今宵は月がない。一番明るい光が消えた空に、星々がよく輝いている。
人里から離れた野山にて、木の洞に隠していた刀を抜く。手に馴染む重みを振るうと、いくらかの枝葉が散った。す、と息を吸い、細く吐く。重心を下げ、刀をもうひと振るい、と思ったところで、背後にひとの気配を感じた。それも、よく知る「あいつ」の気配ではない。もっと軽く、歩幅も小さく、何かを探しているような、少し自信のなさそうな。
この場所を知るのは俺とあいつ、そしてあの方だけで、夜更けにわざわざひとが来るような場所ではない。さて、ただの迷い人か、それともあいつの遣いか何かか。どちらにしろ、俺が気にしてやるようなことではない。改めて集中しようとしたとき、こちらに気付いたのか足音が小走りになり、がさりと茂みをかき分けた。
「お稽古中に失礼します、
名を呼ばれ振り返る。その手にある提灯に顔を照らされ、まぶしさに目を細めた。俺の名を呼んだのは、額に大きな痣のある少年だった。鬼殺隊の隊服に、日輪刀。
「瑞代時永は俺だが、何か用か」
そう答えると、彼はひとつ大きく息を吸って、覚悟したように口を開いた。
「俺は鬼殺隊の竈門炭治郎と申します。煉獄杏寿郎さんの訃報をお聞きでしょうか」
その名を聞き、あいつの顔が脳裏に浮かぶ。
いつも笑っている男だった。浮かんでくる記憶の中の大半で笑っているのだからいっそ大したものだと思う。その呼吸と同じく、炎のようなやつだった。
聞いている、と返すと竈門炭治郎はひとつ頷いて、続けた。
「煉獄さんから、貴方に託を預かりました」
友へ、と彼の少し震えている唇が音を紡ぐ。涙の張った大きな瞳が、提灯の炎に合わせてゆらりと揺れた。
***
俺は幼いころから扱いにくい子供だったように思う。
政府に勤める父、その父を献身的に支える母のもとに生まれ、優しい両親のもとで裕福に暮らしてきた。ただ俺は元来ものごとを深く考えるということが苦手で、ただただ感情のままにやりたいことは反対されてもやったし、やりたくないことはどれだけ勧められてもやらなかった。良い家庭教師をつけられても平気で逃げ出し、裏の野山で駆け回っていた俺をよく両親は見捨てなかったものだと思う。
勉学には不思議なほどに興味がわかなかった。文字を読むことすらおっくうだったこともある。父には優しく諭され、母には涙ながらに説教され、申し訳なく思いつつも俺は逃げた。自然の中でただ「生きる」ことだけを考えているほうが心地よかった。守られた家の中で過ごすよりも、ずっとそちらのほうが「生」を実感できたからかもしれない。
「お前みたいなやつには、学より刀の方が向いてるぞ」
俺にそう言ったのは、いつものように野山を駆け回っているうちに出逢った老人だった。普通ならひとが入り込まないような深い山奥に粗末な家を構え、隠れるようにそっと生きていたその爺さんは、俺に師匠と呼べ、と言って棒切れを投げ渡した。そして俺がその棒切れを受け取った瞬間、背後にあった大木まで吹っ飛ばされたことは今でも根に持っている。
「俺が持っていたのが真剣だったら、お前はもう死んでるな」
にやにやと棒切れを一振りした爺の顔に、俺はかつてなく、それはもう心底ムカついた。とりあえずあの顔に一発くれてやりたいと、俺がその爺から剣術を習い始めたのはそれくらいの理由だったように思う。しかしこれがまた腹の立つことに、そこから俺は爺の思惑通りに剣術にのめりこんでいったのだった。
二年、三年と何も変わらないまま月日が流れた。それでも俺は爺の顔面に一発を叩き込めずにいる。両親の手前、とりあえず毎日家に帰ってはいたが、ほとんど寝に帰るだけになっていた。剣をふるうこと以外頭にない俺に何を感じてか、唐突に爺は言った。
「お前、剣で生きていくか」
何気ない言葉だったが、なんとなく適当に答えてはいけないと感じた。
剣で生きるという道があるのなら、それはきっと楽しいだろう。楽しいだろうとわかるのに、迷いなく頷くことができない自分に気付く。
