少女は一人、山の獣道を行く。
過ぎ去りし苦き日々の反省を此処に来てやっと活かす心積もりになった少女は、予め雨宿りの場所を見つけておく事に決めた。結果近隣を根城にする山賊から、冒険者キャンプなるものの存在の話を聞く事が出来た。
この世界に於ける山賊とは、山をテリトリーにして狩猟採集による自給自足を営む人間の総称であり、盗賊とは明確に区別される。得てして山の実情に明るい者が多く、また魔物と人間の生存境界を守る役目も受け持っている。それとは別に引剥ぎを働く者が無い訳ではないが。
閑話休題、これから少女の向かう冒険者キャンプというのは、依頼や探索に臨む冒険者達の憩いの場として、彼ら自身により運営・管理される施設だと言う。この周辺域には洞窟や魔物の群生地が多く、自然と冒険者が集まりやすいとか。そうした人間が成り行きで寄り合いを作り出したのが始まりらしい。
日が雲に陰り出しただろうか。
「あれか」
少女の視界に写ったのは、黄色い横長のテント。
「…………」
木々の立する間にぽつんと据え置かれたそれからは、如何せん場違いな空気を拭い去れない。施設自体は新しいようだが、果たして本当に使われているのか。半信半疑で近付いても、どうにも人の気配の無い。
入り口を捲り上げて潜ると、やはりそこには話し声の一つも有りはしなかった。冒険者の寄る所喧騒とは避けても逃れられぬのはギルドの有り様を見ても確かなはずなのだが、妙なものだと少女は首を傾げる。
灯りの無い空間、中央に構える日曜大工染みた無骨な長机が一つ、切り出した丸太をそのまま流用したような椅子が複数。如何にも冒険者衆のやりそうな間に合わせの設備だ。しかし天幕の裏はよく選定された枝で繰り返し入念に補強されている痕跡が窺える。多くの冒険者の手で継がれてきたというのは事実らしい。
ふと、顔を向けた一角に、人影を見留めた。
「……早いな、もう来ているのか」
「ひっ」
「何だ、化け物にでも出くわしたように」
藪から棒に掛けられた声につい息を呑んでしまったが、落ち着けてその人相を見れば、低く嗄れた声に相応の白頭翁がそこに在った。ご立派な顎髭に対し、不精を感じさせる鼻下。先の折れた尖り帽は色褪せた苔色、裾長の外套も薄汚れており、年季の入った魔術師と言うが正しくという風貌。
その傍らには、両に取っ手の付いた巨大な鉄鍋。周囲の広く取られているスペースは調理場なのか、他に器具の類は見受けられないが。
「まあ、ちょうどいい。早速準備に取り掛かってくれ」
「準備、ですか?」
少女の微妙な反応に一瞬苛ついたように眉を潜めた老人だったが、そこで初めて少女の顔を暗がりの中に見出だしたのか、心得たように呟いた。
「ああ……新顔か」
「え?あぁ……はい」
一拍遅れて少女が首肯すれば、はぁと溜め息を吐いてから、語り出す。
「ここに来た冒険者は、夜を明かす為の準備に等しく協力するのが掟だ。何もせず飯や寝所にありつけられると思うな」
「ご飯も出るんですか?」
「働いた人間にはな。私は鍋の掃除をしているから、お前は雨の降らん内に薪を集めてきてくれ」
そう言ったきり老人は、億劫そうに腰を曲げて鍋の底に顔を突っ込んでしまった。
「…………」
「早く行け、もう空が危うい」
「あ、はい」
見えていなくても入り口で立ち尽くしているのが分かるらしい。角ばった左手に払われ、少女はいそいそと回れ右をした。
機嫌を損ねてしまったか、典型的な老人の起伏に欠けた気難しい表情は四六時中そうにも思われる事はあるが。
しかしまあ、確かに拠点にタダで居座りながら何もしないというのも寝覚めの悪い気がしてきた少女は、目印に木の枝に狼煙を立ててから、駆け足で林の中へと潜っていった。
どうも人の性というのは抗えぬもので、少女がまたしても失策を重ねたのに気付いたのは、高木の交差する葉に只でさえ黒ずみ始めた空が隠れ、狼煙がまるで役目を果たさないのに思い至ってからだった。
歩けども歩けども景色の変わらない雑木林にきゅうと心臓が締まるのを感じながら彷徨い続け、漸くテントに辿り着いた頃には、間近にまで雨雲が忍び寄っていた。間一髪、最悪魔法で乾かせると言えど、あわや骨折り損である。
「……戻ったか。魔物にでも追い立てられたのかと思ったぞ」
「おうジジイ!誰だそいつぁ、孫がいたのか?」
「馬鹿が、ただの新顔だ」
「はっ、まあ独り身の寂しいご老人に孫なんざいるわきゃ無いわなぁ!」
いつの間にやらテントの中は老人だけでなく、複数の賑やかす声に溢れていた。椅子には指で数えられる程度に冒険者が腰掛け、机の脇にはカンテラが灯され、鉄鍋には一杯に水が満たされている。あれにまあ非礼な口を叩けると少女は恐れすら抱いたが、当人はさして憤るでもなくふんと鼻を鳴らす。
「お、遅くなったみたいでごめんなさい。ちょっと迷っちゃって」
「勝手に煙なんぞ炊いた挙げ句に迷ったのか。雨が近いから放ったが、魔物に嗅ぎ付けられたらどうする」
「す、すいません」
「いい、もういい。早いとこ薪を敷いてくれ、飯が作れん。火は使えるな?」
「一応は……」
「よし、かかってくれ」
言われた通り手早く薪を組み、さっと魔法で火を掛ける。いくら永遠の青二才の少女でも、長い一人旅の礎は付け焼き刃ではない。その上に重い鍋を乗せる作業は、流石に他の冒険者に任された。
水に火が通るまでの間に、居合わせた冒険者と顔を通しておくのもまた、此処の掟とかいうものらしい。空いた末席を促された少女は、遠慮がちにそこへと腰掛けた。机を囲むのは、少女含めて七人。多いのか少ないのか少女には判別しかねたが、こんなものかと打ち切った。
「……一先ずは、これで全員か。では、一組ごとに軽く頼む」
この場において一の年長者である老人は、この席でも進行役を仕切るらしい。その声に押されたまず一組が口を開く。先程老人に礼節のれの字も無い態度を取っていた屈強な男二人組だ。鍋の運搬を受け持ったのも彼らである。
