老兵は死なず   作:ふみどり

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※警察学校編が始まる前に執筆した作品です。


老兵は死なず

 今日の毛利探偵事務所は、いつもより忙しなかった。

 

「どうしたのお父さん、急に掃除なんて始めて」

 

 ぱたぱたとはたきを振るう父に、不思議そうに蘭は声をかける。朝一番にかかってきた電話に出て以降、小五郎は目の色を変えて事務所を掃除していた。普段のものぐさな小五郎からは考えられないその様子に、コナンも不思議そうにその様子を窺う。

 

「説明している時間はねえ!そうだコナン、お前ちょっとおつかい行ってこい!」

「おつかい?」

 

 飛んできた財布を慌ててキャッチする。そうだ、と小五郎は叫んだ。

 

「隣町の和菓子屋行って羊羹買ってこい。一番いいやつだぞ!」

「えっおじさん何か悪いものでも食べたの?」

「菓子ひとつにあんな高い金払えるかって前言ってたのに!」

 

 ついそれぞれの本音が飛び出す。あまりにらしくなさすぎる小五郎に、蘭に至っては不思議を通り越して疑惑の目を向け始めた。さては今日の依頼人は、相当な美人か。それとも相当に入れ込んでいる、アイドルの彼女だろうか。

 

「うるせえ!時間がねえんだ、とにかく行け!!」

 

 今度は財布じゃないものを投げてきそうな小五郎に、コナンは慌てて「いってきます!」と叫んで事務所を飛び出した。

 

 

 *

 

 

 小五郎の態度に首をひねりつつもコナンは和菓子屋への道を歩く。

 あの感じだと、どうも美女の類ではなさそうだ。鼻の下を伸ばしているというよりは、畏れている人や尊敬している人が来るかのよう。茶菓子のチョイスが羊羹なことを考えても、恩師か先輩でも来るのかもしれない。そう思いつつ、手の中で小五郎の財布をいじる。

 目的の和菓子屋は隣町と言ってもそう遠くはない。さっさとおつかいを済ませてしまおうと少し歩みを早めると、聞きなれないこつ、こつ、という音が耳についた。思わず目線をそちらに向けると、特に変哲のない杖をつく初老の男性がひとり。

 白髪がまざった短髪に、少し日に焼けた健康的な肌色。顔に刻まれたしわは年齢よりもむしろ年季を思わせ、ただ歩くその姿がもはや様になっている。杖をついているものの背筋はぴんと伸びていて、足腰が弱っているようには見えなかった。

 目を引く人ではあるが、何故こんなにも彼の杖の音が耳についたのだろう。コナンは自分で自分に首を傾げつつ、その人から視線を外し、到着した和菓子屋ののれんをくぐる。こつ、こつと耳に残る杖の音もその後ろについてきた。どうやら目的地は一緒だったらしい。

 

「坊や、おつかい?」

 

 微笑ましそうに声を掛けられたコナンは少し気恥しくなりながらも頷く。羊羹ください、と子供らしく言うと、はいはいと店員は羊羹の用意をする。コナンの後ろから、渋みのきいた声が飛んだ。

 

「おばちゃん、俺にも同じの頼むぜ」

 

 こつん、とコナンのすぐ後ろで杖の音が響く。

 

「あら!久しぶりじゃないの楠さん!お見限りかと思ったよ」

「独り身になっちまうと羊羹一本も食いきれなくてなァ。今日のァ手土産だ」

 

 軽いやりとりは常連ならではものだろう。思わずコナンは真上を見上げる。するとふと下を見たその男と目が合った。

 

「坊主、偉ェじゃねえか。おつかいか」

 

 目元に笑いじわが浮かび、鋭く見えていたその眼光が和らいだ。

 

「う、ん」

「ここの羊羹は美味ェんだ。家の人も喜ぶぜ」

 

 あらありがとうねえ、と店員は嬉しそうに笑う。

 年齢的にはおじいさんというのが相応しいのかもしれないが、その闊達さには「おじいさん」という響きは似合わないように感じられた。歯切れのいい口調は江戸の下町を思わせる。

 

「おじさん、羊羹好きなの?」

「おう。ここの羊羹が特に好物でなァ」

 