脳裏に浮かんだのは、困ったように微笑む両親の顔。
「……」
言葉が出てこない。何を今更、と自分の声が聞こえる。そうだ、今更だ。優しい父と母に甘えてなすべきことから逃げ回り、そして剣術にのめり込んだ。これからも剣を振るって生きていくのなら、それはきっとこの上なく幸いのはずなのに。
その道を選んだら、今度こそ父は俺を見限るだろうか。今度こそ母は、泣くのだろうか。欠片ばかりの良心が、きりりと痛む。
そんな自分に、自分が一番驚いていた。俺に、ひとを想う気持ちなんてものがあったのか。俺はそんなことも、わかっていなかった。
「時永」
考え込む俺に、いつものようににやにやと笑う爺が、言った。
「俺はそろそろ住処を移す」
「!」
「お前が剣に生きるなら連れてってやってもいいと思っていた。だがな、心残りがあるやつは連れていけねえ。どっちにしろもう俺が教えることは何もねえしな」
お前の在り方を今一度考えろ、と爺は笑った。笑ったまま、去って行った。勝ち逃げか爺、と憎まれ口を叩くが、もう返事も拳も返ってこない。
もう剣を交える相手がいないことに、途方もない苦しさを覚えた。
***
自分の在り方がどうとかは、結局よくわからない。というより、四半時で考えるのをやめた。考えることは面倒で嫌いなのだといつも言っている。
だが、せめてと思って父と母とは話をした。ちゃんと向かい合って話したのは、随分と久しぶりだったような気がする。
剣の鍛錬をしていることを初めて伝えると父は頭の痛そうな顔をしていたが、人様に迷惑を掛けてないのなら良い、とため息混じりに言ってくれた。そして問われる。お前はこれからどうするのだ、と。
「思うことがあったから、こうして話をしに来たんだろう」
その言葉は、思いのほかするりと俺の口からこぼれ落ちた。
「今後は勉学に励みます。でも余暇の時間で剣の鍛錬をすることは許してください」
俺の言葉を受けて即座に医者を呼んだ両親にはさすがに閉口したが、まあ悪いのは俺の日頃の行いなので大人しく診察を受けた。もちろん完全なる健康体である。
そして俺は、陽の出ている間は瑞代家の跡取りとして勉学に励み、夜が来れば野山で棒切れを振り回すという生活を送ることになった。後悔をしているかと言われればしていない。勉学は好きではないし、相応しい振る舞いや愛想笑いまで教え込まれるのは窮屈でならなかったが、それでも夜になると出掛ける俺を両親が笑顔で送り出してくれるようになったのは、やっぱりちょっと嬉しかったのだ。どうやら俺は自分で思うよりもずっと、父母を慕っていたらしい。
とは言え、爺がいなくなったのは退屈だった。なんと言っても剣を振るう相手がいない。ひとりでも稽古はできるが、やはりできることは限られる。誰でもいいから、全力で腕を試せる相手はいないものだろうか。そう思っていたが、まさか本当にそれが叶うとは。
月明かりのもと、俺の目の前に現れたのは異形の「何か」だった。
「人間……あァ、人間だ」
ひとのことを「人間」呼ばわりするのだから多分人間ではないのだろう。ひとに近い形をしているが、血なまぐさいし腕が四本ある。はて、これは何なのだろう。何なのかはわからないが、その爪と牙で俺を狙ってきた以上はやり返してもいいはずだ。
正面から飛びかかってきた「それ」に、ただまっすぐ棒切れを振り上げ、まっすぐ振り下ろす。基本中の基本の動作だが、それゆえに日頃の鍛錬の成果が出る。「それ」の頭の頂点が割れ、血が吹き出した。ふむ、手応えあり。しまった一発で終わらせてしまったかと残念に思ったそのとき、「それ」は再びこちらに飛びかかった。反射的に横なぎで棒切れを振るう。少し離れた木に叩きつけられた「それ」は、にやりと笑って頭から流れ落ちる血を舐めあげた。
「そんな棒っ切れじゃ死なねぇよォ」
「えっ本当に?」
「おい何で嬉しそうなんだてめェ」
これが喜ばないでいられるだろうか!