「この辺りに麓の町を襲った猛獣が逃げ込んだってんでな、俺たちゃその調査に来たんだが」
「役立たずの山賊は知らんの一点張り、この広い山で一頭捜すのは一苦労ってなもんじゃねぇ。仕方がねぇから日を改めることにした訳よ」
如何にもと言った野卑な見た目の彼らの語る愚痴っぽい経緯はしかし、少女の頭に入らなかった。光を帯びたその頭部と、そこに書き写したような二人の顔の造りにばかり目が行っていたのである。冒険者、特に近接戦闘を主とする戦士に禿頭は然程珍しくはないが、顔がここまで似通うのはそうそうお目にかかれないだろう。
「……あん。なんだ、俺らの顔に何か付いてるか?」
「あ、」
厳つい眼に凄まれ、そんな滅相もないと少女が大袈裟に首を振ろうとした矢先。
「や、随分と愉快な二人組だ!その分裂したスライムみたいな面相は生まれつきかな?」
少女が思っても言わなかった事を堂々言ってのける斜向かいよりの高い声に目を剥いて喉を詰まらせた。此処には遠慮を知らない向こう見ずしか居ないのか、少女は戦慄する。
「……おうよ、俺らは兄弟で冒険者やってんだ」
「今は畜生なんぞを相手にしてるが、連携じゃどんな魔物にだって劣りゃしねぇぜ!」
闘争沙汰をも覚悟して顔を落とした少女だったので、殊の外穏健な返答に拍子抜けして面を上げた。
「やあ、怒らないんだ?」
「言われ過ぎて飽きてるとこだ」
「ご苦労な事」
悉く少女の避けた道を踏み抜いていくこの無鉄砲な人間は何者なのか。呆れすら覚える少女を置いて、次の組が立ち上がる。
「俺達も幼馴染二人でパーティー組んでるんだ!俺が剣士で、こいつが弓手!」
「私達はこれから、この近くの洞窟の探索に行くところ。今晩はよろしくね」
短いブロンドヘアの片割れが新進気鋭と自信に満ち満ちた男、それを宥める片方が、此方も短めの金髪をした落ち着いた雰囲気の女だ。どちらも若々しく、前途ある冒険者達。その輝きに目を眩ませている少女も、何なら此処では最年少まであるのだが。
「けっ、それでこんなとこにまでわざわざ惚気に来たってのか?仲のよろしいようで」
「ああ、俺とこいつは子供の頃からずっと一緒なんだ!冒険者になりたいって俺が言ったら、こいつも何だかんだ来てくれてさ!」
「ちょっと、やめてよ此処でそんな話……!」
先程老人をああ煽っておいて苦虫を噛み潰したような禿頭二人と、目を背けて笑いを堪えるのに必死な鉄面皮の一人、未だ表情一つ変えない老人。何となく可笑しくって、少女も思わず強張っていた頬を緩ませた。
同時に、少し羨ましくもなった。常に傍らを任せられる相手の存在というのは、さぞ心強いものなのだろう。
「……私の事は良いだろう、見ての通り年だけは重ねた魔術師だ」
「おいおいジジイ、初顔もいるのにそりゃねぇだろ」
続けて口早に自分の番を回そうとした老人の声を遮り、禿頭の片方が割り入ってくる。声までそっくりだ、何で見分ければ良いのか分からない。
「こいつぁずーーーっと此処に入り浸ってる酔狂な爺さんでな、付いた渾名が『天幕の番人』だとよ。ただの引き篭りがご大層なもんだぜ!」
「あ、俺たちも前来た時にこの爺さんにいろいろ教えて貰ったんだ!」
「とまあ、此処に来る奴でこいつの顔を知らずに帰る奴はほとんど居ねぇ、暇なジジイさ。一体何で食ってるんだ、ギルドから金でも掴まされてんのか?」
「たわけ。年の分には蓄えも有るのだ」
顔見知りだとしてもあんまりな言いようだが、しかしそこに険悪な雰囲気は無い。そこに自分の知らない彼らだけの世界が開かれているのを感じた少女は、やや肩を縮ませた。
「さて、残りは……」
と、残るは二人、少女と謎の人物だ。
謎の方が目配せしたので、急激に脈打ちはち切れんばかりの胸を抑えつつ、それに従う。
「え、えーと、わ、たしは。えっと、魔術師です。その、駆け出しなんですけど。それで、あの、一人で旅してて。今日は、此処で休息をと思って、その、来ました」
習いたての文でも唱えるように拙く言い切ってから少女は、脳天まで熱が昇ってくるのを感じた。
周囲の沈黙が重く感じる。叶うなら早急に机の下に引っ込みたい。集まった視線が刺さり、つまらないのならさっさと次にやらせてくれと声にならない悲鳴が軋む。
「そんなちっちゃいのに、魔術師?凄いね!よろしく!」
「ガハハ、こんなちみっ子が一人旅かよ!世知辛いもんだな、俺らが用心棒で雇われてやろうか?」
「初心者特典だ、今なら割安でやってやるぜ!」
「お前らは今の依頼を先に片付けんか馬鹿者」
少女の憂いに対し、返ってきたのは、存外和やかな反応。噴出せんばかりだった熱が、喉下へと逃げていく。
「……って、ちっちゃいって言わないでください!」
「だってマジでちっちぇえじゃねぇか。歳いくつだ?」
「うっ……じ、じゅう……」
「15?6か?」
「__ッ12!悪かったわねちみっ子で!」
「じゅうに!?」
上がったのは野太い男の声ではなく、金髪の女の上擦った声だった。
「ちょっとあんた達、こんなかわいい娘にあんまり荒っぽい口聞かないの。況して手なんか出したら許さないんだから」
「お、おう。悪かったっての」
二回りも体格の有る男相手に果敢にも庇うように少女の肩を抱く女に、しかし禿頭達はおずおずと引き下がった。彼らまでも同情的な目をしているのは少女には気に入らなかったが、しかしこれで、何となく少女は悟った。
顔も知らない冒険者達が、今宵初めて、互いに手を取って卓に向かう。そんな場所の在り方が、こうなのだ。
「最後は私かな」
ここに来て漸く、少女の気を引いて止まなかった人物に順が回る。ハスキーな声は女性らしさを思わせるが、この辺りでは珍しい深みある黒の短髪は中性的で、座高も高い。俗に言えばミステリアスな印象だろう。極め付きは水色、黄、赤の三色の混ざる虹彩が空洞のような瞳孔を縁取る、それがこの上無く異質である。
