トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
▽
芝二千メートル。
天候は大雨。バ場は不良。
それが、この私――リングメビウスが、今から走るレース。
大雨が降る中、私は返しウマを行う。
淡々と、走り、ハードルを跳ぶ。
初めての選抜レース。
絶対に勝ちたいという思い。前のめりに成りかけている心。
その逸る気持ちが、飛越のたびに少しずつ落ち着いていく。
走り、跳び、雨粒を浴びる。体操服とゼッケンは既に水にまみれている。
雨が服の重みとなり、ズシリと身体に張り付いていた。
髪に付いた水滴を、額から拭う。
もう一度ハードルを飛ぼうとしたところで、笛が鳴った。
集合の合図だ。
私も走るのを止めて、ゲート前に移動を開始する。
ゲートに集まったウマ娘たちが、髪とウマ耳に掛かる水を絞りながら待機している。
少しでも雨水を落とした方が軽量になる――などという次元ではない大雨なので、大して意味はないかも知れないけれど、私もそれに倣って体操服を絞り、一息をつく。
そこでゲートを前に、マンハッタンカフェさんが私の傍を通り過ぎていく。
「今日は、おともだちは走らない。そう……魔物が……」
マンハッタンカフェさんのつぶやきが聞こえた。
(おともだち……? 彼女の視線の先にいる、マンハッタンカフェさんに良く似た、あのウマ娘でしょうか)
それと魔物とは。この大雨の不良バ場の暗喩……?
……いえ、惑わされてはいけない。
自分の目の前に集中しなければ。
次々にウマ娘がゲート入りを行っていく中、一人のウマ娘が私を前で振り返る。
カレンチャンさん。
まどかさんと関わる様子が時折垣間みれた、インフルエンサーのウマ娘。
そんないつもの、カワイイを前面に押し出している彼女とは、少し雰囲気が違う。
闘志。
眼に宿る力強さは、私に本気を感じさせている。
「こんにちは、リングメビウスさん」
「どうも、カレンチャンさん」
「レース前に、ごめんなさい。どうしても、カレン。あなたと一度、お話をしたくて」
「……はい。構いませんが」
「カレンは今から、おかしな事を言います。でも、少しだけ聞いてください」
「少しなら、どうぞ」
「
「……ノート、ですか? いえ」
急に、一体なんの話なのだろう。
じっと私の眼を見つめてくるその所作は、なにやら私の言葉を真偽を確かめようとしているようだった。
「本当に、知りません。そのノートとやらも」
「そう、ですか」
「ええ。嘘ではありません」
「それなら、リングメビウスさんに、一つ大事なことを伝えますね」
「大事な、ことですか?」
「もし何か大切な事を知りたいと思ったら、
カレンチャンさんは、先ほどから何の話をしているのだろう。
レース前だというのに、疑問符が尽きない。
ただ、その話に何も覚えがないわけではない。まどかさんと出会った時も、JーGⅠレースを観た後も。彼の手を握った時には、『こうしなければ後悔する』、という不思議な気持ちに私が駆られた気がするのも事実だ。
それにしても、カレンチャンさんが私の恋人の事を、いきなり名前で呼ぶ事に少しむっと来る。
まどかさんをいつも通りトレーナーさんと私がここで呼ぶのは、なんだか負けた気がして良くない。それは、とても良くない。
彼女は、まどかさんと一体、どういう関係なのだろう。
「手を握ると、何が分かるというのですか?」
「それは勿論。何かが、です」
「そういえばまどかさんの手から、以前あなたの匂いがした気がします」
「ごめんなさい。でも、必要な事でした。って、カレンが謝ることもないですね」
「それは、私に対する挑発、ですか」