 ちっとばかし値が張るけどな、と声を潜めると、そりゃ悪かったね、と店員が意地悪そうに笑う。おっと聞こえちまったと、楠と呼ばれた男はからからと笑った。それにつられてコナンも頬を緩める。

 

「まあ、値段の分の味はあるわな」

「当然だよ。ほら坊や、羊羹」

「あ、はーい」

 

 コナンは小五郎の財布から支払いを済ませ、羊羹の入った桐箱を受け取った。

 

「気ィ付けて帰れよ、坊主」

「うん、ありがとう!」

 

 親しみのあるやり取りに何となく温かいものを感じながら、コナンは羊羹を抱えて帰路を急いだ。小五郎があれほど焦る相手だ、来客の時間に遅れるわけには行かない。

 その時にはやけに耳に残る杖音のことなど、コナンの頭には残っていなかった。

 

 

 *

 

 

 ただいまー、と事務所のドアを開けると、小五郎はテーブルの拭き掃除をしていた。

 おっちゃんまだやってるのかよ、と少々呆れつつも、やはり小五郎にそこまでやらせる客の存在が気になる。おかえりなさいと迎えてくれた蘭に羊羹を渡しながら、コナンはこっそりと尋ねた。

 

「結局、誰が来るの?」

「お父さんの知り合いの元刑事さんだって。部署も違ったしもう退職されてるそうなんだけど、お父さんにとってはすごくお世話になった人らしいの」

 

 へえ、とコナンは相槌を打つ。だらしないところもある小五郎だが、警察の上下関係についてはきちんとしている。この掃除の徹底ぶりも納得というものだ。いつもの乱雑さはどこへやら、見たこともないほどに事務所は綺麗に片付いている。

 

「おうコナン帰ってきたか!蘭、茶と羊羹の用意だ!」

「はーい」

 

 ぱたぱたとお茶の用意をしにいく蘭。コナンは掃除機とはたき片付けとけ、と言われて仕方なしに身体を動かす。

 そうこうしているうちに、事務所のインターホンが鳴った。

 

「来た!」

 

 ばっとドアの前に立ち、小五郎はぴんと背筋を伸ばす。つられて蘭とコナンも姿勢を正した。邪魔するぜ、という渋い声と共に、ドアが開かれる。こつん、と堅い音が床を叩いた。

 

「よォ毛利、久しいじゃねえか」

「楠課長、お久しぶりでありますッ!」

 

 よしてくれ、と鷹揚に笑うその人は、先ほどコナンが買ってきたのと同じ和菓子屋の袋を持っていた。蘭とコナンに目線をやったその人は、おっと驚いたように声を掛ける。

 

「さっきの坊主じゃねえか!何だ毛利、お前二人目もこさえてたのか?」

「いえいえそいつは預かっている子でして」

「僕、江戸川コナンって言います」

「おう、おつかいだけじゃなくてちゃんと挨拶も出来て偉ェなぁ」

 

 そう言ってぐしゃぐしゃとコナンと頭をかき混ぜる楠。手土産の羊羹がかぶっちまったなァと笑いつつ、それを蘭に差し出した。

 

「毛利の娘さんかな?」

「はい、娘の蘭です。同じ羊羹……もしかしてコナン君とお店で?」

「ああ、変わった縁もあるもんだ。蘭ちゃんか、奥さんに似て別嬪さんだ。親父の方に似なくて良かったなァ」

 

 そりゃないですよ、とぼやく小五郎に楠はからからと笑った。そしてそんじゃ俺も、と楠は姿勢を正した。

 

「おいちゃんは楠大吾っつってな、元おまわりさんだ。毛利とは部署が違ったが、まあ何かと話す機会があってな、知り合いだったんだ」

「伺っています。父がとてもお世話になった方だと」

 

 蘭がそう言うと、持ち上げてくれるねェと楠は笑い、小五郎は本当のことっすよ!と口を挟んだ。勢いづく小五郎の態度には、尊敬と親しみがにじみ出ている。

 先ほど小五郎は楠のことを「課長」と呼んだ。どこの部署にいた人なのだろうと、コナンは好奇心のままに尋ねる。

 

「楠さんはどこの部署にいた人なの?」

「くらァコナン!楠課長、気づかずにすみません、どうぞソファに!」

 