「私も此処は初めてなんだ。一人旅の途中なのも一緒でさ、だから優しくしてね」
絵に描いたようなウインクは、しかし冒険者勢の芳しい反応を得られなかった。少女と違い、新人と言うには垢抜け過ぎた振る舞いに慈しみを垂れる聖人は居ないらしい。
「あれ?微妙な反応」
首をこてんと傾げる__この仕草までわざとらしい___彼女、か分からないが少なくとも少女は聞く勇気も無いので彼女と扱う事にした、そんな彼女の動作を切っ掛けに、禿頭が不機嫌を包み隠しもしないままに漏らす。
「……で?なんで魔族が此処にいやがる?」
彼だけでない、もう片方の禿頭も、若い剣士に穏やかな弓手も、敵意、猜疑、思い思いの感情をその視線に込めていた。そうと知らなかった少女だけが自分も焦るべきなのかと見回していたが、かの龍の親子と一夜明かした後では、異種族の一人珍しい事にも思われなかった。取り敢えず調子を合わせ女の方を見る。
「ああ、まあそりゃ突っ込まれるか」
矛先を全員に向けられた女は、一切の申し開きも無く言った。
そもそもエルフだとか、龍人だとかと彼女のような魔族、所謂人間以外の人型種族の線引は非常に曖昧である。人間への中立か、敵対かというまこと勝手な割当てもあるが、エルフだって人間を好ましく思わない者も多いし、龍人は表立って対立しないでも疎まれる。古の魔王の産み出した尖兵の系譜を踏む者をそれとする説も有るが、魔王無き今ではそれだと立証する手段は無に等しい。強いて言えば彼女のような明確に人に乏しい特徴を持ちかつ種族名の通っていない人型は魔族と呼ばれやすい傾向にある。確かに言われて納得出来る程度に禍々しい佇まいではあるが、綽々と語る彼女だって自身の正体が何か断言はできないはず。
結局人の敵を形作るのは、また人の認識でしかないのだ。そこまで考えた少女だけが目を伏せていたのは、誰が見ているだろう。
「お前、魔王の手先って話じゃねぇか。何だって人様の世界に来てやがんだ」
「いやぁ。うちの地方の魔族はプライドに縛られて、固い頭にカビが生えた奴が多くてね。嫌気が差したんで飛び出してきたの。あと人間のとこは楽しそうだったから」
「こっちとしちゃ面白くねぇがな。冒険者生活はお気に召したか?」
「そりゃもう、おかげさまで。あ、私も剣士なんだ。君も聞きたい事あったら聞いてね」
「な、誰が……!」
「あの、そこまで気を立てなくても……」
「君は首突っ込まないで。怪我したら大変」
「心配しないでも子供に手を出す趣味は無いけど」
「あんたは黙ってなさいよ!」
談義の席が次第に紛糾し始めた処で、それを制止する芯の通った声が響く。
「そこまでにしておけ」
火花を散らしていた一同が一斉に口を噤んだのに、少女は年の功というものを実感せずにはいられなかった。
「今、冒険者ギルドは俗に魔族と呼ばれる者達の受け入れも段階的に推し進めている。そいつも正当な過程を踏んで冒険者を名乗っている以上、気持ちは分かるがそこに要らぬ疑念を挟む必要は無い」
理路整然とした物言いに、即座に反論しようとした若い剣士も、返す言葉無く口先をまごつかせる。
「……まあ、ジジイがそう言うんなら、もう何も言わんがよ」
禿頭の片方が溢したのを最後に一応場の緊張は緩んだらしく、少女は陰で胸を撫で下ろした。
「それにしてもそこの君、新人って言う割には落ち着いてるね。私の目、ずっと見てたし」
「えっ!?あ、ごめんなさい!」
「謝んなくてもいいよ。こそばゆかったけどさ」
脈絡無く話を振られた上に興味津々だったのも気付かれていたらしく、焦るばかりに少女は体も無く頭を下げる。流石の魔族にも苦笑が混じった。
「……これでも、冒険者歴は一年ちょっとになるので。それでも旅の始めから全然成長しないし、大したものじゃないです」
「またまた、謙遜しちゃって。そんじょそこらの新人が、地龍の甲殻なんか身に纏うもんですか」
『えっ!?』
何の気無い台詞に重なった驚愕の声は、一人を除いて同じニュアンスを孕んでいた。座していた冒険者勢が、挙って少女の周りを集り始める。
「地龍の殻って、まさかこの胸当てが!?」
「え、え。まあ」
「うはっ、マジで硬ごふぁぁ!!」
「兄貴ーっっ!!このアマ何しやがる!」
「そっちこそ何断りも無く触ってんのよ変態ハゲ!」
「え、いや、私は別に」
騒ぎが再び大きくなり混沌を極めるのを、少女は慌てふためいて見る事しか出来ない。
「……その杖の装飾も、泥龍の鱗だな」
「なああ!?」
おまけに付いた老人の一言は、場の勢いを加速させるに十分なもので。
「おま、お前、何が新人だよ!こんなシロモノどうやって手に入れたんだ!?」
「いや、あの、鱗の方は貰い物で」
「そんな気の良い奴がいるのか!?俺にも紹介してくれ!」
「ちょっと!」
「いやあ、これは愉快だ!で?甲殻の方は?」
「甲殻は、その、たまたま弱ってた個体を見つけただけで……」
「弱った地龍は巣穴の奥から出てこないって話だろ!?こりゃとんだ命知らずが居たもんだぜ!」
浴びせかけられる言葉の雨霰に当惑しながらも、少女の頬は紅潮していた。ひよっこ、若輩と嘲られてばかりの冒険者人生で、同じ冒険者からこれ程の憧憬の眼差しを向けられたのは、何せ初めての事だった。
夢見心地な気分は、その後も継がれる質問と共に暫く続いた。
「おい貴様ら、程々にしておいてやれ。もうじき湯が沸くぞ」
止む事を知らぬ勢いだった問答の嵐は、老人の呼び掛けを以て漸く一段落した。しかし興奮は未だ冷めやらぬと言った具合で、例えば少女等はその熱気に茹だるような格好で顔を真っ赤にしていた。
外は雨。
