Barブロンズ・開店記念(1)
カラン、と控えめに鳴ったドアベルが来客を告げる。ロック用の氷を仕上げていたナイスネイチャが視線を上げた。
「あれま、スペちゃんお早いお着きで」
「こんにちは、ネイチャちゃん。それから開店おめでとう、はいこれ」
「いやー、気を遣わせて悪いねぇ」
差し出された花束を受け取った彼女は恥ずかしそうに頬を掻く。小さなビルの地下、カウンターが数席と緑色のソファ席が三対あるだけの店を見回して、スペシャルウィークは微笑んだ。
「ネイチャちゃんらしいね。もっと大きい店を構えるのかなって思ってた」
「ネイチャさんは身の程をわきまえておりますので、なんちゃって」
「だから店の名前も、ってこと?」
「アタシだってわかってもらいやすくていいでしょ、Barブロンズ」
ナイスネイチャはそう言いつつ、テキパキと花束を生けるための花瓶を取り出し、きれいな包みを開いて移し替えていく。
「ブロンズコレクターよりも誇れる称号、ネイチャちゃんは結構持ってると思うよ?」
「いやー、有馬記念3年連続3着には知名度でそうそう敵わないって。一度くらいはあの舞台で勝ちたかったな、なんて気持ちも未だにあるけどさ」
「その言葉、走り始めたころのネイチャちゃんに聞かせてあげたいね」
「『いやいや、アタシに有馬記念優勝なんてキラキラは眩しすぎて目が潰れますよ』……ってとこかな、感想は」
お互いに笑い合ってから、スペシャルウィークはゆっくりと店内を見て回る。
カウンターの背後には様々な酒瓶が並び──洋酒が多く、お酒に疎い彼女でも聞いたことのある『高そうなお酒』の銘柄が多かった──カウンターの脇にはビアホールで見るような本格的なビールサーバーがそびえている。ジョッキやカクテルグラス専用の冷蔵庫も、相当のお金が掛かっているのは間違いなさそうだった。
「あれ、そういえば服装はいつものネイチャちゃんカラーじゃないんだ」
「あー、ソファとかも緑にしてるから服まであんな感じじゃうるさいじゃん? というわけで、シンプルにモノトーンでまとめてみたんだけど……やっぱり違和感ある?」
そう言ってカウンターのなかでくるりと回って見せる店主。クリスマスカラーの耳飾りはそのままだが、服装は大きく変わっていた。白いワイシャツの襟は、襟先を鳥の翼のように前に小さく折り返したウィングカラーのフォーマルなもの。黒い蝶ネクタイはストレートエンドでスマートに、背中の部分が大きく空いた黒いカマーベストと、細身のスラックス。見た目は男性バーテンダーそのものだ。……穿いているのが、尻尾用のホールが空いた特注製のズボンであること以外は。
「ううん。格好良くていい感じ」
「よかった。スペちゃんのお墨付きなら問題なさそうだね」
「私の評価を基準にしていいの?」
「こういうお店には行きなれてるでしょ? 特に最近は。卒業後ぐっと服装も大人になったもんね、スペちゃんは」
「あはは……まぁ、それが私に求められてることだからね」
そう言いながら微笑んでみせるスペシャルウィーク。藍色の華やかなジャケットの胸元にはURAの記章が光っている。すっかりビジネスの顔を自らのものにした彼女を見て、ナイスネイチャは少し寂しそうな顔をした。
「大丈夫? スペちゃんは無理してない?」
「もちろん。大変なことも色々あるけど、これからはその分ここで羽を伸ばさせてもらうつもりだよ。それにしても、まだオープン前なのにお呼ばれしちゃってよかったの?」
「いやいや、プレオープンでお客さんの評判も見ておきたいからさ。だから後で感想がっつり聞かせてちょうだい? 先週ちょこっと商店街でお世話になった人たちも呼んだんだけどさ、『うまい!』しか言わないんだもん」
彼女の言い草に、スペシャルウィークは思わず笑いで咳き込みそうになってしまった。
「でも、商店街の人たちって本業の人もいるんだよね? 褒められたんだから、素直に受け取ったほうが良いんじゃないかな?」
「思い出補正コミコミだけどねぇ。でも料理の修行もしっかりしたし、自家製のおつまみとかはけっこう自信あんのよ」
それにさ、とナイスネイチャが笑顔を見せる。
「上手いこといけば、名だたる重賞ウマ娘たちが集う店、みたいな感じになるかもしれないし。きっかけはなんでもいいから、いろんな人がうちの味を好きになってくれればなって」
「……そっか」
「それにこの店、アルコールだとビールは胸張って勧められるしね。なにせアイルランド公室御用達だから」
胸を張ってポンポンと叩いてみせたのは、カウンターから生えるビールサーバーの注ぎ口。
「あ、やっぱりファイン殿下の?」
「そうでーす。元チームメイトの