人間でないなら加減もいらず、どれだけ打ちのめしても倒れることもなく、爺よりは遅いが人間離れした速さをもっている。こんなに素晴らしい稽古相手がいるものか。これも孝行息子に生まれ変わった褒美なのだろうか。神か仏か知りませんが明日からも勉学に励みますありがとう。
試したかった技も戦術も山とある。俺は嬉々として棒切れを握り直した。
「全部試し終わるまで死なないでくれよ」
結論から言うと、全部は試せなかった。夜明けがきて朝日が顔を出すと「それ」は塵と消えてしまったからだ。なるほど、攻撃は効かないが日光に弱いと。ますます化け物なのだなと妙に納得する。「それ」が何やら喚きながら消え去ったのを確認すると、俺は夜半からずっとこちらを覗き見していた気配の方に顔を向けた。
「ずっと見ていたようだが、何の用だ?」
金と赤の混ざる髪が、朝日に反射して燃えているように見える。同じ年頃に見えるその少年は、俺に快活な笑顔を向けていた。
「気付いていたか! いやすまない、随分と楽しそうだったのでな、邪魔するのも悪いと思って様子を見ていたのだが」
「そうか。気遣いをありがとう。用がないなら俺は帰るが」
「いや待ってくれ。君、素晴らしい腕だな! 何者だ?」
「俺? 瑞代時永」
「そうか! 俺は煉獄杏寿郎だ!」
よろしく頼むと言われたがよろしくの意味がわからない。ただ、相対すればわかる。こいつは、強い。その腰に帯びている刀は飾りではないようだ。しかし、この廃刀令のご時世に堂々としすぎてはないだろうか。
「鬼を退治しに来たのだが先を越されてしまったな!」
「鬼? これ?」
「知らないで相手をしていたのか?」
知らないよと返して塵も残っていない地面を見る。鬼といえば二本角の赤鬼を想像するのだが、本物の鬼はそうでもないらしい。いや、そういえば顔色が青白かった気がするから青鬼の仲間なのかもしれない。
「鬼を木の棒で相手をして勝った者の話など聞いたことがない。君はすごいな!」
「そうなのか。で、俺帰っていい? 朝食までには家に戻らないと」
「むう! もっと話がしたいがそれならば仕方がない! 君はいつもここにいるのか?」
「毎晩いるよ」
「そうか! ならばまた夜に来よう!」
へんなやつ、と思いつつ背を向ける。
これが俺と杏寿郎の出逢い。そしてこの日から杏寿郎は暇ができればこの場所へ来るようになり、俺の鍛錬の相手をするようになった。
恥ずかしい言い方をすれば、俺にとって唯一の友と言える存在になったのである。
***
「鬼殺隊に入らないか?」
「入らない」
さて、この問答を何度繰り返したのだろうか。何度も断っているというのに、杏寿郎ときたらとにかくしつこくていけない。
鬼のこと、その殺し方、そして鬼殺隊について、杏寿郎は丁寧に教えてくれた。そんな異形の化生が跋扈しているとは、政府に務める父からも聞いたことがない。そう言ってみれば、何と政府はその存在を認めていないのだとか。民のためにも必要な仕事だろうに、と首を捻る俺に、杏寿郎はただただ苦笑した。
「非公式な組織だからな。だが時永の腕なら大歓迎だぞ。一緒に鬼を殲滅しないか?」
「断る」
「むぅ!」
食い下がりはしないが諦めもしない杏寿郎を面倒に思いつつ、木刀を握る。この木刀は杏寿郎がくれた。棒切れよりはましだろうという配慮を有難く受け、杏寿郎とも木刀で打ち合いをしている。
予想していたよりも遥かに杏寿郎は強かった。爺に学んだとはいえ我流が強い俺にとって、基礎がしっかりしている杏寿郎の剣術は新鮮で、興味深い。聞けば父親から稽古を受けたのだという。