いよいよそれが本降りに差し掛かるらしい事を、天幕の受ける水音が伝えてくる。その勢いは少女に天幕を此処の冒険者達諸共押し潰すのではないかと懸念を抱かせる程だったが、それが杞憂と分かるのは、見かねたらしい魔族が天幕の素材は魔物由来の撥水性であると何故か自慢気に語ってからである。同じ新参なのにやけに博識だ。
「では、持ち寄ったものを鍋に入れてくれ。新顔二人は次からで構わん」
どうやらキャンプの慣習とはまだ存在し、全員で寄せ集めた食材をごった煮にしてそれをその日の夕飯にするのだとか。形容しがたいゲテモノが出来上がる可能性に戦く者も当然有ったろうが、少なくともこうした機会に縁の無かった少女は目を輝かせているし、魔族は不敵な笑みを浮かべていた。
煮える鍋に初め投じられたのは、幼馴染コンビが持ち込んだ新鮮な緑野菜。実に無難な選択にしかし妙な既視感を見た少女は、それがエルフの森の露店に並べられていたものと近しい雰囲気であるのに気付いた。自分も取り寄せておけばと思うのも後の祭り、そもそも此処に来るまでに鮮度を保てないだろうが。
次に禿頭二人が、何の獣のそれとも分からない重厚な肉を、大雑把に切り分けてから放り込んだ。肉汁が一気に熱湯の中へと浸透し、青味ばかりの味気無い鍋が瞬く間に見た目のボリュームを文字通り嵩増しさせる。食の細い少女が喉の下で唸った。
最後に老人が調味料らしき液体を容器から数滴落として、後は軽く備え付けの棍棒でかき混ぜるばかりというところで、不意に魔族が声を上げた。
「ああ!調味料なら、私が故郷からくすねてきたとっておきがあるよ。入れても?」
唐突な申し立てにいの一番に怪訝な表情を向けたのは、またも禿頭である。
「……どういう腹積もりだ?言っとくが、妙なもん入れたらジジイが気付くぞ。これまでに居たそういう奴らは全員シメられたぜ」
「いや、そんなんじゃないって!何なら毒味だってするし、味も保証するよ」
「お前がそうでも、人間にとっても無害かは分からねぇだろ?」
「それはまあ、そうだが……そんな代物なら悪巧みには使わないし」
「ダメだダメだ。んな胡散臭いもん入れられて堪るか」
「ええー。本当においしくなるのに……」
魔族の縋るような視線が、老人の方へと流れた。律儀に応じ嘆息混じりに歩み寄った老人が、魔族の取り出した小瓶の横から中の粉末を覗く。
「……見た事も無い品だが、特に異は無さそうだ。私は別に構わん」
「おい、ジジイ___」
「流石。話の分かる人は長生きするよ」
「もう十分だ。但し、味見はお前がするんだな」
「分かってる分かってる」
適当に頷いてから、魔族が粉末を鍋に二回振り掛ける。と同時に、食欲をそそる香りが一気に天幕の中を充満する。口角を吊り上げた魔族が禿頭の方を見ると、其方は面白くなさそうに舌打ちした。
さて、少女はどこか居心地悪く身体を窄めていた。こうなると具材を持ち合わせていないのは少女一人という事になる。同じ新入りである魔族すら掟を果たしているのに、自分だけお目溢し与ったのでは大変気まずい。何かしら手立てが無いかと懐を弄り、ややあって心当たりが指に触れた。
(いや、でもこれは……)
とそこで躊躇し、上着の左右を擦り合わせたり忙しなく辺りを窺う姿は、やはりと言うか挙動不審に思われたらしい。
「おい、何をしている」
「ひっ!?あ、いや……私だけ何も持ってきてなくて、申し訳無いなって……」
「……知らんのだから仕方あるまい。奴だって偶然だ、無駄に気に病むな」
「…………ええと。毒キノコなら、あるんですけど」
「はあ?」
居たたまれなさ余って少女が自分でも訳の分からぬ事を口走り出すのをそのまま阿呆を見る目で刺してから、老人は上着の下に潜るその手を引きずり出す。
「あ…………それはその、そう。触媒!魔法実験の触媒として採取してただけで、決して」
「……はあ。お前、これを食ったのか?」
「………………はい、すみません……」
「お前一人が冒されようがどうでもいいが、この場の全員に幻を見せる気か、全く」
何故それが少女の持ち物に収まっているのか、少女自身にさえ分からなかった。ただ、あれを初めて口にした時の感覚が如何とも名残惜しく、気付けば去り際にナイフが伸びていたのである。苦し紛れの嘘もさらりと見抜かれ、恥の上塗りをされた気持ちで少女は目に涙まで溜めていた。
「一応聞くが、初めから一服盛るつもりで持ってきたのではあるまいな」
「えっ。いや、そんな事は!絶対にないです、本当に!」
「そうだろうな。ならいい、貸せ」
それを詰めていた袋を取り上げた老人は、矢庭に手を突っ込み中身を掻き回し始める。てっきり粗雑に打ち棄てられるものと思っていたその行方に、少女は思わず目を見開いた。
「あっ、ちょっと……!?」
草の剥げた地べたではなく、今ぐつぐつと煮え滾っている鍋の中に、それは放り込まれたのである。
「あのっ!それ、え、いいんですか……?」
「解毒を掛けた。味は多少落ちるが、食える物にはなる。腹の足し位には申し分ない」
「へ、へええ。凄い……」
「大した術ではない」
実に大した事も無さそうに淡白な顔をする老人が、ふと、どこか遠い目をしながら呟く。
「……私もあれには一杯、食わされたからな」
「えっ?」
少女が疑問符を浮かべても、老人はそれ以上何も語らなかった。
「……何か、外が煩くないか?」
若い剣士がそんな事を言い出したのは、集いの輪の暖まると共に鍋も煮詰まらんとしていた、その最中。
「うん、居るね。魔物が三匹かな」
「はあ!?」
あたかも周知の事実のように述べる魔族に再び噛み付こうとする禿げ頭を、様式美のように老人が押さえ付ける。
「……気付いていたのなら、早く言え。おい駆け出し、一旦此処の灯りを全て消せ。鍋の火もだ」
「え?は、はぁ」
「早くしろ」