「はーい、でもお金はちゃんと払うよ。賄賂その他諸々はいただけないので」
「はいはい、お仕事モードになってるよ。スペシャルウィーク常務理事さん?」
「もー、ネイチャちゃんまでからかわないでよ」
そう文句を言いつつ、スペシャルウィークはカウンター席の真ん中にちょこんと腰掛ける。すぐに紙製のコースターが置かれる。金色のタップからキンキンに冷えた黒ビールが注がれ、小さめのジョッキが差し出された。
「あい、お待ち。学園常務理事さんにはサービスしちゃうよ」
小皿を冷蔵庫から取り出される。スペシャルウィークの前に置かれたのは、チーズと生ハムを合わせたおつまみだ。ひとつひとつに楊枝が刺してあり、食べやすくなっている。
「これって……」
「カマンベールチーズの生ハム巻き。マーマレードと黒胡椒でどうぞ。黒ビールには合うよ」
「へー、さすが本格的……」
「気軽につまめておしゃれでしょ? 家でもかんたんに作れるから盗んでって」
そう言いつつ、常温のカップに水を注ぐ。
「ネイチャちゃんは飲まないの?」
「いや、今からみんな来るのに店主が酔っ払ってどうするのさ」
若干の呆れ顔を見せながら、ナイスネイチャはカップを掲げた。
「それじゃ、スペちゃんのトレセン学園常務理事就任を祝って」
「Barブロンズの開店を祝って」
チンとガラスのぶつかる音がする。黒ビールのふわりと広がる香りに、スペシャルウィークは驚いたような表情を見せた。
「ビスケットみたいな香り……?」
「モルトの香りが強いからねー、料理にも合わせやすいんだよ。もうちょっと甘口で華やかな感じのもあるから、後でそれも飲んでみるといいかもね」
「さすがアイルランド大公国の公室御用達……」
スペシャルウィークの感嘆を聞いてけらけらと笑うナイスネイチャ。
「ファインちゃんがここにいたら、『今度みんなで蔵元訪問ツアーやろうよ! 私が案内するから!』なんて言い出しそうだねぇ」
「第二公女殿下にさせていいことなのかな、その案内役って」
「アタシは詳しくないけど、間違いなくダメだってことだけはわかるよ。でも……」
その先は曖昧な笑顔でごまかすに留めたが、彼女の言わんとせんことはスペシャルウィークにもしっかり伝わった。あのおてんば公女さまならやりかねない。むしろ絶対やるに決まっている。
「しっかし、時の流れは残酷なもんだよねー。チームメンバーも70期生徒会の面々も、それぞれあっちこっち散り散りになっちゃったし」
「そうかな? セイちゃんやベルノさんはだいたい毎日会ってるし、アルダンさんも向こうから結構来てくれるよ?」
「え、そうなの? 二人はともかく、アルダンさんはメジロ家の当主代理でしょ? そんなにフットワーク軽いイメージはないんだけど」
「むしろ当主代理だから軽いんじゃないかなぁ? メジロにとって、トレセン学園との繋がりは大事にしなきゃいけないものだろうし……あ、そうだ。メジロで思い出したけど、マックイーンちゃんからは何か聞いてる? この前はまだ来れるか分からないって言ってたよね」
「マックイーンなら『万難を排し、這ってでも必ずお伺いしますわ!』だってさ。だから甘いものも多めに用意してるよ」
語りながらナイスネイチャは冷蔵庫を指さす。なにやらお菓子の類も仕入れているらしい。
「あとは……デジタルちゃんはいつも通り?」
「そそ。まぁ『世界中のウマ娘ちゃんのためなら砂漠だろうがジャングルだろうがどんとこいですっ!』って飛び出しちゃったからねぇ。先週LANEが返ってきたんだけどね……」
彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、スペシャルウィークに向けて差し出した。
「『ごめん、同窓会にはいけません。今、東ティモールにいます。この国を支える平和を作っています。……本当は、あのころが恋しいけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします。私の作る平和も、きっといつか誰かの青春を守るから』……うわー、懐かしいネタ拾ってくるね……」
「ほんとにね、いつのCMよ」
アグネスデジタルの近況は全くもって分からないが、とにかく上手くやっているらしい。
「あんなに色々あったのに大丈夫かなぁ、デジタルちゃん……」
「ま、あのトレーナーさん仕込みだからそうそうひどいことにはならないと思うよ?」
ナイスネイチャの口から飛び出した『あのトレーナーさん』というワードに、スペシャルウィークは苦い顔を見せる。
「そんな嫌ってあげなさんなって。うちのトレーナーさんは堅物だったし、スペちゃんと反りが合わないのはわかってるけどさ」