私がそう聞くと、どこ吹く風といった様子でカレンチャンさんは私の目をスッと見据える。
「あの人は、カレンが無理をしようとしたら、止めてくれます」
「……」
「あの人は、カレンのチョコが欲しいって自分から百回以上言ってくれます」
「…………」
「あの人は、カレンをクリスマスディナーにチケットで誘ってくれます」
「………………」
「
カレンチャンが言うあの人とは、まどかさんの事。
彼の人となりを、どう解釈しているのかは分からないけれども、今月からトレセン学園に配属されたばかりの新人トレーナーのまどかさんが、この学園に来るまでにそのような事をしているとは到底考えられない。
「それでも、カレンの運命の人は。あの人じゃないんです」
「本当に。随分と、おかしな事を言いますね」
「カレンも、そう思います。でも、リングメビウスさん。あなたもきっと、理解する時が来るはずです」
「……話半分ですが。心にとどめておきます」
「はい。是非そうして下さいね。今の
「知っています。私のトレーナーさんは、私を大切にみてくれています」
私の返答に、ふふっと彼女は笑う。
それからカレンチャンさんはぐっと手のひらを上に伸ばしてから、パッと手を離して私にこう告げる。
「カレンが欲しいものは、二つあります」
二本の指を立ててカレンチャンさんは自身の唇にその指を当てる。
「一つは、運命の人とカレンが最初に出会える世界。もう一つは、あの人の未来」
世界と、未来。
「そのどちらも、このメビウスの輪の中では、カレンは掴みとれない。だから――このレース、カレンは勝ちに行きます。確かめたいことが、カレンにはあるから。中距離は、カレンの適性外かも知れない。でも、だからと言ってカレンは欲しいものを諦めない。リングメビウスさんも、何があっても絶対に諦めずに勝ちに来てください。あなたが本気で勝利を目指さないと、きっと意味がないの」
本気の眼だった。燃える闘志が、瞳の中で揺らめいている。
強い。彼女の心と、その気持ちが、伝わる。
この選抜レースで、一体何がここまで彼女を本気にさせているのかは分からない。
でも、このレースに賭ける熱意は私と同じか、それ以上に強いモノを感じてしまった。
本気のウマ娘がぶつける想いに、気圧されそうになる。でも、と。私は引きそうになる身体を抑え込んで、その場で大地を踏みしめる。
「元より、初めから負ける気でこの場に立っているつもりはありません。相手が、誰であろうと。このレースは譲りません」
「……うん。カレンも、です。真剣勝負ですね、リングメビウスさん。カレンも、最後まで全力で走ります」
彼女はそう言い残して、ゲートへ向かっていく。
ゲート入りの順番に従い、私もゲート内に向かう。
緊張よりも、闘志。
それが勝る心地でレースに臨めるのは、有り難い。
会話の意味は良く分からなかったけれども、レース前に良い発破になったと思う。
ゲートに、私の身体が収まる。後方で、私を閉じ込める金属音が鳴った。
すうっと、息を吸う。
模擬レースを走った事はあっても、私が本格的な選抜レースを走るのはこれが初めて。
ゲートの中は狭く、窮屈。
ウマ娘の本能的に、この空間から早く抜け出したいという感覚が芽生える。
でも、ここは抑える。まどかさんの指示通り、息を整えて地面を踏みしめ、地固めを行う。
ぬかるんだ位置を踏んで出遅れるなんて事は、許されない。
私の脚質的にも、ゲートの出は重要。
『各ウマ娘、ゲートに収まりました』
実況の声が聞こえる。
もう一度、息を整えて、前傾姿勢を取る。
まだ。目の前が開ける瞬間は、程なくして来る。
あと少し。もう直ぐ。
(今――!)