全員の心中を代弁してからの指示に少女が順ずれば、天幕に闇の帳が降りる。暗雲に埋め尽くされた上の空は既に夜、光源の遍くは閉ざされ、向かう人間の輪郭も分からぬ程である。何故か魔族の瞳ばかりが何処からとも無い光を妖しく揺らめかせており、何とも不気味の極みであるが。
示し合わせたかのように訪れた沈黙が、一、二。
……二十を数える辺りで、舌で舐め上げられるように静かに、破られる。
「……気配が、消えない……?」
「……寧ろ近付いてねぇか?」
冒険者達の間を、やおらに不安が渦巻き始める。
「……目の利く魔物なのは間違いないな。だがどうやって嗅ぎ付けてきた?」
「……前使った奴がヘマして餌をくれてったんじゃねえのか。それで味を占めてまた来たのかも知れねぇ」
「……ここ最近で魔物に襲撃された記憶は無いぞ」
「……ジジイがねえなら、この線はハズレか」
「……あの。普通に考えて、匂いじゃあ……?」
「……馬鹿も大概にしろ、外は雨だ。いくら畜生の鼻とは言っても……」
「…………あー……」
的外れと切って捨てられそうになった少女の意見に、思い当たり有りげに目を逸らした魔族が、苦々しい愛想笑いのまま言葉を捻り出す。
「……多分それ、私のせいかも。あの調味料、魔物好みの植物が原材料で、香りも結構キツいから……」
「おいいぃっ!?」
「バカッ、声が大きい……!」
制止の甲斐無く、それを引き金に、一気に魔物の土を蹴る音が迫る。絶え間無く鳴るそれはやはり、複数で間違いないらしい。
「……仕方無い、どうせいずれはこうなった。此方から打って出るぞ、前衛を誰か」
「俺が行く!」
渋面しながらも姿勢を立ち直す老人の言葉尻を待たず、弓矢の如くに飛び出して行ったのは、若い剣士。
「ちょっと、一人で先走らないで!」
「私がカバーする。責任もあるしね」
気持ち刃渡りの短い剣を腰の鞘から滑らせ、魔族がその背を追う。それに遅れて続く残りの冒険者達に押されるように、少女もまた脇に立て掛けていた杖を両手に取り駆け出した。
屋根の下からでも察せられた様に、雨の勢いは丁度最盛に至る頃であった。それが冒険者達にとっては幸か不幸か、少なくとも少女にとっては不幸でしかなく、拠点から繰り出して数歩で立ち止まった禿頭二人に老人と弓手の背、更にその後ろの雨除けからギリギリはみ出さない位置に陣取った。罪悪感が無いではないが、この場に不公平と叫ぶ余裕の有る者は居ない。
見通しの明瞭でない中、先に切り込んだ前衛二人の姿を漸く見留める。
相対するは推測通り、魔物が三匹。四足で俊敏に動き回るその影は、宵闇に同化した輪郭からでも狼に似たものと見て取れる。匂いに敏いのも頷けよう。
重ねて形容するが、姿相応の素早さを遺憾無く発揮するそれの一匹は、愚直な剣士の太刀筋の悉くを見切り、ひらりと布の様に翻弄する。
攻撃が空振る度に覗く隙を抜け目無く突こうとする残りの二匹の牙は、しかし届かない。もう一人前線を張る魔族が、未だ青い剣士の業の穴を的確に埋める立ち回りをしている。針穴を通す域の剣技でそれを可能にする魔族の類稀な状況把握能力を感じ取り、少女は唾を呑んだ。
だが、それでも戦況の推移が早過ぎる。それは魔物の敏捷性も一つだが、何より若い剣士の戦いが前のめりなのだ。反撃を厭わず盲進する剣は場合によっては才にもなり得るが、この時に限っては上手くない。技術は長けても速度に欠ける魔族との間に、どうしても溝が出来る。
そこを強かに狙う魔物の鼻先を、一筋が過る。弓手の放った矢だ。魔族の対応できない、かつ味方に当たらないタイミングを射止める一発。それは魔族のと同じ技術である以前に、あの直線的な剣士と組んでいる経験が成せるものだろう。
しかし、これだけの支援が有って尚万全ではなく、魔物の攻撃が時折、前衛二人の身体を掠めるのが少女の目にも見えた。されど戦局は傾かない、その原因に気付くのには少し間が要った。老人の補助魔法だ。百戦錬磨を匂わせる彼が何もしないのも考え難い話だったが、剣士二人が傷を負った側から暇無くそれを治癒し、戦線維持の要となっている。二人の剣速が一向に衰えぬ辺り、身体能力強化の魔法も重ね掛けされているかも知れない。
目紛るしく動く戦い。後衛二人さえもがそこに各々の役割を見出だしているのに、少女はそれを目で追うのがやっとだった。せめて何かしてみようと杖を構えても、未熟者の為す事では全てが裏目と化す、そんな臆病風が少女の四肢に絡み付く。少女が情けなく愚図る間にも、拮抗した状況は続いている。
そう、人数差に加え、その巧みな連携を以てしても、互角なのだ。それはまず、降雨の冒険者側に与える不利が一因と言って良いだろう。前衛は泥濘に足元を取られ、後衛は視界の悪さから満足に敵を捉えられない。対して敵は夜の雨を苦にせず活動する野生の魔物、その差は歴然。剣士の剣も弓手の矢も、未だその皮を掠めるにも至らない。
そして、この様相が変わらなければ、間違いなく最後に立っているのは魔物の方だ。いくら老人の援護が有るとは言え、体力面の優位は明白に魔物に有る。特に二匹を相手取らされている魔族の消耗が著しい。相変わらずの鉄面皮はそれを尾首にも覗かせずにやけ面を張り付けているが、果たして何時まで持つか。
「あの、貴方達は加勢出来ないんですか!?」
辛抱ならず、我が身は棚に上げながら、少女が戦闘開始以来棒立ちの禿頭二人に訴える。
「馬鹿野郎!俺達の仕事はお前ら後衛の護衛だ、あいつらの内一匹でも此方を狙ってきやがったらどうするってんだよ!」
「第一、重装備の俺達じゃ彼処に混じっても邪魔にしかならねえ!素人は黙って見とけ!」
普段の一割増し荒い声色で全くの正論を叩き付けられ、少女は目を潤ませつつ沈黙する。最後尾に居る彼女のそんな表情をまさか見る者も無く、戦闘は続き、そして暫く。
恐らくそれは、最悪の方向へと進展した。
「……まずい、新手だ…………!」
