トレーナーである俺は「最初の3年間」を何度も繰り返しているらしい。 作:カモねぎ屋
リングメビウスがアパートを出てから、しばらくが経った。
適当に作った朝食を食べた後に支度を整え、俺も愛車へと乗りこみ、出発する。
彼女が早めの時間に出て行ったのは、流す程度に道を駆け抜けるためだろうか。
それとも、学園についてからやるべき事があるからなのだろうか。
今俺も車で追走すれば、もしかすると途中で彼女を追い越すことがあるかも知れない。そう思いながら、エンジンを掛けて俺は赤い愛車を走らせた。
お気に入りの曲を流しながら、俺は朝のドライブを楽しむ。
その
――ウマ娘専用レーン。
トレセン学園の周辺に存在する、ウマ娘専用の道路だ。
なお、ウマ娘の通行時は最大制限時速は五十キロと定めらている。
そのレーンを駆け抜ける事が、ウマ娘には許可されている。
学園に通じるこのアパートの周辺にもそれは存在しており、彼女はその道を駆けていったのだろう。
わざわざ学園から離れたこのアパートに引っ越した理由が走ることにあるとすれば、この道沿いにヒントがあるのだろうか。
「だとしても、わざわざこの道を走るとは……」
アパートから学園までを進むその道のりには、非常に難がある。
あまりにも急な坂が、幾度も繰り返される箇所が存在するのだ。
その坂道における最大の高低差は、おそらく五メートルを超えている。
軽車両やウマ娘が上り降りする場合には、その姿は後陣の視界から一切消え去ってしまう程の傾斜の中にあるような道だ。車で通っていても、その急な角度には強めにブレーキを踏み込まざるを得ない。
そして一度降れば、短い間隔でまた目の前にほぼ同等の高さの坂がある。であれば、これは坂というよりも、最早谷と称しても過言ではないだろう。
数多のGⅠレースが行われる、東京レース場における最終直線の高低差は約二メートル。
皐月賞、有馬記念などが行われる中山レース場の平地最大の急坂――心臓破りの坂が約二・五メートルであることを考慮すれば――
急坂を駆け抜けるためには、相当なスタミナとパワーが要る。それも半端ではない量が必要だ。そして駆け降りる際には、尋常ではない程の度胸と根性もまた要求される。
決意の直滑降。全力で降るには、そう呼ばれる程に固い意志と、その恐怖を克服するだけの精神力が試されるのが急坂の降り坂だ。
ともすれば、この谷と呼べる坂をレースの速度で駆け降りる事が出来るようには、ウマ娘にどれほどの鍛錬が必要になるのだろう。
確かに、この道のりを走破できるのならば、他の急坂でさえも超えられる程の能力が得られるかもしれない。
「……だが、トレセン学園にも連続した急坂があるウッドチップコースもある。坂路トレーニングはそこでも出来るはずだ」
五メートル超えの急坂。それらが乱高下する道を、敢えて選ぶ理由が未だにはっきりしない。わざわざこれ程の急坂を上り降りをする道を走っていくその必要性を、彼女はどこに感じているのか。
この道を走るためにアパートに来た、と彼女は言っていた。それ程までの熱意をもってこの道を走る理由は、一体なんなのだろうか。
ある種、トレーナーとしての観察眼をここで問われているような。そんな気さえした。
▽
学園に着いた俺は、共同のトレーナー室の席に座り、パソコンを開いていた。
向かう道中では坂が連続している道を超えた辺りで、流すような速度で走るリングメビウスの横を過ぎたので、学園に着いたのは俺の方が早いのだろう。
どのようにあの坂を駆け抜けたのかを見ることが出来なかったのは残念だったが、彼女の走ることに対する熱意を感じ取れたのは、良かったと感じている。
「おはようございます、若松トレーナー。今日は早く着きましたね」
「桐生院さん、随分とそのネタを引っ張りますね。先輩に――ダイワスカーレットのトレーナーにも吹聴したらしいじゃないですか」
「……すみません。ちょっと、調子に乗ってしまいました。からかい合えるのは、仲の良い証拠だと聞いていましたので。代わりに今後何かあったら、私をからかってくれても構いませんよ?」
桐生院さんから、声を掛けられる。
朝の軽めの挨拶にしては、やや攻撃的だ。
咎めると、桐生院さんは頭をかいて申し訳なさそうにしながらも、
早朝一番にからかわれるのは勘弁して欲しいが、なるほど。もしも桐生院さんをからかうネタがあれば、逆にやり返してやろう。言質は取った。