ガコンと音を立てて、ゲートが開く。
大地を踏みしめ、身体を前へと競り出す。スタートは上手くいった。
腕を振り、脚を蹴り上げて、前へ。
私の前を、ハッピーミークさんとカレンチャンが通り過ぎ去っていく。
速い。それなりに感触は掴んだつもりでも、あの二人の圧倒的なスタートの才能の前には適わない。
それでも、まどかさんと話した作戦の通り。これも予想の範疇。
カレンチャンさんが上手く速度を下げて、ハッピーミークさんの左後方へとスイッチしたのが見える。
であれば、私はこのまま内側でハーピーミークさんを追走すれば良い。走りながら、一呼吸。第四コーナーを曲がりながらふっと一息入れてスタミナを温存する。
第四コーナーカーブを抜けて、直線。
声援が巻き起こる。
「ミィィィィク! 慌てずに、あぁ、イキ過ぎ、イキ過ぎです!」
人一倍大きな声で、桐生院トレーナーの叫びが私の耳に届く。
前へ行き過ぎている。迫真の声色からして、ハッタリでは無さそう。
スタンド前に視線を向けて、まどかさんを探す。
彼と、目が合った。
「メビウス、良いポジションだ! そのまま、好位で先団を走れ!」
彼の声を聴くべく、耳を動かす。耳を一瞬前に倒し、承知の意を示す。
心強い。トレーナーさんが、私をみて、応援してくれている。
他の誰でもない。私だけを。
ふっと、笑みが灯る。
無意識の力みと緊張感が、ほぐれていく。
スタンド前の直線の攻防が、始まった。
前へと競り出されていたハッピーミークさんが、徐々にペースを下げようと後ろへ下がり始めている。
(下げさせない。ここは、意地でも止めてみせます)
こちらも徐々に速度を上げて、前方の隙間を埋めにいく。下がる余地は作らせない。
ハッピーミークさんが駆ける道。その直下へ私は突入する。
彼女が蹴り上げた不良バ場特有の芝と土、そして泥が私の顔面に襲い掛かる。
顔をしかめたくなるが、ここは真っすぐに前を見る。
引かない。ここでは、引けない。
カレンチャンさんは、私よりもずっとこの状況に耐え続けている。
あれだけの啖呵を切られて尚、この程度で私が引くようでは、心で負けたと同義。
絶対に、まだ引くわけにはいかない。
左前方では、カレンチャンさんがハッピーミークさんの下がる進路を綺麗に塞ぎに来ていた。
更に私の真横付近には、ドカドカさん。
包囲網が完成。下がれない状況に焦りをみせたハッピーミークさんが、前へ出ていく様子がみえる。
――掛かり。スタミナを消費させるための状態が、発生した。
(……いける。作戦のパターンの一つに該当しています。後は中終盤までに、どれだけスタミナと脚を私が残せるか。それが、勝負の分かれ目ですね)
ハッピーミークさんが前へ出たのを見届けて、私は僅かに速度を落とす。
スタミナを温存し、息を入れて第一コーナーでの回復を図るために、ここで無理は出来ない。
まどかさんが言うにはトラックバイアスは、ここでは完全に内側が有利。ロス無く立ち回れば、最短距離かつ体力を消費しない経済コースを走る事ができる。
(傾斜をかけるタイミング。突入の仕掛けどころは――ここです!)
ドンピシャだと、思った。練習の成果が、私の身体に顕れている。
スムーズにコーナーに突入し、そして第二を緩やかに抜けていくことが出来た。
ここから先の中盤戦は、スタミナをいかに温存し、重要なポジションを確保できるか。
途中で、ドカドカさんが私に競り掛かる様子があるも、抜かせずに私は前へ出た。
まどかさんの作戦通りのルートを通るためには、このポジションは譲れない。
この攻防で多少のスタミナは使ってしまったけれども、この程度は許容範囲内。再び息を入れて、私は第三コーナーへ差し掛かる。体感的に、いつも以上にこの距離間に身体が馴染む。中距離の適性が、不思議と以前よりも高まっている感覚があるのは、まどかさんと共に女神像に祈ったからなのだろうか。
前方では、相変わらず前へ出続けるハッピーミークさんと、それを競り立て続けるカレンチャンさんの姿があった。
もはや、執念の追い立て。
確実にハッピーミークさんのスタミナを削り、抜き去る事を目的にした走り。
まどかさんの見立てでは、カレンチャンさんの適性はマイル以上から苦しくなり、中距離では脚質的に失速を免れない。その見解通り、残り八百メートルあたりでカレンチャンさんの脚色は蔭りを見せ始める。
それでも、粘る。まだ、彼女は勝利を諦めていない。
誰よりも苦しいポジションで、誰よりも厳しいバ場の泥水をその身に受け続けても、走り抜けようとする根性がそこにあった。
あんな姿を見せつけられて、奮い立たない訳にはいかない。
少し早めのこのタイミングで、私は徐々にギアを上げる。脚の速さでは適わないことは分かっている。だから、じりじりと詰める。それが、このバ場で最も有効に私の脚を伸ばすことの出来る方法だから。
残り六百五十メートルの地点で、明らかにカレンチャンさんの脚色が鈍り出す。きっと、限界を迎えたのだ。
(その粘り、尊敬に値します。でもこのレースは、ここからが私の勝負どころ。貴女の影を、超えさせて頂きます)
被らず、かわして彼女を抜き去ろうとしたその瞬間。
カレンチャンさんが僅かに左によろけてしまう。
避けられない――。
寸前でカレンチャンさんは踏ん張り、私と微かに肩が接触するだけに留まった。
その時、私のウマ耳に届く声で。確かに彼女は私に囁いた。
「カレンには出来なかったこと。未練を、断ち切って――あなたが、超えて」
思わず、息を飲む。
まるで何かを私に託すかのように、彼女はそのままポジションを下げて行った。
願い。
祈りのような何かを、私はその背に受け取ったような気がした。錯覚かも知れない。それでも良い。私の脚は今、ただひたすらに先頭でゴールを駆け抜ける事を求めている。
どんなものでも、私の背中を押してくれるなら、それで構わない。
私は今、このレースで勝ちたい!