老人の苦渋一色の声が、荒天の不快な空気をいよいよ底へと落とす。
初めその言葉の示す先が分からなかった少女にも、程無く認識が追い付く。
鳥型の魔物が一匹、戦場の真上を旋回していた。考えるに戦いの余波を感じ取り、お零れを頂こうと飛来したのだろう。小柄で非力を思わせる体躯ではあったが、この盤面への影響力としては決定的過ぎる。
「上に居るわ!二人共気を付けて!」
弓手が張り上げた声は、しかし雨音に遮られ掻き消えてしまう。目前の狼の魔物に囚われたままの剣士は、その存在に気付かない。魔族の方は勘付いた様な挙動をしてはいるが、そちらに気を払う余力は残っていないようだった。
急ぎ対処する必要性を見た弓手が、一旦狙いを変え、鳥の方へと矢を射掛ける。
「っ、当たらない……!」
が、此方もまた機動力に物を言わせ、連射される矢も児戯を遇うが如くに往なされてしまう。弓手では最早どうにもならぬと咄嗟に判断を切り替えた老人が、前衛に向けていた手の片方を厄介な敵へと向け、
「っぐ、くそ……!」
しかしそれを、即座に戻さざるを得なかった。並行する瞬間、注意の散逸した魔族が足に狼の爪の一薙ぎをまともに食ったのである。この場では一秒の遅れすら致命的、攻撃に転じようとした手も回復にまた割かねばならない。
(どうしよう)
弓手の攻撃は当たらない。老人は前衛の支援で手一杯。禿頭二人は後衛から離れられない、鳥型の魔物の強襲を慮れば尚更だ。
(どうしたら)
少女は葛藤していた。否、本来、迷うべき選択肢等既に無かった。何か出来るとしたら、己を置いて他に居ないと。
しかし。其処まで至って未だ、少女は怖気付いてしまう。目と鼻の先、万の針が突き刺さるような雨の下へ、その一歩が踏み出せない。
何が出来ると言うのか、この小さな自分に。
自分より経験も、技術も熟れた冒険者がこれだけ居ても、有効な打開策を打てていない。そんな中での己の行動が、意義を持ち得るものなのか。いや、変化をもたらす可能性は有るだろう。負の方向にだ。自らの愚行が彼らを諸共に終わりへと叩き落とす。
それが堪らなく、恐ろしい。
若い剣士の勢いに、遂に鈍りが滲んでいる。攻撃を躱し切る事を諦めた魔族の身体は既にボロボロだ。矢を支える弓手に苛立ちが見える。老人は援護を絶やさず、その上表情を歪ませながら思案を繰り返している。何かしたくても戦況を見詰めるしか出来ない禿頭二人は、歯噛みして得物を握り締めている。
それでも。
やはり、私がやらなくてはならない。
私だけだ。
脳裏に、朧な幼き龍人の面影が瞬く。それが微力でも、成し得る事は有るはずだ。状況を徹底的に俯瞰した上で、自分の思う最善を尽くしたなら、それはきっと無駄にはならない。現状を打破するには至らぬとしても、此方には優秀な冒険者達が傍らに居る。或いはそれを糸口に大団円へと導いてくれるかも知れない。
まず、対峙する敵を見る。やはり速い。照準を絞るのが現実的でないのは弓手の様をしても明らかだろう。ならば範囲攻撃か、しかし前衛を巻き込む懸念を拭い切れない。万一それすら避けられた場合、此方が一方的に不利を被る事になる。即ち、必中の攻撃が最低条件。しかし少女の魔法の抽斗に、対象を追尾する等の都合の良い代物は入っていない。ならば、残る術は何だ。
必死に思考を加熱させようとするのに、横風に煽られ少女の肌を打つ冷たい雨水が邪魔を挟んでくる。少女の情緒に波風が荒む。それは己の無力を嘲笑うように。己の決意を踏み躙るように。
(まただ)
この期に及んでもまだ、お前は私の心に纏わり付いて___!!
「…………あっ」
忌々しさ余って見上げた視線が、ふと止まった。
犇めく暗灰から、雫が落ち続ける。
すべてを、等しく、濡らしている……。
「おい、何ぼーっとしてんだ!」
「素人が余計な気を揉むな、今は自分の身だけ考えてろ!」
禿頭二人の声が、薄い膜の向こう側のように聞こえたのを無視して、杖を構える。老人が激情の奔流する表情を此方に向けた。何事か叫ぼうとして、しかし強く目を結んでそれを諦め、直ぐに注意を前方へ返す。彼も観念したのだろう、少女の手一つでも無ければこの局面は覆せない。少女もいよいよ覚悟を決めた。尚も蔓延る迷いもその切先に募らせるつもりで、鋭く魔力を研磨する。泥龍の鱗を伝わる魔力は極めて純化され、魔法の象をより精緻に練り上げていく。
どうしても、前衛の巻き添えは避けられない。だが、今この難局を作っているのは、間違いなく敵の敏捷性だ。それさえ潰してしまえば、前衛が機能せずとも、後衛だけで連中の始末は付く。確証は無いが、頼りはその予想図一つ。奴らも生物であるのなら、可能性は八分にも届くはずだ。未だ動かない足はせめて大地に力一杯押し固め、胸を破らんばかりの拍動、吹き溢れそうな程の不安を抑え込むように、一度限り頷いて。
斯くして、少女の魔法は完成する。即ち、それは___
降り頻る雨水から、温度を奪う魔法。
指定する範囲は、白兵戦下の一帯。
「っうわああっ!?」
「つめっ、たっ…………!?」
不意に穿たれる冷気に、前衛二人の動きが固まる。急速に体温を削ぎ取られ、剣を掴む指先も震え、既に戦闘を続けられた格好ではない。魔物からすれば、それ以上の無い垂涎の隙。
そしてそれは、その魔物に於いても同じだった。
迅速な足回りが、軽快な飛翔が、ほんの一時でも翳る。
「っ弓手さん!」
「分かってるわよっ!!」
「__ッ!」
少女が声を上げた時には、矢が風を貫いている。老人も瞬時に援護を中止し、礫石の弾丸を魔物へと射出した。
鳥の急所に矢尻が刺さり、地に落ちた。間も無くして、狼三匹の頭部から血飛沫が舞う。
断末魔さえ無く、残響するのは水の音。
「や……やったのか?」
「…………お、おおお!やったぞぉぉーーッ!!」
禿頭二人の安直な歓声が上がり、やっと少女には、夢遊する意識を取り戻す感覚がした。
