛かり続けている。
しかし――スリップストリーム。
前方で身体の前面に雨風を受けるハッピーミークがその防波堤となり、カレンチャンは風の抵抗を軽減してその速度を維持していた。
千二百メートルを通過しても、カレンチャンはその脚を緩めない。
向こう正面と雨風の向こうでその表情を見ることは出来ないが、ハッピーミークもカレンチャンも、かなり苦しいのは間違いないだろう。
その後方でも、攻防が起きている。
残り八百メートルとみて、ドカドカが徐々に速度を上げてきた。先行バとしての攻めの姿勢を見せている。
ここから先は最内よりもやや外の方がバ場が良い。ドカドカが被りにくれば、リングメビウスは作戦上の位置取りを取れなくなる。果たして、どう対応するか。
『三番ドカドカ、徐々にポジションを押し上げていく! 二番リングメビウス、これに反発! 一気に前へ出た!』
ドカドカが左後方から並びかけようとしているのを察知したメビウスは、ここで
進路妨害にならない程度のスライドで、荒れが少ないバ場を行く。一方のドカドカはここで更に外へ出るのは不毛と判断したか、逆に内へ入った。それを見て、メビウスも速度を落ち着ける。
どちらも、良い判断だ。
最善が取れなければ、ビターでもベターな道を選ぶ。
先行バが最もスタミナを消費しやすい脚質であるのは、ポジション取りで競り合いが常に起こりやすいからだ。
ここで互いに突っ張れば、無駄なスタミナ消費で共倒れとなる。
勝利を目指すのならば、彼女たちの仕掛けどころは、ここではない。
現状、リングメビウスの足取りは良く、この不良バ場にあっても推進力を持って進めている。遠目に見える様子でも、芝二千メートルという距離に上手く適応しているように見える。
女神像に祈った効果もまた、あるのだろう。
これまでの全てがきっと、今に活きている。
『さあ、ついに残り七百メートルに突入します! これからこの不良バ場での上がり勝負、一体どんなドラマが待ち受けているのか! ハイペースなこのレース、パワーとスタミナが重要になることでしょう! おおっと、一番カレンチャン、ここでバ場に足を取られて失速か! ――いや、まだ耐えている!』
残り七百メートル。カレンチャンの適性外の舞台に突入した以上、保たずに失速するのは避けられない。根本的な原因はバ場ではない事を俺は知っている。
だが、彼女は根性で粘っていた。
ここで、リングメビウスも仕掛け始める。
ハッピーミークやマンハッタンカフェのような絶対的な速度は、彼女にはない。だが、ここまでのコース運びで残したスタミナと位置取りの差――そして、圧倒的な道悪への適性で、その差を埋めに行くのだ。
『ここで二番、リングメビウスが上がってきた! 好位に付きながら、上手くスタミナを温存していたのでしょうか! 後方のウマ娘達とは脚色が違う様子! しかし、彼女の脚でここから届くのか! 続いてマンハッタンカフェが一気にポジションを押し上げてくる!』
逃げるハッピーミークとリングメビウスの差は五バ身。その背を追いかけて、メビウスは加速する。
残り六百五十メートル。ついに失速し始めたカレンチャンが僅かに内によれて、リングメビウスと接触した。
『ああっと、ここでカレンチャンとリングメビウスが接触! これは、大丈夫でしょうか。いや、直ぐに互いに体制を整えた! どちらも無事な様です!』
一瞬の出来事に冷や汗が出るが、ほんのわずかに肩がぶつかった程度で済んでいた。
だが、ここでカレンチャンが完全に失速して後方へ下がっていく。
バトンタッチでもしたかのように、ハッピーミークを追い立てることが出来るポジションは、リングメビウスに変わった。
『ついに残り六百メートルに突入! 本日の最終レースの終盤戦が、幕を開けます!』
今このハイペースの中でも、ウマ娘としての自力でレースで勝ち負けを演出する事が出来るのは、バ身差を付けて先頭を走るハッピーミーク。そして中団でスタミナを温存し続けたマンハッタンカフェ。
この二人しかいない。
――と、誰もが思っていただろう。
だが、他の者は誰も知らない。