「父上は元炎柱でな! とても強い!」
「柱?」
「その名の通り、鬼殺隊を支える九人のつわもののことだ。煉獄家は代々炎の呼吸を操る炎柱を輩出している。俺も鍛錬を積んで立派な柱にならねばならない!」
ほう、と俺は頷いた。呼吸というものについても何となくだが理解している。杏寿郎曰く俺も会得しているらしいが、いまいち実感が薄い。爺が何やら説明していた気もするが、俺が聞いていないとわかった否や「ええい実戦あるのみ!」と棒切れを叩き込まれたことだけは覚えている。痛かった。
「……父上も、今は少しお疲れのようだが」
杏寿郎にしては珍しく小さな声でつぶやき、俯く。しかし一瞬後にはまた顔を上げていつもの笑顔を見せた。
「きっと俺が炎柱として認められればまた元気を取り戻してくださるだろう! よし時永、もう一本だ!!」
「ん」
何やら能天気馬鹿に見える杏寿郎にもいろいろあるようだが、まあ俺には関係ない。剣を交えたいというので喜んで受けて立った。
そうやって稽古をしたり、話をしたり、稽古をしたりして少しずつ杏寿郎との付き合いが長くなっていく。昼間は昼間で父の知り合いの子息子女と交友を持つこともあるが、まあ俺と話があうようなやつはおらずいつも適当に猫をかぶっているので、杏寿郎は数少ない気を使わなくてもいい人間だった。それについてほんのわずかくらいは有難いと思わなくもなかったが、後が面倒な気がするので絶対に言わない。
俺はあまり喋らなかったが、杏寿郎はよく喋った。家族のことや鬼殺隊の仲間のこと、最近食べて美味かったものや任務先で見たもののこと。何を話しているときも楽しそうな杏寿郎だったが、家族の話をしているときだけはたまにどこか堪えているような顔をしていた。杏寿郎なりの強がりで自己暗示でもあったのだろうが、一度それが決壊したときがあったのを覚えている。
「聞いてくれ時永! とうとう炎柱に任命された!」
「そうか。おめでとう」
「ありがとう! ああ誇らしいことだ、今後もますます精進せねばなるまい! 時永にも感謝している! 何せほかになかなか良い稽古相手がいなくてな。弟はまだ幼いし、父は、……父は」
その夜は月がなかった。宵闇に慣れた俺の目にも、杏寿郎の表情は見えない。
「……俺が炎柱になれば、何か変わるかと思っていたんだ」
それは杏寿郎が初めて見せた「弱さ」だった。らしくもない、というのは簡単だ。しかし、事情は知らないが「父」相手のことらしい。
父の期待に応えられなかったのか、息子の出世を喜んでもくれない薄情な父なのか、俺にはわからない。わからないが、家族とうまくいかないことの辛さなら、まあ、想像くらいはできなくもない。
「そうか」
しかし気遣いなど俺にできるわけもなく。ひとを慰めることなど考えたこともないし、無理に取り繕った言葉を投げたところで杏寿郎には響くまい。そしてきっと、杏寿郎自身、そんな言葉は望まない。杏寿郎は己を決して甘やかさない性質だし、何より意外と矜持が高いのだ。
となると結局、俺にできることなど限られている。俺は木刀を握り直し、地を蹴った。その木刀の切っ先で杏寿郎の喉元を捉えようとしたその瞬間、横なぎに払われる。身を返してそれをかわし、距離を取った。
驚いた顔の杏寿郎と、目が合う。
「朝まで付き合ってやる」
「……!」
「今日こそは俺が一本取るぞ」
「……何の! 一本取るのは俺だ!」
いつもの熱苦しい炎が、勢いを取り戻した。