波乱の襲撃を凌ぎ切り、再び天幕の下へ戻る頃には既に鍋の中身は冷め、葉も肉もすっかりふやけてしまっていた。しかし激戦を後にしての晩餐という状況が持つ魔力か、はたまた魔族御用達の調味料が呼び寄せた面倒を帳消しするに足るかはさておきその務めだけは果たした訳か味に申し分は無く、疲労も何処へやら食卓は全く冒険者らしい旺盛に包まれていった。
この時には少女もすっかり場に溶け込んで談笑出来るまでになり、それは絞りに絞り出した勇気への褒賞のようで、何時かに覚えの有る温かみが胸元に溢れ出ていた。半信半疑のまま口に放ったキノコの毒が確かに抜けているのに感心しつつ、物足りない弾力と刺激が手招く誘惑を振り払いながら。
毎度恒例の仕来りで、夜には二人一組の寝ずの番を交代で置き、食事の席或いはその後で委細を相談する決まりになっている。
のだが、さてこれが一筋縄ではなく、二人一組というのは無防備な睡眠中に良からぬ気を起こす者が無いよう互いに監視する意味も有る為安易に同じパーティの者同士を組ませるという訳には行かない。そんな訳で禿頭並びに幼馴染二人組はそれぞれの片方を交換する形に落ち着いたが、問題は残った奇数人である。先の理由に照らせば単独に任せるという択は無いので何れか一人が暇になる、よって初めは経験に乏しい少女が自然とその枠に収まる赴きだった。しかし途中で何やら風向きが変わり、その結果。
(な、何でよりにもよって)
「…………なんだ」
「い、いえ」
当惑が口を衝いて出かけるのをどうにか堪える少女の傍らに居るのは如何にも、仏頂面という言葉のこれ程似合う例も無い表情で地に座している老人である。
第一別に二人という数に拘る訳合いは無く、三人で番を受け持っても良かったはずだ。ところがその内の魔族本人から提案があり、いち早く魔物の襲来を察知していた彼女はどうやら種族特有の感応能力を持ち合わせているとかで、天幕の中且つ仮眠状態でもこの感覚は利くと言うので彼女は一晩通してのバックアップ要員として屋内で待機する事になった。一見熟睡の許されない損な役回りだが、結局外の少女達からでは彼女がその通り半覚醒を保っているか等確かめようも無い。何より少女にしてみればこの息苦しさ極まりない空気感を押し付けられた始末でしか無く、言外にも不服の意が浮き彫りだった。
長い、沈黙。
(き、気まず)
祖父程も歳が離れた老人と二人では、話の種なんぞ虱潰しに探したとて見当たらない。眠気も寄り付かないこの状況で別にお喋りに興じる必要も無いのだが、しかしそれでは謎の緊張感に押し潰されてしまいそうで堪らなかった。密かに夜の闇に融け消えたいとさえ願って、しとしとと零れる夜雨の存在を思い出しては心根が尚更冷えるだけだった。
「さっきは、やってくれたな」
「えっはいっ!…………は、い?」
出し抜けに話し掛けられ、遂に心臓が止まる錯覚までした少女の口からは機械的に返事だけ吐き出されてしまう。これでは可笑しいと気付いたのは直ぐで、老人の発言の意図を吟味し直しては。
「…………あ、の。やっぱり、まずかったですか」
「上か下の二つで言えば、まず下だな。彼処での負け筋は此方の前衛が先に動けなくなる事だ、それを自ら招いたのは愚策と言う他無い。敵は夜間や雨天での活動を苦にしない魔物、温度変化に耐性を持っている可能性も考慮すべきだった」
「ぅう」
頑張ったのに、なんて不貞腐れられる程、老人の論は的を外していなかったし、それを素直に認められない程少女も幼稚ではなかった。
「天候を利用しようという着眼点自体は悪くない。だが雨水全てを対象にして前衛の二人を巻き込む事は無かった。魔物の身体に伝っている水滴、それのみを冷やせば十分。……お前には、それが出来ただろう」
「……ぁ」
そこまで説かれ、少女も完全に得心した表情に変わる。老人の方を見上げた視線も、次の暇を跨いでは自虐心に沈んでしまう。やはり自分如きが出す勇気なぞは、蛮勇以外の何物になるはずも無かったのだ。そもそも自分が居なければ、お荷物の減った禿頭のどちらかが機転を利かせられたかも知れない。いつもの悪癖でまた、憂鬱の泥沼に絡め取られていく。
「……だが、まあ。急を要した場面だったのは事実。あの状態が続いていれば、何れにせよ皆五体満足とは行かなかっただろう。私の視野も狭まっていた節は有る故、こう文句ばかり付けられた立場では無しに…………」
「…………?」
「あー。だからその、つまり、なんだ」
思考の澱み切って言葉の裏をどうにも読み取れていない少女の視線に、老人はぎくしゃくした挙動の末、漸くそれを吐き出した。
「お前は、よくやった」
「____っ!」
そのたった一言で、少女の胸中を覆う雲が晴れていく。
(無駄じゃなかった)
その時、遂に確信できた。
まぐれでも、借り物の光でもなく。自分の力、自分の手で、手繰り寄せた。
(私にも、できたんだ)
「……何故、泣くんだ」
「ごめ、んなさい」
「全く、若者の扱いは分からん…………」
心を浸していた水は、眼から流れ出てしまったらしい。
初めて表に出た老人の困惑の感情を笑おうにも、不格好な泣き笑いにしかならなかった。
「……お前は、一人旅の身だったか」
「……?はい」
少女が一頻り泣いた後で、ふと老人がそんな事を問い直した。
意図が量れず、暫く少女はその顔の機微を眺めていたが、老人は「そうか」と返したきりで、以降は今や馴染みの無表情。よくよく凝視すれば口の端が時折歪んでいたので、何か言葉を探しているらしい事は分かったのだが。
その様だけで少女は何秒とも付かぬ時間を潰せたのだが、やがて老人が「いや」とだけ呟くと、いきなり平時以上の厳めしい面を少女の側へと向けた。思わず少女が怯えた声を漏らすのに微かに反応したのは、まさか悲しみからでは無かろうが。