『いまだ先頭のハッピーミーク、先頭でスタミナを消費したか、俄かにその足が鈍っているように見えるか。しかし、離したバ身差で今だにセーフティリードを……いや、脚色が違うウマ娘が一人いる! リングメビウス! リングメビウスだ! リングメビウスが猛追! 先頭とのバ身差が徐々に――どころか、一気に狭まってきています!』
残り六百メートルに突入し、私は持てる末脚を一気に解き放つ。
離れていたハッピーミークさんの背中がぐんぐんと近づいていく。
カレンチャンさんが勝利を目指したその先の残滓。削られたハッピーミークさんのスタミナと才能の脚、残された私のスタミナと凡庸の脚。不良バ場に適する私の、今出せる最大の出力が、勝利への
勝てる。このまま行けば――。
そう思った矢先の事だった。
(脚が、重い。どうして。そんな筈はありません。だって、私のスタミナはまだ残っているはずです。それなのに)
刹那の中で、視界が暗闇に包まれていく。
負けた。追い付けない。
あの時も、今も。次なんてない。ない筈なのに。
勝てない。勝てなかった。
勝てる筈がない。あと少しが届かない。
強烈な、既視感が襲い掛かる。
私は、この光景を。
幾度となく見たことがあるような、心地がある。
地球の重力に魂を縛られるかのように、脚が僅かに重くなる。
感覚で分かる。この脚では、ギリギリでその差に届かない。
ここまで私を導いておきながら、この脚は肝心な所で私をこの大地に留めようとする。
何が、起きているのだろう。
声なき声が、聴こえる。
【何回だって何度だって】
【何度も何度も走り続けましょう】
【このメビウスの輪の中で】
【ここで勝つなんて起こりえない】
【定められた運命と共に】
分からない。
こんな事は、想定すらしていない。呼吸が、苦しい。
薄目で視界を俄かに確保して、私は前へと脚を競り出す。
それでも、重い。
これを、なんと呼べば良いのだろう。
私を勝たせまいとする、物理の外の摂理。まるで運命の壁。
絡みつく感覚は、この世の埒外の存在感。
直感的に、そう感じるほどの理不尽。
でも同時に、悲しみの込められた優しさが、そこにあるような気がした。
引き摺られる。身体も、心を。
(ダメです。まだ、持っていかれるわけには、いきません)
意識をギリギリまで現実に引き戻す。
前を見据える。
選べる道は、二つ。
まどかさんが指示した、作戦上のルート。
一度失速した今、ここを駆け抜けては追い付けない。
かといって外のバ場に出るのは、あまりにも走り辛い道を駆ける事になる。
展開は、一気に苦しくなった。
それでも、まだレースは終わっていない。勝ちたい。
最終コーナーを駆ける。その先には、まどかさんの姿がある。
彼と、視線が交わった。
まどかさんもまた、苦し気な表情を浮かべていた。
違う。私がみたいのは、あなたのそんな顔じゃない。
私は、あなたの笑顔がみたい。
私は、あなたの信じた私の走りを、みて貰いたい。
だから――。
(まどかさん。あなたを、信じています。だから、あなたも私を信じて)
視線を通じて、伝わったような気がした。
言葉にならずとも、私の想いが。
そして。
まどかさんは息を吸って、私に向かって叫んだ。
「――跳べ、メビウス!」
視界が、晴れた気がした。
飛越。予想もしなかった、選択肢。
それは、私にとって、最も得意なこと。
頭をフル回転させて、その意味を考える。
まどかさんなら、この状況で何を読み取るだろう。
僅かな時間に、思考を巡らす。
その意味を――。
ハッと気付く。
そうだ。踏めば必ず脚を取られる道とは、まるで水濠障害のよう。
だったら、そもそもそこを踏み抜かなければ良い。
きっとまどかさんも、同じ事を考えている。
立ちはだかる障害は、踏み切ってジャンプする。
それが、私のモットー。