「べ、別に嫌ってるわけじゃないよ? 良い人なのは知ってるし……未だにちょっと、やりにくい人ではあるけど」
「そんな感想になるあたり、スペちゃんもだいぶ色んな人に毒されたよねぇ。それこそそっちのトレーナーさんとか」
「さすがに不本意だよ」
「そういう言い回しがもう毒されてるんだってば」
軽く言い返しつつ、ナイスネイチャはテキパキと来客の用意を進める。彼女の手元にあるのは小型の包丁、アイスピック、そして氷の山だ。ブロック状に切り出された氷が桶のような容器の中にいくつも並んでいる。表面を削るようにして、きれいな四角柱やロック氷を量産していく店主に、スペシャルウィークは素直な感嘆の溜息を漏らした。
「削った後のザラメ氷でかき氷するとおいしそう……」
「あははー。粗すぎてお客さんに出せるようなもんじゃないですよー」
そう言いながら、削った後の氷の
「アタシは実際、
「二人ともそんなこと言ってたの?」
「うん。開店準備をし始めたころというか、お母さんのところで修行してたころにフラッと来たことがあってね。『スペシャルウィークをよろしく』って言って、二人して一杯だけ引っかけて帰ってった」
「あの人たちはほんと……」
頭を抱えるスペシャルウィーク。
「らしいよね、本当に。そつがなくて、求められていることを完全にこなして……フジさんはいつだって気配りができて頼れる先輩だったし、ルドルフさんだって『絶対』って言葉がよく似合う。……同じようなことを、スペちゃんにも思ってたんだろうな、アタシ」
「ネイチャちゃん……」
包丁片手に氷を量産しながらナイスネイチャは続ける。
「スペちゃんはルドルフさんに目をかけられてたし、かと思えば今度はフジさんみたいにキラキラ輝いたりしててすごいなーとしか、あのころのアタシは思ってなかった。でもさ、店始めるって決めて、嫌でも自分が先頭に立たなくちゃいけないってなって、初めてわかったんだけどさ。やっぱり、スペちゃんってみんなを引っ張るのはすごく上手かったんだと思っちゃったわけですよ」
へらっと笑った彼女がスペシャルウィークの方を見る。
「なんだかんだ言って、あのときスペちゃんが生徒会長になってくれてよかったわ。最近改めてそう思ったよ」
そこまで語り終えてから、ナイスネイチャは片目をつむって謝った。
「ごめんね、店のマスターが愚痴っちゃった」
「ううん、それだけ信頼してもらえた証拠だから。嬉しいよ」
そう言ってスペシャルウィークは一気に黒ビールをあおった。
「ん、おいしい」
「よかった。日本総大将のお墨付きだね」
「折角だし、サインでもしておいた方がいいかな?」
「あ、じゃああとで色紙渡すからお願いしてもいい?」
「もちろん、開店祝いってことで」
空になったジョッキを眺めて、彼女は少しだけ困惑を浮かべながら呟く。
「それにしても、そっか……『元々はもっと違う子だったんだよ』かぁ……」
「そんなに変わった自覚はあるの?」
ナイスネイチャから手を伸ばされたので、ジョッキを渡す。すぐにまた冷えたビールが出てきた。今度のものは鮮やかな小麦色で、先ほどの黒ビールとは違う銘柄らしい。
「うーん、どうだろうね。セイちゃんには『ほんと、図太くなったよねぇ』とか『悪辣になった』とか、色々言われたけど……どうしてそこで目をそらすのかな、ネイチャちゃん」
「そういうところだよスペちゃん」
スペシャルウィークのじとっとした目線に気づかなかったふりをして、作った氷を冷凍庫にしまい込む。
「でも、知りたいなぁ。スペちゃんがなんで会長になろうとしたのか、どんな子だったのか」
「ネイチャちゃんに話したこと、なかったっけ?」
「んーん、ないよ」
それを聞いて、スペシャルウィークはどこか困ったように笑う。
「あんまり言いふらさないでね?」
「客商売は信頼が勝負ですから。……それに、話したいからこそ早く来たんじゃないの? 二時間後だよ、集合時間」
「……ネイチャちゃんも
「スペちゃんには負けるけどね」
ことり、と彼女の前に皿がもう一枚差し出される。丁寧に盛り付けられた鰯のオイルサーディンと、割り箸が一膳乗っていた。
「なら、これは情報代ってことでいいのかな」
そう言って箸を割るスペシャルウィークに、ナイスネイチャはにやりと笑った。
「折角だから全部聞かせてよね。最初からさ」
「いいけど、本当に最初からってなると……声を掛けられたのは札幌記念……ううん、私の始まりはホープフルステークスかな。結構長い話になると思うよ」
「これは大長編の予感がひしひしと。それじゃあよろしくね、スペ