無機質な岩壁の端、浮き出ては膨らむ灰色の一滴が、小気味良く拍を打って落ちる。
最初一つだったその旋律が今現在となって十、二十と協奏を紡ぐに到り、少女は早々と一旦旅路を引き上げた判断に安堵した。
外は雨。
雨は嫌いだった。
呆れ果てるまで曇天の濘から矢の様に降り注ぐそれを見ていると、己まで昏きに浸っていく心地がして、堪らず少女は視線を翻す。
今更その奥に広がっているのが見果てぬ一切の暗澹であるのに気付いた少女の溜め息は、アレグロの雨垂れに交じりひどく反響した。
面積が大きく少女の頭には明らかに余る黒い魔女帽を取り外し、背部まで伸びるシアンの髪を梳かす。
普段まともに手入れ等しない為に枝毛まみれのそれにわざわざ指を絡めてやるのは、結局のところほんの手慰みである。
時増しに強くなる雨足に覚悟こそすれ、いい加減に辟易し始めた少女は、すっかり暇を持て余していた。
脇に転げていたお気に入りの半身大の杖を握り締めたところで、轟々たる豪雨はその号哭を泣り止ます気配すら無い。元々薄布程の自尊心をついでに引き千切られ、所詮半人前の青二才は小さな背を萎れさせた。
そうして無為に費やした時が半刻程。
底無しの退屈から漂う好奇心の色香は、時折生きとし生けるその理性を狂わせる。
ふと、背の向こうの闇の中へと、少女の興味は一斉に引き寄せられた。
一向に弱まる気配の無い土砂降り、どの道喰らう足止めならと、少年然とした冒険心が沸き立ったのだ。見たところ洞窟に前人の踏み入れた形跡は無く、未知の秘宝の眠っている可能性もある。そこまでの夢物語でなくとも、道すがら狩った魔物の皮なりで小遣い程度にはなる。雨避けの合間が懐の安寧に繋がるのなら、大して躊躇う理由も無い。要は欲が出た。
それが飽くまで、安全という土台の上で成る理屈であるのも忘れて。
杖を支えに立ち上がり、魔法で目視の補助となる炎球を展開する。
それが意に沿って動くのを確認してから、よしと一声、少女は一念発起暗黒の檻へ___。
歩み始めてから、数十分。
少女は既に後悔していた。
何処かから漏れ出る雫の打水音を背景に、奥へ奥へと歩む程広がり、遂には見上げる天井を背丈の三倍ともするまでに無駄に遠大な穴蔵を潜った所で、漸くとその実態に勘付いた。
翼をはためかせ、不気味に哭き叫ぶ蝙蝠の金切り声。
そして、それをも掻き消さんばかりに四方八方から鼓膜を震わす、巨大な何がしかの複数が這い回る音。
少女の目の前に、それは居た。
怯え竦む足を奮い、何とか唯一の光源である炎球を向ければ、その全容が暗中よりぐわりと浮き上がる。
爬虫類相応に細く尖る瞳の周囲、黄ばんだ結膜は充血し切り、瞬きさえも忘れ、または瞼の機能を喪失しているのか、此方を睨めつけたまま。
苔むした様な緑の鱗に被われた顔、鰐の如く横に裂けた口の端からは、絶え間無く唾液が垂れ落ちていた。
ケイブリザード、その巣窟。
別名地龍。その巨躯に見合わぬ俊敏な動きで、洞窟内を四足で縦横無尽に巡る、地中に於ける連鎖階級の絶対的頂点に立つ王者。
一方、退化或いは環境に特化した感覚器官は獲物以外の生物を正確に捕捉できないとされ、領域を侵した者への攻撃性は存外薄い。時にそれは、天敵の存在し得ない実態に由来する本種特有の傲慢な性質ともされる。そしてそれ故に、彼らには帝冠をこそが相応しいのだ。
だが、眼前のけだものに、最早王の貫禄は喪われていた。
恐怖の余り視野狭窄に陥る少女には気付けなかったが、その鋼鉄の如き鱗には無数の傷痕が刻まれ、歯牙の隙間から唸る声は細く、見るからに衰弱している。
されど、鉄鎧すら一薙ぎに穿つと喩えられる前脚、その爪の先は尚も禍く捻れており、それは正しく少女の喉元に臥せられた大剣も同然であった。この龍の気紛れ一つで、少女の躯を人の型すら留めぬ肉塊へと帰さしめられる。
足は動かない。