後ろに迫り来るのは、マンハッタンカフェさん。脚質的に恐らく、彼女が通るルートは外。
タイミング次第では進路を遮る事になり、斜行判定の審議になるかも知れない。
けれど、そんな事を考える暇もない。
これはきっと、通常のレースにおいて正しくはない。あまりにも奇想天外で、発想も実行もまたとある筈のないたった一度の出来事。でも、飛び込まなければ得られるはずの勝利すら掴めない。
だったら――。
「信じて、跳びます!」
踏み切って、私は目の前のバ場を飛越した。
――その瞬間、不可思議にも。
私の運命が、開けるような音がした。
暗闇は、一筋の光に変わる。
『ああっと! ……んん? なんだ、一体、何が起きたんだ! どういう動きなんだ! 二番リングメビウスが一気に不良バ場を、飛び越えた! 足場の悪い道を跳んで抜き去り、一人ロス無く綺麗なバ場へと躍り出る! 果たしてこれは斜行になるのか。いや、後方のウマ娘に影響はなさそうです。これは審議不要! 奇想天外な方法で、リングメビウスが再び勝負の舞台へ駆けあがる!』
水濠と化したトラックバイアスを飛び越し、そして外のバ場へと一気に躍り出る。
トッと。着地も、スムーズ。最終直線を前にして、綺麗なバ場を私は踏みしめた。
返しウマで、飛越に脚を慣らしておいたのも良かった。
こんな事は、このレースを走る他の誰であっても真似をする事はできない。
しようと思いつく筈もない。
でも、私とまどかさんには、それが出来る。
なんて、誇らしい。
私の走りをみてこんな事を思いつく人は、この世にまどかさんだけしかいない。
これが、私のトレーナーさん。私の運命の人――。
私の飛越に、ロスはない。止まらない。
走りやすいバ場に出てから、脚色も戻ってきた。
運命の壁の重しも、今はもうない。
いける。ここから、まだ勝負ができる!
『ハッピーミーク、未だに先頭! だが、リングメビウスが再び猛追! まさかこのウマ娘がここまで迫るとは、誰が予想したでしょうか! マンハッタンカフェがその後ろから脚を伸ばすが、果たして二人の争いに食い込めるか!』
私に出せる全力で、右前方を走るハッピーミークさんの背中を追う。
再加速の負荷は大きい。息が苦しくなってきた。
酸素を求めて開いた口内に、容赦なく特大の雨粒が叩き込まれる。
嗚咽さえも、飲み込む。私だけじゃない。苦しいのは、ハッピーミークさんも同じことだ。
それにまだ、私の脚は残っている。
負けられない。負けたくない。絶対に、勝ちたい。
ただ一人、私だけの想いじゃない。積み重なった何かがいま、私の背中を押してくれている。
【――本当に越えてしまうの】
【一度この枷を越えたら戻れない】
【望みを思い出して】
【輪の中に在るその意味を】
声なき声が、後方から再び響いた。
置いていかれた寂しさ。悲しくも、重く、優しさを携えた静かな音。
重ねて後ろ髪を引かれる心地がある。それすらも引き連れて、前へ行く。
『カレンは欲しいものを諦めない。リングメビウスさんも、何があっても絶対に諦めずに勝ちに来てください。あなたが本気で勝利を目指さないと、きっと意味がないの』
同時に思い起こされるのは、先ほどのカレンチャンさんの言葉。
どちらの道を行くのが、正しいのか。今の私の心に聞けば、その答えは明確だった。
一度障害を飛び越えた私が、迷う事はもうない。
私は、運命の壁を超える。超え続ける。
その先にどんな未来が待っていようとも。
今再び目の前に、悪路が迫っていようとも。
それすらを飛び越えて、私は新たな道を行く。
今日、この瞬間は、何があっても私は諦めない。
最後まで、駆け抜ける。この瞳の先にある、ゴールだけを目指して。
伸びる脚は、ついにハッピーミークさんを捉えようとしていた。
残り二十メートルもない。彼女の肩に、私の肩が並んだ。
あんなにも遠かった彼女の息遣いを、直ぐ傍に感じる。
