トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
気付けば、朝になっていた。
色々な事を考えすぎて眠れなくなるかと思いきや、事の他ぐっすりと寝ついてたらしい。
昨日は風呂に入った後、どこか安心を覚えるかのように、すぐに眠りに落ちた事だけは覚えている。
時刻をみれば、六時三十分。昨日よりも遥かに時間に猶予があると言える。
「リングメビウス、か……」
その名を呟くと、己の頬に手を当てる。
唐突に起きたあの出来事――彼女の口付けが、どうにも頭から離れない。
勘違いが、いや、誤解が重なったとでも言えば良いのか。
トレーナーとして話していたつもりの内容が、彼女には男女の想いとして伝わっていたのだろう。昨日行われた彼女とのやり取りは、トレーナーというよりも社会的にすらどうなのかと問われるような出来事だった。
確かに、トレーナーとしてウマ娘と長い時間を過ごしたその先に、交際を始める者達がいない訳ではない。
だが、トレーナー契約すら交わす前に男女の仲を交わす新人トレーナーと学園ウマ娘が、どこにいるというのか?
ここにいた。
「どう考えてもヤバいだろ」
深いため息を付きながら俺はベッドから立ち上がる。
普段から身にまとういつものスーツに着替えた。
それから、机の上のノート。その前に立つ。
これに常に頼るべきではないと言うのは分かっているが、以前の俺がこの状況でどうしたのかという、ヒントはあるのかも知れない。
読んだページには、付箋を貼ってある。
そこに指を置いて開くと、俺は昨日の続きを読み始める。
『おはよう、今日の俺。分岐点で、どちらを選んだのか。それによって、このノートで見るべき内容は変わることだろう』
それも、そうか。
ノートに書いてある事が、書き変わるわけじゃない。
分岐点があるのなら、読むべき箇所と内容は変わるのが自然だ。
『もしも扉を開けて部屋から出なかった場合、このノートの中折綴じの、後半から開いてくれ。そして、前半の内容は一切見てはならない。その徹底を願いたい。これは、己が行った選択に対する結果の一つだと思えばいい。――もしも昨日の夜に部屋から出た場合は、次のページから読み進めてくれ』
部屋から出ることを選んだ俺は、その次のページをめくる事にした。
『さて、扉を開けた俺は、リングメビウスという少女と会話をした事だろう。そして、何かしらの勘違い、もしくは誤解を受けているはずだ。だが、
待て、大丈夫なのかそれは。
『これまでに、勘違いのパターンは色々とあった。カモやぬいぐるみが好きだと思われる、長ネギが大好物だと思われて長い間ネギを差し入れられる、同性が好きだと思われる、異様に栗毛に興味があると思われる等、様々だ』
何か、もっと凄い誤解が紛れている気がするんですが、それは。
『とにかく、そこに共通して言えることは、その誤解はトレーナー契約を交わすまでは解かない方が良いという事だ。どれであっても、それはリングメビウスとの接点となる』
誤解は、解くな?
この関係のままで突き進めと?