「俺も一昨日は、前日に色々あったんですよ。まあ、昨日も色々とあり過ぎましたが……」
「昨日も、ですか。ちなみに、一昨日には何があったかお伺いしても?」
「選抜レースで、スカウトにことごとく失敗しました」
「……あ、それは。すみません……」
少し気まずそうにして、桐生院さんは謝りを入れる。彼女には、すでにハッピーミークがいる。
担当バの話題。それは担当が決まるまでは、新人トレーナーの間では盛り上がる話題であると同時に、時にナーバスな話題にも成りかねない。
とはいえ、昨日ミークについて踏み込んだ話題を交わした仲だ。
むしろ、互いに情報を通わせられる仲になっておいた方が、新人トレーナー同士としては心強い。
「いえ、それよりも。ウマ娘の事について、もし知っていたら教えてほしい事がありまして」
「それは若松トレーナーが今、気になっているウマ娘のこと、ですか?」
「察しが良いですね。その通りです。リングメビウス、という名前のウマ娘なんですが。ご存じですか?」
「リングメビウス……ですか。私も名前は見掛けた事があります。確か、今年から高等部の子ですよね」
「ええ。そうですね」
本人から朝に聞いた話では、彼女は今年から高等部とのことだった。
流石は桐生院さんだ。新人とはいえ、名家のトレーナー。情報も知識も、俺よりも豊富らしい。
直近で選抜レースに出てくるであろう、まだデビューを果たしていないウマ娘の情報はある程度調べていたが、俺はリングメビウスというウマ娘の情報は詳しくは知らない。
「私が知る限り、選抜レースにはまだ一度も出てはいなかったはずです。中等部ではまだ本格化を迎えて来なかったのでしょうね。これからが楽しみなウマ娘、とでも言うべきでしょうか。ただ――」
「ただ?」
「現状ではその走りには、秀でた能力が見当たらない、という評価もあるかも知れません」
「……良くも悪くも、平凡と」
「はい。ただ、学科の試験成績は優秀で、学力テストの結果は毎回上位に来ているようですが」
「学科の成績は、優秀……ですか」
賢そうな雰囲気は確かに漂っていた。同時に、ある種天然な様子も垣間みれたが、彼女に関しては、そこは表裏一体なのかもしれない。
「ですから私としては、走力よりも学力の観点からデビュー前のウマ娘を調べた際に、見掛けたウマ娘となりますね」
「走力ではなく、学力の観点で?」
「ステータスで言い表すのならばある意味それは、『賢さ』とでも言うべきでしょうか。その能力が高く作戦の意図を理解してくれるようなウマ娘の方が、私には合っていると思っていましたので」
とは言っても、レースの賢さと意欲的な学習能力は必ずしも結びつくわけではありませんが、と彼女は申し添える。
なるほど、と思った。
走りだけに着目しそうなものだが、それ以外の要素も、トレーナーとウマ娘の間には重要となる。どんなに突き抜けた才能を持つウマ娘と優秀なトレーナーがいたとしても、その性格や考え方が全く噛み合わない場合は互いの成長を阻害することにも繋がり、破綻することもある。
性質的な相性を考慮して担当バを探すのも、良い方法なのだろう。
「どちらにせよ、本格化を迎える前のウマ娘の能力ですから、勿論これから大化けする可能性も十分にあると思います。……なんて、私もまだ新人ですから、才能を見抜く能力をどこまで信じて良いのか分かりませんけれど。後、私が知る情報といえば……」
「微かな情報でも構いませんので、分かれば何でも教えてください」
「私が知る限りでは、彼女はよく図書室にいるようです。学科の成績が優秀なのも、日々の努力の賜物なのでしょうね」
「なるほど。勤勉なウマ娘、と」
「後は、もうひとつだけ」
この際、聞ける情報は全て聞き出しておきたい。なんでしょう、と俺が身を乗り出すと、桐生院さんは唇に指を当てて微笑みながら答えてくれた。
「彼女、集中している時には――丸い眼鏡を掛けるようです」
チャーミングなポイントですよね。そう言って、桐生院さんは笑った。
あまり重要な情報では無いような気もするが……彼女にそれは、確かに可愛いのかも知れない。
▽
「――良し、作業終了だ」
気付けば、時刻は昼になっていた。
トレーナーの事務仕事は、多岐にわたる。
そしてまず、俺のように担当の居ないトレーナーを持て余す余裕など学園にはない。これから先の合宿の手配や調整、学園内のトレーニングコースの設備管理のための業者とのやり取りも、その仕事の一つとなる。