負けじと、彼女が一歩前に出た。
ああ、そうだ。ハッピーミークさんだって、勝ちたい。
だって、私たちはウマ娘。走るために産まれてきた。勝ちたいと、本能が叫んでいる。
でも私は、きっと少し違う。
走るために――そして、跳ぶために生まれてきた。
私は未来の、障害ウマ娘。あなたとは、違う道を行く。
前を見据える。
目の前には、最後の悪路がある。誰が見ても分かる程の水溜まり。
私と、ハッピーミークさんのどちらがここで脚を取られても、失速は避けられない程の不良バ場。
今は僅かに彼女が先頭を走る。芝にもダートにも適応する脚質のハッピーミークさんに対し、このまま自力の平地力で勝負すれば、きっとほんの僅かに届かない。
(となれば、私に出来ることはただ一つです)
彼女の平地力が勝つか。それとも、私の飛越力が勝つか。
この最大級の不良バ場で私に出来る、最後の大勝負。
ゴール前。
食いしばる。腕を振った。踏み切れる足場を、見定める。
減速は、最小限。脚に掛かる負荷を、考慮している余裕はない。
そのバ場を一歩。グッと踏みしめて、地面に脚をかける。
そして私は、もう一度。
目の前の悪路を、跳び越えた。
『――跳んだ! ゴールを前にして、リングメビウスが、また跳んだ! とんでもないウマ娘だ! こんな作戦、見たことがありません! 奇想天外な飛越で、リングメビウスが差し切るのか! それともハッピーミークの逃げ粘りか! 勝つのは、どっちだ!』
私の身体は、宙に浮いた。
誰よりも高く、そして前へ。
誰よりも遠く、その一歩を伸ばす。
この大地に脚を縛られない、僅かな猶予にその勝利を信じて。
ゴール板を過ぎ去るその瞬間。
私の身体がほんの僅かに、ハッピーミークさんの前を行った。
『――勝ったのはリングメビウス! クビ差で、ハッピーミークを差し切りました!』
着地後、緩やかに速度を落として振り返る。
実況の声が、ハッキリと聞こえた。
……勝った。
私が、ハッピーミークさんに。
他でもない、この私が。選抜レースの一着になった。
勝った。勝てた。誰よりも先に、ゴール板を駆け抜ける事ができた。
実感よりも先に、その事実が呼吸の中に解け込んでいく。
『まさかまさかの大番狂わせです! 差し切り勝ち、いや、跳び抜き勝ちというべきでしょうか? 類する言葉が浮かびませんが、そうとしか言えません。これは間違いなく、大穴ドーナッツ! ここ最近、奇行で密やかに名を馳せていた金色のウマ娘が今、大波乱を起こして選抜レースを制しました!』
息を整えて、スタンドへと私は向かう。
『三着は、マンハッタンカフェ。四着、ドカドカと続いています。五着は――』
すでにゴールを駆け抜けたウマ娘たちもまた、コースを後にしようと息を整えている。
走ったウマ娘たちと、すれ違う。視線
「むん。負けた。次は、勝ちたい」
「……おともだちが、愉快そう。魔物は……跳び去っても倒せるのですね……」
ハッピーミークさん、マンハッタンカフェさんが過ぎ去っていく。
そして私の視線の先には、カレンチャンさん。
息を切らし、満身創痍で膝をつく彼女の姿があった。
「おめでとうございます、リングメビウスさん。あなたの、勝ちです。カレンは、完敗でしたね。……行ってください。あなたを、待つ人の元へ」
勝利。
その事実を前にして、未だに言葉にならない私は、カレンチャンさんの言葉にただ一度頷いて、スタンド前へと向かう。
視線の先に居るのは、まどかさん。
私の、トレーナーさん。
「メビウス! おめでとう!」
私の姿をその瞳に認めるなり、彼は私を抱きしめた。
彼の身体が、私の全身を包み込んでくれる。
雨風に濡れた彼のレインコートは少し冷たいけれど、温かい。彼のぬくもり。
それから私の両肩を掴んでその腕をグッと伸ばして離れると、真っすぐにその視線を私に向けた。