『なお、その場で交際のような関係が始まるパターンも存在するが、それは彼女か俺のどちらかが先に「月が綺麗だ」などいった発言をし、文学的表現による応酬がなされた場合がそれに当たる。過去の文豪が残したとされるその表現は、遠回しながらも直接的な告白として世間的には認識されている。今の俺は、知らない事だろうが』
なるほど。そうだな。
文学には疎すぎて、知らなかったよ。本当なのか、それ。
『だがその状況については、俺にとって最高に幸せな状態でもあるとも言えるし、同時に最も苦痛を伴う可能性があるという意味では、残酷かもしれない。――ただ、もう余り常識で考えるな。その分岐を選んだ時点で、恥も外聞も何もかも捨てろ』
これを、どう捉えて良いのか分からない。天国と、地獄。それは、どのような意味で俺は書いているのか。
『よって、仮にこの状態になっていたとしても、その誤解は解くな。むしろ彼女と真摯に向き合え。責任を果たせ。
責任。重い言葉だ。この状況においては、あまりにも。
『さて、後のことは簡潔にいこう。以下、俺の経験上から、四月中に行うべき事を記載する。長くなるが、よく読んで覚えておいてくれ。
①トレーナー業に関して誤解を受けている場合は、任意のタイミングでその誤解を解くこと。
②リングメビウスの今の適性を全て確認すること。
③正式なトレーナー契約を交わすのは、彼女の夢と目標レースを理解した後であること。
④彼女と二人で中庭に揃う機会があれば、どこかで必ず三女神像の前で祈りを捧げること。
⑤カレンチャンと話をすること。
実行の順番は問わないが、以上のそれら全てが果たされるまで、このノートを開く必要はない。なお、これらを実行するかどうかについても、今の俺に任せる。後のことは、己で考えて動くべし』
箇条書きに書かれたそれらを、俺は頭に叩き込む。
覚え終えると、俺は静かにノートを閉じた。
このノートは、決して攻略本などではない。例えるならば、人生の参考書のようなものだ。
やるもやらぬも俺の自由。それは、今の俺自身が決めていけばいいのだろう。
春の暖かな陽気が包み始める朝の時間には、ОYABUNのコーヒー缶が最高に効く。
一度背伸びをすると、俺は冷蔵庫を開いてコーヒー缶を取り出した。
▽
テレビを付け、朝のニュースをにわかに眺め始めたところ。
ピンポンと、インターフォンが鳴り響いた。
この時間に来ると思われる人は、随分と限られる。きっと、彼女なのだろう。
リモコンを手に取ってテレビの電源を切り、俺は玄関の扉を開けた。
「おはようございます、まどかさん」
「ああ、おはよう。メビウス」
そこには尾花栗毛の髪色をした、
リングメビウスが、トレセン学園の赤いジャージ姿で立っていた。
片側のウマ耳には、∞のマークをかたどる耳飾りが朝日に光っている。
そんな彼女のその手には、紫色の和風の包みに包まれた四角い箱のような物が携えられていた。ほのかに鼻腔をくすぐる、なにやら美味しそうな匂いが漂っている。
「もし宜しければと思い、これを持参した次第です」
「これは?」
「お弁当です。今朝、作りました」
「お弁当を、俺に……」
「はい。殿方とお付き合いをした場合、どのような事をすれば良いかと考えてこのような結論に至りました。その……ご迷惑でしたか?」
「……いや、嬉しいよ。お弁当なんて、女の子に作って貰ったこと無かったから。初めてのことだな」
「そう、ですか。私は今、まどかさんの初めてになれたのですね。光栄です」
外聞きの悪そうな言い回しで少し怖いが、実際はその通りだ。
理由はなんであれ、昨日の長ネギ同様、作って貰ったのならそれを断る理由は何もない。
ありがたく、その好意を受け取ることにする。
「ところで、昨日の事なんだが」
「分かっています。誰かに吹聴したりはしません」
「そうではなく……あれは、だな」
「……あれは?」
ジッと、上目にその瞳で彼女は見つめてくる。
天然なようで、見透かすような雰囲気は昨日感じた通りだ。その圧に少し、たじろぎを覚える。
俺は、どうするべきなのだろうか。世間体を考えても、あれは勘違いから起きたことなのだと正直に伝えるべきだ。
だが、あのノートを信じるのなら。いや、今彼女を前にした俺自身。そして彼女の心根を思うのなら――何が正解なのだろう。