耳は唸りの残響ばかりを拾う。
声は揺れて霞む息と化して消えていく。
逃げ場を失い身体中を濁流の如く渦巻いて止まぬ恐怖に、少女の思考回路は、焼き切れた。
急激に鮮明になった視界が現したのは、彼の者の左後脚、不自然な形に歪んだ指の先だった。憔悴に塗れた脳が、無意識的に安心材料を求めたのか。
この傷が為に壁面を捉えられなくなり、機動力を損ない狩れる獲物を無くしたのだろう。落伍者は淘汰される、至って単純な自然の摂理。
相手が致命的な手負いと知れてしまうと、少女は僅かばかり落ち着く余裕を取り戻していた。仮に今この瞬間攻撃されたとして、瞬発と加速の効かないのであれば、十中八九は逃れられると踏んだ。最もそれらは全くの思い込みで、少女は身震いする剰り失禁したのにも失念していたし、足は硬直し駆ける事さえ叶わなかったのだが。
そう、少女は間違いなく、正気ではなかった。
不意に、少女にはこの怪物がとてもちっぽけで、浅ましいものに思われたのである。
比類無き力に胡座を掻き、孤高を気取り、いざそれを手離せば扶けも無く、終いはかようにも情けなく、有象無象と変わらず絶えてゆく。今際の際を人の子に目の当たりにされ、尊厳もさえ無きままに。
「ねえ」
気付けば、震えは不気味に止まっていた。
「餌が欲しい?」
胸中を埋め尽くす感情とは矛盾した、嘲るような笑みを浮かべながら、懐に手を忍ばせる。
そのまま肩口をはだけ、握った剥ぎ取り用のナイフで以て、薄皮一枚余り、それを切り開いた。
なみなみと肌を伝う赤。
明白に瞳孔を押し拡げた怪物を見て、少女は高らかに笑い出したくなった。
臭いを嗅ぎ付けた血吸い蝙蝠共が首元を集り始めるが、気にも留めない。
寧ろそれの舞う度に右往左往する怪物の瞳に、興奮し荒くなる呼吸に、少女はすっかり夢中だった。
見よ、見よ。
伝説にも唄われし龍が。何者も匹敵し得ぬ深淵の王が。
何一つと為せぬ少女のほんの気紛れに、かくも弄ばれる様を!
「ほら」
思えば、後先考えてもおもしろくない人生だ。
「早く食べちゃいなよ」
最悪此処で愉快に幕を降ろしてしまうのも、また一興だろう。
傍からは奇行でしかないそれを、怪物は狂犬の如く血走った目で一部始終を見つめ、その悍ましい口を、
堅く閉ざした。
「…………え?」
理屈では片付かない挙動に、少女は困惑と、寂寥混じりの声を滲ませる。
「……なんで」
問う声に答えたのは、龍の或いは刃にも劣らぬ程鋭い眼光。
その軌跡の先に在るのは赤ではなく、少女の瞳の翠だった。
低く、骨まで共鳴する様な轟きを喉奥から響かせ、ただ只管に、憐れな愚者を射竦める。
「なんだよ……」
龍は、餓狼に堕ちてさえ、尚も気高き王であろうとしていた。
「私じゃあ、餌でも足りないかよ……!!」
死の瀬戸際でも落ちなかった少女の涙を、つまらないものの様に一瞥したのを最期に。
龍の眼に宿る煌めきは、そこで潰えた。
「…………」
死んだ。
蝙蝠に噛まれていては堪らないので、解毒を小まめに掛けながら帰路の闇の中を歩く。
巣穴の成れ果てであるこの洞窟は巨大な一本道となっていた。土竜の横道には逸れなかったし、駆け出しでも迷うはずは無い。
折り畳みの手提袋には、目の前で事切れたケイブリザードの鱗や爪を剥ぎ取って詰められるだけ詰めている。当然そう出回らない希少素材で、当面の路銀に困る事は無いだろう。結果は上々と言って良い。わざわざ死地に潜った甲斐も有ったというものだ。
ただ。
少女の心からは、一杯の袋の中身より、重く大きな何かが失われた気持ちだった。
未だ脳裏に焼き付くは、堂々たる龍の断末魔。
ああまでに追い詰められてその上、代え難き矜持を携えたまま死ぬことが、わたしなんかにできるだろうか。
重い足取りが、やがて長い洞窟の出口へ辿り着いた時。
分厚い黒雲の狭間からは、煌々と陽の光が差し込んでいた。