 おう悪ィな、と楠はゆったりとソファに腰かける。床に伏せられた杖が鈍い音を立てた。さっと蘭が準備しておいたお茶と羊羹を出すと、ありがとさん、と言葉をそえる。

 

「いきなり悪かったな、毛利。今や名探偵で名高ェお前だ、忙しいだろうに」

「とんでもありませんッ!楠課長の御用事とあれば何なりと!」

「そう堅くなんな。こっちはとうに定年迎えた隠居の身、音に聞く『眠りの小五郎』に畏まられちゃァむずがゆくて仕方がねェや」

 

 いやぁあっはっは!といつものように小五郎は調子にのって笑う。そんな小五郎に怯むことのない楠は、どうやら小五郎という人間をよく知っているらしい。特に気にすることもなく、蘭の淹れた茶に口をつけた。

 

「で、だ。その『眠りの小五郎』に、ちっとばかり聞きたいことがあって今日は来たんだがよ」

「事件ですか?」

 

 すっと表情を改めた小五郎の問いに答えることなく、楠は傍にいた蘭とコナンに目線を向けた。

 

「悪いが、席を外してもらえるかい?ちっと立て込んだ話がしたくてな」

 

 あっごめんなさい!と蘭が慌てる。コナンくんも上に行こう?と蘭に手を引かれ、少々残念に思いながらコナンも楠に背を向けた。事件の話なら是非聞きたかった。

 何か気になることでもあったんですか、と尋ねる小五郎に、古い話になるんだがな、と楠は前置きする。

 

「酒の名前で呼び合う連中の話を聞いたことはねェか?」

 

 背後から聞こえたその言葉に、ドアに向けて進めていた足が、止まった。いきなり立ち止まったコナンに、蘭がどうしたの?と声を掛ける。その声にはっとして、あ!とコナンは声を上げて振り向いた。

 

「ごめんなさいスマホ忘れてた~!」

 

 ぱっと二人が向かい合うテーブルまで取って返し、置きっぱなしだった自分のスマホを取る。呆れた目を向ける小五郎に誤魔化すように笑い、また蘭の元へと戻る。

 

「それじゃあごゆっくりしていってくださいね」

「ああ、ありがとうな」

 

 コナンも子供らしい笑顔を残して、事務所をあとにした。そのままさっと部屋にこもり、事務所のテーブルに仕掛けた盗聴器の音声を拾う。少々の雑音の後、二人の声が届いた。

 

 

 *

 

 

「酒の名前で呼びあう連中、ですか」

「ああ。いや何、探偵やってりゃ後ろ暗ェ噂も聞こえてくるかと思ってよ。知らねえんならいいんだが」

 

 ふむ、と小五郎は顎に手を当てて今まで関わった事件を思い返す。残念ながら、心当たりはない。少しでも力になれればと、小五郎は質問を返した。

 

「課長が仰るということは、暴力団関係の?」

 

 いくらか変遷はあるが、楠大吾がもっとも長く務めたのは警視庁組織犯罪対策部組織犯罪対策第五課、通称「組対五課」である。おもに暴力団や違法銃器、薬物の密売を取り締まる部署で、楠はその課長を務めていた。

 

「ああ、……いや、その辺もはっきりしなくてな」

 

 言葉を濁した楠は、かつてを思い出すように目線を窓の外にやる。もはや古傷となり果てた左足の傷が、痛んだような気がした。協力を頼んで詳細を話さないのも筋が通らないと、楠は姿勢を正して口を開く。

 

「俺の最後の事件(ヤマ)について、覚えてるか」

「ええ。課長が……その、足に重症を負われた」

「あァ」

 

 随分と時間が経っちまった、と楠は内心でひとりごちる。

 長く暴力団を相手取ってきた楠には、かつて宿敵ともいえる相手がいた。関東最大の勢力を誇ったヤクザのトップで、なかなか逮捕の口実をつくらせてくれない食えない男だった。何の因果か同い年であったこともあって、何かしらで顔を見合わせるたびに暴言と嫌味を飛ばしあっていた。

 

『もうすぐ定年だって?いやァお前ェさんの顔を見られなくなると思うと寂しいねェ。引退にはでけェ花束贈ってやっから楽しみにしとけよ』

『おーおー有難ェ気遣いだ。楽しみにしててやるよ、ブタ箱からの花束をな』

 