俺と杏寿郎の勝負はいつも引き分けて終わらない。珍しくしょぼくれているやつ相手ならば一本取れるかと思ったが、結局その日も引き分けで終わった。夜明け近くなったとき何やら礼を言われたような気もしたが、聞こえないふりをして帰路につく。俺はいつも通りのことをいつも通りにしただけで、礼を言われる筋合いなどない。だからいつもよりほんの少し耳が熱く感じたことなど、きっと気のせいに違いないのだ。
***
いつものように夜半に現れるあいつの気配。しかしその夜は、もうひとつ知らない気配を連れていた。そのひとに合わせた足並みはゆっくりで、いつも走ってくる杏寿郎がひどく気遣う相手であることが伺える。いったい誰を連れてきやがったのか。
「おお、時永! すまんが少しいいか!」
少し太った月が杏寿郎ともうひとりを柔く照らす。金朱とは相反する、漆黒のような髪のひと。そう年齢を重ねているようには見えないが、頬に浮かぶ穏やかな笑みにはどこか達観したような風格さえ見えた。何となく察した。彼はきっと、杏寿郎が心底尊敬するひと、そして鬼のすべてを滅ぼさんとする鬼殺隊の長。
「……産屋敷殿、か?」
「ああ、よくわかったな! そうだ、こちらの方が鬼殺隊を統べる方、産屋敷耀哉さまだ。お館様、彼が……」
「うん、瑞代時永くんだね? 初めまして、鍛錬の邪魔をしてすまないね」
「いえ」
なんとなく敬語を使うべきなのだろうと、少し身構える。俺からすれば敬意を払う謂れなどないわけだが、下手に無礼をすると杏寿郎がうるさそうだ。それにしても何故わざわざこんな山奥まで足を運んだのだろう。そこの馬鹿のように勧誘をしにきたのなら面倒だなと、内心でため息をつく。
産屋敷殿はそれを察してか、ふふふ、と上品に笑った。
「勧誘にきたわけではないよ。もちろん君が来てくれるのならとてもうれしいけれど、何度も断られていると杏寿郎から聞いているからね。ただ君と会ってみたかった……会うべきだと思ったんだ。何となく、そんな気がしてね」
ひとつ、瞬きをした。勧誘でないことには安堵したが、俺に会うべきとはどういうことなのだろう。ちらりと杏寿郎に視線を送ったが、細かいことを気にしない鈍感馬鹿はどこ吹く風でただ笑顔を返すばかり。使えない。
「そう警戒しないでおくれ、本当に他意はないんだ。よければ今夜は、君の話を聞かせてくれないかい? 杏寿郎が君のことを本当に楽しそうに話すものだから、私もとても気になってしまってね」
「俺の話、といっても……」
「なんでもいいよ。生い立ち、育ち、好きなものや嫌いなもの、杏寿郎との出逢いや、刀をもつようになった経緯でも。ああ、かしこまらなくていいからね」
そうだ、お菓子もあるんだよ、と微笑むそのひとは、本当に他意はないようだった。本当は何か深い恣意があるのかもしれないが、うん、考えるのはやめた。面倒だ。
話せというなら話してみよう。鍛錬ができないのはつまらないが、たまにはそんな日があってもいい。なぜか彼の声を聴いていると、そんな風に思えた。
*
産屋敷殿がくださった饅頭を片手に、とりとめのない話をする。
俺が政府に務める父をもつことは別に隠すことではないし、名前すらしらない(覚えてない)爺のことも、もちろん杏寿郎との出会いのことも。時折杏寿郎が口をはさみ、それに言い返してまた言い返される。そんなやり取りすらも産屋敷殿は微笑ましそうに見ていた。
この山奥のさらに奥にある、樹齢もわからない大木のような方だなと、ふと思う。すべてを包括するような、受容するような、器の大きい方なのだろう。杏寿郎が心酔するのもわかるような気がした。