「……ここは、単刀直入に言おう。何、要はものの相談だ。別にお前の存意でどうこうならない様な面倒ではない」
単刀直入にと口にしながら諄い断りを入れてから、意を決したように老人は伝える。
「私と共に来る気は無いか」
呆然。
そうとしか表現し得ない空白が、場を占めた。
「……え?」
「……ええい、言い直さねばならんのならもういい」
「あ、いやっ!意味はわかります!わかります、けど……」
どうして。少女が尋ねる前に、老人は粛々と答える。
「……火を作らせた時から考えていた。お前の魔法は細部が粗く、魔力の使い方にも無駄が多い。初めは技術の甘さだと思っていたが…………先程の戦いで腑に落ちた。お前の魔法には、基礎が無いんだ」
ここまでのところ、言われたい放題である。目に余るまでに程度が低いので、真横からその性根を叩き直してやる、位の話が続くものと少女は悲観していたが。
「無論それは短所だが、一方で悪い意味ばかりでもない。その分が伸び代になる上、基礎が無いという事は、即ち型に囚われていないという事だ。歳も若い。それでいてお前は自分の扱う術式の、言うなれば理屈が理解できている。その魔法は如何様にも昇華する可能性を秘める」
そこまで話して、老人の翠眼が初めて、少女の同じ色のそれを確と見据えた。
「お前のような魔術師にこそ、私の魔法を教えてみたい」
少女の口は半開きのまま、返事するのも忘れていた。今日は何だか自分には不似合いな嬉しい言葉ばかり贈られて、明日の我が身をつい案じてしまう。
同時に、悪い誘いではないと感じていた。そもそも少女の単身旅という時点で無理は多かった、そこに老人程の道連れが伴ってくれるならば信頼には十二分、更には魔術の知恵まで授かれるという。悪い誘いでないどころか、受けない理由の目星が付かないとも言って良い。
それでも何故か少女は、考え無しに首を縦に振る気にはならなかった。
「……私とて魔術の道は半ばだ。必ずしもお前の才能を引き出せるとは限らないし、端から私の見込み違いという事もある。変に悩む程なら話半分で良い」
黙してばかりの少女に手応え薄しと見たか、言い訳らしきものを宣い始める老人。意外と人間味も有るな、なんて不躾な感想が少女の頭を掠めつつ。
「ええ、と。このキャンプの事は、良いんですか?」
「……番人云々は奴らが勝手に言っている事だ。飽くまで私は一介の冒険者、此処にさしたる柵が有る訳ではない」
検討する時間稼ぎに投げた問いも至極あっさりと返されてしまった。どうしたものか、少女は考える。
少女が拘っているもの、多分それは意地だったのだと、少女自身は思っていた。
誰にも口出しされず、感化もされないその目で写す世界の中で、自分一人で掴んだ強さで以て胸を張りたかった、そうだと思った。
だが今までの一人旅を振り返っても、行く先々で出会った人々から得たものは数多い。寧ろ一人だけでものにした何か等、一つとして無いのではないか。それならこんな意地には、何の意味も___。
そこで漸く。かつて巡り合わせた者達の姿に想いを馳せた時。
自分はただ一人旅が好きなんだと、少女は気付いた。
一人の心の向くまま世界の各地に赴いて、其処で一期一会の邂逅をして、そうやって手にした宝物に彩られる思い出を、後で微笑み交じりに追想する。
そんな旅を、少女はしたかった。
「……ごめんなさい。それでも私は、一人で行きます」
「……そうか」
少女が虚飾無い意志を伝えると、老人も大人しく引き下がった。
……ように窺えて、心底物惜しげな面持ちをしているのを見ると、つい少女も心苦しくなってしまうのだが。
「…………馬鹿者。清々しげにしとった癖に、そんな顔になるな。お前自身で行き着いた答えがあるのなら、それこそが最もな道だ。老体に対する義理立てなんぞは要らん」
そのぶっきらぼうな物言いの芯に通る微温も、ここまで来れば少女の胸にも届いていた。だから、次に老人から差し出される右手を、やっと何の気後れも無く握る事が出来る。
「貴女の旅路に、幸多からん事を」
「……ええ、其方こそ」
こうして、また一つ少女の小さな足跡が、真っ新な世界図の一点へと刻まれる。
まだまだ、先の長くなる旅だ。
翌朝。
雲一つすら消え失せた蒼天と、誰一人残らず立ち去った天幕の下を重ねると、まるで昨夜のあらゆる出来事が夢幻だったかのようにも思える。
だが、そんな事は決して有り得ないと、無人の卓上に未だ置かれたままの七枚の器が何より雄弁に表している。そうして冒険者達は、自らが存在した証を続く冒険者へ残すのだ。その身に繋がる手掛かりは何も無い、しかし確かに此処に居た証明を、脆く質素な土の器に。
当然それは、必ずも同じ場所に帰って来られる生業ではないと知っているから。実際そんな人間を、老人は果ても無く数えている。彼らは生きた上で戻らないのか、死んでいるのかさえ分からない。その手形のみでも保証できるのは、老人の記憶の中だけだ。
そんな儚い者達を“生かす”。漠然とした使命感が、老人を此処に縛り付けていた。それも昨日で身を引く位の心持ちで居たが、結局空振りに終わってしまった。老い先短い爺が年端も行かぬ少女を唆して、自分で思い返しても呆れて苦笑してしまう。夜が明けてからあの魔族に「見事に振られたねえ」等と揶揄われた時は流石に癇に障ったが。
兎も角、あの少女も、魔族も、若い二人組も。皆の名残を拾えるのは、次に訪れる冒険者だけだ。禿頭共……は、何だかんだでまたひょっこりあのややこしい面を出しそうだが、それも希望的観測に過ぎない。
そして、それは老人も例外ではない。彼らが幸いにして此処に帰り着いたとしても、其処に己の姿も在るとは限らない。
「……当たり前の事、だ」
奇跡と言う程綺麗でもない何かで、それでもまた逢えたその時、何の事と無しに出迎える為に。
老人は『番人』であり続けるのだろう。