関係機関とのメール、電話でのやり取りに随分と時間を取られていくが、その最中で己自身のトレーナー業を成立させなければならない。幸い、今日やるべき事務作業は午前中に片をつけることができた。
午後の時間を利用して、今俺が誰よりも気になっているウマ娘――リングメビウスの様子を確認していければと考えている。
ふと隣りの席をみれば、桐生院さんは既に共同のトレーナー室をたっていた。
最近はウマ娘との仲を深めるために、時折りハッピーミークと一緒に昼食を取っているらしい。今日も、そうしているのだろうか。
凝った肩をほぐし、腕を背中に組んで身体を伸ばすと、上機嫌に俺も席をたった。
なんといっても、今日の俺には楽しみがある。
リングメビウス。彼女が作ってくれたお弁当だ。
ウマ娘が自分のために作ってくれた初めてのお弁当。
誰かに見られることもなく、ゆっくりと一人で味わいたいが――。
「もし、彼女にパッタリと
そう呟いて、にわかに緩む口元を俺は抑えた。うん、これは良くないな。
誤解や勘違いから始まった仲とは言え、なんだかんだで、あの少女にお弁当を作ってもらえた事は、本当に嬉しいのだ。
そう思いながらお弁当の包みを片手にし、俺は中庭に出ることにした。
学園はそれなりに広い。待ち合わせることもなく偶然出会うとするには、中々運が必要な気もするが、先程の思考は、何かのフラグだったのだろうか。
廊下を抜けて中庭へと歩を進めたところで、太陽の下に尾花栗毛の金色の髪色をした少女が前を横切った。
「――あれ。メビウス?」
「……えっ。まどか、さん?」
呟くや否や、彼女もこちらに気付いたらしい。ボブカットの後方で二対に束ねられた長い髪をサラリと揺らしながら、彼女はこちらを振り向いた。
今朝とは違い、眼鏡を掛けて赤みがかったイヤーカバーをウマ耳に着用してはいるが、間違いない。リングメビウスだ。
その表情にはどこか、困惑が含まれているように感じられる。
「ど、どうしてここに?」
「どうしても何も。俺はここの――」
「発言をしては、駄目です。声を出しても、気付かれてしまいます」
俺が答えようとする前に、メビウスは片手で俺の口を塞いだ。彼女は辺りをキョロキョロと見回す仕草を見せた後。咄嗟に俺の右腕をその細い手のひらで掴むと、上目遣いにこう言うのだった。
「……逃げましょう。見つかる前に。急がないと、捕まります。私に会いに来てくれたのはすごく、すごく嬉しいです」
俺も思わず会えて、嬉しさはある。だが、なんだろう。
この不穏な雰囲気は。
「でも、ここは関係者以外は立ち入り出来ないのです。私、まどかさんに犯罪者になって欲しくはありません」
「――え。いや、ちょっ!?」
答える前に彼女に腕を引かれ、激走が始まった。
見つかる云々が問題なら、もうそれは手遅れだ。
昼休みのこの時間、校内には多くの人が入り乱れている。周りからは、明らかに見られている。
だが、眼鏡を掛けている今の彼女には、それがブリンカーやシャドーロールの役割を果たしているのだろうか。更には、昨日と違いウマ耳に着用している赤いウマ耳カバーが、周囲の音をにわかに遮っている可能性もある。
今の彼女には目の前と、その斜め後ろを走る俺の姿しか映っていないのかも知れない。
「――あれって、メビウスさん? なんで男の人と一緒に走ってるの?」
「なにあれ、お昼の逃避行? ヤバっ、面白そう! 写真撮らなきゃ!」
「学園内は静かにバクシンしましょう!」
さまざまな声が風と共に聞こえてくる。
「まどかさん、私が無事に貴方を学園の外にお届けします。安心してください。私が説明をすれば。もしかすると、大丈夫かも知れません」
「……そうかも知れないね。君が掛かっていなければね」
息も切れているので、俺の声は彼女に届いていないかもしれない。
まあ、それでも良いか。俺はこの状況に諦観を抱きつつあった。
なるほど。
どうやら彼女は、俺をトレーナーと認識していなかったらしい。
あのノートに書いてあったことが頭によぎる。
トレーナー業に関する誤解があれば、それを解けと。
まさか、学園ウマ娘と男女の仲を交わすよりも、ある意味トレーナー契約を交わすことの方が難しそうだなんて、な。
苦笑いを浮かべつつも、今この状況をどこか楽しんでいる俺自身が居ることに驚きながら。
俺は愛らしいウマ娘の少女と共に、この学園の中を爆走するのだった。