「ふたりは本当に仲が良いんだね」
「はい!」
「いえ」
照れ隠しとはいえひどいぞ! と杏寿郎がわめくが別に俺は照れてない。あまりにうるさいので顔をしかめて片耳をふさぐが、どこかの金朱の声が大きすぎるせいで意味がなかった。杏寿郎も声量を落とすということを覚えたほうがいい。
「ふふ、杏寿郎も良い友人に恵まれたね」
「そう思います!」
「鬼殺隊に勧誘できないのは残念だけど、君にも事情があるようだ。時永くんは、お父上のように政府に務めるのかな?」
「……まあ、たぶんそうなるかと」
政府に務めることに違和感がないではないが、今は別に嫌だとも思っていなかった。仕方なしとはいえ学べば学ぶほど、政府が必要な理由も、政府がなすべきこともわかってきた。それはきっと、ひとびとができるだけ幸いを得て生きていくために誰かがしなければいけないことなのだ。そしてそれなら別に、俺がやってもいいとは思う。俺も随分と大人になったものだ。
「そうか、それならむしろ剣術を身につけて良かったかもしれないね。鬼がいるのは何も市井だけとは限らない。むしろ頭のいい鬼なら上流階級に潜り込んで、隠れながらひとを襲うかもしれないからね」
「そうなんですか」
「可能性だよ。ただ、そういう家に隠れられると、鬼殺隊の情報網でも探すのは難しいんだ」
産屋敷殿の言葉に、杏寿郎も大きく頷く。確かに、上流階級の家であれば隠れることも情報を操作することも容易いかもしれない。
そう思った時、ふと頭に過ぎるものがあった。
「……そういえば、先日挨拶した政府高官の子息の弟が、急な皮膚病を患ったとか言ってたな。日光に当たれないから、昼間は家に閉じこもってるって」
一瞬で、ふたりが顔色を変える。
「それにそいつも、腕に怪我をしていた。転んだだけと言っていた割には包帯が多くて、やけに血の匂いもしたから不思議だったんだ」
「時永! そいつの名は?」
「教えてくれるかい?」
記憶を辿り名を伝えると、ふたりは目を合わせて頷いた。なるほど全く考えてなかったが、確かに鬼の特徴に一致する。上流階級の人間なんてどいつもこいつも見栄っ張りだから、まさか家族に異形の化生が現れたなんて他には言えまい。鬼はそういうところもわかっていて利用するのかもしれない。
「ありがとう時永くん、あとはこちらで調べてみよう。くれぐれもほかで噂をしないようにね」
「それはもちろん」
「助かるぞ時永! もしその子息の弟御が鬼であれば一刻も早く退治せねば! お前のおかげで犠牲を減らせるやもしれん!」
「そうか」
非公式だという鬼殺隊では、なるほど情報網にも限界があるようだ。まあ役に立てたなら良かったと思うことにしよう。
満足そうに頷いた産屋敷殿は、改めて俺に微笑みかけた。
「時永くん、もし良ければまた同じような噂を聞いたら教えてくれるかな。私たちは政府に認められていない組織だから、なかなか手を出しにくい界隈もあるんだよ」
「構いませんよ。……ああ、そうか、もし、」
もし俺が政府に務めれば、より鬼の情報を集めたり、鬼殺隊に少々の便宜を図ったりすることもできるかもしれないのか。
回転の遅い頭が、ようやくその事実に辿り着く。鬼殺隊に入らなくても、俺は俺にしかできないやり方で、産屋敷殿や、……杏寿郎を、助けることができるかもしれない。
心の隅で、何かが小さく燻り始める。炎というにはあまりに小さいそれは、しかし確かに燃えていた。その光と熱が、俺を静かに侵食していく。
「時永? いきなり黙り込んで、どうした」