 警察と暴力団が馴れ合うことは決してない。楠と彼の間にも、当然そんな生ぬるい感情はなかった。しかし、楠は彼を捕まえるのは自分だと思っていたし、逆も然りだ。ライバルなどという可愛い言葉におさまる関係ではなかったが、ただの警察と犯罪者という関係におさまるほど浅い因縁でもなかった。楠は、何としても引退前に彼を逮捕すると決めていた。それが自分にとって最後の事件だと。そして執念の捜査の上にこぎつけた、組の一斉検挙。その日、全てが終わるはずだった。

 組のトップの逮捕となれば、当然構成員の反発も大きい。入念に計画を立てた検挙だったが、流血は避けられなかった。

 銃声と怒声が飛び交い、楠自身も左足に銃弾を受けた。それでもなお、楠は痛む足を引きずりながら進む。彼の両手に手錠をかけるのは、自分でなければならない。その執念を杖にして、組の事務所の一番奥、ひときわ重厚な扉を開ける。

 目的の人物は、その書斎らしい部屋のソファで楠を待ち受けていた。ただし、その額に大きな風穴を空けて。

 握りしめていた手錠が、音を立てて床を滑った。

 

「野郎の額に風穴空けやがった犯人(ホシ)が誰なのかははっきりしねェままだ」

「ええ、覚えています。確かあの時、その犯人を調べようとして……」

「ああ。お上からストップがかかった」

 

 忌々しい、と楠の顔が語っている。

 何としても捕まえてやると息巻いていた男を、もう一息のところで地獄に送ったやつがいる。楠にとっては怒髪が天を衝くどころの話ではなく、その犯人を捕まえずに自分の警察人生を終えるなど堪えられなかった。逮捕した構成員や、彼が遺した手記や事務所のPC端末、周囲の動向、ありとあらゆる全てから情報を引きずり出す。何としても捕まえてやる。そう鬼気迫る顔で捜査にあたっていた楠に下りてきたのは、捜査打ち切りの命令だった。

 

「……あの時の楠課長の荒れ方はよく覚えてますよ」

 

 上司にかみつき、そのさらに上にもものを申し。手の付けられない猛獣のようだったと、小五郎は内心だけで呟く。

 小五郎にとって楠は、部署こそ違えど気軽に声を掛けてくれる良き先達だった。現場や警視庁の廊下で会えば軽く挨拶をしてくれて、叩き上げの刑事だった自分の背中を叩き、しっかりやれよと声を掛けてくれる、気のいい人だった。仕事に厳しい人であることは知っていたが、あれほどまで苛烈に怒る姿を見たのは、初めてだった。

 

「うるせえやい。……結局は、上の命令には逆らえなかったわけだがな」

 

 楠にとっては隠れて捜査を続けることも不可能というわけではなかった。しかし、自分と同じく苦々しい顔で捜査打ち切りを告げた上司、自分と同じく怒りを見せた部下の存在は無視できなかった。警察という組織は基本的に連帯責任、誰かひとりがポカをやればその周囲まるごと罰せられることも少なくない。自分のけじめのために、他を巻き込むことは出来ない。自分のデスクに拳をひとつ振り下ろし、楠は捜査を打ち切った。

 

「……今だから言えるが、実はあの時、その組とどうやら敵対していたらしい組織の存在が浮かび上がっていてな」

「それがその『酒の名前で呼び合う連中』、ですか」

「ああ。野郎の手記と、その腹心の部下の口からそんな話が出た。暴力団というには毛色が違ェようだが、後ろ暗ェことやってる連中なことは間違いねえだろうよ」

 

 決まって洋酒の名前を使っていた連中だったと、組の跡目を継ぐはずだった男が語る。ジン、ウォッカ、ベルモット。組長の口からそんな名前を聞いたことがあると、組長の死に涙するその男は言った。手記からも同様の名前が確認できている。

 

「どんな奴らなのかを調べる前に捜査は打ち切られたがな。ただ、どうやら……噂の域を出ねえが、チヨダが動いてやがる」

「!」

 