「すごかった! 君は、本当にすごいウマ娘だ、メビウス! 君が、勝ったんだ! 俺は、君の走りが誇らしいよ。なんだか感動しすぎて、いま何をしたら良いか分からないくらいだ。なあメビウス、俺はどうしたら良い? 君に、何をしてあげたら良いだろうか」
まどかさんの方が、今は掛かっているらしい。
いきなり私を抱きしめるだなんて。
ここが人前だという事を忘れているくらいに、彼が大胆だ。
今は私の両肩をぐっと握って、私に向かって微笑んでいる。本当に嬉しそうに、まどかさんは笑顔で私を迎えてくれる。走り終えた私を迎えてくれる貴方の笑顔。それが、今、何よりも私は嬉しい。
心と連動して、私の尻尾が飛び跳ねるように揺れ動く。
胸の奥が熱くなり、少し痛い。
これが、私の恋心。
私がこの人を好きだという、ごく自然で大切な感情。
それがひたすらに嬉しいという、この感覚。
(――……あっ)
何かを答えようとして、何も言葉が出てこない事に気付いた。
話す事が出来ない。レースに勝って、喜ばれて。その現実で心があまりにも一杯で、何も言えなくなってしまっている。
そうして私が固まっていると、辺りに人が集まってきている事に気が付いた。
若い新人トレーナーさん方が、多い。
私が駆け抜けたのは、選抜レース。
ウマ娘は己の存在価値を鮮烈に示し、そしてトレーナーは有力なウマ娘を見出す機会の場。
スカウトをするために、勝ったウマ娘にトレーナーたちが集う様子は珍しくはない。
ただ――そういうわけではない事は、私でも分かる。私の勝ち方は、あまりにも異常。バ場も展開も特殊で、その全てを味方にできた利によるもの。私の勝利は恐らく、世間的には実力というよりはフロックと呼ばれる状態。
この勝利はまどかさんの作戦と、私特有の脚質から掴んだ勝利であって、その飛越の発想も、まどかさんが居なければ成立していない。
それに、まどかさんがトレーナーとして私についていることは、散々私たち二人が奇行で暴れまわっているので、実況に言われるレベルでおそらく周知のこと。私たちの仲をみていれば、彼が実質的に私のトレーナーであることを、ここに居る人は理解している。
だから、私にというよりは、まどかさんに聞きたくて集まっているのだ。
何をどうやって平凡だったウマ娘を指導して、この実力差を覆すに至ったのかと。
「リングメビウスさん。選抜レースの勝利、おめでとう。そして、若松トレーナーも。まさかの展開で、驚いたよ。これまでのこと、少し、話を聞いても――」
口火を切った一人の男性トレーナーの声に呼応し、まどかさんは私の肩からその手を離して振り返る。
そして、集まった人々を見渡すと、こう告げるのだった。
「彼女をスカウトに、お集まりの皆様方。リングメビウスというこんなにも素晴らしいウマ娘の、その勝利を目の前にして、スカウトをしたいという気持ちはよく分かります。ですが、申し訳ない。仮トレーナーの身分ではありましたが、彼女には先約があります」
何か、まどかさんは勘違いをしている気がする。周りが求めているのは私ではなくて、まどかさんの方なのでは。
それから一歩引いて私の隣りに立つと、まどかさんは私の肩を抱いて、その腕の中に寄せる。
私は、なすがままに彼の腕に引かれた。
ここまで人前でのこれは。流石に、私も少し照れてしまう。頬の紅潮を感じた。
「リングメビウスは、俺の愛バです。絶対に、渡すわけにはいきません」
きゃあ、と。みていたウマ娘達から黄色い歓声が上がった。
小さな拍手が巻き起こる。
対して、トレーナーさん達からは苦笑いが漏れる。
けれど直ぐにそれは、微笑ましい表情へと変わった。
勝ったウマ娘と、トレーナー。その絆を、きっと讃えてくれている。
とても、熱い。身体も、心も。
私は、この人が好き。まどかさんも、私を求めてくれている。
何だか、胸がいっぱいになる。