このレース。マークすべきウマ娘がもう一人、隠れていたのだと。
絶好の位置取りで、勝利への道を虎視眈々と狙ってた彼女を。
リングメビウス。重バ場に愛された、このウマ娘の存在を。
『いまだ先頭のハッピーミーク、先頭でスタミナを消費したか、俄かにその足が鈍っているように見えるか。しかし、離したバ身差で今だにセーフティリードを……いや、脚色が違うウマ娘が一人いる! リングメビウス! リングメビウスだ! リングメビウスが猛追! 先頭とのバ身差が徐々に――どころか、一気に狭まってきています!』
リングメビウスがみせる、迫真の追い上げ。
絶対的な速度ではなく、脚を前で使い過ぎたハッピーミークの減速と、バ場に適応しスタミナを残したメビウスが残した相対的な末脚。これが、この現象を巻き起こしていた。
場内が、どよめき始める。
予想外の展開となっているに違いない。
ノーマークの大穴ウマ娘だからこそ出来る、道中の溜め。
それを今、一気に解き放つ。
残すは、終盤の四百メートル。
ここで、最大のトラックバイアスが目前に控えていた。
本日行われたレースにおいては、この雨の中では実際には上がり三ハロン勝負にはならず、直線手前で仕掛けるウマ娘が多かった。このライン上は芝が大きく抉れ、雨で水も溜まっている。
仕掛けどころは、ウマ娘がバ場を踏み抜くターニングポイント。
生じているのは、最大のトラックバイアスだ。
一つ目は、このライン上を踏み抜き最短コースを取るか。
二つ目は、距離をロスして外へ回ってでも外伸びが残るバ場へと躍り出るか。
どちらかを選ぶ必要がある場面となっていた。
この状況でここまで来たのであれば、一つ目の
この勢いであれば、作成通り内バ場を突っ切っても差し切れるかも知れない。
そう感じさせてくれる程の猛追を、確かにみせていた。
(――勝てる。このままいけば、勝ち負けは必須。メビウスが、差し切れる!)
距離、バ場、展開、位置取り、スタミナ、展開、勢い、自信。
先頭を追い詰めて逆転をぶちかます、その流れの全てが揃っている。
いける。そのまま、そのまま行ってくれ。
手の平を握りつぶし、願う。
あとは、このまま少しでも速度が落ちなければギリギリで交わせるはずだ。希望的観測か。いや、この勢いならばあるいは。
期待に口角が上がる。この選抜レース、貰ったか。
だが――。
『しかし、リングメビウス! ここでその勢いが俄かに落ちる! あれは一瞬の煌めきだったのか! 後ろからは、マンハッタンカフェが迫ってきているぞ!』
最終コーナーに差し掛かって見えたリングメビウスの表情は、突如。苦悶に満ちていた。
スタミナは残っているはずだ。だが、先ほどまでの精彩が明らかにない。
何が起きている。
ほんの僅かに、そして徐々に、その足取りが一歩一歩、重くなっている。
彼女は、重バ場に愛されたウマ娘のはずだ。だが、あの適性をみせた走りに
薄目だけを開けて、歯を食いしばりながら足を前へと懸命に伸ばしている。
まるでなにか、別の何かに縛られているかのような。
そんな不穏な足取りで――。
(――っ!)
あたまが、いたい。
強烈な、頭痛。
目の前の光景が、スローモーションになったかのように、そこに全てが折り重なっていた。
目の前に幾度と訪れた、このレースの結末。
これは俺がみた景色か、それともリングメビウスがみた景色なのか。
負けた。追い付けない。
あの時も、今も。次なんてない。ない筈なのに。
勝てない。勝てなかった。
勝てる筈がない。あと少しが届かない。
強烈な、既視感が襲い掛かる。俺は、何度も光景をみている。
――刹那、俺の視界が暗闇に包まれた。
声なき声が、聴こえる。
【何回だって何度だって】
【何度も何度も走り続けましょう】
【このメビウスの輪の中で】
【ここで勝つなんて起こりえない】
【定められた運命と共に】
これは、なんだ。
俺の頭に響いてるようで……リングメビウス。
彼女が聴いている、のか。それとも、互いが、これを。
――運命の壁。
ウマ娘が直面する、変えられないこの世の理。
これを、超えるのか?