 さっと小五郎が顔色を変えた。

 チヨダ、現在ではゼロとも称される、公安警察の俗称である。彼らが動いているというだけで、その「洋酒」の組織がいかに危険視されているかということがわかる。公安警察が動くほどの相手故に、楠の捜査にもストップがかかったのだろう。目先の事件よりも国家の秩序を優先する彼らは、決して余計な横やりを許さない。

 

「まあ、そういう奴らってことなんだろう。……いやすまねェな、もし何か知ってることがあれば聞きたかっただけだ。有名人になったお前ェさんなら入ってくる情報もあるかと思ってな」

「お力になれず申し訳ない」

 

 何か耳に入ったらお知らせします、と真摯な顔で言った小五郎に、楠は苦笑する。気にすんな、と口にして、言葉を続けた。

 

「有難ェがテメェから動いて探るような真似はすんなよ?これは依頼じゃねえ、ただの世間話だ。お前ェさんには守るもんがあるだろう、そんな危険な奴らに自分から首突っ込むような真似すんじゃねえぞ」

「それはお互い様でしょう」

 

 確か楠には幾分か年下の妻がいたはずだ。激務の夫を健気に支える良妻と評判で、よく楠は愛妻弁当を持ってきていた。誰かが良い奥さんですね、と言えば笑顔でおうともよ、と答える惚気っぷりで、老後はきっちりかみさん孝行しねェとな、と楠が言っているのを小五郎も憶えている。

 誰のことを言っているのか察したのか、楠はほんの少しだけ眉尻を下げて、言った。

 

「四十九日を過ぎたよ」

 

 ぽつりと落ちたその言葉に、小五郎は目を見開く。

 楠は顎を撫でつけながら、何でもないように、しかし確かな愛しさを滲ませて、続けた。

 

「病気でな。ぽっくり逝っちまった」

 

 警察を辞めたら、今まで支えてくれた妻に恩を返していこうと決めていた。旅行にでも連れてってやるから行きたい場所決めとけよ、と言うと、あらあらと嬉しそうに笑っていた。実際に警察を辞してからは温泉を巡ったり、舞台やコンサートを観に行ったり、日がな一日縁側で二人過ごしたり。今までになく、穏やかで幸福な日々だった。そんなに気にしなくていいんですよと言いながらも、彼女も幸せそうに微笑んでいた。これからはそうやって余生を生きて行くのだと、楠はその笑顔に誓った。ろくに我儘も言わせてやれなかった妻を、これからはうんと大事にするのだと。しかしそれも、わずか数年で終わりを迎える。

 その病に気付いたときにはもう遅く、医者は静かに余命を告げた。信じたくない楠の心情を慮りつつも、医者はただ首を振る。病床に伏せる妻の枕元で、楠は泣いた。柄にもなく、涙を見せた。妻は、すこしやつれた頬で、しかしいつもと変わらぬ笑顔で、私は幸せ者ですね、とそう口を動かす。

 

『私のために泣いてくれる人と、生涯を過ごせたのですから』

 

 そしてそっとのばされた手。楠は迷わずその手を取り、握りしめた。力の加減など出来なかった。ただ、どこにも行かないでほしかった。それが、不可能だとわかっていても。

 

『ねえ、貴方』

 

 この数年、私はとても嬉しかったんですよ、と妻は笑う。貴方がたくさん、私のことを考えてくれて。貴方がたくさん、私と笑ってくれて。貴方がたくさん、傍にいてくれて。でもね、と妻は続ける。

 

『私、仕事をしているときの貴方が一等格好いいって知っているんです』

 

 だから、貴方を支えていたときも全部まとめて、私は本当に、貴方といられて幸せでした。

 それが、楠が心底惚れ通した、妻の最期の言葉だった。

 

「……独りになって身軽になっちまったからな。俺ァ子供もいねェし失うもんもねェ。何より、アレだ」

 

 現役のときの俺を格好いいなんて言われたら、もう一仕事したくなるってもんだろう?