訝しむ杏寿郎の声に、はっとした。下がっていた目線を上げると、産屋敷殿と目が合う。その瞳は、ただただ優しい色をしていた。
「……何か、見つけたのかな?」
まるで心の中を見透かされたようだ。しかし、このひと相手なら仕方ないと何となく思う。
そうだ、俺は見つけた。俺の中にも、炎が生まれた。その炎が示す先を、俺は目指そう。
「見つけました」
そう言うと、産屋敷殿は柔らかく目を細める。言葉はなくとも、祝福してくれているようだった。何もわかっていない杏寿郎だけが、笑った顔のままきょとんとしている。
「ふふ、そうだ、良い情報をもらったお礼をしよう。君が良いものを見つけたお祝いも兼ねて」
「別にそんな、」
「私がそうしたいんだよ。少し待たせてしまうけれど、きっと君に必要なものだ」
そして後日、杏寿郎が産屋敷殿からだと言って差し出してきたのは、一振りの刀。鬼を屠ることができる唯一の武器、美しい鋼を鍛えた日輪刀。
俺がその柄を握り込むと、色変わりの刀はその名のごとく刀身を別の色に染め上げる。それは、深い深い緑。山奥にひっそりと茂る森の色。緑が根付く大地の色。蒼黒色、というのが相応しいだろうか。
それを見た杏寿郎は、いつもの快活な笑顔で、こう言った。
「生命の色だな。時永らしい!」
ひどく美しい色だと思った。
***
そしてまた時は流れる。
俺は変わらず勉学と剣術を往復する日々を送り、杏寿郎も炎柱として忙しいのか来たり来なかったり、はたまた大怪我をしているくせにやって来たり。大人しく寝てろよと言えば大したことはない! と宣うが、せめて包帯が取れてから来いと思う。時折無茶のしすぎで弟に怒られたと言ってはしょげていた。懲りろ。
得物が木刀から日輪刀に変わっても俺たちの稽古は変わることもなく、相変わらず引き分けの日々。そうこうしているうちに、俺たちは二十になっていた。
初めてこいつと剣を交えたのはいくつの時だっただろう。もう幾度剣を交えたのだろう。めんどくさくていちいち覚えてやしないが、このうるさくて熱苦しい炎のような男との付き合いも随分と長くなったものだといっそ感心する。俺も杏寿郎も、大概物好きだ。
キィンと鋼のぶつかる音が心地いい。
「今日も引き分けか! 全く時永は強い!」
「抜かせ。お前から一本取れないようじゃまだまだだ」
互いに息を切らしながら、勝負の終わりの合図である朝日に目をやる。白んできた空には雲ひとつない。今日もいい天気になりそうだ。
「時永」
「なんだよ」
「次こそは俺が勝つぞ」
「いいや、俺だね」
もはや恒例になっているこのやり取り。毎回毎回次こそはとお互いに言い、それを果たせないまま勝負を持ち越していた。いや、今回でこのやり取りも終わりにしてやる。もちろん勝つのは俺だ。
杏寿郎は、楽しそうに笑う。それにつられて、俺の頬も緩んだ。
「楽しいな、杏寿郎」
「ああ、全くだ! 楽しくて仕方がない!」
それが、杏寿郎と交わした最後の言葉だった。
***
まだ日の高い時間、勉学の合間の束の間の休憩に、俺は窓の傍でぼんやりと外を見ていた。風が流れ木の葉が揺れる。烏や雀が枝にとまっては離れ……と、いつも通りの景色を眺めていたが、いつも通りでないものが紛れ込んでいることに気づいた。
あの烏、ずっとあの枝から離れない。そして俺の方をじっと見つめたまま微動だにしない。唐突に思い出した。鬼殺隊は、諜報や連絡のために烏を躾ているという。もしやと思い、俺は即座に窓を開けた。すると案の定烏は待っていたかのように羽を広げ、こちらに飛んでくる。窓枠にとまった黒い使いは、カァとひと声鳴いて、言葉を落とした。
