トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
――そこには、誰もいなかった。
いや、違う。まだだ。
まだ近くに居るかもしれない。
靴下のまま、俺は外に飛び出した。
左右を見る。隣りの部屋、二〇五号室の前。
そこには、驚き振り返るウマ娘の少女――リングメビウスの姿があった。やはり、彼女だ。
リングメビウス。彼女が、俺の運命なのだろうか。
先程とは違い、風呂敷は背に負わず。
先程と同じく、腕にはカモのぬいぐるみを抱えたままの姿で。
「あ……。……すみません。お疲れのところ、こんな時間にまたインターフォンを鳴らしてしまいまして」
「いや、こちらこそすまない。出るのが遅くなって。それで、どうしたんだ?」
「その。どうしても伝え直したいことがあったのです」
「伝え直したいこと?」
「はい。そして、確認したいことも。それは――あ……っ!」
言い掛けた、その刹那の出来事だった。
彼女と俺の間に、突風が吹き荒れた。
互いに足を踏ん張るが、咄嗟のことに驚いた彼女の手から離れたのは、カモの人形。
それが、宙に飛ぶ。
「カモちゃんが……っ!」
吹き飛んだ人形を追いかける様に彼女は、
その瞬間、勢いがついたのか、彼女の身体ごと塀の外へ飛び出しそうになり――。
「危ない!」
咄嗟に俺は、彼女の腕を引いた。
反動を利用しながら彼女の腰に手を回し、勢いよく倒れる彼女の身体を全身で受け止める。
どっと、二人一緒に廊下に倒れ込む。
俺は軽く背中を打ったが、ある程度受け身はとれた。
心音がバクバクと鳴り響く。それがどちらの心音なのかも分からない。
とにかく、すぐに身体が動いて良かった。
あとは、腕の中の彼女が無事かどうか、だ。
「大丈夫か?」
「は、はい。私は、なんとも。でも、若松さんは」
「俺は問題ない。君が無事なら良かった」
「いえ……ご迷惑をお掛けしました」
「そんなことはないさ」
「それで……あの、そろそろ私の身体を離していただけると」
「……あ。す、すまない」
言われて、慌てて俺は腕の中の少女を手放す。
怠げで少し冷たそうに見える彼女の、反して温かなぬくもりが名残惜しい。
ふとそう思ったのは、今の俺なのだろうか。それとも。
解放された彼女は、すっくとその場に立ち上がる。
「そういえば、私のカモちゃんは」
「あそこだ。運よく、木の枝に引っかかったみたいだな」
カモのぬいぐるみは、幸いにも塀の直ぐ側にある木の枝に引っ掛かっていた。
リングメビウスの腕では届きそうにないが、俺の身長と腕の長さならば丁度届く。
塀から軽く身を乗り出してぬいぐるみを掴むと、俺は彼女にそれを手渡した。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、当然のことだ。それより、大切な身体だ。ぬいぐるみも良いが、もっと自分を大事にしてくれ。心配になる」
トレセン学園のウマ娘にとって、その脚、その身体は、彼女たちに何よりも大切な資本だ。
アパートのニ階から落下し、目の前で怪我なんてされたら、
俺のその言葉を受け、思案するように彼女は少し目を伏せる。
それから一度軽くうなづくと、俺の目をジッと見つめてきた。
「大切な、身体……ですか」
「そうだ。目の前であんなことをされたら、気が気じゃなくなるさ」
「それは、貴方にとっても……なのですか?」
「当然だ。大切に思えないのなら、俺が此処に居る意味なんてない」
そう言って俺は、視線を自身の胸に向ける。
このトレーナーバッジに誓ったことだ。
今朝のカレンチャンが直ぐに察したように、彼女も学園の生徒だ。これを見せれば彼女にも伝わることだろう。
俺も新人とはいえ、トレーナーだ。
ウマ娘のことは、何があっても守る。信念をもって、難関な試験を超えてきたんだ。新米とはいえ、その覚悟はある。そうでなければ、トレセン学園から自ら去るべきだ。
「若松さんは、出会ったばかりの私のことを……そこまで大切だと?」
「そう思えないのなら――俺は自分の生まれてきた意味を疑う。それくらいに、大切だ」
「では、やはり……お好き、ということなのですか?」
「勿論だ。それは確信を持って言える」
俺の言葉を聞いて、彼女は腕の中にあるぬいぐるみに顔をうずめた。
彼女の尻尾が、せわしなく揺れる。
そうだ。一生を賭けても良い。
それだけの熱意があったからこそ、トレーナーになったんだ。
ターフを駆ける、ウマ娘が好きだ。
その思いは誰にも負けられない。