 だから昔の記憶を呼び戻して、少しばかり探りを入れているのだと、楠は笑う。その笑顔に、寂しさや苦しさは見られない。ただ、かつて前線で指揮を執っていたころと同じ、煌々と燃える炎がその瞳にはあった。

 それを見た小五郎は、そういえば気遣いも心配も鼻で笑い飛ばしてしまうような人だったと苦笑する。そんな言葉は、自分ごときがかけるべきではない。

 

「……わかりました。自分から探るような真似はしません。何か聞こえてくれば報告する、その程度にしておきます」

「わかりゃいいんだ」

 

 満足したように楠は羊羹をひときれ口に放り込む。相変わらず美味いねえ、という楠に、相変わらずの甘党ですか、と小五郎が笑う。

 そしていくらかの世間話と積もる話を交わして、楠は探偵事務所を後にした。面白いものを見つけたというその狡猾な笑みを、決して小五郎に見せることなく。

 

 

 *

 

 

 一言たりとも聞き逃すまいと耳をそばだてながら、コナンは思考をまとめる。

 暴力団の一斉検挙、そして組長の死。そこに垣間見えた、組織の影。ジン、ウォッカ、ベルモット。間違いない、奴らだ。どんな関係があったのかは不明だが、その暴力団について調べれば何か見えてくるものがあるかもしれない。組対五課の元課長の言葉だ、信憑性は十分にある。

 新たな手掛かりに胸を躍らせていると、盗聴器が妙な音を拾った。

 マイクをつついたようなコツ、コツという少し反響した音。かり、と木をひっかくような音。そして、べり、と何かがはがれるような音。血の気が、引いた。

 目を見開き蒼白になるコナンのことなどまるで関係なく、盗聴器の向こう側の楠は変わらぬ調子で小五郎に別れを告げる。こつ、こつと鈍く響く杖の音が、はっきりと聞こえる。遠ざかることもなく、一定に。逆に小五郎の声は遠ざかり、事務所の扉が閉まる音が重く響いた。

 喉の奥で笑うような声が聞こえた後、ごく至近距離で囁かれた言葉を、盗聴器が拾う。

 

『よォ、坊主』

 

 全身に、鳥肌がたった。

 盗聴器の向こうの声には、些かの迷いもない。誰がそれを仕掛け、聞いているのか、完全に断定していた。楽しげな声は、杖の音と共に続ける。

 

『駅近くの高架橋の下。待ってるぜ』

 

 来ねえとどうなるか、わかるな?

 穏やかながらドスの効いた声は、警察官というよりもはやヤクザのそれだった。人を脅すことに躊躇のない声が、コナンを震わせる。

 そうでなくても、自分や博士の指紋のついた盗聴器を奪われている。その脅迫を無視して無関係を装うことは不可能だった。

 震える足に力を入れ、何とかコナンは立ち上がる。従うしか、なかった。

 

 

 *

 

 

 指定の高架橋下は、薄暗かった。日の当たらないそこはどこか湿っぽく、寒々しい。

 冷たいコンクリートの柱に背を預けた楠は、ひとり煙草をふかしていた。視線だけでコナンの姿を捉えると、口元をにやりと歪ませる。来たか、と口を動かして、煙草を携帯灰皿に放り込んだ。

 

「最近のガキは、随分なオモチャで遊んでやがるんだな」

 

 そう言って、指先につまんだその盗聴器をかざして見せる楠。相手の出方が読めないコナンは、ただ黙って楠を見据えることしか出来ない。その盗聴器を見て楠が何を思い何を考えたのか見定めるまでは、迂闊なことは言えなかった。

 

「まァそう怖い顔をしなさんな。あんまりにもあぶなっかしいんでなァ、ちとアドバイスをしてやりたくなっただけさ」

「アドバイス?」

「おうよ、おいちゃんのお節介だ、まあ聞いておけ」

 

 いきなり何を、と戸惑うコナンに、楠はにんまりと笑う。その笑みをコナンは正面から受け止め、そして気づいた。口元と声色は笑っているが、楠の目が欠片も笑っていない。

 ひとつ呼吸を置いて、楠は続けた。

 

「坊主、盗聴器は何のためにある?」

 

 突然投げかけられた疑問に、コナンは一瞬固まる。じっと答えを待つ楠を見て、すぐに思考を動かし答えた。

 

「……情報を集めるため」

「そうだな。他者の会話を盗み聞き、怪しまれずに情報を集めるための機械だ。まァ世の中にゃただ単に人の生活音を盗み聞くことを愉しむ変態もいるが、本来の用途としちゃァそっちだろう。お前ェさんもそうだ。俺と毛利の会話を盗み聞くために、スマホを取りに戻る振りをして盗聴器をしかけた」

 

 淡々と事実を語りながら、楠は手の中で盗聴器をいじる。最近は充電式でここまで小型になるのか、という感心したような呟きが漏れた。

 日陰の冷たい空気がコナンの首筋をくすぐる。

 

「わかるか、坊主。『怪しまれずに』仕掛けなきゃ何の意味もねェんだよ」

 

 よくもまァあんなわかりやすく、盗聴器を仕掛けてくれたもんだなァ?