煉獄杏寿郎が、死んだらしい。
***
竈門炭治郎と名乗った少年は、ひどく思い詰めた顔で友よ、とその言葉を口にした。
『生の果てにて君を待つ。次こそは決着を』
杏寿郎が俺に、そう言い遺したと。
彼の言葉を噛み砕くのに、ひどく時間がかかった。生の果て。俺を、待っている。決着。ひとつひとつの単語の意味を捉えながら、変えられない現実と向き合った。
嗚呼、あいつは本当に、もう。
「……そうか」
俺の胸に広がるこの気持ちは、何と表現すれば良いのだろう。
少なくともこれは、哀しみではない。
「託は確かに受け取った。礼を言う」
「い、いえ! ……あの、」
あの、から次の言葉が出てこない。彼はまたあの、と同じ言葉を繰り返した。そして、いくらか躊躇いを見せた後にやけくそのように叫ぶ。
「煉獄さんは! 俺たちを守って亡くなりました! だから、……だから!」
だから、の先の言葉をまた探している。彼は何が言いたいのか首を捻ったが、ああ、と頷いて俺は口を開いた。
「自分のせいだと思っているのか」
ぴたり、と竈門炭治郎は動きを止める。これは図星だということでいいのだろうか。ひとの機微を読むのは苦手なのでできるだけ言葉にして欲しいが、彼自身もまだ自分の気持ちに整理がついていないのかもしれない。
「細かい事情は知らないが、君が気にする必要はない。杏寿郎は、」
何だろう、俺も言葉が止まる。
杏寿郎は。そう、あいつはきっと、なすべきことをなしたのだ。それでやりきって、だから。
多分、杏寿郎は死んだのではない。
そこで俺を、待っている。
「……嗚呼、」
そうか、俺は、きっと嬉しいんだ。
唯一無二の友が、最期まで自身の信条を貫いて生き通したということが。最期まで俺との約束を覚えていたということが。そんな友を、もつことができたということが。
この胸に広がる感情、それは間違いなく歓喜であり、誇らしさだった。
「杏寿郎は杏寿郎だから、それでいいんだ」
俺は多分、笑っていると思う。彼は信じられない顔で俺を見て、口を開きかけて、やめた。不謹慎だとでも言おうとしたのだろうか。そうかもしれない。けれどやっぱり杏寿郎は杏寿郎なので、この感情が間違いだとは思えなかった。
だってあいつは、「煉獄杏寿郎」なのだ。
「杏寿郎は、笑っていただろう」
「……はい」
「そういうやつなんだ」
あのうるささや熱苦しさにしばらく触れられないことにはほんの僅か寂寥を覚えなくもないが、どうせ俺も行き着く場所は同じだ。いずれまた会えるとわかっているのに、嘆き哀しむ必要はない。
そんな暇があるのなら、僅かでも多く刀を振るい腕を磨くべきだ。いずれ決着をつけるときに、あいつに笑われないように。
「竈門炭治郎、こんな山奥まで悪かったな。気をつけて帰れよ」
もう、交わすべき言葉はない。まだ幼さの残る彼に背を向けて、日輪刀を抜く。
俺は立ち止まらない。立ち止まれない。やるべきことはすでにこの胸に炎として燃えている。杏寿郎が己に恥じない生き方を通したのなら、俺もきっとそうするべきだ。そうでなければ、あいつの友とは名乗れない。
杏寿郎、当分そこで待っていろ。あと何十年かしたら、決着をつけに行ってやる。せいぜいお前も腕を磨いておくことだ。まあ、どちらにしろ勝つのは俺なわけなのだが。
そんなことを思いながら、星々の光を浴びて僅かに煌めく大木に向かい、構えを取る。あの馬鹿曰く生命の色の刀身が、今宵はいつにも増して美しく見えた。
***
──友よ。生の果てにて、また会おう。