「……いや、何でもない。そうだな、そうしてくれると非常に助かる」
「はい、そうします。人の想いの前には、年齢など関係ないと今では思います。しかし、私も世間の常識に疎くはありません。時に年齢差というものは社会的にはいかようにも考慮されてしまうものだとも理解しています」
「ああ。それは、そうだな」
そういう点まで、分かってくれているようだった。分かっていて、尚のこと。それすらも受け入れるというのが、彼女の今の気持ちらしい。
なるほど、誠実にあろうとすればかえって不誠実となる。
そうまで思ってくれている相手に、何を言えば良いというのか。
「……何か。不安、なのですか?」
「そういうわけでもないんだが。現状に、少し戸惑っているのかも知れないな」
知らぬ間に気付けば君と交際をしていましただなんて、少しどころじゃないかも知れないが。
「では、お聞きします。まどかさんは、私の事は嫌いですか?」
「そんな訳ないだろう、メビウス。――好きに決まっている。どうして俺が、君を嫌う事がある。君が俺を嫌う事はあっても。たとえ憎まれたとしても、俺が君を嫌いになんて、なる筈がない」
「好きだと。そう、言って頂けましたね」
「あ」
「私も、同じ事です。きっと同じ気持ちなのです。私も、もう貴方が好きなのです」
もはや、無意識から出た言葉だった。
彼女の言葉を受けて俺が無意識に口を付いた言葉は、どういうわけか、いやというほどに己の中で真実味を帯びていた。
まさか、本当にそういう関係だったのか? 前の俺も?
一体、いつから?
「不思議な気持ちです。昨日会ったばかりなのに。貴方のその言葉が、どこまでも嬉しい」
「……俺も、そうなのかも知れない。でも俺たちは――」
「失礼ながら。まどかさんの年齢を伺っても?」
「年齢か。二十二歳だ」
「私は今年から高等部になり、先日誕生日を迎えました。ですから、今は十六歳です。六歳の差。なるほど、そう考えれば、大きな障害でもありませんね」
「……そう、か?」
「そうです。きっと」
彼女に言われると、何だか問題がないような気がしてきてしまう。不思議と安心を覚えてしまいそうな心地になる。だが、冷静な俺の思考がそこでかぶりを振ろうとすると、彼女はこう言った。
「何故ならば、目の前に立ちはだかる障害は」
「……障害は?」
「――踏み切って、ジャンプするものですから」
ああ、成る程。彼女は、そういう考え方をするウマ娘なのらしい。
非常に気に入った。それはもう、心から。
「ところで、まどかさん。私、そろそろ通学の時間なので」
「ああ。行き先は、トレセン学園だよな」
「はい」
「それなら、送っていこうか。車はある」
「いえ、大丈夫です。トレセン学園まで、走っていきます。寧ろそのために、このアパートに引っ越したようなものですから」
「そのために……?」
「はい。……あ、すみません。名残惜しさはありますが、時間がないので。私、もう行きます」
ふと、リングメビウスは腕につけた時計を見やると、慌てる様子を見せた。
走っていくのなら、確かに時間は掛かる。
いかにウマ娘と言えど、超長距離を時速五十キロ〜七十キロのスピードでここから学園までの距離を走り続けられる訳ではない。
小さな鞄を肩に下げた彼女は、言うや否や、階段へ向かっていく。
その階段の手前。
何かを思い出したのかのように立ち止まり、振り返る。
「……あの」
「どうした?」
「またお会いした時に、お弁当の感想。教えてください」
「分かった。また、話そう」
「はい。心を込めました。期待してください。――それでは行ってきます。まどかさん」
相変わらず変化の小さな表情に、抑揚の少ない声色。
そんな雰囲気に反して、彼女の頬はほんのりと赤い。そして言うが早いか、彼女の尻尾はブンブンと揺れ出していた。
自身の言葉に、照れているのだろうか。
それを必死に隠すかの様に片手で尻尾をおさえると、階段を降りていった。
「……なんだよ、それ」
すごく、可愛いじゃないか。
昨日出会ったばかりのウマ娘の少女に対して、心からそう思った俺は。
ウマ娘の生徒を預かるトレーナーとしても、一人の男としても。
きっともうダメなのかも知れなかった。