ウマ娘のことは、自分事のように思わなければならないし、そうありたい。この言葉に嘘偽りはない。少なくとも、俺はそう信じている。
「であれば、先程の言葉の意味は――やはり。本気だったのですね。まさか私に……こんな出逢いがあるだなんて……」
小さく溢した言葉が、微かに耳に届く。
それから彼女は、ウマ耳を前に伏せながら顔を上げた。
「言葉以上に、貴方は最初から
「不誠実?」
「申し訳ありません。私は先刻。貴方に、嘘をつきました」
「嘘、というのは」
「そういうのは間に合ってる、と。私は先程、言いました」
確かに、言いはしたが。方便だろうに。
「その言葉の訂正と、謝罪を。そして、私の勘違いだったのかを確認したくて、改めて訪ねたのです」
「勘違い?」
「私は、間に合っていません。今の私に、お付き合いしている人はおりません」
「それは、何というか。その……そう、か」
赤裸々な交際状況の報告に、戸惑う。咄嗟な事であっても、人に嘘をついてしまった事がそこまで彼女の中では赦せないことだったのだろうか。
「先程は、生まれて初めてあのような事を殿方に言われ、動揺した次第です。申し訳ありません」
「君が謝ることなんて。それに、驚かすつもりは、なかったんだ。俺もつい、思った事が口から出てしまっただけで」
「……つい、口から出てしまう程に、ひとめで私にあのような言葉を。そして大切だと……ということはやはり、そうなのですね」
彼女の尻尾が、揺れている。尾花栗毛の美しい毛並みは、それだけで俺の目を引いていた。
その揺れを、彼女は片手で抑えると、俺の目を見つめる。
「若松さん。先程の言葉の意味が分からないほど、私も鈍くはないつもりです」
「そう思って、くれるか」
その言葉に、ぱっと俺の表情も明るくなる。
俺のトレーナーとしての熱意は、ウマ娘である彼女にも伝わったらしい。昨日は、随分と沢山のウマ娘にスカウトを断られた。だが、だからこそこうして思いだけでも分かってくれるだけでも、本当に嬉しいものだ。
「はい。ですから、私もお答えします」
ふと、彼女は夜空を見上げた。
「若松さん。今日は……
その言葉に、俺も宙を見上げる。
曇り一つない夜空に、満月が輝いている。
数多の星の瞬きが霞んでしまいそうなほどに、見事な月夜だった。
「ああ、そうだな。俺も心から、そう思うよ」
俺の答えに、満足したのだろうか。
無表情に近い彼女の表情とは裏腹に、尻尾と耳が跳ね、嬉しそうに大きく揺れる。
それからふと、彼女の口元が小さく微笑みを携えたように見えた。
「私、確信をしました。ローマの休日のように、一日だけで関係が成り立つ出来事なんて、あるはずがない。そんな風に疑っていた自分を、今は叱ってあげたい気分です」
「ローマ?」
「はい。ローマは、一日すらなくても成ります。休日なんて、いらなかったのです」
不思議な言い回しだ。だが、人との関係とはそう言うモノなのかもしれない。これもまた、人の縁という意味か。
「まどかさん、と。下の名前でお呼びしても」
「ん? ああ、構わないが」
「ありがとうございます。では、私のことはメビウスと。そうお呼びください」
「分かった。よろしくな、メビウス」
どうやら先程の会話と応酬の中で、打ち解けてくれたらしい。
ウマ娘と良い関係を構築するのは、トレーナーとしても必要なスキルだ。その進展に、思わず俺も嬉しくなる。
「今日この日。私と貴方は親しき
どことなく独特な言い回しだが、隣りの部屋に住む者同士になったという事だろう。
彼女は今日初めて。声に出して、ふふっと笑った。
「まどかさん、少しお顔を借りても?」
「? ああ」
よく分からないが、俺がそう答えると。
彼女は片手を俺の右頬に当てて、背伸びをした。
それから彼女は自身の小さな顔を近づけて――。
俺の頬へと、キスをした。
「――これから、よろしくお願いします。まどかさん。……それでは、また明日。ですね」
ほのかに顔を赤く染めたウマ娘の少女は、そう言って一度俺に背を向ける。
激しく揺れる尻尾を抑えるように、彼女は自身の片手を伸ばす。
そして、足早に隣室へと戻っていた。
「――え?」
ぼうっと、俺はその場に立ち尽くす。
一瞬柔らかな感触を覚えた自身の頬に、そっと手を当てる。
もしかして。いや、もしかしなくても。
先程のやり取りは、何かを。盛大に間違えていたのではないか?
そんな気しか、しなかった。
どうやら運命の走るスピードは、
ローマの休日よりも速いらしい。
とぼけた俺の頭は、そんなことを思うのだった。