 そう言う楠の顔に浮かんでいたのは、どうしようもないほど明確な嘲笑だった。

 かっとコナンの顔に熱が集まる。全身の血が沸騰するようだった。何を、と反論しそうになるのをかろうじて抑えこむ。バレてしまったのは、事実だ。

 

「誰かが会話を盗み聞いているとわかってて、対象が偽りなく真実を話すと思うか?ミスリードを混ぜるに決まってんだろう。さて、俺の言葉のどこまでが本当だったか、お前ェさんにわかるかね?」

 

 沸騰していた血流が、冷水を掛けられたように一瞬で冷えた。どこまでが本当か?何を調べるべきか?今のコナンに、それを判断できるだけの材料がない。

 そこでコナンはようやく理解する。今、自分は完全に楠の掌で踊らされているのだと。盗聴した事実だけでなく、これから調べようとすること、考えること、それら全てを楠に把握され、操られている。背筋に冷たいものが流れた。

 

「もっと危ういのはこっからだな。なァ坊主、わかってんのか?この盗聴器ひとつでお前ェさん、べらべらと俺に情報を吐いてくれてるんだぜ?」

 

 ここで楠はわざとらしく、ゆっくりと口を動かしていった。洋酒の名前で呼び合う連中、そう一文字ずつ区切るように。コナンの反応を愉しむように、煽るように、その様は獲物をいたぶる捕食者のそれだった。事務所での気のいい笑顔は見る影もない。

 

「お前ェさん、奴らを知ってるな?少なくとも、似通った連中に心当たりがある。あの馬鹿正直な毛利が腹芸出来るとは思えねェし、毛利が連中を知らねェのは本当だろう。なのに坊主、お前は奴らを知っている。何で知ってんのか、そりゃァ探らなきゃならねェなァ?」

 

 それから、と楠は愉しそうに言葉を続けた。辿るように、文字を書くようにその人差し指が空をなぞる。

 

「チヨダが動いてるかもしれねえ連中、その存在を知ってるお前ェさん、何者だろうなァ?ただの子どもだなんて言葉に頷いてやれるほど、おいちゃん生易しい警察人生送ってなくてな」

 

 見目だけなら十もいっていない子ども。和菓子屋で、探偵事務所で見かけた子どもらしい顔を嘘だとは思わない。だが、見目通りの中身ではない者たちが世間には山のようにいることを、楠は誰よりも知っている。

 外見通りのわかりやすいヤクザなど、むしろ相手をするのは楽なものなのだ。それよりも面倒なのはむしろ、ぱっと見ではそうとは見えないような、中と外が釣り合っていない者。釣り合っていない「外」を武器にしてのらりくらいと世間を渡る、中身の腐った善人面。楠の手を焼かせてきたのは、そして口にするのもおぞましい下衆なのは、たいていそういう奴らの方だった。

 

「おいちゃんこれでも犯罪者(クズ)とそれ以上の犯罪者(クズ)を探り出す仕事をしてたもんでなァ、鼻は利く方だと自負してんだ。中と外が合ってない奴ってのは、慣れてくるとわかるようになるもんでね」

 

 なァ坊主、と歌うように楠は宣う。

 ただの子どもが、チヨダに目ェ付けられるような奴らの存在を知っている上に、こんな話を理解して顔を青くすると思うかい?と。

 

「お前ェさん、いったい中身はいくつだ?」

 

 血が凍る思いというのは、こういうことを言うのだろうか。

 いつものように子供らしく誤魔化すことも忘れたコナンは、蒼白になって立ちすくんだ。返す言葉も出てこない。楠はそれだけの確証を持って言っていて、今も愉しそうにコナンの顔を眺めている。