彼の独占欲を、私は初めて感じた。
私を手離すつもりはない。それが、ありありと伝わってくる。
たった一度の勝利が、すべてを変える。
こんなものは、たかが選抜レースの一幕だといえば、それはその通りかもしれない。
けれども私のようなウマ娘にとってこの勝利は、なによりも大きな一歩になった。
ようやくこの感情を飲み込み始めたと思ったところで、緊張の糸が切れてしまったらしい。
ドキドキ感と疲労から、ほんの少し身体の力が抜けた私は、ゆっくりと倒れそうになる。
それを、まどかさんはしっかりと抱き留めてくれた。
「大丈夫か、メビウス」
「……はい。問題、ありません。少し、疲れただけですから」
「無理しなくて良い。休めるところに、連れていくよ。というわけで、皆様方。抗議や意見は、後日にしてください。俺は、彼女を連れて行きます」
そう言って彼は私の前で身を屈める。
おんぶを、してくれるらしい。素直に私が彼に身体を預けると、彼は背負って立ち上がる。
そして堂々と、トレーナーさん方や学園ウマ娘の前を歩き去っていく。
多分、というより確実に今の今までまどかさんは掛かっていて――後になってから少し頭を抱えることも、今からすでに想像が付くのだけれども。
ただ、今の彼は、私にとって本当に素敵な人。
芝と泥にまみれた私の身体が、彼の背中に触れ続けている。
尻尾を、彼の腰にピタリと巻き付けた。
胸伝いに、私の高鳴る心音がどれ程伝わっていることだろう。
腰を落ち着ける場所に向かうその途中で、ふいに。
大雨が小雨に代わり、私たちに晴れ間が射しこんだ。
狐の嫁入り。
太陽の日差しが、まぶしく私たちを包み込み始める。
その向こうに、大きな虹が掛かっていた。
なんだかとても、幻想的な景色。
「まどかさん。もう、大丈夫です。降ろして頂いて良いですよ」
「メビウス。もしまだ無理してるようなら……」
「今はただ。貴方の隣りに立って、この空を観たい。そんな気分なのです」
「……そうか。分かった」
ゆっくりと、丁寧に私を降ろすと、まどかさんは私と一緒に空を見上げた。
「虹が、綺麗だな。メビウス」
「はい。とても」
出会ったあの日。
私が彼に告げた『月が綺麗ですね』の返しに、これ以上の言葉はきっとない。
誰よりも近くで身も心も繋がっていたい。自然と出た彼の言葉にその意味が込められていなくても、浮かぶこの感情がその答えなのだと、今はただそれを感じる。
この瞬間が、永遠に続いてしまえば良いのに。そんな事を思ってしまう。
けれども終わりの来ない物事なんてない。
いつか必ず、区切りが訪れる。
いえ。
曇天の隙間に晴れ間が射す、狐の嫁入り。
雨降る中に掛かる、虹の橋。
それはこの世のものとは思えない程に、とても綺麗にこの空に映えている。
(そういえば、カレンチャンさんは言っていました。もし何か大切な事を知りたいと思ったら、
虹の橋を見据えながら、私はまどかさんの手を、そっと握る。
少し驚いた様子をみせつつも、まどかさんは、その手を握り返してくれた。
自然なやり取りが、それだけで嬉しい。
カレンチャンさんの口車を言い訳にしてるわけではないけれども、今彼の手と繋がれて良かったと思う。
大切なこと。それが何であったとしても、彼のことをもっと知りたい。
まどかさんのウマ娘として、ごく普通で、ありふれた想い。
雨風に晒され続けたからか、彼の手はとても冷たい。
ウマ娘の体温以上に、彼の手はひんやりとしている。
私の手で、彼を温めてあげたい。そう思って、壊れないようにギュッとその手を握りしめた。
美しい色を描く虹であっても、その色彩はやがて消えてしまう。
だからこそ、その一瞬は心の中でずっと輝き続ける。
今日を駆け抜けた私たちの蹄跡も、また。
ああ、もしも願いが叶うなら。
あの虹の橋を渡る時にも、きっと――あなたの傍に居られますように。