何度も、何度も繰り返しても超えられない、この壁を。
理屈じゃない。
現実的ですらない。視界に映されないもしない、この運命の壁は。
まるで、怪物だ。
暗い。見回せど、意識は闇。
言うなれば、これは。この広い宇宙の中で、この
巡り、回り、周り、廻ってなお、またここに戻り続ける事を、止められない。
そこで出会った、ウマ娘とトレーナー。
繰り返される世界の末端でその考えられる全てが揃ったとしても。
何度やっても届かない、その先の四分の三バ身。
ノートに書かれていたあの言葉にあった絶望感の嘆きは、今それ以上に重みを増している。
これまでの全てを超えようと迫る時、最後の壁が俺たちを阻もうとしている。
これは、物理ではない。
――この世界の、
ふざけてやがる。
こんなものは、承知していない。
俺に一体、何ができる。
トレーナーである俺は、最初の三年間を何度も繰り返しているらしい。
それは余りにも超常現象じみている出来事で、それを認識しているというのは見方によっては、俺自身も化け物のような存在だ。だからこそ、今これが視えるというのか?
俺たちを阻もうとしているのは、何千何万回、数百年とこの
ウマ娘が存在する、この世界は美しい。
その輝きと同時に生じている、恐ろしくも優美な調和の兆し。
――絶対に、勝つことはない。
リングメビウスなどいうウマ娘が、ここでハッピーミークに勝つはずがない。それは、この世界で当然と刻まれている運命。ならば、こんなものに抗えるはずは……。
「――んんんんっ、フンギャロー! トレーナーさん! 彼女をみてください!」
心が呑まれそうになった、その瞬間。
とてつもない大声が、頭の中に響いた。
「貴方が、彼女のシラオキ様です! さぁ、メビウスさんに。声を、届けてください!」
マチカネフクキタル。
彼女の声が、場内を通じて俺に届いた。
目の前が、弾けた。
視界が、戻る。意識が現実に戻り始める。
リングメビウス。走る彼女の姿が、この目に映る。
今は、最終コーナー。
彼女と視線が交わった。
【あなたを、信じています】
伝わったような気がした。言葉にならない、彼女の想い。
【だから、あなたも私を信じて】
……ああ。
情けない姿は、見せられない。
約束がある。信じ合おう、と。
そうだ、任せろ。俺は、君のトレーナーだ。
ここで日和見をかますのは、他のすべての俺に預けよう。
どんなに意識を取られようとも、抗え。
決して屈するな。食いしばれ。
今、彼女とこの世界線を生きる俺は、メビウスと共に勝ちに行く。
運命の怪物すらも、今度は……俺が喰らってやる。
パン、と両手で己の頬を叩く。声を、心を取り戻す。
刹那の中に、思考を巡らせる。
(考えろ! 何がある。一度失速した今。ここで、何が出来る……!)
俺たちが今積み重ねてきたものは、何だ。
幾度と挑み続けた過去の俺とリングメビウスでは、気付けなかった事はあるのか。
今の俺達だからこそ、出来ることは無いだろうか。
思い起こされるのは、奇行の数々。吹っ切れた者にしか観れない景色。
相手を知り、己を知れば――。
己を知る。
俺がリングメビウスなら、今このレースの中で何が見えている。
思い出せ。彼女が、俺にみせてくれた景色を。
これまでではなく、今在る俺たちが過ごした時間を。
お弁当、手を引いて疾走、カモちゃん、長ネギ、祝詞、俺を抱えて爆走し、そして。
(……あっ)
気付いた。
目の前のその状況に。
このレースで、彼女ただ一人が出来ること。
それはきっと、リングメビウスがウマ娘としてこの世界に産まれた時から持っている――ただ一つにして最高の才能。
それを生かせる瞬間が、あることに。
迫る、最大のトラックバイアス。
一つ。このライン上を踏み抜き最短コースを取るか。
二つ。距離をロスして外へ回ってでも外伸びが残るバ場へと躍り出るか。
そのどちらかを選ぶなどという発想を飛び越えた、奇想天外な方法が。
そうだ。踏めば必ず脚を取られる道とは、まるで
だったら、
『立ちはだかる障害は、踏み切ってジャンプするものですから』
それがメビウスのモットー。出会った時から変わらない、彼女の在り方。
片方を捨てる必要なんてない。どちらも、掴もうじゃないか。
リングメビウス。
君の脚ならば、それが出来るのだから。
悪路に阻まれたそのバ場を。
この世界に満ち溢れた
そして――。
目の前にある
「――跳べ、メビウス!」