 頭上で車の行きかう音が、やけに遠く聞こえた。かわりに、自分の心臓の音が強く聞こえる。何か、何か言わなければ。返す言葉を見つけられぬまま、何とか口を動かす。

 

「お、れは……」

「と、そんだけの情報を与えちまうわけだ」

 

 ほらよ、といきなり投げ返される盗聴器。えっと慌てつつも、何とかコナンは盗聴器を落とさずに受け取る。その様子すらも面白そうに、楠は声を上げて笑った。そこに、先ほどまでの人を見下すような色は見えない。すっかり元の調子に戻った元刑事を、コナンは戸惑った顔で見返した。

 

「不用意に探られたくねェ事情があるんなら、そいつは迂闊に使うんじゃねェ。元おまわりさんとしては、むしろ使わず捨てろと言いてェところだが」

「くすのき、さん?」

「何だ坊主、幽霊でも見たようなツラしやがって」

 

 そしてまた、にんまりとした笑顔を見せる。

 

「怖かっただろう?」

 

 お前ェさんはそれくらい危ねェことをしたんだぜと、楠は言う。コナンはぎくりと肩を震わせた。

 

「探ってるという事実に気付かれた時点で詰みなんだよ。お前ェさんのやり方は猪突猛進が過ぎらァな。そんなんじゃ相手に踊らされて終わっちまうし、命がいくつあっても足りやしねェ。俺の部下だったら締め上げて鍛えなおしだ」

 

 気付かれず、悟られず、証拠と証言をかき集め、一斉検挙のその日まで波紋の一つも起こさない、それが現役時の楠のやり方だった。検挙前にそれを悟られ、替え玉を用意されたり海外に高飛びされたりしては堪らない。もちろん、捜査員やその周囲の安全のためでもある。

 新しい煙草を取り出す楠に、ようやく我に返ったコナンは尋ねた。

 

「……何も、聞かないの?」

 

 組織のこと、コナン自身のこと。

 手がかりが目の前にあるというのに、楠はコナンを問い詰める様子もない。楠は構わず煙草に火をつけて、ひとつ紫煙を吐き出した。

 

「聞いたら教えてくれんのかい」

 

 そう返されて、コナンはぐっと黙り込む。

 楠はおそらく信頼に足る人物だが、だからと言って全てを話せるほどコナンは愚かでもなかった。決して軽い「事情」ではなく、そしてもはや自分ひとりの問題でもない。自分と同じく身体が縮んでしまった元組織の研究者、死を装って日本に潜伏するFBI、「ゼロ」から組織に潜入を続けるトリプルフェイス。この状況で迂闊なことは出来ない。

 押し黙ったコナンにちらりと目線をやって、楠は口を開く。

 

「さすがのおいちゃんも、見た目子どものお前ェさんに無茶して聞き出そうとはしねェよ。脅迫だの児童虐待だのでお縄なんざごめんだからな」

 

 だからまあ、と軽く楠は言う。

 

「しばらく張り付かせてもらうぜ、坊主」

 

 お前ェさんが素直に話す気になるまで。

 その周囲から何か有力な情報が得られるまで。

 張り込みってわかるよなと楠はぽん、とコナンの頭に手を乗せる。その言葉と手のひらの圧に、コナンの口からはうげっと素直な言葉が漏れた。

 

「おいちゃん隠居してて暇なもんでなァ、時間だけは有り余ってんだ。なーに、ちっとばかり探偵事務所のまわりをうろつかせてもらうだけさね。とりあえず今のところお前ェさんのことをべらべら喋る気はねえよ、安心しな」

 

 一見穏やかに楠は言うが、真意は違うことは未だコナンの頭にある手のひらの握力でわかる。

 お前が尻尾を出すまで、徹底的に張り付いてやると。自分が退くことは決してないと。そして、弱みを握られていることを忘れるなと。

 これが長年ヤクザを相手にしてきた男のやり方か。コナンは何とか固い笑みを作った。

 

「え、えへへ……」

 

 お手柔らかに、そう視線で告げる。それを察した楠は、にっこりと笑って口を開いた。

 

「長ェ付き合いになりそうだな、コナン?」

 

 その言葉にがっくりとコナンは肩を落とし、楠は声を上げて笑った。

 




まだ降谷さん出てないとかいやそんな。ちゃんと次出ます。
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